きみがいない

 清らかな水の上を笹で作った舟が川下りの様に下流へと流されて行く。
 子供たちの歓声に混じって、陽気な男の声が聞こえて来た。
 姑蘇藍氏の聖地である裏山へ引き寄せられる様に歩いて来た藍忘機は、小さな子供たちと一緒に舟の競争に燥いでいる魏無羨を見、口許を緩め、微笑んだ。
「あ、含光君!」
「こんにちは!」
 慌てて拝礼する子供たちに頷き、藍忘機は大はしゃぎしている魏無羨の横に立ち、上気した彼の頬についた汗を拭ってやった。
「確か、今日からきみの授業が始まった筈だが」
「そうだけど、良い天気だし! こいつら笹舟作ったことないって言うからさ」
 多分、魏無羨は子供の頃、こうして江澄らと自然を相手に遊び呆けていたのだろう。
 魏無羨が雲深不知処に籍を置くようになってそれなりになる。
「彼の知識をこのまま無為に遊ばせているのは非常に勿体ない」
と宗主の藍曦臣が反対する藍啓仁や古い教義に凝り固まった年寄りたちを説得し、藍氏の子供たちに魏無羨が持つ知識も学ばせることになった。
 今日はその第一回目だった為、藍忘機も不安になって覗きに行ったのだが、教室はもぬけの殻で、今こうしてやっと魏無羨と子供たちを見つけ出したのだ。
「笹舟は楽しいか」
 藍忘機にそう問われた子供は「はい!」と頷き、楽しげに微笑む。
「ごめん、藍湛。せっかく沢蕪君が年寄りたちを説得してくれたのに」
「いや。姑蘇に足りない学問は、まさに今きみが行っている情操教育だと思う。子供のうちは学問を詰め込むよりも、遊びの中から学ぶべきだ。兄もきっと理解してくれる」
「うん!」
 藍忘機の同意を得て、早速子供たちと川に入り、燥ぎ出す魏無羨に笑みを誘われ、時間を忘れて彼を眺めていた時。
「含光君、宗主が寒室へお越しくださいとのことです」
と藍景儀が藍忘機を呼びに来た。
 どうやら藍曦臣の元に雲夢江氏、蘭陵金氏、それに清河聶氏の各宗主が訪れているらしい。
 江澄と金凌が来ていると聞き、魏無羨も川から濡れた足を拭きながら上がって来た。
「どうした藍湛。江澄たちが雲深不知処まで、一体、なんの話でやって来た?」
「分からない。ともかくも、行かねば」
「ああ。景儀、悪いが子供たちを教室に戻して自習させてくれ」
「はいはい」
 川遊びに興じる子供たちは藍景儀に任せ、魏無羨と藍忘機は藍曦臣の居室である寒室への道を急ぐ。
 途中、魏無羨の濡れた髪を藍忘機が手で拭い、ほつれた髪も手櫛で整えてくれた。
 彼の唇に口付けたいが、お天道様がこんなに高く昇っている日中に、さすがに人目のあるところでいちゃいちゃは出来ない。
 口付けの代わりに目線を絡ませ、二人は微笑み合った後、藍曦臣の元へ急いだ。

 瀟洒な飾り付けのしてある客間へ向かうと、いつものように何事かに苛立っているような顔つきをした江澄と、何が不満なのか唇をへの字に曲げた金凌、そしてにこやかな顔で扇子を扇いでいる聶懐桑と言った異色の顔ぶれが揃っていた。
 魏無羨と藍忘機の二人が部屋に入ると、聶懐桑だけは立って挨拶をしたが、金凌は叔父に倣って冷ややかな目を向けてきただけで共に顔を下げて挨拶しただけだった。
「どうされましたか、兄上」
「うん。まずはそこに載っている銀を見てくれ」
「銀?」
 所謂馬蹄銀と言われる銀を馬の蹄の形に固めた物は、金銭の代わりとして世に出回っているが、そこにあるのは馬蹄銀を砕いた銀の塊だった。
 大体、この欠片一つで酒と饅頭ぐらいの食事は出来る。
 藍忘機は一通り確認した後、魏無羨に手渡したが、魏無羨も特に変わったところは見つけられず、何の変哲もない銀に見えた。
「沢蕪君、この銀がどうかしたのかい?」
「それは蘭陵金氏から清河聶氏へ代金として支払われた銀の一部なのだそうだが、」
「だから、蘭陵金氏は関係ないって言ってるじゃないか!」
 藍曦臣の言葉を遮り、金凌が途中で発言し、江澄からすぐに𠮟咤の声が飛んだ。
