きみがいない

三.

「江澄?!」

 鬼面の男は二人の脇をゆっくりと歩き、姚宗主の亡骸に突き刺さった避塵を引き抜く。
 脈を取ってみるまでもない。
 傷口から噴き出す鮮血の量は多く、剣が姚宗主の心臓を一突きしたのは一目瞭然で、彼がとうに事切れていることを物語っていた。
 ゆっくりと、黒い仮面をつけた男の顔が、背後にいる魏無羨たちを振り返る。
「あれは…藍……」
「江澄……っ!」
 どうやら江澄も剣の柄に刻まれた水紋に気が付いた様だ。
 魏無羨は彼の腕を引き、余計なことは言うなと首を振り、止める。
「しかしあれはどう見ても奴の……」
「間違っても、無抵抗の人間を殺す筈がない!」
 けれどもそうしている間も鬼面の男は二人との距離を縮めている。
 江澄が腕を振り、紫電の雷を撓らせたが、男は剣でそれを払い、何食わぬ顔でまた歩みを縮めた。
 藍忘機以外、誰がこうも易々と紫電の一撃を受け止められるだろう。
「おい、魏無羨。[[rb:藍忘機 > ヤツ]]を止める気がないのなら、お前はさっさと逃げろ。足手まといの面倒まで見てられん」
「江澄、危ない!」
「ちぃ……っ!」
 男が跳躍し、江澄の首筋目掛けて白い刃が飛来する。
 目に止まらぬ速さの切っ先をすんでのところで躱したが、それでもかすかに掠ったらしい。
 首筋に手を当て、怪我がないことを確認すると、江澄は再び、紫電を呻らせ、同時に三毒を振り上げて攻勢に移った。
 実力完全に伯仲し、鬼面の男か、江澄が殺られるか魏無羨にはまったく見当がつかない。
(でも、おかしい───。藍湛なら江澄と五分なんてことは有り得ない!)
 そう。
 江澄の霊力は高く、修真界でも皆が一目置いているが、それでもけして藍忘機と比較出来る強さではない。
 剣捌き、筋力を駆使した体のすべての動き、底のない霊力が彼の剣を支え、そんな藍忘機と対等に渡り合える相手と言えば兄の藍曦臣でさえかくやと言うところだ。
 それは江澄自身も認め、彼は出来るだけ藍忘機との衝突は避けている。しかし今魏無羨の目の前で繰り広げられる戦いは、五分と五分。どちらが倒れても不思議ではない実力差だった。
 それに先程、鬼面の男は江澄の紫電を避塵で受け止めた。
 一品霊器には霊識が宿る。
 紫電の霊力を受けるには、例えば同等の霊器、藍忘機の忘機琴等でなければ身体への負担が大きい。
 鬼笛陳情が素材は竹であるのに、同じ一品霊器避塵の攻撃を受けても砕けない理由がそれだ。
 霊識が避塵より、陳情の方が上なのである。
 そして江澄が持つ紫電も特級と言っても差し支えない、非常に稀少な霊器だ。
「藍湛、琴はどうした! [[rb:藍翼 > ラン・イー]]先輩から授かった大切な琴だろう!」
 いつまでも逃げない魏無羨に江澄が弱冠、キレ気味に声を荒げる。
 自分でも勝てそうにないこの一騎打ちに焦りが見え始めているのだろう。
 さっさと逃げろと言うのがわからんのか、と怒鳴られたが、今ここに第三者が来たら、鬼面の男が姚宗主殺しの犯人と知れてしまう。
 鬼面の男の正体が藍忘機ではないと断言出来る証拠がない限り、人の助力も請えなかった。
「そんなことを言っている場合か! 殺されてもあの世で文句を言うなよ!」
「お前じゃないんだ、いちいち愚痴を垂れてる暇があったらさっさと死ぬさ。江澄、脛を狙え! 偉丈夫だろうとそこを強打されれば動けなくなる」
「そう簡単に言うな!」
 激しい剣戟の末、鬼面の男が剣を振り下ろす先に、とうとう江澄を捕らえた。
 彼の頭上目掛けて振り下ろされる剣を魏無羨は身を挺して受け止めようとしたが、すぐに江澄に掴まれ、地面へと投げ出される。
 紫電の紫色の雷が光り、鬼面の男を吹き飛ばした。
「江澄、大丈夫か?!」
「魏無羨……、正直な話……、こいつが相手では勝てる自信がない」
「大丈夫だ、俺が正気に戻す!」
「俺に言わせるな! 藍忘機相手では俺だって苦戦する! 早く誰か呼んでこい!」
 とうとう江澄の口から藍湛の名が出てしまった。
 やはり彼も鬼面の男が藍忘機だと完全に確信している。
 しかし助けを呼ぶにも誰を呼びに行けば良い?
