紅紅児の独り言
今日も良いことがありますように、と謝憐は自分の肖像画に向かって手を合わせる。
自分で自分を崇めているなんて天界の者たちに知れたら、太子殿下に纏わる噂がまた一つ増えてしまうところだが、謝憐はそんなことは気にしない。
三郎が描いてくれた花冠武神の絵を満足そうに眺めながら、彼こそが満開の花とでも形容したくなる様な明るい笑みを浮かべた。
三郎が謝憐の前から消えて数ヶ月経った。
彼はいまどこで、一体、何をしているのだろうか。
ほんの数ヶ月前までは存在さえ知らなかった少年が自身の中ですっかり存在感を増していることに謝憐は他人の様に驚き、そして喜んでもいた。
絶境鬼王であろうと、謝憐にとって彼との出会いは喜ばしいものだった。
謝憐は他人を必要としない強さと心の広さがあるが、三郎はするっと何の抵抗もなく、そんな謝憐の隣に滑り込み、そして彼がいるのが極々自然で、当たり前と思える地位を獲得してしまった。
こんな出会いは早々あるものではない。
そんな存在と巡り会えた喜びを謝憐は感じ、ついつい三郎が描いた太子図の前で微笑んでしまったのだ。
「絶境鬼王、花城か──。私にはきみは物知りで、何でも出来る少年にしか見えない」
別れる前、彼は「次に会うときは本当の姿で会いたい」とそう言った。
花嫁衣装を着た謝憐を迎えに来たあの鬼の姿が三郎の本当の姿なのだろう。
頭に被った紅蓋頭のせいで顔はまったく見えなかったが、謝憐に伸ばされた手の 感触や背中に回された腕は、穏やかに彼を包み、そっと支えてくれた気がして、彼が絶境鬼王の花城 だと言われても嫌悪や怯えは湧いて来なかった。
むしろ懐かしさや慈しみの感情さえ覚えてしまった。
本当に不思議な存在だった。
こうしていても始まらない。
この道館には謝憐しかいないのだし、壊れたところは修繕し、汚れた煤も彼が自ら払わねばならない。
「一仕事始める前に、やはり腹ごしらえだよな」
と手慣れた手つきで大根を切り始めるが、どう言うわけか謝憐が作る料理は到底食べられそうにない何かにしかならない。
本人も料理下手な自覚はあるのだが、どうせ食べるのは彼自身だし、何を食べても死ぬ身体ではないのだから、腹さえ膨れれば別に何でも良かった。
「何を作ってるの、兄さん」
気のせいだろうか。
まさかと思い、後ろをふりかえると、眼帯姿の花城が立っていた。
こうして顔を合わせるのは初めての筈なのに、謝憐にはすぐにそれが三郎だと分かったし、自分を見下ろすすらりとした長身のこの鬼王が向けて来る笑顔も容易に信じられることが出来た。
「絶境鬼王、花城は、きみだったのか」
「兄さんには三郎と呼ばれたいと前に言ったよね。でも兄さんがそう呼びたいのなら、何でも良い」
別にそう言う意味じゃない。
いや、さっきの言葉に深い意味などなく、謝憐は単に目の前の事実を確認しただけだ。
「今度会うときは本当の姿でと言ったでしょ? 驚いた?」
「うん。いや、最初の質問は、うんで、次の質問は、驚いていない、だ」
「驚かないの? やっぱり兄さんは変わってるな」
「姿が変わっても、私はきみが誰だかすぐに分かった。それはつまり、どんな姿でもきみはきみ。それが真理」
「真理か、なんかすごいね。でも嬉しい」
鬼でも嬉しいと言う感情があるのか、とふと疑問に思ったが、さすがにそれは三郎に失礼だから聞くのは止めておいた。
彼が戻って来たのなら、時間を無駄にせずに、楽しい時間を過ごしたい。
「三郎、朝ごはんを食べようと思ってたんだ。きみも食べる?」
「え?」
「味の保証はしないけど」
「────」
三郎の微笑が引き攣ったが、謝憐が食べるものならと喜んで皿を受け取ってくれた。
「嬉しいな」
「まだ何か嬉しいのか?」
「この道館には、箸が二つ。皿も、茶碗も二つ。兄さんは独り身なのに、どうして?」
「どうしてって」
客が来たとき、二組なければ困るし、めったに客など来ないのだが、それでも二組揃えるのは礼儀だろう。