 どうやらこの銀が元で清河聶氏と蘭陵金氏が揉め、叔父の江澄まで話が回って来たのだが、収拾がつかなくなって仙督の判断を仰ぎに来たと言うところだろうか。
 一応、魏無羨も金凌の叔父の一人である為、蘭陵金氏を庇いたかったが、まずは聶懐桑の言い分を聞いてからだろう。
 魏無羨が頷くと、藍忘機が聶懐桑に経緯を話すようにと促した。
「その銀は不純物を取り除いた純粋な銀なんだ」
「不純物?」
 つまり蘭陵金氏の支払いに使われた銀に不純物が混じっていたと言うことだろうか。
 聶懐桑は馬蹄銀を二つと天秤を出し、それを両方の器に載せて傾き具合を立証した。
「本来なら同じ型で作った馬蹄銀は、同じ重さになる筈だ。ちなみにこれはうちの金庫に長年眠っていた銀で、こちらは最近江兄が市場で入手した銀だ」
「江澄の? それじゃ金氏が手に入れた銀はそもそも」
「おい、魏無羨。言っておくが、俺が不純物を混ぜたわけじゃないぞ。この銀だけでなく、紛い物が市場に多く出回っている。これはほんの一握りだ」
 本来、銀は銅より重い。
 それぞれ見比べれば色はまったく違うのだから見分けがつくが、こうして銀に混ぜられてしまうと配合次第では違いが判別出来なくなってしまうのだ。
 勿論、秤に載せて計測すれば重さはごまかしようがないから、その都度量って見なければ分からない。
「聶兄、良く分かったな」
「前々から江兄と言ってはいたんだ。銀を溶かす際、一割が溶けて消失してしまうのは仕方のないこととは言え、最近の銀は三割程度減ってしまう」
「三割も?」
「ああ。銀子一つなら、大した額ではないが、量が増えるとな。例えば三万両の銀と交換した筈なのに、溶かしてみたら二万にも届かないことが多々あった」
 魏無羨が現在生活の拠点にしているのは雲深不知処だ。
 清貧を旨とする姑蘇藍氏では収入の殆どを寄付で賄っているし、彼らは蓄財にも関心がない為、銀子や金子の取り扱いもどちらかと言えば雑だった。魏無羨は藍忘機の金を一緒に使わせて貰っているが、「藍湛、お金ちょうだい」と頼めば彼は錦嚢ごと渡してくれるし、その錦嚢の中の金が減れば必要経費として補充するだけで、実際のところ宗主の藍曦臣も姑蘇藍氏に今どれだけの財があるのかまったく分かっていなかった。
 それとは逆で、江澄と聶懐桑の二人は蓄財が趣味の様な面があり、二人とも商売熱心だ。
 江澄は貯めこんだ金を一気に使う豪快な部分も持ち合わせているが、聶懐桑の蓄財は天性のものがあった。
 だからこそ、江澄と聶懐桑は真っ先にこの事態に気がついたのだろう。
「今度彩衣鎮でも調べて見ると良い。結構な額の紛い物が出回っている。これが世に知れ渡れば混乱は必至。金のことになれば目の色を変える奴は少なくない。刃物沙汰にもなりかねんし、大きな火種にも成り得る」
 確かに──。
 江澄の言うとおりだと皆が頷き、どうしたら良いかと思案する。
「江晩吟、銀の主要な製錬地はどこだ」
「清河と平陽」
「平陽? 姚氏か」
 平陽姚氏。
 その名が出て来た時、金凌を除いた全員の顔に白けた様な、呆れてものも言えないと言いたそうな微妙な表情が浮かんだ。
 この平要姚氏の姚宗主は、岐山温氏に襲撃され、江澄の父、江楓眠に匿って貰いながら、温氏が駆逐されると今度は手のひらを返して蘭陵金氏に擦り寄り、魏無羨を雲夢江氏から追放しろと声高に追求する一派の先鋒となったのだ。
 おそらく金光遥の入れ知恵とは言え、その金光遥の悪事がバレると今度は魏無羨を「魏先生!」と呼び、今も何かと雲夢江氏や姑蘇藍氏にこそこそ贈り物をしてくる姑息で呆れる男だった。
 とうに愛想を尽かしていた江澄は姚宗主からの贈り物を本人を目の前にして踏み潰し、お前がした所業は忘れていないぞ、と絶縁宣言をしてやったが、波風を立てることを好まない姑蘇藍氏は贈り物が届けばありがたく受け取り、姚宗主から頼み事を持ち掛けられればやんわりと断って殆ど相手にしていない。
