双璧と双傑の話

 行為の後の気怠さの中、藍曦臣の胸の上から江澄が顔を上げて見ると、彼をさんざんいたぶり、弄んだ相手は心地よさそうな寝顔を晒して寝息を立てていた。
 大体いつも江澄の方が先に寝てしまい、起きる頃には藍曦臣の姿は消えているから、彼の寝顔を見る機会は非常に少ない。
 起こさない様にそっと半身を起こし、彼の寝顔が良く見える位置に再び横になる。
 得も言われぬ感情が胸のうちに湧き上がり、思わず江澄の口元をそっと緩ませた。
 さんざんこうして彼と交わり、あらぬ姿を見せて来たと言うのに、やはり自分の本心を曝け出すのはまだ勇気が出ない。
 おそらく今の江澄の穏やかな表情を見れば、藍曦臣は喜ぶに違いない。
 彼が欲しくてたまらない答えはその表情の中にかくれている。
 一生一人で良いかと思い始めた頃に、この人なら一生添い遂げても良いかと思える人物に出会えてしまった。
 残念なのは彼らは同性同士で、共白髪を願いたくとも無理な相手であることだ。
 藍曦臣の弟夫夫みたいにすべてをなげうつには二人共背負うものが重すぎる。
 そんな諦めの感情もあるからこそ、今のこの気持ちがより愛おしく江澄には思えてしまった。
「藍渙──」
 日頃けして呼んだことのない名を口ずさみ、彼の唇を指先で撫でる。
 火照る身体の隅々まで口づけしてくれる唇の感触は、江澄の表情を更に緩ませた。
 艷やかな唇肉の柔らかさを堪能し、そっと口づけようとした時。
 藍曦臣の口がこの場にいない者の名を呟いた。
 阿瑶、と──。
 途端に江澄の中ですーっと感情が冷えて行く。
 冷えて固まったそれはすぐに熱をぶり返し、そして激しい怒りとなって見る見るうちに表情を剣呑なものへと豹変させた。
 藍曦臣、と怒りに任せて名を呼びそうになったが、理性で抑えて寝台から起き上がる。
 寝ている間に彼以外の者の名を呼ぶなんて、けして許される行為ではないが、同時に激しい屈辱も感じていた。
 この江晩吟が身体まで許し、心を開きかけた相手の中には、いまだにかつての情人の名が刻まれているらしい。
 無言で江澄は身体の汚れを大雑把に拭うと、薄衣を纏い、部屋を出て、蓮花塢の中に張り巡らされた長い廊下へと移動した。
 目が醒めて江澄がそこにいないことに藍曦臣は戸惑うだろうが、知ったことかと舌打ちする。
 例えば夢の中であろうと、事後の心地良い余韻の後、藍曦臣の心の中にいるのが自分でないことが腹立たしかった。
 外へ出て、井戸の水を汲み上げる。
 その冷水を頭からざばんとかけると心を支配していた怒りが少しだけ冷め、江澄の中にも冷静さが戻って来た。
 もう一度頭から水をかぶり、更にもう一度。
 ぶるっと身震いがするまで掛け続け、ようやく藍曦臣への怒りの感情も溶けて来た。
「───女々しいぞ、江晩吟。嫉妬する様な関係ではない筈だ」
 ましてや嫉妬する相手も同じ男である。
 同性同士の三角関係なんておかしくて乾いた笑いしか出て来ない。
 さんざん魏無羨を「気が狂った」と貶しておいて自分はこれかと思うと、本当に情けなくて余計に笑いが止まらなくなった。
「誰が誰に嫉妬するだと? 俺は何も感じていないぞ。断じて何も感じない」
 呪文の様に呟き、夜気の冷たさにまた身体が震え出す。
 その晩の江澄は藍曦臣の元へは戻らなかった。
 朝になると彼の姿はいつも通り消えていたが、江澄も特に彼を探したりしなかった。
 藍曦臣のことなど微塵も考えていない。
 その演技に集中することにして、宗主の仕事に没頭するうち、その演技が本当のことになり、気づかぬうちに一日、二日、そしてひと月が過ぎていた。
 その間、藍曦臣からの私信が何通か蓮花塢に届いたが、どれも封を開けることもせず、江澄は引き出しの中にしまいこんで心に鍵をかけた。
 そんなある日のことだ。
「江澄、いるかい?」
と彼のかつての師兄が飄々と顔を出した。
