きみがいない



 特に進展が見られないまま、日にちだけが過ぎて行った。
 藍忘機を攫った者からの接触があれば内々で解決する手も考えているのだが、何の要求もなく、藍忘機の居所も掴めない。
 それどころか生死さえも不明のままで含光君を失った雲深不知処は白い校服も相俟って葬儀の場と化してしまったかのようだった。
 仙督の元へ寄せられた案件も解決されないまま、山積みとなり、止むなく四大世家の宗主たちは協議の結果、藍忘機の不在を公表し、代わりの仙督を決めねばならないと各世家の宗主たちを雲深不知処へ集めた。
「これはこれは魏先生」
「先生のご高名はかねがね」
 魏無羨がこう言った公の場に顔を出すのは珍しい。
 この時とばかりに何とか交流を得ようと群がって来る烏合の衆に魏無羨は藍忘機の不在も相俟ってかつての夷陵老祖時代の彼のような態度を取ってしまった。
 修師、仙師と気取っていても大半の者に大義はなく、単に名家に生まれて来ただけ。
 そんな愚鈍な人々に腹を立てるだけ無意味だと分かってはいるが、こっちは藍忘機のことで眠れない日々を過ごしていると言うのに、どうして笑顔で「こんにちは!」などと挨拶出来ると言うのか。
 しかし藍曦臣はその辺さすがで、人間の出来た彼は狼狽えることもなく、終始、にこやかに訪問客へ挨拶をし、今回の藍忘機の失踪について迷惑をかけたと集まる人たちに頭を下げていた。
 彼もおそらく藍忘機が消えてから殆ど眠っていない。
 元々ほっそりした顔は痩せてしまい、顔色も青白く、気力だけで立っている様なものだった。
「一体、どこの誰が含光君を攫うなんて暴挙を」
「しかし含光君と言えば、他に並ぶ者はない程の剣豪だ。そんな彼を攫うことが出来る者なんてこの修真界に存在するのか?」
「いるとすれば───」
 藍忘機の兄の藍曦臣。
 それに雲夢江氏の三毒聖手、江晩吟だけだ。
 真っ黒い竹笛陳情をくるくると回す黒尽くめの魏無羨にも視線は向けられたが、誰も彼の名を口にしようとは思わないようだった。
 藍啓仁が入って来て、やっと議論が始められる。
「仙督の失踪はこの偽物の銀の出所と関係がある筈だ」
 最初に藍曦臣の元へ銀について話を持ち寄った三家を代表し、江澄が経緯を説明する。
「ちょっと待ってくれ、江宗主。銀の偽物が出回っているとは随分と物騒な話だが、それは雲夢や清河に限った話なのか?」
「いや。気が付いたのが私と聶宗主だったと言うだけだ。貴兄らの土地で出回っているかどうかは私にも分からん。しかし此度の件で姑蘇藍氏、蘭陵金氏がそれぞれの領地を調査した結果、雲夢や清河と同じくこの贋作が発見されたことを鑑みても、おそらく全大陸と見て間違いはないだろう」
 烏合の衆とは言え、力がない者だからこそ、彼らは名利と損得勘定だけは抜け目がなく、自分の損益には敏感なのだ。
 偽物の銀が自分の財産の中にも混ざっていると聞き、青ざめた彼らは途端にまたざわざわと浮き足立った。
 藍啓仁が持っていた扇子でバシッと強く手のひらを叩き、ようやく場に静けさが戻る。
 兄弟と良く似た目許を持つ藍啓仁は、自慢の顎髭を扱きながら、江澄に先を続けろと目線で合図した。
「誘拐犯からの要求がない以上、仙督の行方を探すのは困難を窮める。闇雲に動き回るより、まずは問題と思われる銀の調査をするべきだと沢蕪君、聶宗主と話し合い、此度、諸兄にお集まり頂いた次第です」
「それは良いが、ならばまずは全体を指揮する仙督の代替を決めるべきではないか?」
「その通りだ。含光君がいないのならば他の誰かが指揮を執らねば」
「銀の出所を調べるだけだ。仙督の指示はなくとも諸兄らの協力で進めることは出来る」