しかしそれでは客が二人来て、三組必要ならどうする?と自分自身で疑問が湧いてきてしまい、謝憐は箸を咥えて黙ってしまった。
「別に兄さんを困らせるつもりで質問したんじゃない。せっかくだし、冷めないうちに頂くよ」
「ああ、うん。温かいうちならまだ何とか食べられる」
冷めたら到底口には出来ないものだ。
一口含んだ三郎の表情がそれを語っていたが、彼はそれでも意地を張って完食してくれた。
嬉しいやら、申し訳ないやら。
謝憐も一口食べて見て、やっぱり不味いと実感する。
「ごめん。次に食事を振る舞う時までには勉強しておくから」
「別にいいよ。必要がないから学んでこなかったんでしょ? 兄さんがいらないと思うなら、無理して学ぶ必要はない」
「三郎は───」
「ん?」
謝憐の言うことを絶対に否定しない。
彼の言葉や彼の選択は何でも受け入れるし、賛成してくれる。
「どうしてきみは私にそこまで優しいんだ」
「兄さんのが優しいよ」
「私のことではない。私は三界笑柄と揶揄されていて、二度も貶謫された私を嗤う者ばかりだ。しかしきみは血雨探花、絶境鬼王の花城だ。そのきみが何故、私に優しくするのか意味が分からない。もしかしてそれが鬼界の揶揄い方なのか?」
「俺が兄さんを嗤う? どうしてそう思うの?」
どうしてって───。
ずっとそう言う扱いを受けてきて、謝憐の中で馬鹿にされ、嗤われることが当たり前になっていた。
別に彼は人からどう思われようと一向に構わないのだが、そんな価値しかない謝憐に対し、これ程気を使ってくれる三郎に正直申し訳なく思ったのだ。
「昔、人間界でこんな風習が流行ったらしい」
「ん?」
「遊廓に売られた妓女が、好きになった男に自分を本当に愛しているのなら、心の臓をくれとせがむんだ。当然、心の臓を渡せば男は死ぬ。でも、自分の命を捧げるからこそ、その愛は本物だと信じられる」
それが謝憐と何の関係があるのか分からず、彼がきょとんとしていると、身を乗り出した花城が謝憐の目を覗き込み、こう尋ねた。
「兄さんも、俺の心の臓が欲しい?」と。
「え、でも、それって人の話で、鬼のきみが心の臓を渡してもたぶん死なないんじゃ」
「勿論、心の臓を兄さんにあげても死なないし、本物かどうかの証明は出来ない。でも前に話したよね。骨灰は人の心の臓に値する。それを兄さんにあげても良いよ」
「は?」
どうしてそう言うことになるのかと謝憐はぶんぶん首を振り、両の手のひらもひらひら振って全力で否定する。
「わ、私はきみから何も奪わないし、きみのものは何も欲しがらないし、何も受け取らないよ」
「何も?」
「うん!」
「そう」
力強く、はっきりと頷く謝憐に、花城は笑ったが、その笑みはどことなく寂しげで、そして花城を傷付けてしまったであろう謝憐の胸に痛みを残した。
花城──、三郎の考えは時々、本当にまったく分からない。
今は美少年の三郎になってしまった花城は、黙々と道館の雑務を熟してくれているが、彼が素顔を隠してしまったことは、やはり謝憐になにがしかの不満を持っていると感じ、彼に近寄ることも出来なかった。
(でも、せっかく来てくれたんだし)
と意を決し、箒を握り締めて、謝憐は三郎の背後へと近付く。
「その、さ、三郎」
「なあに、兄さん」
彼は振り返らず、そう返事をしたが、声音はいつもの飄々とした三郎で、特に不愉快そうでもないから、謝憐は慌てて彼の隣にしゃがみ込み、「ごめん」と身体を擦り寄せた。
「どうして僕に謝ったりするの?」
「私は、時々、すごく鈍いんだ。霊文にも良く言われる。もっと世渡り上手になったら如何ですか、と。でも私は思ったことを思ったまま、口にし、思ってもいないことを口にするのは苦手なんだ」
「つまり、僕からは何も受け取りたくないから、こうした雑務もやるなってこと?」
「違うよ~」
どう言えば彼に自身の心が伝わるのだろうか。
あたふたと困惑する江澄の慌てぶりに仕方がないな、と言う体で三郎が笑う。
見た目は少年でも、何百年生きている謝憐よりも彼の方が落ち着きがあり、頼りになった。