 勿論、江澄が会いたくない相手、藍曦臣と良く似た顔をしたそっくりの弟も同伴である。
 彼が居なくては今の魏無羨の仙力では姑蘇から雲夢への移動はかちでのんびり向かうしかなく、魏無羨がどこに行くにしても彼の隣には藍忘機の姿があるのはもはや公然のことだった。
「何の用だ」
「藍湛、悪いけど、しばらく蓮花塢の埠頭でも散策していてくれないか? 江澄と二人で話がしたいんだ」
 魏無羨にそう言われた藍忘機は、一瞬、傷ついた表情を見せたが、すぐに頷き、部屋を出て行った。
 江澄が怒りを向ければきっと藍曦臣も同じ表情を見せるだろう。
 そう思うとつんと胸の奥が痛くなった。
「お前には茶より酒が良いか」
「ありがたい。でも今はちょっと飲める気分じゃないや。その前に片付けなきゃならない用件がある」
「───」
 魏無羨の言う用件とはおそらく藍曦臣のことだろう。
 案の定、彼の口から藍曦臣の名が出て来た時、江澄は思わず鼻で嗤ってしまった。
 彼のそんな態度が魏無羨に誤解を与えたのか、
「何をそんなに怒ってるんだ」
と質問に受けてしまった。
「俺が誰に何を怒ってるって?」
「沢蕪君だよ。お前、沢蕪君が何度も手紙を送っても、全然返事を寄越さないって話じゃないか。なあ、江澄。付き合っていれば、誰だって相手への不満は出て来るさ。でもそれをお互い打ち明けあって、解決して行くのが関係をより良くする手段だろう。お前みたいにはっきりさせずに勝手に怒っているのが一番関係を悪くする。お前の悪い癖だぞ。いい加減直せよ」
「なんでお前にそんなことを言われねばならん。それに俺と藍宗主の関係を変な風に受け取るな。お前が思っている様な関係では断じてない」
「江澄、いい加減見え透いた嘘はやめろって。俺とお前の仲で、気付かない筈がないだろう。いや、俺とお前が昔の様な関係に戻れていなかったとしても、藍湛は沢蕪君の弟だぞ。誰よりも一番に兄貴の変化に気がつくさ。藍湛はそこまで鈍くない」
「藍忘機のことなど知るか」
「江澄ーっ」
 溜息を吐き、腕組をする魏無羨の顔には、腐れ縁のこの弟への呆れた感情が如実に表れていた。
 彼らは血の繋がりこそないものの、多感な時期をずっと二人で乗り越えて来たから、実の兄弟以上に絆は深い。
 江澄も諦め、嘆息すると、仕方がないから先日あったことを正直に魏無羨に打ち明けた。
「沢蕪君が他人の名を口ずさんだ? 怒ってるのはたったそれだけのことなのか?」
「たったそれだけと言うな。俺にとっては大問題だ。さんざん甘言で人を騙しておいて、他人の名を呼ぶなんて俺からすればひどい侮辱だぞ」
「確かにそうかも知れないが、寝ている時まで自分を律せるものか。沢蕪君は何も悪くない」
「奴の名を呼んだのは、あの人の心の中に金光瑶が占める割合が多いからだ。そうでなければ……」
 事後のあの心地良さの中、恋人以外を思い浮かべたりするかと口にしそうになったがすんでのところで自重する。
 さすがに魏無羨相手でもそこまで暴露は出来なかった。
「とにかく、沢蕪君の中にはいまだにあいつへの感情が燻ってるってことだ。いや、もしかしたら俺は単にあいつの穴埋めでしか過ぎないのかもな」
「沢蕪君がそんなことをするもんか」
「魏無羨、お前にあの人の何が分かる。お前は藍忘機のことは理解しているだろうが、いくら似た兄弟だろうと、藍忘機と沢蕪君は別人だ。藍忘機だろうと、完全に理解出来る筈がない」
「そうだけど、沢蕪君は姑蘇藍氏の人間なんだぞ。しかも家主で、家を代表する人間だ。考えても見ろ。金光瑶には仲睦まじい夫人がいただろう。俺はその夫人のことは良く知らないが、金光瑶との仲は良好だったと聞いてるぞ。妻帯者相手に懸想するなんて姑蘇の宗主なら絶対有り得ないことだ」
「表面上はな。心のあり様なんて、当人以外に分かる筈もないだろう」
「江澄、この分からず屋め!」
「ああ、今更気がついたのか。俺は昔からこうだぞ!」
