その後の顛末

 雲深不知処で開かれる座学が終了し、金凌が金麟台に戻ってからしばらくのこと。
 自分が魏無羨にしたことなどすっかり忘れ、年末の忙しい時期を過ごしている江澄の元へ、姑蘇藍氏から宗主がわざわざご機嫌伺いにやって来た。
 いつもの藍曦臣なら夜中にこっそり来て、勝手に江澄が寛いでいるところへ入って来て、やれ「行儀が悪い」だの、「そんな暗いところで書物を読んでいたら目を悪くする」だのいちいち気遣う心配りが鬱陶しかったりするが、今日の彼は日中、ちゃんと門を通り、江宗主への面会を申し入れて来た。
 必然的に江澄も気心知れた相手とは言え、いささか身構え、宗主としての威厳は崩さずに 面会に応じる。
「江宗主、ごきげんよう」
「ああ。わざわざのお越し、痛み入る」
 なんて白々しい挨拶を交わし、部下が藍曦臣の為に茶を持って来て、彼らが下がったところでさっそく本題に入った。
「金凌が世話になった。雲深不知処での学習にあいつもずいぶん得られることが多かったようで概ね満足していた」
「それは何より。金宗主の学問への打ち込み方は何ら問題ありませんでした。御父上の金子軒殿とそっくりだと叔父も言っていました」
 それこそ何よりだ。
 金凌が赤子の頃から保護者同然に接し、成長を見守って来たのは父の金子軒ではなく、江澄だが、やはり姉との間に出来た子供だから、父親似だと言ってもらえるとどこかほっとする。
「藍宗主に感謝する。して、今回の用向きは」
「もしや忘れたとは言うまい、阿澄」
「ん?」
 ようやく藍曦臣の表情が良く知る彼の顔に戻り、こころなしか江澄も気を緩ませる。
 一体、何を忘れたと言うのだろうか。
 指摘されるまで江澄は自分が魏無羨を雲深不知処から追い払い、そのおかげで藍忘機までいなくなっていたことをすっかり忘れていた。
「まさかまだ戻らないのか?」
「ええ。魏公子があの生活を気に入った様で。彼が望むなら、忘機も雲深不知処に帰りたくないと」
「何やってるんだ、あのアホは」
 元をただせば恐喝まがいに藍家を脅し、魏無羨をよそへやるように仕向けた江澄の責任なのだが、勿論、彼は微塵も自分のせいだとは思っていなかった。
「きみが魏公子を追い出せと言うから」
「なんで俺のせいなんだ。俺は座学に子供を出席させる保護者の意見を代表し、陳情しただけだぞ」
「でも言い出したのはきみ一人だ。他の保護者は何も言ってない」
「相手が魏無羨、それに姑蘇藍氏だから言えないだけで、本音では皆、自分の子を魏無羨に関わらせたいとは思う筈がないだろう。特にあいつの悪ガキ振りを知っている親なら尚更だ」
 それはそうなのだが。
 藍忘機がいつまでも帰って来ないのでは、仙督の座に空きが出てしまう。
 次にその席に座るのは誰かと言う問題は以前よりなかなか決着がつかない問題で、姑蘇藍氏の次男坊であり、藍氏の継承権からは遠ざかっていた藍忘機はまさに適任だったのだ。
「ならば沢蕪君、あなたがやれば良い」
「一つの家に権力を集中させるのは、温氏、金氏を見てきた今は誰も望まないだろう。失礼ながら、阿澄、きみが手を上げても大多数の反対を受けると思う」
「分かってるさ」
 だからなんだと江澄は肩を竦める。
 頼まれれば仙督を引き受けても構わないが、彼の性格を知る者ならまず江宗主を推挙はしない。
 残るは聶懐桑だが、彼は金光瑶を追い詰めた一件では切れ者振りを発揮して見せたものの、大きな責任を自ら背負いたくはないのだろう。またもや一問三不知の頼りない宗主の役目に戻り、信条のまま、程々に過ごしている。