「大丈夫。兄さんが言いたいことはちゃんと分かってるから」
「あ、うん……。なら、良いんだ」
「ただ、どうしたらこの距離を埋められるのだろうと考えていた」
「三郎?」
三郎は笑い、また雑務に没頭し始める。
この距離とは、何を指すのだろう。
謝憐ならちゃんと三郎を受け入れているし、彼とこうして共に過ごしたいと思っている。
しかし三郎はそれだけでは多分足りないのだろう。
その足りない部分が謝憐には分からない。
「三郎、何か困ってるなら、力になるよ」
疫病神、ガラクタの神の彼だけど、一応、神は神だ。
頼りないけど三郎より長く生きている自負はあるし、彼の手助けをしたかった。
「別に困ってはいない」
「三郎……」
さっきの言葉のせいかと落ち込む謝憐を気遣って三郎が彼よ
の手を取り、ぽんぽんと叩く。
本当に気遣うつもりで逆に慰められてる自分はなんて駄目な奴だと自己嫌悪に陥ってしまった。
「兄さん、本当に気にしてないから、落ち込まないで」
「でも良く考えればきみに対して酷いことを言った。きみは私に色々してくれるのに、きみから何もしてもらうつもりも、受け取るつもりもないなんて」
「大丈夫。ちゃんと分かってるよ。それにさっきの距離が云々は、兄さんにはまったく関係なくて、僕個人の問題だから」
シュンとして、𠮟られた仔犬の様な顔つきになっている謝憐に、また三郎が笑う。
彼の指先が謝憐の鼻先を擦り、思わず目を瞑った彼の動きに軽い笑い声を立てる。
微笑んで見せると、同じように笑っている三郎の目がすぐ目の前にあった。
「兄さんの鼻が汚れちゃった。ごめん」
そう言われて慌てて鼻の頭を袖で擦ったら余計に汚れた様で、三郎が笑い転げる。
はあーっと二人で笑い疲れて地面に横たわり、そして仰向けになった彼らは空を流れる雲を眺め、忘我の時を過ごした。
「やっぱり、兄さんに会いに来て良かった」
とそう小声で話す三郎の声に、謝憐も安らぎを感じる。
目を瞑り、やがて寝てしまった彼の横顔を、三郎はじっと飽きずに見守っていた。
20240121
自分で自分を崇めているなんて天界の者たちに知れたら、太子殿下に纏わる噂がまた一つ増えてしまうところだが、謝憐はそんなことは気にしない。
三郎が描いてくれた花冠武神の絵を満足そうに眺めながら、彼こそが満開の花とでも形容したくなる様な明るい笑みを浮かべた。
三郎が謝憐の前から消えて数ヶ月経った。
彼はいまどこで、一体、何をしているのだろうか。
ほんの数ヶ月前までは存在さえ知らなかった少年が自身の中ですっかり存在感を増していることに謝憐は他人の様に驚き、そして喜んでもいた。
絶境鬼王であろうと、謝憐にとって彼との出会いは喜ばしいものだった。
謝憐は他人を必要としない強さと心の広さがあるが、三郎はするっと何の抵抗もなく、そんな謝憐の隣に滑り込み、そして彼がいるのが極々自然で、当たり前と思える地位を獲得してしまった。
こんな出会いは早々あるものではない。
そんな存在と巡り会えた喜びを謝憐は感じ、ついつい三郎が描いた太子図の前で微笑んでしまったのだ。
「絶境鬼王、花城か──。私にはきみは物知りで、何でも出来る少年にしか見えない」
別れる前、彼は「次に会うときは本当の姿で会いたい」とそう言った。
花嫁衣装を着た謝憐を迎えに来たあの鬼の姿が三郎の本当の姿なのだろう。
頭に被った紅蓋頭のせいで顔はまったく見えなかったが、謝憐に伸ばされた手の 感触や背中に回された腕は、穏やかに彼を包み、そっと支えてくれた気がして、彼が絶境鬼王の花城 だと言われても嫌悪や怯えは湧いて来なかった。
むしろ懐かしさや慈しみの感情さえ覚えてしまった。
本当に不思議な存在だった。
こうしていても始まらない。
この道館には謝憐しかいないのだし、壊れたところは修繕し、汚れた煤も彼が自ら払わねばならない。
「一仕事始める前に、やはり腹ごしらえだよな」
と手慣れた手つきで大根を切り始めるが、どう言うわけか謝憐が作る料理は到底食べられそうにない何かにしかならない。