 藍曦臣?
 彼は雲深不知処だ。
 魏無羨が走って向かっても三日はかかる道のりな上に、呪符で緊急を伝えても、藍曦臣がここに来るまで江澄が持ち堪えられるかどうか。
 魏無羨は陳情を咥え、笛の音で藍忘機を止めようと息を吹き込んだが、仮面の下の素顔が藍忘機だと思うと彼を攻撃することなど出来なかった。
 いちかばちかで

「藍湛!!」

と大きく呼び掛けて見たが、鬼面の男は一瞥もせずに江澄に向かい、剣を突き立てる。
「止めろ!!!」
 魏無羨の叫びも虚しく、江澄の腕から鮮血が噴いた。


 こんな光景を確かいつかも見た筈だ。
 胸に激しい痛みが刺し、その光景を思い出すことを魏無羨の頭が拒絶する。
 血塗れになったか細い手が魏無羨に伸ばされ、優しく彼の頬を撫でる。
 阿羨と呼び掛ける声は子供の頃と何ら変わらず、魏無羨ら弟二人への愛情に溢れていた。
「さっきはあんなに早く走るから、あなたの顔が見えなかったわ。良く顔を見せて」
「師、姉……! 駄目だ、来ないで、来ちゃ駄目だ!」
 魏無羨が声を上げると同時に江厭離の幻想は消え、彼女の姿が涙を流す虞夫人の顔へと移ろう。
 彼女は魏無羨の腕を激しく掴み、金切り声に近い声でまるで発狂したみたいに魏無羨を叱りつけていた。
「お前って奴は、どこまでも憎らしい……! いいかい、魏無羨! 阿離と阿澄、二人をお前が守るんだよ! 約束を違えたら、私がお前を許さないからね!」
 そう泣き叫びながら虞夫人は紫電を江澄の手に巻き付けると、二人の身体を紫電の鞭で縛り付けた。
「母上、一緒に父上の元へ行こう! 早くここから逃げるんだ!」
「虞夫人!」
「阿澄、お前の父親によろしくね。私には夫など必要ない」
「母上、嫌だ、嫌だ! 一緒に逃げよう!」
 魏無羨と江澄が叫ぶ間、虞夫人は穏やかな顔で微笑むと、二人の乗った舟を蹴り、そして彼らが遠くに流されるまで見送ってはいた。
 夫人と再会出来たのは彼女の夫、江楓眠と共に息絶えた後だった。
 あんなに苛烈な女性は見たことがないと思っていたのに、彼女は二度と魏無羨を𠮟ってはくれない。
 悲しい死別を繰り返すのは、二度とごめんだ。
 それなのに───。
 避塵が江澄の腕に突き刺さる。
「江澄……!!」
 地面に膝をつく江澄に向かい、魏無羨は必死で手を伸ばしたがその動きは緩慢で、なかなか江澄に辿り着くことが出来なかった。
 鬼面の男は付着した血痕を拭うように剣を縦に振ると、再び、江澄の方へと躙り寄る。
「江澄! 江澄! 止めろ、藍湛! 止めるんだ!」
 彼の首筋に剣先を当てた。
 江澄の目が鬼面の男を睨むが、仮面に隠された顔からは感情が読み取れず、避塵が主人と良く似た冷ややかな霊気を刀身から放っていた。
「止めてくれ、殺さないでくれ! そんなの絶対に駄目だ! 藍湛、俺にお前を恨んで生きろってのか、そんなの有り得ないだろう! 藍湛!!!」
 声を限りに叫んだのだが、無情にも魏無羨の目の前で避塵は江澄の肉体と首を切り離した。
 温寧が金子軒を殺した時も、魏無羨は何も出来なかった。
 頽れる身体を呆然と見つめ、受け入れがたい現実に身を震わせることしか出来なかった。
「俺は──、役立たずだ── 守れなかった、誰一人、誰も残っていない……!」
