江澄のちょっと好きとちょっと嫌い

 仙門百家が集う修真界では一年に一度の大掛かりな会合、清談会の他に定期的に談話会が開かれる。
 単なる社交の場で、参加は自由。特に真新しい話題や事件があるわけでもないのだが、だからこそ宗主の立場としては、極力面倒でも出来るだけ顔を出さねばならない。
 もしも人付き合いの悪い宗主がいたとする。彼が何の利益も収穫も望めそうにない会合をくだらないと言う理由で三回のうち、二回を欠席したとしよう。
 その彼が休んだ二回のうちに、修真界での序列が入れ代わってしまい、気付いた時には自分だけが話題から取り残されるなんてことは度々起こり得るのだ。
 江澄のような大世家の家主が一度や二度、顔を出さなかったところで奪われる席もないし、疎外されることだってまずあり得ないのだが、大きければ大きいなりに厄介事や面倒事、関わらなければならない事柄が増える。
 特に今の修真界の二大勢力と言えば雲夢江氏、そして仙督の藍忘機が在籍し、宗主の藍曦臣はかつての三尊、おまけに食客と称し、雲深不知処に身を寄せている夷陵老祖、魏無羨までいる姑蘇藍氏、この二つの勢力である。
 別に江氏と藍氏の関係は良好で、彼らのどちらも修真界の覇権など争う気はないのだが、世家の評判は弟子の獲得や資本者の数に大いに影響するのだ。
 利益のない雑談会とは言え、これまで雲夢江氏と昵懇にしていた世家が、江澄の知らぬ間に姑蘇藍氏に鞍替えしていたなんてことはしょっちゅう起こる。
 だから家の繁栄の為、勢力は保持し続けなければならなかった。
 自分一人ならいちいちこんなくだらない会合に来て、烏合の衆に話を合わせる必要もない。
 宗主の仕事は何かと神経を擦り減らすものなのだ。
 そして早速その烏合の衆が江澄を見つけ、寄って来た。
 巴陵欧陽氏の宗主である。
「あ、良かった、江宗主。あなたと会ってお話がしたかったのだ」
「これは欧陽宗主。久方振りですね」
「ええ、ええ。めったにご挨拶にも伺えず、こうして今日、ここでお会いできたこと、嬉しく思いますぞ。しかし江宗主は相変わらず精悍なお姿でいらっしゃる。遠くから見てもすぐに貴方だと気づきましたぞ」
 長口上で挨拶せねばならないのも、名家に生まれた者の宿命だ。
 これが聶懐桑相手なら、
「やあ、江兄!」
「おお、聶兄、壮健か」
で済むのだが、巴陵欧陽氏の領地は雲夢江氏の管轄近くで、欧陽宗主は江澄に媚び諂わねばならない立場だった。
 だからこそ江澄も、彼のような小者にまで気を遣い、無下にすることは出来ないでいた。
「てっきり江宗主は、此度の会合は欠席なさるかと」
「私が出席すると、何かまずいことでも?」
「いや、まさか、まさか。今日は珍しく黒衣をお召ですね。お若いから何をお召になっても良く似合う。ところで江宗主はもうお耳にされましたかな?」
「何の話だ」
「沢蕪君がとうとう正室を娶られるとか」
「[[rb:沢蕪君 > ・・・]]?」
 そんな話は初耳だ。
 だって何なら、つい数日前。
 その沢蕪君とやらは江澄と床を共にし、彼を抱きながら幾度も愛の言葉を囁いていなかったか。
 それも三度もしつこく求められ、いい加減にしろと突き放しても止めてもらえなかった。
(藍の野郎、そんな話は一言も)
と苦々しく思いはしたが、もちろん引き攣りながらも江澄はにっこりと余裕を見せて笑ってやった。
 むしろその笑顔が怖かったのだろう。
 では私は…とそそくさと立ち去った巴陵欧陽氏の宗主は、誰かを捕まえて、こそこそと江澄の悪口を言っている。
 じろりと圧を込め、陰湿な顔で笑いかけてやると小心者の彼らは蟻の子を蹴散らすようにいなくなった。
「江宗主」