「しかし江宗主。誰が調査をし、誰が公平に判断する。もしやあなたが指揮を執るつもりか?」
「それの何が不満かと?」
 せっかく藍啓仁の扇子の一発で静粛が戻ったと言うのに、また外野がざわざわと喚き始め、弱小世家の宗主らが一斉に「大世家の横暴だ」と江澄を責め立てた。
 その中心人物にいるのは平陽姚氏の姚宗主。
 何もない場所に波風を立て、問題を作り出すことに長けたまさに小者の手本の様な矮小な男が彼だった。
 江澄の口元がひくりと引き攣ったが、魏無羨に言わせれば江澄にしては良く耐えていると褒めてやりたいぐらいこの議論は馬鹿馬鹿しい限りだった。
 江澄の冷徹な視線が姚宗主に向き、歪んだ笑みがうっすらと浮かぶ。
「私の意見のどこが横暴と仰る、姚宗主。若輩者故、先輩方に失礼があったのなら謝罪致そう。教えて頂けぬか」
 言葉付きは丁寧だが、江澄の瞳には明らかに怒りが猛っており、魏無羨は勿論、藍曦臣まで頭が痛むのかこめかみを撫でて擦っていた。
「江宗主。あなたは偽物の銀についてまず調べるべきだと仰るが、あなたの甥御である蘭陵金氏、金宗主の土地にも銀の精錬場はあるではないか。それに聶宗主の清河にも精錬場はある!」
「どこに問題が生じるのかさっぱりわからん。姚宗主、貴兄に指摘される以前に既に蘭陵、そして清河の精錬場は調査済みだ。何ら不審な点は発見されておらぬ」
「ほら、この通りだ!」
 江澄を指差し、鬼の首を取ったかの様に姚宗主が声を張り上げる。同じ立場の者を味方につける彼のいつもの手腕だ。
「諸兄らも今の江宗主の意見を聞いただろう。甥御のいる蘭陵は既に調べたと言うが、本当に調べたのか、その場にいない我々にわかる筈がない。しかし我々の土地は自分たちがずかずかと踏み込んで大々的に調べさせろと来ている。これこそ大世家の横暴ではないか!」
「そうだ、そうだ! 大世家で結託し、罪を我々に擦り付けるつもりだろう!」
「藍先生、藍宗主! 我々は公明正大な判断を願う! 身内のいる江宗主は信じられん!」
 まったくこの愚かな男は普段の頭の働きは人一倍鈍いくせに、人のあら探しだけは人の三人前は得意と来ている。
 かつて魏無羨も今回の江澄の様に何を言っても否定され、何度も槍玉に挙げられて、あれこれ難癖をつけてはすべての責任と罪を夷陵老祖一人に押し付けられた。
 彼らの愚かさが金氏の専横を手助けし、金光善、金光遥親子を助長させてきたと言うのに、誰一人として自分たちに罪があったとは思っていない。 
 いい加減この見苦しい言い争いにうんざりしていた魏無羨は「姚宗主」とようやく口を開いた。
 それ程大きな声ではなかったが、魏無羨のその一言はその場にいた全員が凍り付かせ、無駄口しか聞かない愚かな唇を閉ざさせた。
 魏無羨はいまだ、わけの分からない詭道術法の使い手、死体を操り、人を呪い殺す恐ろしい道士、夷陵老祖のままなのだ。
 彼が雲深不知処の中で無害に過ごし、毒があるどころか、藍忘機の飼い猫よろしく彼に撫でられて尻尾を振り、大人しく日々、怠惰に過ごしているなんて藍曦臣と江澄以外の者の誰に想像がついただろう。
 皆が静まり返ったのを確認し、魏無羨はにっこりと笑うと、陳情で手をぽんぽんと叩きながら、中央へと進み出た。
 くるりと一周し、禍々しい鬼笛で居並ぶ宗主たちの顔を差し、皆をまたもやゾッとさせる。
 まったくお笑いぐさも良いところだ。
「姚宗主、さっきから大人しく拝聴していれば、あんたは江宗主の横暴な権威の振り翳しと、迫害され、押し潰される弱小世家の問題へすり替えたいようだが、今回の招集の意味はご存知の上で出席されているのか?」