「あの男ならやりかねん」
「確かになぁ。でも江澄、姚宗主の仕業だって言う証拠が掴めなきゃ動けないぞ。下手に突けばあいつのことだ。また大騒ぎをして大世家が小世家を潰そうとしてるとか喚き出すに決まってる。賭けても良いぞ」
 そしてそれまで黙って聞いていた聶懐桑には、姚宗主とは別の情報があった。
「櫟陽常氏だ」
「櫟陽常氏?」
「断絶したんじゃないのか? 俺たちもこの目で見たよな。薛洋に全員殺された」
「ああ、確かあの当時で十数人しかいなかった筈だ」
「聶兄は怖がって常氏の屋敷には行かなかったんだよな。私は孟遥が来るまでここにいるよ~とか言って」
「魏兄、日頃、忘れっぽいくせにそんなことばかり覚えていなくても」
 当時を知らない藍曦臣や金凌の前でバラされてしまい、聶懐桑は渋面を作っていたが、彼は切り替えも早い。
 それに孟遥の話題は藍曦臣の前では禁句の扱いだ。
 魏無羨も義兄の為に彼の話はさっさと終わらせたかったから、どうすれば良いかの案を幾つか提案して見た。
「まず江澄は」
「何故、俺がお前に指示されねばねらん。俺は俺で調べる。まずは雲夢で偽の銀を使った奴を徹底的に洗い出し、入手経路を探る」
「良し。それも確かに重要だ。聶兄にも清河の精錬所と銀の入手経路を洗って欲しい」
「うん、任せて」
「魏無羨、私は?」
 何も言われていない金凌が不満げな声をあげる。
 この場で彼だけお子様だし、金銭に疎い藍曦臣同様、金凌に出来る事は特にないが、魏無羨がやろうとしていることには彼の協力が必要不可欠だった。
「俺と藍湛が金麟台に向かう」
「だから、蘭陵金氏は関係ないってば!」
「勿論、お前が宗主になってからは関係ないだろうさ。こんなことやりそうな奴と言えば一人しかいないだろう。そいつの過去の遺産が今になって出て来たとも限らない」
「──金光遥か」
 藍忘機の言葉に魏無羨は頷き、心配いらないよ、と藍曦臣の肩を叩く。
「沢蕪君、あいつは生前、悪事の限りを尽くして来た。今更、一つ、二つ、罪が増えたところで、斂芳尊が悪人だった事実は揺るがない」
「私のことは心配いらない。それで魏公子、私に出来る事は何もないかな?」
「そうだね。沢蕪君は姑蘇藍氏で会計を預かる者たちに彩衣鎮の銀の動きを洗わせて。不純な銀があれば出来るだけ回収しなくちゃならないからまずはどのぐらい出回っているか調べないと」
「分かった。それで、櫟陽常氏は?」
「そっちも俺と藍湛で調べてみる」

 それぞれの分担を決めると、魏無羨は藍忘機、金凌と共に蘭陵金氏の本拠地、金麟台へと向かった。
 遠くに青い海原を望むことが出来る金麟台は白亜の建物で、白と青、そして金をふんだんに遇った金氏の屋敷はまさに宮殿と言うに相応しい佇まいをしていた。
 魏無羨がこの地に足を踏み入れたのは数年ぶりで、まだ金光遥の事件が解決する前、藍忘機と手を取り合い、莫玄羽の正体がバレて彼が夷陵老祖だと皆に追われて以来だった。
 ちょこまかと階段を降りたあの時はおかしくて笑いそうになってしまったが、状況はそんなふざけた態度が許されるものではなかった。
 魏無羨は金凌に刺され、腹部に怪我を負っていたし、藍忘機は藍忘機で魏無羨の為に姑蘇藍氏や兄とも訣別する覚悟をきめた時でもあった。
 あの時、魏無羨は藍忘機に、
「俺と来たら、輝かしい含光君の地位が地に落ち、泥に塗れるぞ」
と言ったのに、藍忘機の答えは非常に明瞭で簡潔。
 一片の迷いもなく、
「きみと行く」
と真摯な目でそうはっきりと告げた。
 あの時、二人で手を取ってこの階段を駆け下りたから今の彼らがある。
 金麟台は魏無羨にとって、金子軒の死を連想させる場所で、大切な人の大事な伴侶を死なせてしまった思い出と、守りたかった友人、温寧と温情の二人を亡くした場所でもあった。
