遠い口づけ
視線を感じ、花城が作業の手を止めて顔を上げてみると、それに気がついた謝憐が慌てて顔を背けるのが見て取れた。
おそらく地面を掃くふりで花城のことを眺めていたのだろう。
謝憐の足元にはもう掃くような落ち葉はなく、彼はただ砂を右から左に動かしているだけなのに、当の本人はそれでごまかせていると思っているようだ。
まったく、そんなところもあの人は愛おしいと思ってしまう。
花城の眼帯をしていない方の目が笑いの形に細められた。
「ねえ、殿下。掃き掃除は大変だろうから、こっちに来て俺の仕事を手伝ってくれない?」
謝憐に動物の耳がついていたら、きっとぴょこんとあからさまな反応を見せてくれたに違いない。
「いいよ。何を手伝えば良い?」
と動作はさり気なく、何事もないような様子で花城の方へと近付いて来たが、謝憐の目は感情をごまかしきれていなかった。
(確か兄さんの修行って、性欲を禁じるのは勿論、大きな感情の揺れも修行の妨げになると言われてるんだよな)
そう思いつつも、素直に花城への情を露わにする謝憐は本当に可愛いと思ってしまう。
「殿下。こうしてナタを手に取って」
「うん。薪割りなら任せてよ。こう見えて体力には自信があるからね」
それはそうだろう。
そうでなければ仙力を封じられているのに、三度目の飛翔など果たせるものではない。
この純朴で優しく、どこか抜けていながらも、知性に溢れた魅力的な人が、悪運ばかり引き付けてしまう世の不条理を花城は謝憐への愛情を深めるとともに腹立たしくも感じていた。
「太子殿下」
「ねえ、三郎 。私はきみを花城ではなく、きみが呼んで欲しい名で呼んでいるのに、どうしてきみは私を太子殿下と呼び続けるんだい?」
「そう呼ばれるのはお嫌いですか、太子殿下」
からかい気味にしつこく敬語を使う花城に、謝憐はぶうと頬を膨らませる。
「嘘だよ、兄さん。兄さんってばすぐに本気にするから、からかうと面白い」
「私はきみの玩具じゃない。私をからかう気ならもうきみの手伝いはしないから」
「うん? 俺の手伝いってより、俺が兄さんを手伝ってるんじゃなかったかな」
「…………」
ここは菩薺村の菩薺観。
謝憐の住処であるおんぼろ道観だ。
花城の言い分の方が正しく、そのことを失念していた謝憐は、顔を真赤にしてまた箒で無意味に地面を掃く作業に戻ってしまった。
おかしくて花城は腹を抱えて笑い、彼の笑い声が青空に染み渡る。
「いい加減笑うの止めたら?」
「俺は鬼界の王、血雨探花の花城だよ。好きに嗤うし、笑い止めるかどうかは自分で決める」
「あっそ。ならきみの夕飯は用意しないから」
兄さんの夕飯?
あれを夕飯と言えるなら、とまたもや笑いが込み上げるが、これ以上は本気で謝憐を怒らせるだけだから、花城はこの辺で手を打ち、彼のご機嫌を取る方へと態度を改めた。
「ごめん、兄さん。兄さんと一緒の時間が名残惜しくて。兄さんのいろんな顔が見たくて、つい意地悪しちゃったんだ」
この口説き文句じみた謝罪に、謝憐はぴえっと飛び上がりながら、真っ赤になって道観の中へ逃げて行ってしまった。
「やっぱり兄さんは可愛いなぁ」
誰よりも尊くて、誰よりも勇ましく、何人も犯し難い気品を身に着けた太子殿下への崇拝が、花城の恋情の発端であったが、彼の素顔を垣間見れば見るほど、神仙ではなく、謝憐そのものに惹かれて行くのを強く感じてしまう。
抱き締めて、口づけて、あの細い身体に自身の楔を打ち付け、互いの身体を結びつけたいが、同時に謝憐の気品を損なってしまうことが怖かった。
誰よりも、何よりも愛しているが、それが故に、口づけではなく、彼をからかい、怒らせて、そして宥めて肩に手を置くことしか出来ない。
「殿下──、あなたのことがとても憎らしく、なおかつ愛しく感じます」
悪いのは謝憐ではなく、身分違いの恋情を抱いてしまった自分のせいだ。
信者は信者らしく、崇高な神にただ祈りを捧げるだけでいい。
謝憐がそれを望まないのなら、彼が望む形で、三郎として奉公するだけだ。
改めて苦笑を浮かべると、花城は彼が望む三郎の表情に戻り、道観の中へ逃げ込んで行った謝憐をなだめに向かう。
「兄さん、悪ふざけが過ぎたよ。本当にごめん、反省してるから。ねえ、兄さん、怒ってないでこっち向いてよ、兄さーん、兄さんってばー」
花城の兄さん攻撃にすぐに折れてしまった謝憐の笑い声がひなびた道観から聞こえて来る。
彼らの間に横たわる感情は既にある形を捉えていたが、どちらもそれを口にしようとはしなかった。
手を繋ぎ、指を絡めて、互いの目を見つめ合えればそれで十分だ。
恥ずかしそうに俯く謝憐の額に唇を近づけたが、肌に触れることはなく、そのままそっと離れ、何事もなかったかのように彼らは普段の生活へと立ち戻った。