「い…夷陵老祖、私は弱小世家の立場としての意見を述べただけだぞ。それも許さぬとあらばそれこそ大世家の…!」
「まあまあ、俺の話を聞けって。それとも俺の話なんて聞く価値もないと思っているのか? 今大事なのは、仙督の不在。藍湛の生死に関わることだ。今も死地を彷徨っているかも知れないってのに、弱小世家の面子や大世家の横暴など、そんなことを議論するなんて犬の糞について語るほどの価値もない。銀の精錬場を調べずにどうやってこの件を解決するってんだ? それともあんたが藍湛を攫って隠しているから、そんなにムキになって江澄が銀の調査をするのを邪魔したいのか?」
 魏無羨のこの指摘で皆の注目を浴びた姚宗主は真っ青になって違うと否定する。
 それはそうだろう。
 銀の件もだが、藍忘機──、皆の尊敬と畏怖を集める含光君を攫って隠したりなどすれば、それこそこの修真界に身を置く場所もなくなってしまう。
 要求もなしに藍忘機を攫う筈がないと江澄が断言したのもまさにそこだ。
 藍忘機ほど攫って閉じ込める割りに合わない被害者もいないだろう。
 彼が逃げ出した後の報復の方が余程恐ろしいし、大体、修真界一の腕の立つ藍忘機を拘束するのも生半可な腕じゃ太刀打ち出来やしない。
 ましてや彼の道呂の魏無羨は生者を傀儡に変えることが出来る稀代の呪術師だ。
 一同の視線を受け、姚宗主は「違う、私ではない!」とひたすら連呼していたが、彼の挙動の不審さは誰の目にも明らかだった。
 この愚鈍な男と弱小世家の平陽姚氏が藍忘機を攫い、閉じ込めるなど出来よう筈もない。藍忘機なら平陽姚氏の弟子たちが数十人でかかろうと一人で一掃してしまうだろう。
「夷陵老祖、魏先生! わ、私が…、この私が、含光君を攫い、閉じ込めたとまさかお考えなのか?」
「否。ただ銀の件と藍湛が帰って来られない理由は同一だと、俺と江澄で考えが一致しているだけさ。沢蕪君、ここでこの魏無羨から提案だ。発言してもよろしいかな」
「どうぞ」
 既にこれだけ中央で目一杯話しているのに、今更発言してよろしいかなもないのだが、終わりのない議論に藍曦臣もすっかり辟易しているのか、いつもの穏やかな笑みは消え、無表情に頷いた。
 藍氏たる者、いつ如何なる時にも冷静沈着であれと家訓にある以上、実践してはいるが、彼の憔悴した表情に魏無羨は自分を見る様で心が痛み、また同時に藍忘機の不在に塞いでいるのは自分だけではないと勇気づけられた。
 自分の為にも、この心清らかで優しい義兄の為にも、早く藍湛を見つけてやらねばならない。
「諸兄らの意見にも共感する点は勿論ある。俺は江宗主と金凌、そして聶宗主を信じるが、彼らの調査だけでは信じられず、それを大世家の特権と詰られては、後々、禍根を残す」
「おい、魏無羨。言いたいことがあるなら、要点のみはっきり告げろ。もうこのくだらない議論はうんざりだ」
「江澄、俺はお前の為にこうして助太刀をしてやってるんだぞ。つまりだ。諸兄らが大世家の調査を信じられないなら、簡単なこと。精錬場のある世家から数名調査員を募り、一つずつ虱潰しにすべての精錬場を調査する。調査結果は書面にしたため、公表する。これなら精錬場を支配する仙門すべてが調査に関われるし、結果を皆で見ることも出来る。公明正大だろう?」
「公明とは限らない。蘭陵金氏と雲夢江氏は昵懇だ。この二大世家に逆らえる世家がどこにある? 江宗主から圧力をかけられれば私たちの誰が逆らえる!」
「ある」
「どこにあるって言うんだ」
「姑蘇藍氏、藍啓仁先生だ」
 確かに姑蘇藍氏ならば、皆の信頼も厚く、藍啓仁には江澄を始め、殆どの仙門の宗主が敬意を示す。
 総括を任せるには一番適任な世家、そして相手と言える。