 目頭が熱くなり、涙が頬を流れて寝台を覆う薄衣に染みを作る。
 ここはどこなのか。
 もはやそんなこと、問題ではない。
 魏無羨はただひたすらに自分の無力さを呪い、泣き喚きたいのを堪えるので必死だった。
(俺のせいで藍湛が……。俺のせいで、藍湛が人を……)
 それだけじゃない。
 藍忘機は魏無羨が虞夫人と江楓眠から託された大切な命まで奪ってしまった。
「どうしたらいい……」
 どうしたら、藍湛を助けられる……?
 二人で逃げるか?
 どこまで逃げる? どこまで逃げれば追っ手は追って来ない??
 啜り泣き、目を擦り。
 そしてようやく気分が落ち着いて来た。
 元々、打たれ強い性格だ。
 泣いて解決しないなら、行動を起こすしかない。
 まずはここがどこなのか。
 そこから解決しなければならないだろう。
 起き上がった魏無羨は、周囲を見、文字通り、ギクッとして身体を強張らせた。
 彼の目の前に鬼面を取った藍忘機が素顔を晒し、足を組み、ゆったりと椅子に腰掛けていたのだ。
(陳情は……?!)
 大丈夫。彼の鬼笛はすぐ傍らにあった。
 それを握り締め、再び、藍忘機へと向き直る。
 しかし藍忘機の氷の目は瞬きもせず、無感動な瞳で魏無羨を見つめているだけだった。
「藍湛……、何日振りだ? お前と道呂になって、こんなに放って置かれたのは初めてだぞ。独り寝が寂しい俺が何をやったか、お前は聞きたいか?」
 涼しい目許も、艶やかで慎ましやかな口付けを与えてくれる淑女の様な唇も、魏無羨の記憶の藍忘機と何ら変わらない。
 しかしあの手で姚宗主を殺し、江澄まで殺した。
 彼の避塵が魏無羨の目の前で、江楓眠と虞夫人から守れと託された義弟の命を奪ったのだ。
「藍湛。江澄にはな、俺の金丹まで渡したんだぞ。俺は自分の決断にも、その後のことにも何の後悔もしていない。唯一、師姉の死だけは後悔しているが、俺がそうしなきゃ、あいつが死を選んでしまうからだ。自分の身体から力を取り除いてでも俺は江澄を助けたかった! それをお前は……!」
 怒りとも哀しみともどちらともつかない感情が込み上げ、魏無羨に声を張り上げさせた。
「何故、俺を襲い、江澄を殺した! お前は俺の最大の理解者じゃなかったのかよ、何とか言え! 藍忘機!!」
「───」
「お前らしくないだろう、無抵抗な人間をお前が殺すなんて、お前が江澄を殺したなんて、俺は信じないぞ、信じないからな!」
 藍忘機の襟に掴みかかり、彼を自分の方へと引き寄せたが、強い力で振り払われる。
 それでも構わず、掴みかかった。
「答えろよ、藍湛! 何か言ってくれ! 俺のことを誰よりも想ってくれているんだろう?!」
 目の前にいる彼は本当に藍忘機なのか。
 魏無羨は藍湛に詰め寄り、彼の襟首を掴んで、問い詰めるうちにだんだんとその自信がなくなって来た。
 失踪する前の藍忘機はいつもと変わらず、魏無羨だけをひたむきに愛してくれた。
 藍忘機の愛情は漣さえ立たない程の静かな湖面に思えて、底が知れぬ、限りない深さで、潤沢な愛情が尽きることなく湧いてくる泉の様だ。
 しっかり頼むぜと腰にしがみつく魏無羨を抱き、愛しそうに髪を撫で、唇を押し当ててくれた。
 魏無羨が愛しくて堪らない。