 またか、と思い、うんざりしながら振り返ると、声の主は先程の巴陵欧陽氏の息子、欧陽子真だった。
 一際目立つ美貌を持つ江澄の甥、蘭陵金氏宗主の金凌と並んで立っている。
「叔父上」
とまるで悪戯子猫の様な不機嫌な顔をした金凌がくさくさと江澄に拱手をし、頭を下げる。
「なんだその不機嫌な顔は」
「さっき子真の父上と何を話してたのさ。また子真の父上をいじめていないよね?」
「大した話はしとらん。それにいじめるって、いい加減にしろ」
「江宗主、うちの父はいつも一言多いんです。もし気に障ることを言っても多めに見てやってください」
「ほら、いじめてる」
「……もういい。話にならん」
 どうやらわがままお姫様の金凌にもやっとつるんで遊べる友人が出来たらしい。欧陽宗主を虐めていると言う風評は許しがたいが、金凌が楽しくやっているならそれでいい。
 いつも孤独で、金氏の中でも誰にも庇ってもらえず、友と言えるのは叔父からもらった犬の仙子しかいない子だった。
 意地っ張りで手がつけられず、我が儘放題だった頃を知るだけに甥の成長を嬉しく思う。
 それと同時に叔父の自分は全く成長していないけどな、と自嘲気味な笑いをこぼした。
「叔父上、今日は雲深不知処での座談会だって言うのに、魏無羨の奴は来ないの?」
「金凌、お前ももう子供ではないんだ。蘭陵金氏の宗主なのだから、義理の叔父のことはちゃんと敬意を込めて叔父と呼べ」
「あいつを今更叔父呼びなんて出来ないし、あいつのどこに敬意を持てってんだよ。あいつなんて藍家の居候じゃないか」
「金凌ー、お前、あの人が含光君の何か知らないのか?」
 話を聞いていた欧陽子真が口を挟む。
「含光君の何だって言うんだ」
「ほらほら、良いから。欧陽子真、お前の父親が呼んでいるぞ」
「あ、はい、では失礼します、江宗主。金凌またな」
「うん。明日は思追たちをからかいに向かうぞ。その後みんなで夜狩りに行こう」
 わかったと手を振る欧陽子真に、金凌も茶目っ気たっぷりにべーっと舌を出して見せる。
 お前は蘭陵金氏の宗主なんだぞ、と叱る代わりに江澄は金凌の頭を軽く撫でてやった。
 叱られるとばかり思っていたのだろう。
 金凌は意外そうな顔をしていたが、彼もそろそろ一人前になる。
 江澄が後ろ盾になってやるのも限界があるし、そろそろ自分の足で立ち、自分で考え、家を支えて行かなければならない年頃だ。
「叔父上、叱らないの?」
「お前はもう一人前だ。俺がとやかく言う年齢じゃない。自分で決めて、自分で始末をつけろ。俺もいつまでもお前の尻拭いはしてやれん」
「それはまだ早いよ、私はまだ叔父上の甥っ子でいい。ほら、叱ってってば」
「甘えるな。手を離せ、馬鹿者が」
「やだ、叱ってってば!」
 それよりも藍曦臣の婚姻話とやらだ。
 ちょうど藍忘機が到着し、いまだに彼が苦手な金凌はさっさと消えた為に、江澄と藍忘機は他人行儀な挨拶を交わし、共に雲深不知処に設けられた座談会の会場までの道を歩いた。
「魏無羨はどうしている」
「寝ている」
「寝ている?」
 そう言えば時刻はまだ巳の刻にならない。
 魏無羨が起床するにはまだ早い時間だった。
「藍忘機、お前はあいつを甘やかし過ぎだ。魏無羨の性格は甘やかすと余計につけあがるぞ」
「きみに指摘されずとも、私は魏嬰のことを心得ている。現状で満足しているし、変えたいとも思わない。むしろ彼には何も変わって欲しくない」
「そうかよ。あいつのこととなると饒舌だな」
 まあ、それも彼らの自由だ。
 本当は魏無羨のことより、藍曦臣についてが聞きたいが、江澄の性格では藍曦臣の藍の字さえ口に出すのが憚られた。
「……皆、揃ったのか?」
「兄長はまだ支度が整っていないようだ。先に来た」