 やはり藍忘機に戻って貰うより他にない。
 が、彼は藍曦臣の話だと、
「魏嬰が、江宗主からの謝罪があるまでは修真界に戻る気はないと」
などと言い始めているらしい。
「修真界に戻る気はないと言ったのか」
「ええ。魏公子は元々、修真界からは長らく身を引いていたからさほど影響はありませんが、忘機が戻って来なければ私が困ります」
 それを聞いた江澄の顔つきが途端に険悪になり、目などはちりりと火花を上げそうな程、不機嫌に輝いた。
 世の中に怖いものなどない藍曦臣であっても出来れば避けて通り、絶対対峙したくはない顔だろう。
「それであんたはのこのこと俺のところへやって来たってわけか」
「その言い方はあんまりだ。仲介役をやらされるこちらの身にもなってくれ」
「仲介役? あんたの仕事は仲介ではなく、俺を魏無羨の前に引きずり出すことだろう。この裏切り者め」
「言い出したのはきみだ。責任の回収はしたまえ」
「俺は間違ったことは一言も言っていないぞ」
「江宗主。私を困らせないで欲しい」
 ふん、と鼻でせせら笑った江澄だが、彼も根っからの悪人ではないから、困った顔を見せられれば突き放すことも出来なかった。
 何より魏無羨を雲深不知処から追い出しはしたが、彼としてはあくまで金凌が座学を受けている期間中、彼の悪影響を受けずに済むように遠ざけたかっただけで、半永久的に修真界から追い出そうだなんて思っていない。
 そもそも癇癪持ちで気難しい江澄の性格に付き合える人間は魏無羨と藍曦臣以外にいないのだから、本気で江澄が彼を手の届かない遠い場所へ追い払うはずもなかった。
「頼むよ阿澄」
「………」
「私の為に魏公子に謝って欲しい。ねっ」
 期待のこもった目でお願いされるとどうにも断れない。
 渋々立ち上がった江澄は外で控えている部下に外套を持ってこさせ、藍曦臣と出かける準備を調えた。

 魏無羨と藍忘機が居を構えた屋敷は姑蘇の外れの人里離れた辺鄙な場所にあった。
 すっかり雪が積もり、真っ白な銀世界に降り立った江澄は、白い息を吐きながら、はあーっと凍える手を擦り合わせ、温めた。
 その手を藍曦臣が両手で包み、緩んでいた外套の紐をきっちりと結び直してくれた。
「きみは暖かい地方の生き物と言った体が良く似合っている。冬景色より、夏の太陽の方が相応しいね」
「寒いのは昔から苦手でな。女みたいに手足が冷たいから昔は魏無羨の足に押し付けてあいつが悲鳴を上げるのを見て笑っていたものだ」
「そんな思い出がきみとの間にある魏公子が羨ましいよ」
 子供時代の思い出にどれほどの価値があるのやら。
 藍曦臣と手を取り合い、魏無羨らが住む屋敷へと向かったが、門の手前に来るとその手を振り払った。
 以前、ここに二人で来た時は江澄だけは入ることが出来なかった。
 藍曦臣もそれに思い当たったようで、「多分今は入れるよ」と彼を促し、一歩を踏み出してホッとした様子の江澄を見て笑っている。
「あー、江澄! てめえ、何しに来やがった!」
とさっそく現れた魏無羨に冷たい一瞥をくれ、二人の口喧しい喧嘩の皮切りとなった。
「お前が謝罪に来るまで雲深不知処に帰らないなどと言っているから、仕方なく俺が来てやったんだろう。まったく大人気ないとはまさにお前のことだぞ、魏無羨」
「どっちが大人気ないんだよ。俺のこと勝手に悪者にしやがって。お前に言われた悪口は一生忘れないからな!」
「はっ、3歩歩くと忘れる鶏頭のくせに。お前じゃ一年だっておぼえていられるものか」