 名指しされた藍啓仁は魏無羨の方を見ることもせず、ふんと憤慨そうに鼻息を洩らした。
「まさか藍啓仁先生が不正を働き、江澄や金凌に配慮をするとは誰も疑いはしないだろう。藍先生ほど公明正大、清廉潔白な壮士はそうもいない。と言うことで、藍啓仁先生、大変、ご足労かけますが、どうぞ藍湛の為、修真界の安定、正常化の為に御協力と御助力をお願い致します」
「─────」
「そして精錬場がなく、蘭陵金氏と関係の深い雲夢江氏、江宗主は銀の調査には絶対に参加しない」
「藍先生はともかく、江宗主が口出ししないと誰が責任取れる」
「俺が責任をとる。江澄には銀について一言も口を出させない。奴と俺で藍湛の行方を追う。これでどうだ?」
 頭を下げる魏無羨に藍啓仁はずっと顔を背け、うんともすんとも言わなかった。しかし反対しないと言うことは、つまりが賛成と言うことだ。
 少なくともそう受け取った藍曦臣は他に意見もないようだし、ひとまずこの会議を終了させることにした。

 議論の後、寒室に集まった魏無羨、そして江澄と藍曦臣は先程の会議で気になった点をそれぞれ挙げた。
 まず一番怪しいのは、平陽姚氏、姚宗主だ。
 やたらと声高に発言し、江澄の邪魔をして議論を幾度も脱線させようとしていた。
 しかし平陽姚氏単独では、藍忘機の捕獲、拘束は難しい。
 これは揺るぎのない事実だった。
「だろうな。あいつじゃ藍湛が泥酔してたって捕獲なんて到底無理だ。そもそもそんな大それたことを出来る肝っ玉なんてありやしない」
 仮に負傷し、動けない状態になったとしても、そろそろ怪我は治る頃合いだろう。五体満足ならば、平陽姚氏の仙師程度、数十人いようと藍忘機一人で容易に片付けられる。
「では櫟陽常氏は?」
「常氏?」
 江澄の言葉に魏無羨は眉を顰め、考える。
「確かその櫟陽常氏ってのは薛洋に滅ぼされただろう。たった一人の生き残りも、あいつに惨殺されたんじゃなかったっけ? その時、俺は死んでいたから経緯は知らないが、そんな話を藍湛から聞いた」
「ああ。前宗主の常萍は金光善に抱き込まれて薛洋への訴えを退けた後、惨殺された。その後に出て来たのが常[[rb:恨生 > ヘンシァン]]だ」
「[[rb:恨生 > ヘンシァン]]? 聞いたことがないな。あの場にいたか?」
「櫟陽常氏の新宗主は片腕がないらしい。故に公の場ではいつも従者の劉浩然が参加している」
「劉浩然ねぇ」
「剃髪の者が一人いただろう」
 江澄に教えて貰い、魏無羨の脳裏にも該当者が一人浮かび上がって来た。
 会議の間中、穏やかな微笑を保ったままで、宗主らの野次にもまったく参加していなかった。剃髪と相俟って僧にしか見えず、そのせいで魏無羨の目も引いた。
 しかし藍曦臣はどうも別のことが気にかかるようだ。
 彼は劉浩然の名は知っていても、公の場に顔を出さない宗主の名は聞いていなかったらしい。
「常、恨生──?」
「沢蕪君、どうかしたのかい?」
「いや……、とある人物を連想させる名だなと」
「とある人物?」
「藍宗主、それは」
 魏無羨と江澄で質問をしたが、藍曦臣は首を振って答えなかった。
「彼だとしても──、あの状態で生きられる筈がない」
 とりあえず銀の調査の件は藍啓仁に委ねる手筈は整えられたが、魏無羨と江澄はあの場で魏無羨が述べた通り、別行動で藍忘機の行方を探すつもりだった。
 江澄を山門まで送りがてら、さっきの藍曦臣の言葉の意味を二人で考える。
「沢蕪君は何かを知っているようだな」
「まさか。あの人の弟の生死が関わっているんだぞ。気になることがあるなら隠すものか」
「そうだけど。櫟陽常氏に引っかかっているようだった。それも常恨生。江澄、この名に聞き覚えは?」