「藍湛、温情のことを覚えているか?」
 魏無羨の問いに藍忘機はほんの少し眉を顰め、そしてゆっくりと頷いた。
 彼にとっては温情は単なる過去の知人で、特に思い入れもない存在に違いない。
 だが魏無羨にとっては違った。
「温情、あいつはここで焼かれて、その灰はこの地に撒かれて逝ってしまった。本人は温寧と一緒に死ぬ覚悟でこの金麟台に来ただろうに、温寧は利用出来るからと温情だけが殺された。あの二人がいなければ俺は江澄を温逐流の手から救い出せなかったし、俺の金丹をあいつに渡すことも出来なかった。温情は俺が温寧の恩人だと言って、俺の代わりに自分の死を受け入れたが、違う。温情が俺と江澄の恩人だった。俺が温寧を生き返らせなければ、あの二人はあんな末路は迎えなかった」
「魏嬰──。でもきみが大梵山温家の人たちを守ったおかげで、思追は今も生きている」
「それだって藍湛のおかげさ。俺は誰も救えなかった。いや、江澄は救えたかな。まさかあいつがあんなに捻くれた性格になっちまうなんて、誤算も良いところだったけどな」
「それでもきみは江晩吟を救い、思追を救い、そして私も救った。きみがいなければ今の私はいない」
「──うん」
 藍忘機の言葉が素直に嬉しい。
 魏無羨にとっても藍忘機との出会いは予想外で、彼がいなければ莫玄羽として生まれ変わったとしてもきっとあの結末は迎えられなかっただろう。
 白檀の香りが強くなり、魏無羨の髪に藍忘機の唇が触れる感触がした。甘い香りを胸に吸い込み、彼の身体を抱き締める。
 ここは金凌の土地なのだから、さすがに彼の目につくところでこれ以上藍忘機と触れ合うことは出来なかった。
「魏無羨」
 遠くの方から金凌が大声で彼を呼びつける。
 どうやら金光遥の隠し部屋へ続く鍵を見つけたらしい。
「内叔父が遺した書類は多すぎてとてもじゃないけど整理出来ないんだ」
 金凌の言うとおり、魏無羨と藍忘機で手分けをして一晩探し続けてもまだ半分も調べられない。
 それにしてもこうしてくまなく資料に目を通して見ると、殆どの悪事に金光遥や金光善が関わっていると言っても過言ではないくらいの有様だった。
 途中から調査に加わった金凌も身内を庇うのにほとほと疲れたのか、若い身空に似合わず、深い溜息を吐き出している。
 そんな時だ。
 やっと藍忘機が「魏嬰」と声を上げた。
 それまで黙々と木簡に目を通していたのだ。
 何か重大な事実を書類から探し出したに違いなかった。
 藍忘機の元に駆け寄る魏無羨を追って、金凌も肩越しに木簡を覗き込む。
 そこに書かれていたのは櫟陽の土地の所有権売買に関しての事だった。
「聶懐桑が櫟陽も怪しいと言っていた」
「ざっと見積もると、山が一つか二つ入る広さだな。金凌、櫟陽の地図はないか」
「ちょっと待って、地図はここじゃなく、上で見た方が早いかも」
「じゃあ移動だ。ついでに飯も食っておこう。ずっと調べ物ばかりでさすがに腹が減った」
「うん。支度させるよ」
 運ばれた食事を食べながら、魏無羨は金凌が出してくる地図を片っ端から探し続けた。普段なら黙食と注意しそうな藍忘機も、片手で饅頭をもぐもぐと食み、片手で地図を捲っている。
 その様子を後で藍思追や藍景儀にでも伝える気なのか、金凌が大きな目を丸くしてしげしげと眺めていた。
「ここだ、藍湛」
 魏無羨の一声で藍忘機も同じ木簡を覗き込み、金光遥の隠し部屋から持ってきた木簡と住所を見比べる。
「確かにここのようだ。魏嬰、行こう」
「おっし! 金凌、念の為、江澄と沢蕪君に俺たちが向かう場所を伝えて置いてくれ。三日経っても戻らなければ救援を頼むってな」
「分かった。で、私は何をすればいい」
「おまえ? だから、江澄と沢蕪君に伝言を……」
「それだけかよ!」
 今は金凌に構っている暇はない。
「魏嬰、私に掴まれ」
「いつもいつもすまないねえ、藍湛」