「ああ」
 ちょうどよく藍忘機の方から沢蕪君の名を出してくれたため、江澄は「そう言えば」とまるで世間話をするかのように藍曦臣の結婚話について聞いてみる。
「姑蘇藍氏に慶事があるようだな」
「慶事などないが?」
「今しがた、巴陵欧陽氏の宗主が、沢蕪君の正室が決まったと」
「ああ、その話か」
 どうやら本当に藍曦臣の結婚話はあるようだ。
 藍忘機が珍しく江澄に付き合って話をしてくれているから聞き耳を立てる。
「兄上は叔父上に婚姻を結びたい相手はいると申したのだが、叔父の了承は得られなかった。故に、今回の座談会でその話題が上がることはないだろう」
 話してくれていると言っても藍忘機の返事は相変わらずぶっきらぼうだ。
 江澄のことなど見ようともしないし、歩みを合わせる気も毛頭ないらしい。
 こんな男でも魏無羨曰く、「藍湛は結構可愛いんだぜ」とのことだが、江澄には彼の可愛さなどこれっぽっちも理解出来なかった。
 藍忘機も藍忘機で、藍曦臣が言う江澄の可愛さなど微塵も理解出来ないのだからお互い様だろう。

 仙督が席に着き、少し遅れて藍曦臣もやって来た。
 会合の中心となるのは勿論、仙督の藍忘機だが、三尊の一人、藍曦臣は別格だ。
 席に座っていた宗主らが一斉に立ち上がり、藍曦臣に頭を下げて出迎える。
 もちろん一番手前の席に座る江澄も、不本意ながら頭を下げた。
 姑蘇藍氏と雲夢江氏が不仲などと噂が立てば、波風を立てたい暇人たちがわらわら湧いて来る。
「藍宗主、先日はありがとうございます」
「いえ、お役に立てて良かったです」
「藍宗主」
 次々と藍曦臣へと声がかかり、その都度挨拶をする為、江澄も待ちくたびれて少しイライラし始めていた。
「江宗主」
 ようやく藍曦臣が江澄の手前に着き、他の世家には挨拶だけ返していた藍曦臣も、さすがに江澄の前では立ち止まり、彼らはお互いに挨拶を交わした。
「藍宗主。此度はお招き頂き、感謝致す」
「姑蘇へ来られたのはいつ振りでしたか? 彩衣鎮には既にお立ち寄りに?」
「いえ。先程姑蘇へ着いたばかりです。彩衣鎮には明日寄って行こうかと」
「それは良かった。実は江宗主の為に、別に食事の席を用意してあるのです。後で寒室の私の部屋へ足をお運びください」
「承知した」
 彼らのやり取りを羨望の眼差しで見つめる者も少なくない。
 江澄ら、大世家の宗主は、常に人の視線に晒される。
 彼らの監視の目は江澄らが少しでも道理に外れることをすればここぞとばかりに糾弾し、少しでも彼らの勢力を削いで、自分の世家を大きくしたいと言う野心を持っている。
 しかしそんな鋭い観察眼を持ってしても、澄まし顔で社交辞令を交わす、姑蘇藍氏宗主と雲夢江氏宗主の間に、人には言えない関係があり、会話の最中でも彼らの視線はお互いの体に絡みつくように舐め回していたなど、きっと気付きもしないに違いない。
(結婚相手を見つけたとのことだが………、彼の態度はいつもと変わらんな)
 江澄の観察通り、慰撫する様に江澄の相貌を見つめる瞳には何ら後ろめたさはない。
 彼は嘘がつけない人種だ。
 隠し事があれば必ず、表情や態度に出てしまう。
 しかし藍曦臣の目は数日前の情事の時と何ら変わらず、「あなたのことを愛しています」と言う江澄への愛情にあふれていた。
 この人が自分を裏切ることが果たしてあるのだろうか。
 知らず知らずのうちに藍曦臣を見ていた江澄は慌てて再度頭を下げた。
 挨拶は終了の合図だ。
 白く、長い校服の裾を揺らし、藍曦臣が江澄の前の席へと着席する。
 端正な顔から目が離せず、会議の内容など殆ど入って来ずに藍曦臣を見つめ続けてしまった。
 あなたに裏切られたら、俺は何を信じたら良い?