本人も料理下手な自覚はあるのだが、どうせ食べるのは彼自身だし、何を食べても死ぬ身体ではないのだから、腹さえ膨れれば別に何でも良かった。
「何を作ってるの、兄さん」
気のせいだろうか。
まさかと思い、後ろをふりかえると、眼帯姿の花城が立っていた。
こうして顔を合わせるのは初めての筈なのに、謝憐にはすぐにそれが三郎だと分かったし、自分を見下ろすすらりとした長身のこの鬼王が向けて来る笑顔も容易に信じられることが出来た。
「絶境鬼王、花城は、きみだったのか」
「兄さんには三郎と呼ばれたいと前に言ったよね。でも兄さんがそう呼びたいのなら、何でも良い」
別にそう言う意味じゃない。
いや、さっきの言葉に深い意味などなく、謝憐は単に目の前の事実を確認しただけだ。
「今度会うときは本当の姿でと言ったでしょ? 驚いた?」
「うん。いや、最初の質問は、うんで、次の質問は、驚いていない、だ」
「驚かないの? やっぱり兄さんは変わってるな」
「姿が変わっても、私はきみが誰だかすぐに分かった。それはつまり、どんな姿でもきみはきみ。それが真理」
「真理か、なんかすごいね。でも嬉しい」
鬼でも嬉しいと言う感情があるのか、とふと疑問に思ったが、さすがにそれは三郎に失礼だから聞くのは止めておいた。
彼が戻って来たのなら、時間を無駄にせずに、楽しい時間を過ごしたい。
「三郎、朝ごはんを食べようと思ってたんだ。きみも食べる?」
「え?」
「味の保証はしないけど」
「────」
三郎の微笑が引き攣ったが、謝憐が食べるものならと喜んで皿を受け取ってくれた。
「嬉しいな」
「まだ何か嬉しいのか?」
「この道館には、箸が二つ。皿も、茶碗も二つ。兄さんは独り身なのに、どうして?」
「どうしてって」
客が来たとき、二組なければ困るし、めったに客など来ないのだが、それでも二組揃えるのは礼儀だろう。
しかしそれでは客が二人来て、三組必要ならどうする?と自分自身で疑問が湧いてきてしまい、謝憐は箸を咥えて黙ってしまった。
「別に兄さんを困らせるつもりで質問したんじゃない。せっかくだし、冷めないうちに頂くよ」
「ああ、うん。温かいうちならまだ何とか食べられる」
冷めたら到底口には出来ないものだ。
一口含んだ三郎の表情がそれを語っていたが、彼はそれでも意地を張って完食してくれた。
嬉しいやら、申し訳ないやら。
謝憐も一口食べて見て、やっぱり不味いと実感する。
「ごめん。次に食事を振る舞う時までには勉強しておくから」
「別にいいよ。必要がないから学んでこなかったんでしょ? 兄さんがいらないと思うなら、無理して学ぶ必要はない」
「三郎は───」
「ん?」
謝憐の言うことを絶対に否定しない。
彼の言葉や彼の選択は何でも受け入れるし、賛成してくれる。
「どうしてきみは私にそこまで優しいんだ」
「兄さんのが優しいよ」
「私のことではない。私は三界笑柄と揶揄されていて、二度も貶謫された私を嗤う者ばかりだ。しかしきみは血雨探花、絶境鬼王の花城だ。そのきみが何故、私に優しくするのか意味が分からない。もしかしてそれが鬼界の揶揄い方なのか?」
「俺が兄さんを嗤う? どうしてそう思うの?」
どうしてって───。
ずっとそう言う扱いを受けてきて、謝憐の中で馬鹿にされ、嗤われることが当たり前になっていた。
別に彼は人からどう思われようと一向に構わないのだが、そんな価値しかない謝憐に対し、これ程気を使ってくれる三郎に正直申し訳なく思ったのだ。
「昔、人間界でこんな風習が流行ったらしい」
「ん?」
「遊廓に売られた妓女が、好きになった男に自分を本当に愛しているのなら、心の臓をくれとせがむんだ。当然、心の臓を渡せば男は死ぬ。でも、自分の命を捧げるからこそ、その愛は本物だと信じられる」
それが謝憐と何の関係があるのか分からず、彼がきょとんとしていると、身を乗り出した花城が謝憐の目を覗き込み、こう尋ねた。
「兄さんも、俺の心の臓が欲しい?」と。