 藍忘機の腰に腕を回すと彼の手が魏無羨の身体をしっかりと抱き締める。
 二人の身体は避塵に乗って浮き上がり、櫟陽の地目指して飛び立った。
 それがまさか藍忘機との別れになるだなんてその時の魏無羨に分かる筈もなかった。

 鬱蒼とした森の中で目が醒める。
 起き上がろうとして身体を動かした魏無羨は腕に奔る激痛に呻き、血糊のついた手のひらを見て驚いてしまった。
「藍湛?」
 共に櫟陽に向かった筈の藍忘機の姿はどこにもなく、静まり返った森の中で息をしているのは魏無羨一人だけなのではと言う感覚に囚われた。
 空を見上げると一部の枝が折れ、一方は地に落ち、そしてもう一方は折れた状態で垂れ下がり、大きな物体が落ちて枝を折りながら地面へと衝突した様が窺えた。
 つまり、落ちてきた大きな物体とは魏無羨の身体に違いない。身体に残された痛みがそう告げているし、背中も足も打ち付けられた痛みをさっきからずっと訴え続けていた。
「藍湛! お前も落ちたのか? どこか怪我でもしてるのか、返事をしてくれ」
と呼び掛けて見たが、獣が一匹飛び出てきただけで、藍忘機の姿は見つけることが出来なかった。
 ひとまずここがどこかを調べないと、と痛む身体に言うことを聞かせて起き上がり、周囲を見渡して見たが、右も左も立木ばかりで特に目印となるような物は見つけられなかった。
 信号弾と思ったが、藍忘機と出掛けるのにそんな物を持ち合わせたことはなく、自力で人里に向かうしか手はないらしい。
 とんでもない状況だが、どんな時でも前向きに考えられるのが魏無羨の利点だ。
 太陽の方角からおそらくこちらが帰るべき方向だろうと見当つけ、びっこを引きながら歩いていると、御剣の術で移動する雲夢江氏の一団と遭遇することが出来た。
 早速近くの宿へと運んで貰い、食事を摂り、怪我の手当てをして貰っていると、部下から連絡を受けた江澄が駆け付けてくれた。
「魏無羨! 心配したぞ!」
「ごめんごめん、藍湛とはぐれちゃってさ。それで藍湛は?」
「藍忘機はまだ見つからない」
「藍湛が見つからない?」
 そんなことがあるだろうか。
 今は江澄から魏無羨が見つかったと報告を受けた藍曦臣が総出で藍忘機の捜索に当たっているらしい。
「そんなの信じられないよ。藍湛に限って帰れないなんて」
「しかし実際、藍忘機の痕跡は見つかっていない。お前が落ちたと思しき場所に雲夢と姑蘇の人員を割いて探してみたが、髪の毛一本見つからない状態だ」
 髪の毛一本はさすがに大袈裟だが、藍忘機が魏無羨を見捨てて自分だけ移動するなんてことがあり得るだろうか。
 それに魏無羨が受けた腕の疵──。
 江澄も彼の傷口を確認し、同じ結論を出した。
 これは弓矢に寄る傷痕だ。
「櫟陽に御剣の術で藍湛と向かう途中だった」
「弓で射られたようだな。お前だけ落下したとしても、藍忘機がお前を置いて立ち去るとは思えない。奴も深傷を負ったと見て間違いないだろう」
「大変だ! 藍湛を探さないと!」
「沢蕪君が探している。お前はここで療養していろ」
 そんなこと出来るか!と怒鳴りたかったが、藍忘機の捜索に参加したく共、魏無羨が出来ることは限られている。
 彼の修為では御剣の術でもそれ程長く飛べないし、誰かに連れて行って貰うには足手まといにしかならない。
「でも───」
と起き上がろうとする魏無羨を江澄の手が止めた。
「藍忘機のことは心配するな。俺と沢蕪君でちゃんと見つけてやる」
「人任せに出来るかよ。藍湛は怪我して一人で心細いかも知れないのに……!」
 藍忘機が心細いと思うことなんて果たしてあるだろうか。
 さすがにその一言はひねくれ者江澄の失笑を買い、言った魏無羨自身も恥ずかしくなったが、藍忘機をこのまま捨て置けるかは話が別だ。
「魏公子、忘機は?」
 魏無羨が気が付いたと報せを受けた藍曦臣が扉を開け、入って来たが、彼も収穫はないようだった。