「あるさ」
「え? 誰だよ、教えろよ」
「金光遥だ。さっきの沢蕪君の反応で思い出した。確か奴の剣の名が恨生だ」
「金、光、遥?」
 またもや金光遥だ。
 とっくに死んだ筈なのに蘭陵金氏の隠し部屋にあった権利書や櫟陽にある彼の土地───。
「そう言えば、あの男も片腕をなくしたな」
「沢蕪君じゃないが、生きていると思うか?」
 追い詰められた観音堂で金光遥は金凌を人質に逃げる算段を企てたが、聶明玦の刀、覇下に取り憑かれた温寧が突如、乱入してきて、その混乱に常じて藍忘機に金凌を捕まえた片腕を切り落とされた。
 しかしその後、聶懐桑の計略にかかり、自分を襲ったと勘違いした藍曦臣の手で胸を刺され、亡くなっている。
 即死ではなかったが、崩れ落ちる観音堂から脱出し、あの深傷を負って生き延びたなんて事があるだろうか。
「雲夢、雲弊城の観音堂か。江澄、あの後、あの瓦礫の山はどうした?」
「勿論、くまなく捜索し、発見した死者はすべて葬った。金光遥と思われる遺体も見つけたが、あの場には他にも金氏の仙師の遺体が幾つもあったから、確実に金光遥だったとは言い切れない」
 それもそうだろう。
 瓦礫の下に埋まったのだから顔の判別も出来ない遺体だらけで、損壊していない遺体があれば奇跡と言える。
 衣服や身なりから金光遥と思われる遺体を回収し、被疑者死亡で片付けただけだ。
「しかし沢蕪君の剣は奴の身体を貫いていた。あの出血では例え崩落から逃げられても追っ手を振り切って生き延びることは出来まい」
「うーん……」
 しかし魏無羨も生還不可能と言われた乱葬崗に落とされ、三カ月後に現れ、温晁と温逐流を殺し、藍忘機や江澄と再会を果たした。
 ましてや一度は死んだ彼が首謀者の金光遥を追い詰め、なんと藍湛と道呂の契りまで交わしている。
 世の中、絶対なんてことは有り得ないのだ。
「江澄、まずは一番怪しい姚のおっさんを締め上げてやろう。あいつは金光遥が生きていた当時もお追従をしていた一人だし、今回の銀の件にも関わってそうだ」
「そうだな。では明日、また迎えに来る」
「は? だったらこのまま雲深不知処に泊まれば良いだろう。静室の部屋も空いてるし、何なら沢蕪君の──」
「いや、彩衣鎮に、宿を取ってある」
 心なしか咳払いをしてごまかす江澄の頬が紅潮して見えるのは夕陽のせいか。
 まあ、雲深不知処の敷地の中で、大事な弟が行方不明だと言うのに、恋人といちゃつく不道徳な真似を人徳者の藍曦臣が出来る筈もない。
 魏無羨と藍忘機と来たら藍啓仁の屋敷にまで魏無羨の声が届くくらい毎日頻繁に愛し合っていると言うのに、その兄の藍曦臣は随分と淡白だ。
 それとも藍曦臣も山を降れば、藍忘機同様、性欲お化けと化してしまうのだろうか。
 山を降りていく江澄の背中に向かって手を振りながら、そんなことを考え、魏無羨は久々に笑いが込み上げた。

 静室に戻り、藍忘機の寝台の上で瞑想に耽ようとするが、充たされることのない虚無感に患わされ、なかなか精神集中がデキない。
(藍湛、お前がいないとこの静室は、本当に静かだな。俺に何を反省しろってんだ)
 二人で寝ると少し手狭に感じる寝台は一人だとちょうど良かった。
 肩に触れるものも何もなく、ゆったりと身体を沈め、手足を伸ばすことも出来る。
「藍湛、邪魔だよ。もう少し向こうによってってば」
「うそ、うそ、冗談さ、本気にするなって。ほら、もっとこっち寄れよ」
などと彼の肩を小突いては、藍忘機が素直に身体を寄せると今度は擦り寄り、そしてまた肩を小突くのを繰り返した日がつい昨日のようだ。