「え、でも、それって人の話で、鬼のきみが心の臓を渡してもたぶん死なないんじゃ」
「勿論、心の臓を兄さんにあげても死なないし、本物かどうかの証明は出来ない。でも前に話したよね。骨灰は人の心の臓に値する。それを兄さんにあげても良いよ」
「は?」
どうしてそう言うことになるのかと謝憐はぶんぶん首を振り、両の手のひらもひらひら振って全力で否定する。
「わ、私はきみから何も奪わないし、きみのものは何も欲しがらないし、何も受け取らないよ」
「何も?」
「うん!」
「そう」
力強く、はっきりと頷く謝憐に、花城は笑ったが、その笑みはどことなく寂しげで、そして花城を傷付けてしまったであろう謝憐の胸に痛みを残した。
花城──、三郎の考えは時々、本当にまったく分からない。
今は美少年の三郎になってしまった花城は、黙々と道館の雑務を熟してくれているが、彼が素顔を隠してしまったことは、やはり謝憐になにがしかの不満を持っていると感じ、彼に近寄ることも出来なかった。
(でも、せっかく来てくれたんだし)
と意を決し、箒を握り締めて、謝憐は三郎の背後へと近付く。
「その、さ、三郎」
「なあに、兄さん」
彼は振り返らず、そう返事をしたが、声音はいつもの飄々とした三郎で、特に不愉快そうでもないから、謝憐は慌てて彼の隣にしゃがみ込み、「ごめん」と身体を擦り寄せた。
「どうして僕に謝ったりするの?」
「私は、時々、すごく鈍いんだ。霊文にも良く言われる。もっと世渡り上手になったら如何ですか、と。でも私は思ったことを思ったまま、口にし、思ってもいないことを口にするのは苦手なんだ」
「つまり、僕からは何も受け取りたくないから、こうした雑務もやるなってこと?」
「違うよ~」
どう言えば彼に自身の心が伝わるのだろうか。
あたふたと困惑する江澄の慌てぶりに仕方がないな、と言う体で三郎が笑う。
見た目は少年でも、何百年生きている謝憐よりも彼の方が落ち着きがあり、頼りになった。
「大丈夫。兄さんが言いたいことはちゃんと分かってるから」
「あ、うん……。なら、良いんだ」
「ただ、どうしたらこの距離を埋められるのだろうと考えていた」
「三郎?」
三郎は笑い、また雑務に没頭し始める。
この距離とは、何を指すのだろう。
謝憐ならちゃんと三郎を受け入れているし、彼とこうして共に過ごしたいと思っている。
しかし三郎はそれだけでは多分足りないのだろう。
その足りない部分が謝憐には分からない。
「三郎、何か困ってるなら、力になるよ」
疫病神、ガラクタの神の彼だけど、一応、神は神だ。
頼りないけど三郎より長く生きている自負はあるし、彼の手助けをしたかった。
「別に困ってはいない」
「三郎……」
さっきの言葉のせいかと落ち込む謝憐を気遣って三郎が彼よ
の手を取り、ぽんぽんと叩く。
本当に気遣うつもりで逆に慰められてる自分はなんて駄目な奴だと自己嫌悪に陥ってしまった。
「兄さん、本当に気にしてないから、落ち込まないで」
「でも良く考えればきみに対して酷いことを言った。きみは私に色々してくれるのに、きみから何もしてもらうつもりも、受け取るつもりもないなんて」
「大丈夫。ちゃんと分かってるよ。それにさっきの距離が云々は、兄さんにはまったく関係なくて、僕個人の問題だから」
シュンとして、𠮟られた仔犬の様な顔つきになっている謝憐に、また三郎が笑う。
彼の指先が謝憐の鼻先を擦り、思わず目を瞑った彼の動きに軽い笑い声を立てる。
微笑んで見せると、同じように笑っている三郎の目がすぐ目の前にあった。
「兄さんの鼻が汚れちゃった。ごめん」
そう言われて慌てて鼻の頭を袖で擦ったら余計に汚れた様で、三郎が笑い転げる。
はあーっと二人で笑い疲れて地面に横たわり、そして仰向けになった彼らは空を流れる雲を眺め、忘我の時を過ごした。
「やっぱり、兄さんに会いに来て良かった」
とそう小声で話す三郎の声に、謝憐も安らぎを感じる。
目を瞑り、やがて寝てしまった彼の横顔を、三郎はじっと飽きずに見守っていた。
20240121