「阿澄、私は櫟陽に行ってみようと思う」
「早まるな、藍宗主」
「しかし」
 魏無羨のいる前では藍曦臣は江澄のことを余所余所しく「江宗主」と呼ぶのに、今はすっかり正体がバレてしまっている。
 それだけ藍忘機のことが気懸かりなのだろう。
 魏無羨だって、這ってでも藍忘機を探しに行きたかった。
「沢蕪君、俺も連れて行ってくれないかな。俺が落ちた場所に案内するよ」
「だから、魏無羨、お前も落ち着け。二人とも頭が湧いてろくな考えが浮かばないようだが、まず第一に、藍忘機ならば魏無羨を放って一人でどこかに行ったりしない」
 さしもの江澄も藍忘機の魏無羨への愛情深さは疑念の余地がないらしい。藍曦臣もその通りだと頷いている。
「では、忘機はどこに?」
「怪我で動けないか、囚われているかのどちらかだ。しかし藍忘機ならば片足がもげようと必ず魏無羨のそばにいる。ましてや御剣で飛行中の事故だからな。奴の方が修為は高い。魏無羨が無事なのに、藍忘機が致命的な怪我を負ったとも思えない」
「でも江澄、もう一つの可能性はほぼ有り得ないぞ」
 どこの誰が藍忘機を捕らえられる?
 ましてや魏無羨が地面に置き去りにされているのに、あの藍忘機が無抵抗で攫われるだろうか。
「だから可能性としては、藍忘機も動けない程度の怪我を負った。その上で囚われている」
「─────」
 藍曦臣も魏無羨も江澄の推測を否定することは出来なかった。
 確かに一番それが有りうる話だ。
「ならばすぐに藍湛を助けないと!」
「だから、落ち着けってんだ。藍忘機を攫ったのなら、必ず向こうから要求を言ってくる筈だ。金か、それとも恨みか知らないが、何の用もなくあんな男を捕らえたところで何の利益がある。藍忘機だけでも厄介なのに、姑蘇藍氏の第二公子で、しかも修真界の仙督だぞ。我々、大世家まで敵に回すことになる。俺ならそんな役満、絶対ごめんだな」
 確かにそれもそうだ。
 待つしかないのか、と藍曦臣と魏無羨は顔を見合わせ、肩を落とした。

「藍湛───」

 二人で過ごす様になってから、藍忘機が魏無羨のそばを離れた事などあっただろうか。
 いや、幾度かは勿論、あった。
 魏無羨は自由奔放に過ごすのが好きだし、それに蓮花塢で江澄と酒を飲んだり、ふらりと遠方に旅立ちたくなったりと藍忘機の元を離れ、りんごちゃんと出掛けることも何度もあった。
 でもその時は雲深不知処の静室に帰れば藍忘機がそこに居るとわかっていたからだ。
 いつだって藍忘機は魏無羨の勝手気ままを受け入れて、魏無羨の為にご飯を作り、魏無羨の為に腕枕をして彼の心を和ませてくれて、彼が眠りにつくときはいつも魏無羨の瞼に口付けをしてくれた。
 その藍忘機がどこにもいない。
 それがこんなに焦燥感を掻き立てるなんて思いもしなかった。
 ことりと音がした為、藍忘機が戻って来たかと慌てて振り返ったが、衝立の向こうで藍曦臣と江澄らしき影が寄り添い、抱き合う姿が見えただけだった。
 心配いらない、藍忘機は自分が見つけると、江澄が藍曦臣を慰めているのだろう。
 立場が逆転してるだろうに、彼らはそれが奇妙とも思わず、当たり前の様に受け止めているようだ。
 本当なら、自分と藍忘機がいつもああして寄り添っている筈なのにと思うと、数年ぶりの涙が湧き上がるのを感じる。

 以前泣いたのは多分、江厭離が亡くなった時だ。
 藍忘機と共にいるようになってからは、魏無羨に哀しい出来事なんて一つもなかった。
 衝立の向こうにいる江澄たちに聞こえない様に魏無羨は布団に包まり、藍忘機の名を呼び続ける。
 彼が居なくなったなんていまだに信じられない。
 この現実を受け止めたくなくて、魏無羨は鼻を啜り、涙を流しながら、嗚咽を洩らした。
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