 この寝台にはまだ藍忘機の香のにおいが染み着いていて、それが亡霊の様に魏無羨の意識を雁字搦めにした。

「藍湛……」
──魏嬰。

 彼の声に応えてくれる相手はいない。
 魏無羨の身体に覆い被さる彼の肉体は息が詰まる程重く、そして口付けは柔らかった。
 せせらぎの様な穏やかな優しい瞳が、徐々に欲望に染まり、魏無羨の身体を掴む指にも力がこもる。
 いつまでもふざけ続けたい魏無羨の自由を奪い、力強い腕で笑いの波と抵抗を奪われて行くのは何とも言えない心地良さがあった。
 それも──、魏無羨が藍忘機のことを愛し、思い続けているからだ。
(好きでもない男に組み伏せられて嬉しい筈がない。分かってるのか、藍湛───)
 情事の恥ずかしさも吹き飛ぶくらい、尽きることのない藍忘機への愛情だけが泉の様に湧いてくる。
 しがみつける腕が近くにないことがこれ程もどかしいとは思いもしなかった。
 藍湛に会いたい。
 今すぐ、もう一時でも待ちたくない。
 感情が昂ぶり、自慰で吐き出した指に付着する白い体液を眺めて見たが、冷えてしまった魏無羨の熱情は何の感慨も抱かなかった。
 これでも彼は雲夢江氏で育てられた名家の子息だ。
 下僕と呼ばれたり、「魏の犬野郎」などと悪態を吐かれたことはあっても、自慰に耽るなんてふしだらな真似は魏無羨の性には合わず、虚しくなる一方だった。
 起き上がり、手遊びに陳情を吹いて見たが、やはり落ち着かない。
 静室を出、深夜の雲深不知処の中を彷徨っていると、知らず知らずのうちに寒室へ足を向けていたようだ。
 ぽつんと一室だけ灯りがともっているところを見るに、どうやらここの家主も眠れずにまだ起きているようだ。
「沢蕪君、起きてる?」
「魏公子か?」
 うん、と返事する声に応え、藍曦臣が扉を開けてくれた。
 灯りが乏しい分、昼に見た時より憔悴して見える藍曦臣が魏無羨を認め、穏やかに笑う。
「魏公子、ひどいクマだ。眠れなくても眠った方が良い」
「うん」
「きみに何かあれば忘機に顔向けが出来ない」
(沢蕪君───、やっぱりあなたは優しいな。さすがは藍湛の兄貴だ)
 藍忘機と同じ指先が、同じ力で魏無羨の目許を撫でていく。
 藍曦臣と藍忘機はただ姿が似ているだけで、身代わりになどなりはしないのに、やはり彼の傍は藍忘機の腕の中にいるようで安心出来た。
 魏無羨を見つめる目は琥珀色をしてはいないが、白檀の香りは彼の塞いだ心を癒し、軽くさせてくれる。
「ごめん、沢蕪君。どうにも寝られなくて、ふらふら出歩いてた」
「分かるよ。今晩はここで眠ると良い。多分、忘機もそれを望む筈だ」
「うん。ありがとう、沢蕪君。明日、江澄と平陽に行って来る」
「平陽に? きみたちは姚宗主が怪しいと?」
「まだ分からない。でも関係はしてそうだ」
 ふわぁと大きな欠伸をした後、うとうとと魏無羨の瞼が閉じて行く。
「姑蘇藍氏だから当然なんだけど、沢蕪君は藍湛と同じにおいがする」
「そうかい? 私と忘機が好む香は幾分、違いがあるのだが」
「そんなのこの俺が分かる筈ないじゃないか。でも沢蕪君は沢蕪君であって、藍湛じゃないんだよな」
「ああ。私はきみの忘機ではない。きみが私の大切な人ではないように」
「俺の藍湛か。へへ、なんか照れくさいな」
「忘機ならきっと大丈夫。心配せずに今は休みなさい」
「うん。沢蕪君も、余り根を詰めないでくれ」
 膝の上で丸くなって寝てしまった彼を藍曦臣はまるで猫を撫でるようにあやしていたが、熟睡したのを確認するとそっと抱き上げ、自身の寝台へ運んでやった。
 魏無羨のぼんやりした意識はゆったりと流れる簫の音に心地良く浸り、深い眠りへと落ちて行った。[newpage]三.