 庭先で勃発した口論の喧しさに、家の中で家事をしていた藍忘機も出て来て、兄の存在に気が付いて軽く会釈をした。
「兄上」
「約束通り、江宗主を連れて来たよ」
「はい」
 藍兄弟の会話は常の通りだが、雲夢双傑の方もあいも変わらずだった。
 さっきまで散々互いを罵り合っていたと言うのに、双璧が気が付いて見れば、二人はとっくに別の話題に移っている。
 どうやら今年採れた吊るされた柿を見て、干し柿の出来具合を評価しているようだった。
「江澄、試しに一個食ってみるか」
「お前が作った干し柿なんぞ危なくて食えるか」
「実は柿で鮭が作れないかためしてみたんだ」
 すっかりいつも通りの彼らに呆れた双璧は顔を見合わせたが、仲の良いことは大変結構なことだ。
「兄上、お茶を淹れます」
「うん。馳走になろう」
 商家の若旦那の様な格好をした藍忘機の案内で屋敷に入った藍曦臣は、庭で魏無羨手作りの酒を味見し合う二人を見て微笑ましげに目を細めた。
 どうやら柿酒のお味は微妙な様で、それぞれ盃で口に含んだ二人は一斉にげえっと地面に吐き出し、またもやそのことで大騒ぎしていた。
「柿で酒を作るには多分甘味が足りないと魏嬰には言ったのですが」
「忘機。お前、まさか酒造りの嗜みまであるのか?」
「いえ。藍氏の先達が遺した書に果実酒の作り方があったので」
「なるほど。蔵書閣も、たまには魏公子の役に立つ情報があったと言うわけか。しかしあの調子なら魏公子も大人しく雲深不知処に帰ってくれるだろう。これで一安心だ」
「はい」
 藍忘機はいまだに江澄には心を許していないらしく、彼の前ではそっけない態度を取ることが多いが、魏無羨が楽しそうにしていれば以前の怒りは忘れるようだった。
 藍曦臣同様に、二人で戯れる魏無羨の姿を嬉しそうに目を細めて眺め、口元には柔らかい笑みまで浮かべている。
「忘機、お前は本当に彼が大切なのだな」
 おもわず漏らした藍曦臣の感想には返事をしなかった藍忘機だが、一言の否定もしなかった。
「昼ご飯の支度をして来ます。人数が増えたので」
「うん。頼む」
「味の保証はしません」
「何でも良いよ。人が食べられるものなら」
 藍忘機が席を立ち、お勝手に消えたのと同時に、柿酒に飽きた魏無羨と江澄が仲良く肩を並べて藍曦臣の元へとやって来た。
「あれ、藍湛は?」
 キョロキョロと部屋を探す魏無羨に、藍忘機は昼食を作りに行ったことを告げると、「藍湛、俺も手伝うよ!」とばたばた奥へと走って行く。
 その様子を眺め、江澄は藍曦臣の横に座ると、ほーっと一息ついた。
「安心しましたか?」
「何がだ」
 分けの分からんことを、ときつく睨んで来たが、本当は藍曦臣が言いたいことはちゃんと江澄も分かっていた。
 魏無羨に謝るなんて絶対嫌だと散々難色を示していた江澄だったが、ここに着くまでに彼も多少、気が引けていたのだ。
 その魏無羨が特に怒ることもなく、いつも通りに笑顔で出迎えてくれて、肩透かしを食らった様な、どこかホッとした気持ちでついさっきは息を長々と吐き出してしまった。
「阿澄、魏公子のことは、誰よりもあなたがご存知です」
「どうだかな。今は俺より藍忘機の方があいつのことを分かっているだろう。俺はもう魏無羨にとっては御役御免の疎遠になった親戚みたいなものだ」
「それは言いえて妙な表現ですね。しかし、疎遠になったとは言え、やはり肉親は肉親。あなたと魏公子にしか分からないこともまだまだたくさんあるのでは?」