 蓮花塢の散策にも飽きたのか、藍忘機がふらりと戻り、魏無羨の苛立つ表情を見て、何事かと江澄を問い詰める視線を向けた。
「なんでもない。大丈夫だ、藍湛。この分からず屋にちょっと腹が立っただけだよ」
「勝手にしゃしゃり出てきて、余計な口出しをするな」
「魏嬰は勝手にしゃしゃり出てきたんじゃない」
「だったらなんだ! お前の兄貴の沢蕪君がこいつに泣きついたってのか! 文句があるなら魏無羨を使わずにあの人が直接俺に文句を言いに来い!」
「兄は魏嬰に何一つきみの話はしていない。私にもだ。私が兄の様子が妙だと、そう魏嬰に伝えただけだ」
「そうかよ。姑蘇藍氏の問題を蓮花塢へ持ち込むな」
「江澄! 藍湛への悪態は許さないぞ! こいつは沢蕪君を心配してそれで俺にこぼしただけだ」
「いつも言ってるだろう。俺は遠慮するような人間か! 藍忘機など恐れるものか」
「ほらな、この通り。藍湛の兄貴は本当、厄介な相手を好きになったものだよ」
 魏無羨の言葉に「同意だ」と藍忘機がゆっくり、そして確信を持って頷く。
 その表情は、「江澄は厄介で面倒くさい相手だけど、彼の恋人の魏無羨は完璧で理想の相手だ」と言っている様で、余計に江澄の気に障った。
 何より藍忘機と藍曦臣は本当に良く似ている。
 魏無羨に向ける藍忘機の愛情が、まるで金光瑶に向ける藍曦臣の愛情のように見えて腹が立ってしかたなかった。
「藍忘機、帰って沢蕪君に伝えてくれ。この江晩吟のことで、あの人が煩う必要は一つもないと。ただの誤解だ。あの人と私の間には煩う問題など何一つない。無関係だとそう伝えろ」
「それがきみの答えなら、私を介さず、きみが兄に伝えれば良い。伝言は断る」
「………」
 自分で言えればどれだけ良いか。
 もう一つ江澄を頑なにしているのは、彼が藍曦臣が好き過ぎて、金光瑶に嫉妬している。それを認めたくない自尊心からだった。
 藍曦臣がこの場に現れ、江澄の不機嫌の理由を尋ねようと、江澄が自分の感情を認めない限り、永遠に解決出来る筈もない。
「藍忘機」
「……」
 江澄に呼ばれ、藍忘機は返事をせずに視線だけ向ける。
 まるで彼如きに自分の美声を聞かせたくないと拒まれているみたいだった。
 藍忘機は存在自体が癪に障る。
 彼の兄の温厚さとは大違いだと立腹したが、多分、それは藍忘機にとっても同じだろう。
 藍忘機の態度には、ふん、と江澄も鼻を鳴らし、同じ無遠慮さで返し、その険悪な空気に魏無羨だけが顔を引き攣らせ、ひやひやしていた。
「江澄、沢蕪君に腹を立てていたとしても、藍湛は沢蕪君の弟ってだけでお前らの問題とは無関係だ。藍湛に当たるのは止せよ」
「俺がいつ藍忘機に八つ当たりした。俺を責めるならお前の伴侶の無愛想をただせよ」
「藍湛はいつだって、誰に対しても同じだろ。とにかく沢蕪君に二心はない。それは俺と藍湛が保証するよ。な、藍湛」
「うん。兄に限って、断じてない」
 江澄だってそう信じたいが、藍曦臣が金光瑶の名を呟いたのも事実なのだ。
 結局、当事者の藍曦臣でなければ釈明も出来ず、魏無羨と藍忘機は憮然として帰って行ったが、彼らが来たことで江澄の怒りも更にいや増してしまった。
 事の顛末を二人から聞いたのか、その日の晩のうちに藍曦臣がこっそり江澄の元を訪れた。
 そんなに気にかけているなら何故もっと早く釈明に来ないと心のうちで文句を言ったが、彼からの手紙を無視して釈明の機会さえ与えなかったのは自分だと言うことには江澄は目を瞑り、見なかった振りをした。
「阿澄。大事な用件でさえ返事をくれないから、きみが何かに怒っているのではと思ってはいたが、まさか私の寝言に怒っていたとは」
「魏無羨から聞いたのか。そりゃ三人でさぞかし俺の悪口で盛り上がったんだろうな」
「止めなさい。私はともかく、二人は私のことを心配しただけだ。それに阿澄、きみのことも」
「──そんな心配いるか」
「阿澄」
 藍曦臣のその呼びかけには江澄をいたわる気持ちと宥める気持ち、それに呆れた感情など様々な感情が入り混じっており、江澄の胸を塞いだ。