 藍忘機は多くを語らずとも、いつだって態度でそれを魏無羨に示してくれるから、魏無羨も同じように彼に愛情を注ぎ、彼に甘え、藍忘機の気持ちに応えて来たつもりだった。
 あの日のことはついさっきの出来事みたいに、はっきりと覚えている。
「藍湛、ひょっとして、俺のことを忘れてしまったのか?」
 藍忘機の目は魏無羨を見つめ続け、そしてようやく花びらの様な唇が静かに開いた。
 てっきり「魏嬰」と呼んでくれるものかと思っていたのに、藍忘機の口から出て来たのは「食事だ」の一言だった。
「藍湛……」
 ようやく口を開いた結果がその一言で、無羨は頭を抱えたくなった。
 声は藍忘機そのもの。
 姿も藍忘機と変わらない。
 しかし態度はまるで違う。
 別人が乗り移ってしまったみたいだ。
「藍湛……、江澄の安否がわかるまで、飯なんて食える筈がないだろう。さっきも言ったが、あいつは俺の義弟で」
「食後に彼がお会いになる」
「彼?」
「常[[rb:恨生 > ヘンシァン]]。私の義弟だ」
「藍湛、お前に義兄弟なんていない。お前と契りを交わしたのは俺だけだ。いつの間に義兄弟の契りなんて……」
 どうして藍忘機の義弟が、櫟陽常氏宗主なのだろう。
 魏無羨の腕を掴み、自分が座っていた椅子に彼を無理やり腰掛けさせると藍忘機は部屋を出て行った。
 卓の上には冷えて固まった食事が用意されていたが、当然、喉を通る筈がない。
 胸元を探り、使い古しの呪符を取りだすと、指先を噛みきって新たな呪符を描き出す。

 沢蕪君。櫟陽と思われる場所で藍湛を見つけたが様子がおかしい
 取り急ぎ、平陽へ。江澄の安否が不明だ

 そう文面を記し、送ろうとしたが、どうやらこの部屋には強力な結界が張り巡らされているようで、魏無羨の修為ではこの結界を破り、藍曦臣に連絡を取ることが出来なかった。
(どおりで陳情を手許に置いておく筈だ───)
 魏無羨の陳情は乱葬崗の不穏な霊気を吸い、持つ者の精神を歪めさせる。
 魏無羨は精神力でそれを抑えているが、藍忘機が奏でる静心音を聴くことで安定を保つことが出来ている。
 静心音の音色もなしに無防備で陳情に触れるのは危険を伴うと彼を攫った相手は前もって知っていたと言うこと。
「櫟陽常氏──、常恨生──?」
 何者だろう。
 その答えはそう時間をおかずに魏無羨も知ることが出来た。

 その後、一刻は経った頃合いだろうか。
 藍忘機が再び魏無羨の部屋を訪れ、手付かずのままの食事を見、そして何も言わずに彼の腕を掴んで歩き出す。
「藍湛、なあ、藍湛」
と何度も呼び掛けて見たが、藍忘機の無反応はそのままだ。
 もしかして藍忘機の姿を真似ただけの傀儡なのだろうか。
 しかし魏無羨だけが知り、おそらく藍忘機自身も気付いていない彼の黒子は藍忘機と同じ場所についていた。
 やはりこの男は藍湛で間違いない。
 どうやって藍忘機の正気を取り戻し、ここから脱出するか。
 まずは櫟陽常氏宗主、常恨生に会ってからだ。
 連れられて行った広間に片腕のない男を見つけ、魏無羨は正体を暴いてやると意気込んで見たが、その熱意は男が振り返り、すぐに立ち消えてしまった。
 男の顔には藍忘機がしていた様な仮面が半面だけでなく、顔すべてをすっぽりと覆い隠していたのだ。
「ようこそ、櫟陽へ。夷陵老祖」
(この声、聞き覚えはあるな。誰だ?)