「───だと良いが───、まあ、余り期待はしていないさ。俺とあいつの縁は、俺達の間を繋いでくれた姉が死んだ時にとっくに切れてしまった。昔から俺と魏無羨は、仲を取り持ってくれる姉さんがいなければ虫が合わなくて喧嘩ばかりだった」
「でも私には彼以上に阿澄を理解している者はいないように映りますよ。きみも彼といる時が一番生き生きしている」
「………」
「私は彼の代わりにきみのそばにいることは出来ますが、彼の様にきみの支えにはなれません。残念なことですが」
 そんなことはないと喉元まで出かけたが、それを口に出来る江澄ではない。
 そんな世辞上手ならとっくに彼の元へ嫁いで来る女性がいて、彼の子が蓮花塢の中を走り回っていた筈だ。
 程なくして魏無羨が食事が出来たと呼びに来たのだが、出て来たものは料理とは言えないもので江澄は返答に困ってしまった。
「これは単に……、芋を蒸したものでは?」
「おう、蒸した芋だ。甘味があって美味しいぞー」
 それは確かに美味しいのかも知れないが、料理と言うからにはちゃんとしたご飯とおかずが出てくるものだと思っていた江澄はがっかり感を隠しきれなかった。
「江澄、お前露骨に嫌そうな顔するなよ。だから性格悪いって言われるんだぞ」
「うるさいわ。芋を蒸すぐらい誰でも出来るし、料理とは言わないだろうが」
「んなこと言っても仕方ないだろ。俺と藍湛がここに来た期間なんて数ヶ月だぜ。その間にこの季節採れるものって言ったら芋しかないんだからさ。俺達は毎日これだぞ」
「本気か?!」
 藍曦臣も江澄と一緒になって呆れ顔をして見せ、魏無羨と藍忘機はこともなげに頷いて答えた。
 藍忘機と言えば、光り輝く外見と人品卑しからぬ佇まいから「含光君」と称される誰の目から見ても当代一の美男子である。
 その彼が毎日蒸し芋を食べている事実は江澄の口をあんぐりと開けさせ、彼にそんな生活をさせた原因の発端は少なからず自分にあることをいささか申し訳なく思ったぐらいだった。
「魏無羨、お前、藍忘機に毎日芋を食わせて良く平気な顔していられるな」
「そりゃ俺と藍湛が丹精込めて作ったお芋ちゃんだぜ。毎日美味しくいただいてるよ。性格の悪いお前と違って」
「いちいち喧しいわ。そもそも藍忘機がお前を選んだのが悪い」
「魏嬰は、悪くない」
「まあまあ。でも本当に美味しいよ、このお芋」
 呑気に皮を剥いて寄越す藍曦臣から蒸し芋を奪い、江澄も一口食べて見たが、たしかに甘くて美味しい芋だった。
 これなら何本でもいけそうだが、魏無羨に「食った後がブーブー大惨事だけどな」と背筋が寒くなるようなことを言われ、ほどほどで止めて置いた。
 食事が終わった後は、魏無羨が風呂に入って行けとしつこく誘う為、渋々ながら付き合った。
 風呂と言っても野外に大きな釜があり、その下で火を起こして入るだけの簡素なものだ。
 火加減は魏無羨が見てくれるらしく、袖をたくし上げ、タスキで縛っている様を見て、呆れるを通り越して笑ってしまった。
「本当にお前と藍忘機の二人でこんな生活をしていたのか」
「慣れれば不便もなかなか楽しいさ。特に藍湛との共同作業って感じが良くてさ。こんな不便さは雲深不知処にいたんじゃ味わえないからな」
 確かに。
 気心の触れた二人が遊びの延長で過ごすならこんな生活もありかと思った。
 ただそれは魏無羨と藍忘機だから出来たことだ。
 藍忘機は魏無羨さえいれば不満はないし、魏無羨は魏無羨で乱葬崗での生活が基盤となってこれしきの不便さは不便と感じなくなっている。