「私が阿瑶の名を呼んだことをきみは怒っているらしいが、夢の内容はおぼえていない。つまりその程度の夢だ。それさえ許してくれないのかい?」
「……でも、事実だ。あんたは俺を抱いたあと、別の人間の夢を見た。あんたの心の中にいるのは金光瑶で俺じゃない」
 例えばこれが藍忘機で、隣で寝顔を眺めていたのが魏無羨なら、藍忘機が呟くのは魏無羨の名のみだろう。
 そのぐらい藍忘機は魏無羨に傾倒しているし、藍忘機の中に居場所があるのは魏無羨一人のみだ。
 少なくとも二人で愛し合って心地よさに浸っているときぐらい、他の人間を思い起こして欲しくなかった。
 それが無意識であれ、問題はそこじゃない。
 江澄の愛情を得ようと、藍曦臣には塞がれない心の空虚があり、それを埋めるのは江澄ではなく、別の人間──。
 そこが問題なのだ。
「俺は、俺一人を見てくれる人でなければ、あなたとの関係は続けられない」
「まさかきみがそこまで嫉妬深いとは思わなかったよ」
「そうか。残念だったな。そうだ。俺は嫉妬深い上に独占欲も強くて、俺の相手には俺だけを見ることを望む。他人の存在はけして許さない」
「きみがそこまで私を慕ってくれることが素直に嬉しい」
「馬鹿か! 私は怒っているんだ。中途半端な気持ちで私の身体に触れたな。許さんぞ、藍曦臣。今後二度と蓮花塢の敷居は跨がせん」
「これまでもきみしか愛していないし、これからもきみしか愛さない。阿瑶は義弟だ。いま思い出したが、多分、あの時は阿瑶と過ごした山小屋での記憶を思い出したんだ」
「そうか。だったらこれからもその記憶にしがみついていれば良い!」
「姑蘇藍氏が襲撃に遭い、雲深不知処が焼かれて、私は叔父に言われ、蔵書閣の書物を持って逃亡をはかった。その時の私を助けてくれたのが阿瑶で、彼のおかげで私は生き延び、そして雲深不知処へ再び帰ることが出来た。その時の暮らしがどんなものか想像つくかい?」
「………」
 知るかと突き放したい気持ちと、ちょっと聞いてみたい気持ちがせめぎ合う。
 江澄が返事をしないでいると藍曦臣は勝手にその時のことを語ってくれた。
「自慢にならないが、宗家の嫡男として生まれた私は剣術と書物のこと以外はまったくの無知でね。それこそ箸の上げ下げぐらいしかしない生活で、他のことは全部奉公人や弟子たちがやってくれた。それは雲夢江氏の嫡男として生まれたきみも同じだと思うけど、雲深不知処の規則は知っての通り、江家よりずっと厳格で許しもない。男が家事に係るのはもってのほかで、洗濯の仕方を覚えるぐらいならその時間剣でも奮っていろと。そう言う家に生まれたから、山小屋での生活は本当に阿瑶には迷惑をかけた」
 自分の衣を洗わねばならない藍曦臣は見様見真似で着物をたらいに張った水に浸し、ゴシゴシと力を込めて洗ったが、干すために広げて見たらなんと穴だらけでとても着られたものではなくなっていた。
 それを見た金光瑶、いや、当時はまだ孟瑶だった──は、クスクスと笑い、
「大丈夫です。後で繕って差し上げますよ」
と言い、本当に綺麗に補修してくれた。
 あの当時は思い返せば胸が苦しく、辛い思い出になったが、彼との暮らしだけは藍曦臣に人間らしさと言うものを教えてくれた。
「言わば忘機が魏公子からはからずも荒療治を受けた様なもので、私はあの生活で藍氏の人形の殻を破り、ようやく人になれた気がしたんだ。阿瑶ではなく、藍曦臣である私が初めて雲深不知処の外へ出た生活で、その記憶は今も深くこの胸に刻まれている」
「………」
「阿瑶はそんな時にその場にいた。だから私が当時のことを思い出す時に、彼は必ず登場する。きみにとってかつての蓮花塢が懐かしい場所であるのと同じだ。あの山小屋での生活は懐かしく、あそこだけ切れとれば穏やかで楽しい生活だった。かつての蓮花塢を夢見る時、きみが姉上や魏公子を思い出すのと一緒だよ。きみと愛し合った心地良さで、かつての楽しかった思い出が蘇っただけだ。何の後ろ暗さもない」