 しかし残念なことに魏無羨の頭は知識については天才的な働きを見せるくせに、どうでも良いことはさっさと忘れてしまういい加減な記憶力を持っていた。
 特に人の名前と顔は覚えられず、昨日会った人間でさえ、「あれ、どちら様?」なんてことも平気でやってのける。
 その辺のことを覚えてくれているのがいつも藍忘機で、彼がそっと耳打ちしてくれるから魏無羨も体面を保つことが出来た。
(やれやれ、俺って人間は、つくづく藍湛がいないとやっていけない様に出来ているんだな)
 しかし今はとにかく櫟陽常氏宗主が何者かを探らねばならない。
 藍忘機がここにいる以上、彼をおかしくした人間はこの男と見て間違いなかった。
「俺を夷陵老祖、魏無羨と知っているって事は、あんたはかつての俺を知っているってことか。櫟陽常氏が滅んだのは、確か俺が死んでいる最中の出来事だった筈だ。藍湛と道呂になってからの俺は夷陵老祖と呼ばれるような活躍は一つもしていないからな。隠居老人の様な大人しさだぞ」
「それこそ謙遜し過ぎだ。夷陵老祖、魏無羨」
 いい加減、夷陵老祖と呼ばれるのもうんざりするが、世間の目はそう簡単には変わらない。
 雲深不知処の中でさえ、いまだ魏無羨を目の敵にする者も少なくないのだから、彼を殆ど知らない者たちなど魏無羨の真の姿なんてどうでもいいに違いない。
「なあ、常宗主。俺の藍湛に一体、何をしてくれたんだ? ついでにあんたのその仮面の下も拝ませてくれないかな。人前で仮面を被ったままなんて非礼だろう」
「ならず者を演じるのが好きだったきみが礼儀について語るとは思いもしなかった。魏無羨、私に協力するのなら、そこにいるお前の藍湛とやらと共にいることを認めよう。きみはここで、私が求める仕事を、してくれるだけで良い。藍忘機だったその者はまだ使い道があるからそう簡単に解放は出来ないが、きみの寝床で添い寝をさせるぐらいは許可してやる」
「添い寝ね。じゃあ念の為に確認しておくが、その添い寝してくれるお人形ちゃんは、例えば俺が寝ぼけておねしょしちゃってもちゃんと対処してくれるのかい?」
「────」
 この冗談にさすがに常恨生は黙り、片腕しかない手で、頭にかぶった頭巾のズレを直した。
(この頭巾にも見覚えがある。しっかりしろよ、俺のぽんこつ脳みそ)
 藍曦臣は常恨生の名を聞き、動揺していた。
 そして、江澄は何と言ったか。
 確か、金光遥が使っていた剣の名が───。
「[[rb:金光遥 > ジン・グアンヤオ]]?」
「────」
 仮面の下、男が含み笑いをする声が聞こえた。

「さすがは夷陵老祖。良く私の剣の名を覚えていたものだ」
「俺が覚えていたんじゃない。覚えていたのは沢蕪君だ」
「二義哥?」
「ああ。お前が大好きで、誰よりも尊敬する沢蕪君、藍曦臣宗主だ。だが、残念ながら、今の沢蕪君にお前は必要ない。何故なら、あの人の傍には既に別の者がいて、沢蕪君はお前のことは微塵も気に懸けていない」
「二義哥が誰を娶ろうと、喜ばしいことだ」
「誰も娶ったなんて言ってないぜ。娶ることは不可能だ。何しろ、沢蕪君のお相手は俺の義弟。雲夢江氏宗主、江晩吟なんだからな。沢蕪君はともかくあの江澄が良く沢蕪君を受け入れたものだな。だってほら、江澄ってば保守代表の様な男だし、見栄っ張りで、人の道を外れることを何より嫌うからさ。ましてや断袖なんて、俺と藍湛の関係をあんなに毛嫌いしてたのに」
「江晩吟のことなど、どうでも良い!」
「その割に声が震えているぞ?」