 その言葉が繰り返し頭を巡る。
 湯呑み茶碗を取り、茶を飲もうとした藍曦臣と目が合い、江澄は慌てて逸らせてしまった。

 姑蘇へ来られたのはいつ振りですか?
 そう藍曦臣に問われたが、はっきりいつとは思い出せない。
「よう、江澄」
「魏無羨?」
 そう。
 彼を呼び止めたのは忘れもしない魏無羨の声だった。
 勿論、彼の道侶である藍忘機も共にいる。
 本当にこの二人は飽きずにしょっちゅう行動をし、片時も離れていない。
 離れるのはさっきみたいに魏無羨が寝こくって起きない時ぐらいなものだ。
「不思議なものだな」
 いつもの黒衣に身を包み、陳情をくるくると振り回す魏無羨に江澄がそう一言漏らすと、好奇心旺盛な瞳が江澄を見て、笑いの形に細まった。
「何が不思議だ。義弟が訪ねて来たんだぞ。そりゃ、大師兄の俺は放っておかないだろう」
「お前は破門したっての。相変わらず物忘れが激しいな」
 勿論それは冗談だ。
 雲夢江氏の大師兄の座は空いたままで、魏無羨の鑑札はいまだ裏返されたまま、雲夢江氏の道場に掛けられている。
 藍忘機だけはこの冗談が通じず、ムッとしていたが、魏無羨がケラケラ笑っているから仕方なく許したようだ。
 薄く目を落とし、菩薩の様な穏やかな顔で魏無羨の隣に立っている。
「不思議と思ったのは、お前のその姿と声だ」
「俺の姿と声? どこか違うか?」
「いや。ただ、その姿も最近は見慣れてきたせいか、昔からお前はその姿だった気がしてな」
「あー、それは藍湛も言ってたかも」
「藍忘機も?」
「うん。献捨で莫玄羽の身体に蘇ったけどさ、奴の願いは叶えてやっただろう。で、この身体にも慣れてきて、今の俺の修為は元々莫玄羽が持っていた修為を超えつつある。つまりこのまま修行し続ければ、莫玄羽の身体を魏無羨の俺が完全に乗っ取る事ができるんじゃないかって。そう藍湛と話していたんだ」
「なるほど」
 藍忘機も感じているのなら、今の魏無羨は限りなく莫玄羽と混ざり合い、当時の魏無羨と似てきているのだろう。
 さっき江澄と呼んだ声は懐かしいかつての魏無羨の声にかなり近かった。
「藍の二公子にとっては喜ばしい変化だな」
「藍湛はどんな俺でも俺だってさ」
「ああ、お前のいい加減な性格は変わりようがないし、喋りだしたら止まらないのもいつものことだ」
「はあ?」
 そんな冗談を交わしながら三人で寒室へと向かう。
 てっきり江澄だけが呼ばれたのかと思ったが、魏無羨と藍忘機の[[rb:夫夫 > ふうふ]]も兄の晩餐会にご相伴預かったらしい。
「やあ、待っていたよ、阿澄。それに忘機と魏公子も」
 なぜ、魏無羨を呼んだかはすぐに理由が分かった。
 江澄をもてなす為に、藍曦臣は麓の彩衣鎮から天子笑を取り寄せ、晩酌相手として魏無羨も呼んだのだ。
 魏無羨を呼ぶとなれば、当然、彼の伴侶も同席する。
 これがある故に、藍曦臣は江澄に「彩衣鎮へはすでに行ったのか」と聞いたのだ。
 どうぞと席に案内した藍曦臣の手を見、藍忘機が「兄長」と心配そうに呼びかけた。
 彼の白い指先の殆どに包帯が巻かれている。
「どうされたのです」と案じる弟に向かい、藍曦臣は「ちょっと失敗してね」と笑ってごまかす。
「忘機の様に、阿澄の好きなものを作ってもてなすつもりが全然上手くいかなくて。両手とも切り傷ばかりだ」
「大丈夫かよ、沢蕪君。藍湛は器用なのに、兄貴の沢蕪君は不器用なんだな」
 一瞬、料理も血まみれなのではないかと冷や汗をかいたが、どうやら運ばれて来たのはちゃんと厨房係が作ったものらしい。