「………」
 話し終えても後ろを振り返る気もない江澄に苦笑した藍曦臣は、彼を背後から抱き、耳元に優しく口付けた。
 勿論、触れるなと抵抗した江澄だが、身体は正直なもので、藍曦臣の愛撫を思い出し、勝手に居心地の良さを彼の胸の中に求めていた。
「そんな、おためごかしにこの私が騙されるとでも……」
「ねえ阿澄、私が漏らしたただの寝言できみはこれだけ嫉妬をしてくれるのに、どうして私のことを愛していると自身に認めてくれないのか、私は甚だ疑問に思うよ」
「……自惚れるな! 誰があんたなんか!」
「ではきみは、私を夢に見たことは? 寝る時も私のことだけを考えているのかい? 今もきみは私の言葉を聞き、私の意見に耳を傾け、私のことを考え、そして胸を痛めてる?」
「だから、違うと……!」
「ならばきみには私を責める資格はないのでは? 私の夢も見ずに、恋人である私のことを微塵も考えていない。なのにその私とこうして抱き合い、口づければ応えてくれる。きみは罪深くはないのかな」
「喧しい! お、俺は、何をしても赦されるんだ! あんたとは違う」
「なるほど。では釈明の機会を与えてはくれないのかい? 私の最愛の人」
「………っ!」
 この恥知らず!と怒鳴りたかったが、江澄の唇は藍曦臣に塞がれ、声を出すことは出来なかった。
 その上、この細い見た目のどこからその力がと言いたくなる馬鹿力で押さえつけられ、彼の身体はやすやすと寝台に縫い付けられてしまった。
「藍曦臣、ここは蓮花塢だぞ! 主はこの俺だ! あんたじゃない!」
「ならばきみを姑蘇へ連れ帰り、寒室に隠してしまおうか。そして一生、きみは私以外その瞳に映さない」
「………この、馬鹿っ!」
 口付けが深くなればなるほど、江澄の身体から力が抜けて行き、心地よさに頭も痺れて行く。
 きっとこの行為自体はさほど気持ち良いものでもないのだ。
 屈辱的だし、身体的にも負担はかかる。
 ただ、相手が藍曦臣だから。
 彼に愛される心地よさからこの関係を受け入れ、この行為を気持ち良いものだと錯覚させている。
「阿澄、私のことを想ってくれて本当に嬉しい」
「……あんたのことなんて、みじんも」
「みじんも?」
「………」
───大好きだ。
 その言葉を耳打ちすると、藍曦臣の口づけは更に深いものになり、江澄の身体を包む布も一枚、一枚剥がされ、彼は藍曦臣を受け止める褥となった。
「沢蕪君」
 なんだい、阿澄、と応える代わりに藍曦臣は彼の頬に口付ける。
 いつかは金光瑶との生活ではなく、江澄との逢瀬を一番心地良い思い出として脳裏に蘇らせてくれるのだろうか。
 その時、隣に居るのはきっと江澄ではないのだろうが、そのぐらい深く彼の心の中に自分の居場所を作れたらなと願ってしまう。

 後日。
 今度は一人で魏無羨がろばに乗って蓮花塢を訪ねて来た。
 藍曦臣との仲直りについてはまったく触れなかったが、江澄の表情でそれと分かったのか、この聡いようで鈍い、鈍いようで聡い義兄は、「一緒に飲もう」と酒瓶を差し出し、親しみやすい笑顔でニカッと笑った。
「何について乾杯する」
「そりゃ勿論、お互いの伴侶についてさ。俺とお前はこれまで血の繋がりのない義兄弟だったが、いまは別の形でまた繋がった」
「馬鹿馬鹿しい」
 並々と酒を注いだ盃をチンと重ね鳴らして、魏無羨と江澄は一気に飲み干し、二杯目も乾杯した。
「江澄、お前に藍湛の秘密を教えてやる」
「いらんわ。藍忘機より、沢蕪君の話が聞きたい」
「そう来なくっちゃ」
 明るい笑い声が蓮花塢の庭に響く。
 春はまだまだ遠いが、二人の義兄弟の笑い声は日だまりの様に暖かく、彼らの心を満たしてくれた。



20241120
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