「俺達がここを離れてもこの屋敷は売らないでくれって藍湛に頼んであるんだ。また度々ここに帰って来たいからさ」
「馬鹿馬鹿しい」
 そうは言ったものの、どんな場所でも自分らしさを追求し、荒れた環境だろうと楽しく愉快に過ごす魏無羨の能力をほんの少し羨ましいと感じてしまった。
 出来ることなら江澄だって、たまにはこんなのどかな場所で肩書も自分に課された役割も忘れてただの個人として過ごしたい。
 隣にいる相手に寄るだろうが、きっとすごく楽しい筈だ。
 江澄と共に過ごしても良いと言ってくれる相手がいればの話だが───。
 そんな彼の気持ちを察したのか、火加減を見ていた魏無羨がひょっこりと頭を上げ、彼の顔を覗き込んで来た。
「な、なんだよ、覗くなよ」
「お前の裸なんか見ても楽しいもんか。まだ自分の裸を眺めてる方が楽しいぜ」
「お前って奴は本当にいちいち……っ」
「江澄もさ。たまにはここで羽根を伸ばしたらどうだ? 藍湛は売らないって言ってたし。つまりここは姑蘇藍氏の持ち家ってことだ。いつでも自由に使えるぞ」
「何故俺が姑蘇藍氏の家を使わねばならん……」
「何故ってそりゃお前……」
 魏無羨は藍曦臣のことを言おうと思ったのだろうが、江澄の一瞥がそれを許さなかった。
 二人の関係はとっくにバレているし、藍曦臣は隠そうともしていないのに、江澄はなかなか認めない。
 藍曦臣との関係を認めない江澄のことは無視して、魏無羨は彼をからかいながらゴシゴシ背中を流してくれた。
 これがまた痛いのなんのって。
 大声に驚いた藍忘機と藍曦臣が駆けつけた程だった。
 その晩は一晩四人でその邸で過ごし、翌日には雲深不知処に戻った忘羨だが、それからまた数ヶ月。
 今度は雲深不知処から藍曦臣の姿が消えてしまった。

 それは小さな梅の蕾が色付き、膨らみ始める頃のこと。
 温暖な気候である雲夢は江家の邸、蓮花塢でも春の訪れが感じられる様になったある日のこと。
 江家の弟子たちは蓮花塢の鍛錬場に現れた黒衣の男を見、皆、一瞬で言葉を失ってしまった。
 江澄率いる雲夢江氏と言えば、父の代で一度壊滅的な打撃を受けてしまい、今いる弟子たちの大半は江澄の父、江楓眠を知らない者ばかりである。
 当然、その当時、大師兄と呼ばれ、皆から愛されていたお調子者の魏無羨を知る者も少なく、彼らが知るのは夷陵老祖として修真界を引っ掻き回した大悪党、詭道の使い手魏無羨としてのことしか知らなかった。
 今は勿論、彼がかつては江氏の一番弟子で、彼らの宗主とは義理の兄弟として親しく付き合っていることも知られているし、何より彼が皆の羨望の的である修真界一の貴公子、藍忘機の特別な想い人であることも知られている。
 その魏無羨が江澄の代わりに訓練場に現れて、江家の弟子たちは皆、何が起こるのだろうと戦々恐々しながら互いの顔を見合わせた。
「よっほほーい、雲夢江氏の弟子たち、ちゃんと鍛錬してるかぁ」
 お前に言われたくないと言いたげな衆目の視線は一向に気にせず、魏無羨は中の一人を見定め、彼の剣をあっという間にその手から奪い取る。
 本当に「あっ」と言う暇もなく、気が付いた時には魏無羨の手の中にあって、皆が失笑し、魏無羨に剣を奪われた男は顔を真赤にしながら羞恥に耐え忍んでいた。
「お前ら、本当にちゃんと毎日訓練してるのか? こんな手際じゃ江澄の血管が何本あっても足りないぞ。ほら、お前の剣だ」
 ぽんと男に奪い取った剣を返し、魏無羨はまたもや別の相手の剣を奪いに行く。
