慈雨のくちづけ

「兄さん、居る?」

 いつもの様に三郎の姿の花城がふらりと菩薺観を訪れた。
 彼に「兄さん」と気軽に呼ばれると自然と笑みがこぼれてしまうのは何故だろう。

──俺が何世にも亘って徳をおさめてきたから、その人に出会えたんだ

 いつだったか、三郎が彼の思い人である金枝玉葉の貴人について謝憐にそう話した時のことを思い出す。
 その時、謝憐は「縁は天意が三割、勇気が七割」と答えた。
 恋しい人との縁が続くのは天意が三割だとしても、七割は自分自身の努力である。
 その人との縁を保ち続けたい。
 そう強く願えばきっと叶う。
 自分と花城の関係もそうなのだろう。
 笑いかける三郎に向かい、謝憐も花のように笑って見せた。

「また屋根の補修が必要そうだね」
「来る度にきみに大工仕事をやらせるのは申し訳ない。今度自分で藁を集めて来て何とかするよ」
「兄さんは何でも出来るけど、俺だって大した労力もなく出来ることだから、気にしないで。兄さんの役に立てるのが嬉しいんだ」
「三郎」

 そう言い置いて謝憐に手を振ると、早速三郎は作業に取りかかり、あっという間に屋根の修理を終えてしまった。
 正直、雨漏りしていていつかはやらねばならないと思っていたからかなり助かる。
 謝憐はこう言うどうでも良いことは本当に切羽詰まらないとやらないし、彼が切羽詰まる前に菩薺観の方が挫けて崩壊してしまわないとも限らない。
 三郎が働いてくれる間、せめて料理ぐらいと思ったのだが、結局、其方も三郎の世話になって、謝憐はただ食べる人の役割に落ち着いてしまった。

「ふう、ご馳走様。三郎は本当に何でも出来るんだな」
「兄さんほどじゃないけどね」

 花城の思い人はどうしてこんなにも魅力的な彼を受け入れる気になれないのだろうと不思議で仕方ない。
 じっと自分を見つめる花城の視線で謝憐は彼もまた花城を見つめ続けていることにようやく気が付いた。

「あ、ええと、片付け物は私がやるから! 三郎は少し休んでいたまえ」
「兄さん、気を付けて」
「へ?」

 言われたそばから椅子の脚に躓き、蹌踉めく謝憐をさっと駆け寄る花城が腕の中に抱き締める。
 近距離で彼と見つめ合い、息が止まりそうになってしまった。
 三郎から目を離したいのに、彼を見たくてたまらない。
 水中で口付けをした時の冷たい感触が脳裏に蘇り、ごくりと謝憐の喉を鳴らし、彼の身体を硬直させてしまった。

「ごめん、三郎……」
「謝る様なことじゃない」
「うん」

 離して、と言いたいのに、謝憐の手は掴んだ三郎の衣を離したくなかった。
 自分はどうかしてしまったのかと謝憐は考える。
 彼の唇が謝憐の額に触れ、唇に触れ、そして自分の全身に触れて欲しい。
 そんなことを自分が考えるなんて思いもしなかった。

「本当にごめん。私みたいな粗忽者の神もそうはいないよな」

 笑いながら花城から離れる謝憐を見下ろしながら、彼は何も言わなかったが、代わりに額にかかった髪を指でそっと梳いてくれた。

 三郎──、

と出掛ける唇を閉じ、見上げる謝憐を、花城の黒い目が何も言わずに見下ろす。
 その瞳に見つめられた謝憐は、自分の肌が剥き出しにされ、彼の前に自分のすべてが曝け出されてしまったような、そんな感覚に陥ってしまった。

「兄さん……」

 結婚しよう、と。
 冗談めかして言った時の彼の顔に浮き出た急いた欲情が謝憐の目にも見えた気がした。
 咄嗟に目を閉じ、すべて見なかった振りで吐息を洩らす。
 馴染みのある冷たい感触が謝憐の口調に触れ、そして舌が彼の中へ入って来た。

「さ……」

 三郎───。

 どのぐらい抱き合っていたのか。

 謝憐には永久の時間に感じたし、同時に、物足りなく、刹那の時にも感じられた。

「───息を送る、練習?」
「どうして?」
「だって、きみが、二度としてはいけないって──、私のやり方では、人を殺してしまうかもって」
「兄さん」

 クスクスと笑う三郎の意図が分からず、謝憐は綺麗な顔に渋面を作る。
 その愛らしさに花城はますます笑い、むうっと怒る謝憐の額に口付け、彼を赤面させた。

「その通り。二度と兄さんは誰かに息を送る行為などしてはいけない」
「いまは別に溺れていないし、それに私が駄目で、きみは良いと言うのは納得いかない」
「納得行かなくても絶対にしちゃ駄目だよ。もしも兄さんが他の誰かに息を送ったりしたら」

 したら?
 謝憐の問いに、花城はニッと笑い、

「そいつを殺す」

と実に笑えない笑顔でそう応えてくれた。

「分かった。絶対、しない」

 真摯な顔で頷く謝憐に、三郎は更に笑いながら、謝憐の手から洗い物を奪い、水辺へと歩き出す。

「あ、待ってよ、三郎」

 謝憐もそれを追って走り出し、陽光が注ぐ扉の前で三郎が彼を待ち受け、空いた方の手で抱きとめてくれた。
 肌に触れるその指は冷たい感触だとしても、謝憐の心は温かいぬくもりで満たされる。

「兄さん、結婚しよう」

 冗談としかとれない三郎のその言葉に謝憐は陽気な笑い声を上げた。

終わり
20240501
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