 翌日は約束通り江澄が魏無羨を迎えに来たのだが、藍曦臣に挨拶をし、いざ山を降りる段階になって、江澄のいつものご機嫌斜めが勃発してしまった。
「江澄ー、歩くの早いってば」
「うるさい、誰のせいで御剣が使えないと思ってるんだ!」
「むーっ」
 どうやら彼が気にしている問題は魏無羨の衣服に染み着いた檀香のにおいにあるらしい。
 魏無羨も雲深不知処での生活が長くなった。
 彼自身にもすっかり馴染みとなり、染み着いてしまった匂いだが、どうやら江澄が言うには同じ檀香でも個人の好みがあるらしい。
 藍忘機は清涼感のある混ざりけのない白檀の香りだが、藍曦臣は他の香料も混ぜ、藍忘機より幾分甘いにおいに仕上がっているのだとか。
 昨晩、藍曦臣にも言われたが、何度自分の衣服についたにおいを嗅いでみても、魏無羨にはにおいの違いなど判別出来なかった。
「江澄、お前、犬好きだから、犬みたいに鼻がきくんだな」
「常識だ!」
「女じゃあるまいし、香の些細な違いなんか俺に分かるもんか。いつからそんな常識が罷り通る様になったんだよ」
 彩衣鎮に着き、馬車を借り受け、ゴトゴトと進む間、ずっと不機嫌な江澄の顔を見続けなければならず、何を言ってもぶっきらぼうに「知るか!」、「少しは黙ってろ!」と返されるだけでほとほと嫌気が差してしまった。
「江澄ー。確かに昨晩は沢蕪君の部屋で寝ちゃったけどさ。俺も藍湛がいなくて寝付けないんだよ。少しばかり沢蕪君を借りたっていいじゃないか。俺にとっても義兄なんだし」
「誰も藍宗主のことなど言っていない。お前、藍忘機って相手がいながら、沢蕪君の寝床に入るなんて、頭おかしいんじゃないのか?! この恥知らず!」
 そこまで言うかとおかしくて笑いが込み上げる。
 やはり江澄といるとかつての魏無羨が戻り、少しばかり空元気も湧いてきたようだ。
「江澄、いいか、俺は沢蕪君を誘惑しに行ったんじゃない。寝られないし、沢蕪君も起きてたから、少し話をしようとしたら寝ちゃっただけじゃないか。俺があの人の膝で寝ちゃったものだから、止むなく沢蕪君が自分の寝室に運んでくれたんだよ。俺が寝てたから、沢蕪君は寝台を使っていない」
「当たり前だ! 男が男の膝枕で熟睡するな! もしお前ら二人で寝てたりしたら、藍忘機に告げ口するからな!」
「沢蕪君なら例え添い寝してたって、藍湛は何も心配しないさ。それにしてもあの二人は本当にそっくりで違いが分からないな。指使いまで藍湛とそっくりだ」
「指使いとか……、もうお前は何も言うな! 黙ってろ! こっちの頭がおかしくなる!」
「あいや、江澄ーっ、お前の沢蕪君を取ったりなんてしないから」
「うるさいっ!」
 こんな調子でずっと喧嘩し通しだったが、二人とも職務となると顔つきも変わる。
 平陽に着く頃には江澄も愚痴をこぼさなくなり、そして馬車から降りて姚氏の屋敷に着いた頃には、いつもの威厳ある若宗主の顔つきに戻っていた。

 魏無羨と江澄が到着したと聞き、姚宗主は屋敷から転げ出る様に出迎え、応対に当たった。何の用事かとしきりに気にしているが、逆に、江澄から「何の用事と思われる?」と問い掛けられ、憤慨して口をへの字に曲げる。
 不満と言う言葉が表情にくっきりと浮き出ている様な、そんな態度で不機嫌に茶を啜っていた。
「江宗主、それに魏老師。確か昨日の話し合いでは藍先生が中心になり、各世家を調査すると決めた筈だ。何故、うちにだけお二人で来られるのです」
 魏老祖とか良く言うよ、お前の師になった憶えはないと言いたげに肩を竦める魏無羨に、江澄も眉を吊り上げ、それはそれだと釈明する。
「藍先生には銀の調査をお願いした。私と魏無羨は藍忘機の捜索をすると昨日宣言した筈だ。別件故、別行動で調査している」
「ちょっと待ってくれ、若宗主。よりにも寄ってどうしてうちが仙督を匿っている話になる。あなた方も良く知る様に、うちのような弱小世家が」
「姚宗主は何かにつけ、弱小世家と謙遜されるが、あなた方がこの平陽に居を構えてもう何年になる。私が父の跡を継ぎ、雲夢江氏を建て直した時に、既にあなたはこの平陽で宗主として姚氏の名を掲げていた。宗主としての経験ならあなたの方が長い」