「二義哥のことも、私にとってはもう過去のことだ。誰とでも好きに睦み合えば良い。彼の高潔な壮士も、お前の様なくだらない人間の影響は免れなかったと言うことか」
「おやおや、どうでもいいといいながら、やっぱり気になっているんじゃないか。なあ、斂芳尊、前から聞きたかったんだが、あんた、沢蕪君のことが好きだったのか?」
「その呼び名は二度と口にするな! 私と二義哥の関係は清いものだった! お前らのふしだらな関係とは違う!」
「はいはい。どうせ俺は穢れまくりの夷陵老祖だからな。でもだからって俺の道呂まで誹謗するなよ。こいつにかけた呪を今すぐ解け! じゃなければお前に協力など絶対、お断りだ!」
「魏無羨、魏無羨。お前を捕らえているのはこちらであって、藍忘機も私の手中にある。それを忘れるな」
「俺はともかく、藍湛に手を出したら、沢蕪君と姑蘇藍氏がただではおかないぞ。二度もあの人の手にかかって死にたいのか?」
「─────」
 どうやらこの言葉は金光遥をそれなりに傷付けたようだ。
「大哥! さっさとそいつを元の部屋へ戻せ!」
と藍忘機に命じると、魏無羨は無理やり先程の部屋へ戻されてしまった。

 それにしても、藍忘機が金光遥の大哥だとは。
「藍湛、藍湛、笑っちゃうよな。斂芳尊はお前の兄貴を二義哥呼びしてるってのに、お前のことは大哥呼びだ。藍湛、お前はいつから沢蕪君の大哥に?」
 ひょっとして、藍忘機は聶明玦の代わりと言うことなのだろうか。
 自ら殺しておいて聶明玦が懐かしいとは何とも馬鹿げた話だが、金光遥の様に過去の栄光にしがみつきたい男にはあり得そうな話だった。
「にしても、随分と強力な思念で、お前の意志を縛り付けているものだな。どう解いたら良いんだ?」
 魏無羨の知る藍忘機は誰よりも強い。
 誰よりも頼りになる男で、勿論、誰よりも修為が高い。
 これまで藍忘機がこんな危機的状況に陥れられることなどあっただろうか。
 さっきの部屋へ戻れば魏無羨の術は封印されてしまう。
 ならばこの廊下で試みるしかなさそうだった。
 宙に呪を描き、それを藍忘機の額に押し付けて見たが、藍忘機の意識が戻る気配はない。
 一瞬でも元の彼を呼び戻せれば、素に戻った藍湛と二人で協力し、この呪縛も解けるかと踏んだのだが、魏無羨一人では解けそうにない。
(やはり、沢蕪君のお出ましを待つしかないか。それまで時間稼ぎが出来るかどうかだな)
 藍曦臣を持ち出し、金光遥に精神的な攻撃を仕掛けるのはききっと有効だろう。
 あの反応を見るに、金光遥は、いまだに藍曦臣に執着と未練を抱いている。
 藍忘機が見張りを続ける中、魏無羨は閉じ込められた部屋で瞑想をし、精神を集中させる。
 いざという時、いつでも藍忘機を助けられる様にしておかねばならない。
 しかし藍忘機を助けてもこの先どうするか。
 姚宗主を殺した件はまだ良い。
 あの場には江澄もいたから、彼の協力を得られれば大世家の横暴とやらで揉み消すのは簡単だ。
 しかし江澄は───。
 雲夢江氏宗主を殺してしまったことを揉み消すのは不可能だ。
 ごまかすには罪を着せる犯人が必要で、その相手が江澄を殺せる技量を持たねば誰かが疑いを持つ。
 例えば、夷陵老祖とか────。
「心配すんな、藍湛。俺たちはどこまでも二人一緒だ。そう誓っただろう」
 死すときあらば、共に塵芥と化すまでのこと。
 魏無羨の決意を横に、藍忘機はただじっとして宙を見据えるだけだった。[newpage]四.