終
20241102
おそらく地面を掃くふりで花城のことを眺めていたのだろう。
謝憐の足元にはもう掃くような落ち葉はなく、彼はただ砂を右から左に動かしているだけなのに、当の本人はそれでごまかせていると思っているようだ。
まったく、そんなところもあの人は愛おしいと思ってしまう。
花城の眼帯をしていない方の目が笑いの形に細められた。
「ねえ、殿下。掃き掃除は大変だろうから、こっちに来て俺の仕事を手伝ってくれない?」
謝憐に動物の耳がついていたら、きっとぴょこんとあからさまな反応を見せてくれたに違いない。
「いいよ。何を手伝えば良い?」
と動作はさり気なく、何事もないような様子で花城の方へと近付いて来たが、謝憐の目は感情をごまかしきれていなかった。
(確か兄さんの修行って、性欲を禁じるのは勿論、大きな感情の揺れも修行の妨げになると言われてるんだよな)
そう思いつつも、素直に花城への情を露わにする謝憐は本当に可愛いと思ってしまう。
「殿下。こうしてナタを手に取って」
「うん。薪割りなら任せてよ。こう見えて体力には自信があるからね」
それはそうだろう。
そうでなければ仙力を封じられているのに、三度目の飛翔など果たせるものではない。
この純朴で優しく、どこか抜けていながらも、知性に溢れた魅力的な人が、悪運ばかり引き付けてしまう世の不条理を花城は謝憐への愛情を深めるとともに腹立たしくも感じていた。
「太子殿下」
「ねえ、
「そう呼ばれるのはお嫌いですか、太子殿下」
からかい気味にしつこく敬語を使う花城に、謝憐はぶうと頬を膨らませる。
「嘘だよ、兄さん。兄さんってばすぐに本気にするから、からかうと面白い」
「私はきみの玩具じゃない。私をからかう気ならもうきみの手伝いはしないから」
「うん? 俺の手伝いってより、俺が兄さんを手伝ってるんじゃなかったかな」
「…………」
ここは菩薺村の菩薺観。
謝憐の住処であるおんぼろ道観だ。
花城の言い分の方が正しく、そのことを失念していた謝憐は、顔を真赤にしてまた箒で無意味に地面を掃く作業に戻ってしまった。
おかしくて花城は腹を抱えて笑い、彼の笑い声が青空に染み渡る。
「いい加減笑うの止めたら?」
「俺は鬼界の王、血雨探花の花城だよ。好きに嗤うし、笑い止めるかどうかは自分で決める」
「あっそ。ならきみの夕飯は用意しないから」
兄さんの夕飯?
あれを夕飯と言えるなら、とまたもや笑いが込み上げるが、これ以上は本気で謝憐を怒らせるだけだから、花城はこの辺で手を打ち、彼のご機嫌を取る方へと態度を改めた。
「ごめん、兄さん。兄さんと一緒の時間が名残惜しくて。兄さんのいろんな顔が見たくて、つい意地悪しちゃったんだ」
この口説き文句じみた謝罪に、謝憐はぴえっと飛び上がりながら、真っ赤になって道観の中へ逃げて行ってしまった。
「やっぱり兄さんは可愛いなぁ」
誰よりも尊くて、誰よりも勇ましく、何人も犯し難い気品を身に着けた太子殿下への崇拝が、花城の恋情の発端であったが、彼の素顔を垣間見れば見るほど、神仙ではなく、謝憐そのものに惹かれて行くのを強く感じてしまう。
抱き締めて、口づけて、あの細い身体に自身の楔を打ち付け、互いの身体を結びつけたいが、同時に謝憐の気品を損なってしまうことが怖かった。
誰よりも、何よりも愛しているが、それが故に、口づけではなく、彼をからかい、怒らせて、そして宥めて肩に手を置くことしか出来ない。
「殿下──、あなたのことがとても憎らしく、なおかつ愛しく感じます」
悪いのは謝憐ではなく、身分違いの恋情を抱いてしまった自分のせいだ。
信者は信者らしく、崇高な神にただ祈りを捧げるだけでいい。
謝憐がそれを望まないのなら、彼が望む形で、三郎として奉公するだけだ。
改めて苦笑を浮かべると、花城は彼が望む三郎の表情に戻り、道観の中へ逃げ込んで行った謝憐をなだめに向かう。
「兄さん、悪ふざけが過ぎたよ。本当にごめん、反省してるから。ねえ、兄さん、怒ってないでこっち向いてよ、兄さーん、兄さんってばー」
花城の兄さん攻撃にすぐに折れてしまった謝憐の笑い声がひなびた道観から聞こえて来る。
彼らの間に横たわる感情は既にある形を捉えていたが、どちらもそれを口にしようとはしなかった。
手を繋ぎ、指を絡めて、互いの目を見つめ合えればそれで十分だ。
恥ずかしそうに俯く謝憐の額に唇を近づけたが、肌に触れることはなく、そのままそっと離れ、何事もなかったかのように彼らは普段の生活へと立ち戻った。
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