「あいや、江宗主。歴史の長い雲夢江氏と我々を比較されても困る」
「だから言った筈だ。温氏は江氏の末端まで悉く、殺したんだぞ。あなたの世家も温氏に壊滅的状況に追いやられた。私とあなたと、立て直しにかけた時間は同じ。歴史の短さを言い訳に使うな」
 ぴしゃりと言い返す江澄に魏無羨は拍手喝采を贈ってやりたい気分だった。
 十六年の時を経て、再会をした江澄は、暴言ばかりで昔と何も成長していないと思っていたが、どうしてどうして。
 高慢さは相変わらずでも、毅然とした態度と妥協と甘えを許さない姿勢はなかなかに立派な宗主の姿と言えた。
 江澄には到底敵わず、隣にはもっと恐ろしい夷陵老祖がいる部屋に耐えられなくなったのか、姚宗主は渋々と言った体で二人を精錬場へと案内した。
 精錬場独特の金属臭が鼻をつく。
 労働者たちで賑わってはいるが銀の精製は著しく水を汚染し、作物は育たず、やがては飲む水にも困る様になる。
 儲けで食糧や水資源は買えば良いが、問題は鉱山が閉じた時だ。
 姚宗主の相手は江澄に任せ、魏無羨は実際に銀を精製している場に行き、一連の様子をじっくりと観察し始めた。
 金や銀を精製する場合、一旦、鉛に溶け込ませ、加熱をすると、鉛の中に金や銀が混ざった貴鉛が出来上がる。その貴鉛を灰吹炉にいれると鉛は酸化し、灰に染み込む為、不純物の少ない金や銀だけを抽出出来るのだ。それをまた馬蹄の形に精錬するわけだが、いま出回っている偽物の銀はこの時に不純物を混ぜ、実際の銀の量を少なくしていると言うわけである。
 魏無羨が見ることが出来たのは灰吹炉の工程までで銀の完成品は見ることが出来なかった。
 おそらくはもっと奥──。
 金光遥の指示で始めたのなら、そう易々と見つけられる場所で作業はしていない筈だ。監視を続けていると十数人はいる鉱員らが更に下る洞穴の中へと入って行くのが見えた。
 一旦戻り、江澄に知らせて二人で向かうかと思ったが、せっかくの機会を見失うのも勿体ない。
 懐に忍ばせて置いた呪符に血文字を書くと、それを燃やして江澄の元へと送り届けた。
 湿った洞穴を降りて行くと金属臭が更に強くなり、洞くつ内の温度も急に上がったようだった。
 粉塵を吸い込まぬ様、手で口元を多い、足音を忍ばせ、更に地下へと潜ったが、不意に魏無羨ははたと足を止める。
 ほんの一瞬、ゾッとする様な殺意を感じ、サッと身を翻すのと同時に、ヒュンと白い光が空気を一閃した。
 危うく陳情で受け止める事が出来たが、また白い光が追ってくる。再び陳情で受けたものの、腕の骨がミシッと鳴るぐらいの強打で本気で肝が冷えてしまった。
 こんな狭いところで闘うのは不利だ。
 それに相手はどうやら相当腕が立つ。
 江澄の助けがなくては魏無羨が倒すのはほぼ無理だろう。
 目眩ましの呪符を投げつけ、相手が金の蝶に怯んでいる隙に魏無羨は地上を目指し、洞穴内を走り抜けた。
 先程の殺気が追いつくのを感じ、手近にあった桶を投げつけてやったが、それも軽々と躱された。
(黒衣の、鬼面の男───?)
 体付きから見て男と間違いないだろう。
 男が跳躍し、剣先が魏無羨の頬を掠めて行く。
(まさか、避塵───?!)
「江澄! 江澄! すぐに来てくれ! 頼む、殺される!」
 地上付近に近付いたせいか、すぐに江澄の紫電が応戦してくれた。
 鞭では裁ききれず、三毒を抜いた江澄と互角の戦いをしている黒衣の男を魏無羨はまじまじと見つめる。
 顔の半分は見えないが、花びらの様な淡い桃色の唇は間違いようがない。
 江澄と戦う鬼面の男を見て魏無羨は確信してしまった。
 あれは姑蘇藍氏の剣筋だ。
「危ない、江澄!」
 鬼面の男の剣が繰り手の手を離れ、江澄の方向へと飛んで行く。
 魏無羨は慌てて彼の前へと出たが、男が狙ったのは江澄の心臓ではなかった。
 ぐわっと悲鳴を上げ、姚宗主の胸に避塵が突き刺さる。
 血飛沫を上げて倒れたのは江澄ではなく、姚宗主だった。
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