「せっかく阿澄の好きなものを食べさせられると思っていたのに、残念だ」
と本当にがっかりした顔で項垂れている。
 毎食、魏無羨の食事を作っている藍忘機はどこか誇らしげに澄ました顔で座っていた。
「魏嬰、食べなさい」
と酒ばかりかっ食らう魏無羨の為に藍忘機がせっせと小皿に料理を取り、彼の前に並べている。
「江澄、飲み比べしようぜぃ!」
「お前なんか相手にならんわ」
「言ったな。沢蕪君と藍湛も参加してくれよ」
「魏公子、私と忘機は雲深不知処の中では絶対に家訓を破らない」
「分かってるって。だから勝負ごとだけ参加して。藍湛が負けたら、俺が飲む。魏嬰が負けても俺が飲む。江澄が負けたら江澄だ。沢蕪君が負けたら、わかってるよな?」
「お前なんかに負けるか」
 江澄も適度に酒が入っているから、魏無羨のこの遊びに付き合うことにした。
 賭けは簡単。
 それぞれサイコロを振り、一番弱い目を出した者が罰として酒を一杯飲む。
 勝ったり、負けたりを繰り返し、魏無羨も江澄もヘロヘロになる程、飲みまくった。
「江澄ー、勝負だぁっ!」
「雑魚が! 百年早いわっ!」
「夷陵老祖様が雑魚だとぉ!!」
 サイコロを振り、藍曦臣が負け、それを見た江澄がくるくると目を回して先にばたんと倒れてしまった。
 それを見ていた魏無羨が大はしゃぎで手を打ち、そして彼もへなへなと崩折れたかと思うと藍忘機に寄りかかり、すやすやと寝入ってしまう。
 これはどうやらこの勝負、お開きにするしかない。
 藍忘機は魏無羨を担いで静室に戻ろうとしたのだが、都合の悪いことに静室に帰るには藍啓仁の屋敷の前を通らねばならなかった。
 さすがにこの泥酔状態はまずいだろうと言うことで寒室の空き部屋を藍忘機と魏無羨で使うことになった。

 誰かに担がれた気がして、江澄は「んー……」と身体を捻って抵抗する。
「阿澄」
と呼び掛ける声は藍曦臣のもので、彼を寝台に寝かせて覆いかぶさって来るのも彼の身体だった。
「た…く…ぶくん」
 酔っぱらい江澄にクスクス笑い、藍曦臣は「なんだい?」と気さくな返事を返す。
 垂れ下がる彼の髪を弄りながら、江澄はぶすっとぶーたれると思い切り彼の髪を引いてやった。
「痛いよ、阿澄。引っ張らないで、お手柔らかに」
「たくぶくんは、ずるいぞ」
「私の何がずるい。言ってごらん ?」
「……俺にないしょで、勝手にケッコンしようとした」
「ああ、そのことか。きみも知っているとは思わなかった」
「否定しないんだな」
 ガバッと跳ね起きたせいで江澄は思い切り藍曦臣に頭突きをしてしまった。
 これは不可抗力だ。
 何しろ彼は酔っ払いなのだから。
 痛みでお互い寝台に突っ伏し、それでは怒りが収まらずに江澄は藍曦臣の背中をバシバシ叩く。
「阿澄、頼むから叩かないで」
「たたくにきまってるだろう! なにがああ、だ! 肯定したな、俺を何だと思ってる」
「きみと結婚したいと思ってる」
「ああ?」
 江澄の目の前にキラキラと星が舞う。
 どうやら相当酔っ払っているらしい。
 幻聴まで聞こえだした。
「叔父上に、きみと以外、誰とも心を交わすつもりはありませんとはっきり答えたんだ。しかし勿論、叔父に猛反対されてね」
「俺は、たくぶくんと、ケッコンなんかしないぞ?」
「じゃあ、きみは誰と結婚するの?」
「俺……?」
 勿論、答えは「藍曦臣」だ。
 しかし酔っ払って前後不覚になっていてもそれを口にしない理性はまだ捨てきっていなかった。