 眠りにつくとまたあの悪夢が蘇る。
 何度恐怖で目を覚まして見ても、うとうととまた眠りについて見るのは同じ夢だった。
 魏無羨の夢の中で、江澄は幾度も藍忘機に殺され、そして遂には魏無羨まで藍忘機の手にかかって惨殺される夢を見始めた。
 三度目に夢の中で藍忘機に殺され、気付いたことがある。
 この部屋に仙術を使えなくする結界が張られていることは間違いないが、どうやらこの結界は夢まで作用していると思われる。
 藍忘機の手にかかって死んだのが現実ならば、今ここで息をしている魏無羨は何者か。
 だとすれば、江澄の死もまた、「何者かによって見せられている」可能性があるのではないだろうか。
 それが誤った推測でないのなら。
(藍湛は、江澄を殺していない!)
 この発見は魏無羨を勇気づけた。
 江澄が無事で居てくれれば、彼はきっと必ず、藍曦臣に助けを求める。
 平陽で藍忘機に会い、そしてここで何が起きたか、江澄が藍曦臣に説明すれば、藍曦臣のことだ。必ずこの櫟陽の存在に気付き、目を向けてくれるに違いない。
「その前に藍湛。お前を何とかしないとな」
 問題の藍忘機は今も魏無羨の目の前に座っていた。
 ただ、先程まで開いていた瞼は閉じ、夢を見ているのか、その瞼がひくひくと痙攣している。
 相変わらず、溜息が出そうな程、綺麗な顔で、寝顔だけは普段の藍忘機と変わらない分、魏無羨も気分が塞いでしまった。
 彼が藍忘機を見る時はいつも歓びに満ち溢れて、藍忘機の笑顔一つで晴れやかな気分になれたと言うのに、今はそれすらおぼつかない。
「藍湛」
 藍忘機の傍へと近付き、そっと唇を塞ぐ。
 慣れ親しんだ柔らかさが魏無羨の唇肉に触れ、藍忘機の髪を指で梳き、自分の方へと引き寄せる。
「藍湛……、俺のところへ、戻って来いよ。お前の居場所は、俺のそばだろう」
 ひくりと藍忘機の唇が反応したかに見えた。
「藍湛?!」
と唇を離し、藍忘機が瞼を開くのを待って見るが───。
 ぼんやりと光源を失ったかの様な瞳が魏無羨を見つめ、そして僅かに眉が顰められる。
「藍湛、俺だよ。気付いたのか?」
「………」
 琥珀色の瞳が魏無羨を見、そして長いこと見つめ続けたが、藍忘機は魏無羨の腕を押すと、自分の身体から彼を離し、再び寝台の上へと横たえさせた。
「藍湛、傍に居てくれ。俺たちは、離れちゃ駄目なんだ。俺とお前と二人でいるのが当たり前なんだ」
 魏無羨の言葉が通じたのか、藍忘機は彼の隣に横たわると、魏無羨の首の下に腕を回し、そして慈しむ様に髪を撫でてくれた。
 彼の瞳に魏無羨は映っているものの、いつも魏無羨に向けてくれる微笑がなく、藍忘機の目は魏無羨を見ながらも彼を彼とは意識していなかった。
 それでも藍忘機の首筋に顔を埋め、彼の身体を抱き締めると、抑えきれない愛情が湧き上がってしまう。
「俺が絶対に、お前を救ってやるからな。金光遥の奴、今度こそ、完全に息の根を止めてやる」
 魏無羨がその誓いを立てた頃。
 隣の部屋でその様子を常恨生──、金光遥も満足げに眺めていた。
3/6ページ
スキ