「俺は……、誰ともケッコンしない」
「私も君としか結婚しない。では私ときみはお互い思い合っているのに、一生このままなのかい?」
「それもいい。俺は、たぶん、ずっとひとりで……、あなたも俺から離れていって……、一人は慣れている」
「君を一人にはしない」
「………嘘つきだ」
「私を誰だと?」
 目の前のこの人は、藍曦臣だ。
「姑蘇藍氏宗主」
「うん」
 三尊のひとりで、唯一生き残った修真界の偉大な英雄。
 藍忘機の兄で、弟の含光君も君の号を授かった天下にその名を轟かせる剣豪だ。
「……俺には、何もない」
「きみだって雲夢江氏宗主、江晩吟だ。この修真界で君の名を聞いて恐れを抱かない者はいない。そして私の想い人、最愛の人だ」
「俺なんか、三毒聖手だぞ。三毒の意味が分かるか? 俺は三つの毒を抑えられず、すぐにカッとなって暴れ出す。あなたにも、あなたの弟にも及ばない」
「阿澄、きみの剣の腕前や、きみの修為の高さは問題じゃないんだ。こうして私にだけ弱味を見せてくれる。そんなきみだからこそ、これからもきみのそばにいたいし、一生きみを守りたい」
「守られるほど、よわくない。俺は、ずーーーーーーっと、ひとりでいい」
「では、私はいらないか?」
「………いらない」
 いらないわけがない。
 酔っ払った江澄の瞳にも藍曦臣はこれほど魅力的に映る。
 彼の手が江澄の髪を撫でるのが好きだし。
 普段の彼とは似つかわしくない激しさで愛されるのも嫌いじゃない。
 誰にも屈伏するはずのない江澄が、藍曦臣に抑え込まれ、なすがままに犯される。
 あの感覚は一度体が覚えてしまうと他の誰にも変えられやしなかった。
「阿澄、本当にいらないのかい?」
 藍曦臣の唇が近づき、彼の唇を塞いで、再び身体の下へと巻き込まれる。
「藍…渙……」
 愛し合う時しか呼ばない彼の名を口にし、江澄は愛撫を待つのももどかしく藍曦臣の身体に手を這わせ、彼の衣服を這いで行った。
「阿澄、その、非常に言いにくいのだけど」
「なんだ。やるのか、やらないのか。それとも俺じゃ立たないってのか」
「いや、その……、隣の部屋に、忘機と魏公子が」
 この一言で江澄の酔いが一気に覚めた。
 三毒を手にし、隣の部屋とこの部屋を仕切る扉にむかうと、三毒を突き立てる。
「うぎゃっ!」
と魏無羨が立てる悲鳴が聞こえ、江澄の三毒はカツンと凍るような音を立てて、硬質な何かに当たって跳ね返った。
 もちろん、藍忘機の避塵だ。
 藍忘機の性格上、彼が聞き耳を立てていたとは思えないから、きっと魏無羨の横で待機をしていて、三毒が彼の大切な人を突き刺そうとしたから急いで避塵を抜いたのだろう。
「魏無羨……!」
「江澄、不可抗力だ。俺達が寝ようとしたら、勝手にそっちでおっ始めたんだろう」
 そんな言葉を投げかけられては江澄も正気ではいられない。
 闇雲に三毒を振り回す彼を無表情な藍忘機が苦も無く防ぎ、そして呆れた藍曦臣が後ろから羽交い締めにした。
「許さん、許さん、許さんぞ!」
 指を突き立てる江澄に、藍忘機がその指を払い、「好きにしろ」と更に煽る。
「藍忘機、殺してくれる!」
「阿澄、落ち着いて、忘機、早く扉を閉めなさい」
 再び酔いの回った江澄がこてんと寝てしまうまでこの騒動は続いた。

 再び藍曦臣の寝台に寝かせられた江澄は、今度はすやすやと心地よさそうな寝息を立てている。
 これならしばらくは起きる心配はなさそうだ。
「それにしても」と余計なことを口にしそうな魏無羨を藍忘機が口を塞いで急いで止める。
「大丈夫だって。今夜のことを持ち出して江澄をからかったりしないよ。俺もそこまで子供じゃない」
 どうだろう。
 藍曦臣も藍忘機も半信半疑だったが、過ぎてしまったことは仕方がないし、彼の言葉を信じるよりなかった。
「それにしてもって言ったのは、こう見えて江澄も結構、いじらしいところがあるんだなと思ったんだ。沢蕪君のこと、なんとも思ってないって顔してるくせに、実は大好きなんじゃないか」
 これについては藍曦臣も同意で、そんな江澄だからこそ彼は愛しくてたまらなくなる。
「知れば知るほど、彼が愛しくてたまらない。昔は忘機を見て、少しは冷静になれと思っていた筈なのに、いざ自分の身に降りかかると、冷静ではいられない。違うか?」
 藍曦臣のその問いに藍忘機は答えなかったが、彼が魏無羨のすべてを愛して、何もかもを受け入れているのは今更のことだ。
 この兄弟は一見、陰と陽、対極にいる様に見えて、本質はすごく似ている。
 つつつ、と魏無羨が藍忘機の横へと移動し、何かを求めて、「えへへ」と笑ったが、二人の答えは同時で、そして中味も一緒だった。
「駄目だ」
「だめですよ」
「まだ何も言ってないだろー!」
「忘機は私の屋敷できみにおかしな真似をする気は毛頭ありません」
 ピンとおでこを指で弾かれて魏無羨は「なんだよぅ」と唇を尖らす。
 どうやら江澄と藍曦臣の会話を盗み聞きするうちに彼ももよおしてしまったようだが、さしもの藍忘機も魏無羨のこの願いだけは聞いてやれなかった。
「そろそろ魏公子の酔いも覚める頃だ。忘機、彼とともに静室に帰りなさい。お前の住処なら、何をしようと私の管轄外だ」
「ちえっ」
「ちえっ、じゃありませんよ。念の為言っておきますが、君たちは阿澄が酔いつぶれた後、すぐ静室に帰ったと言うことで」
「もっちのロンでがんす!」
「よろしい」
 このままでは魏無羨の賑やかさでまた江澄が起きてしまいそうである。
 藍忘機が魏無羨を抱え、寒室を出ていくのを見送り、藍曦臣は静かに彼と彼の恋人を外界から遮断し、邪魔が入らない様に裂氷の霊器も借りて結界を張り巡らせた。

 すやすやと眠る江澄の髪に触れ、唇をそっと彼の額に近付ける。
「阿澄」
 耳元に囁くと眠っている江澄はまるでその声の主を待ち構えていたように腕を伸ばし、ぎゅっと強く抱き締めた。
「やれやれ、普段のきみもこのぐらい素直なら良いのですが」
 そう笑いながら江澄の前髪を梳かす。
 眉の形をなぞり、思いの外長い睫毛に縁取られた切れ長の瞼もそっと撫でた。
「薄情そうでいてきみはとても情が深い人だ。しかし、誰に対してもそうではないよね」
 江澄は、江澄が本当に大切だと思った身内しか愛さない。
 彼の好き嫌いは非常にはっきりしていて、少し嫌いやほんのちょっと好きは絶対に有り得ない。
「私はきみに愛されることが出来ただろうか。きみの大切な人の一部になれたと思う?」
 そう問いかけても就寝中の江澄が返事をする筈もない。
 否。
 藍曦臣に江澄の答えは不要だった。
 だってこんなに強く、まるで藍曦臣を手放したくないかの様に衣服を掴んで離さないのだから、彼を起こして確認するまでもないだろう。

「お休み、私の愛しい人」

 藍曦臣の再びの口づけに、江澄は寝返りを打って、彼の胸元へと飛び込んだ。

「藍渙」

と江澄が藍曦臣を呼ぶ声が聞こえた。

終わり
20240601
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