 二回目はさすがに弟子たちも警戒していた為、剣は奪い取れなかったが、彼は気にすることなく、ぺろりと舌を出して肩を竦めた。
「あの、夷陵老祖……」
「あん?」
 陳情をくるくる回して振り返る魏無羨に、呼びかけた弟子は慌てて「魏殿」と言い換える。
「魏殿か。あはは、その呼ばれ方も悪くはないな。どうやら俺も少しは威厳が出て来たらしい」
 威厳があるかはともかく、宗主の江澄はどこに消えたのか。
 魏無羨はその問いには答えず、
「お前ら、雲夢江氏の家訓を諳んじて見ろ」
と一同を見渡し、命令した。
 雲夢江氏の家訓と言えば、言うまでもなく、「成せぬと知りても、為さねば成らぬ」だ。
「そう。雲夢江氏の心意気は成せぬと知りても、為さねば成らぬ。これに尽きる。しかし先代の江宗主はこうも言っていた。時には何もせぬことが一番の結果を招くこともあるってな。これは単に怠惰を勧める言葉ではないぞ。焦って動くよりも、まずは動静を確かめろってことだ。そのうえで為さないことで成ることもあると、そう先代の江宗主は俺と江澄に言い遺してこの世を去った。俺は今でもこの言葉を重く受け止めている。実践は難しいけどな」
 確かに魏無羨の一生を知る者は、彼がこの言葉を殆ど実践していないことを良く伝え聞いているだろう。
 そちこちで起こる失笑を満足げに受け止め、魏無羨は「そう言うことで」と手を叩き、締め括る。
「今日は為さないことで為すべきことを成せる日だ。皆で蓮花湖に魚をとりに向かうぞ」
 鶴の一声ならぬ、魏無羨の一声で雲夢江氏の面々から喜びの声が上がる。
 いつも江澄の厳しい訓練続きの日々で、江家の弟子たちの鬱憤も相当溜まっていたのだ。
「大師兄、魚釣りじゃなくて、魚をとりに行くんですか?」
「モッチのロンだぞ、お前。己の手一本を使い、捕まえてこそ雲夢の男と呼べるってもんだ。釣り糸や釣り餌など、邪道が過ぎる!」
「でも大師兄の詭道は思い切り邪道じゃないですか」
「誰が邪道だとぉ?」
 ワイワイ騒ぎながら賑やかに蓮花湖へ向かう雲夢江氏の一行を、空から避塵に乗った藍忘機が静かに見守っていた。
 江澄の代わりに蓮花塢で雲夢江氏の門弟の面倒を見ると魏無羨が言い出し、ひそかに心配になってこうして覗き見に来てみたが、どうやら藍忘機の杞憂だったようだ。
 故郷に帰り、雲夢の人間と伸び伸び魚獲りをする魏無羨の姿にほんの少し寂しさを覚えたが、彼はどこまでも魏無羨至上主義であるから、自分の感情は二の次で、魏無羨さえ幸せならそれで満足だった。
 雲夢の心配がいらないのなら、藍忘機は藍忘機で雲深不知処に戻り、兄の代わりを務めなければならない。
 藍曦臣が家を空けたことで藍啓仁は大激怒しているが、藍曦臣が居らずとも藍忘機がいれば姑蘇藍氏は問題なくいつもと同じ様にまわって行く。
 ただほんのちょっと宗主が無愛想になるだけで、それ以外の変化はほぼないに等しかった。
 そして蓮花塢と雲深不知処を不在にしている二人がどこに居るかと言うと───、勿論、例のあのあばら家に二人の姿はあった。

「阿澄、うさぎにそんな残酷な真似は止めなさい。手掴みで首を折るなんて、きみはなんてこと!」
「はあ、だったらあんたは肉を食わないってのか」
 見慣れた白と赤紫の校服ではなく、民家で生活する二人は、周囲の環境とまったく違和感のない、小綺麗だが簡素な着物を身に纏っていた。
 とは言え、いくら簡素な身なりだろうと、藍曦臣の美しさは隠しきれるものではないし、それは江澄も同様で、彼ら二人はお忍びで出かけて来た名家の若旦那風にしか見えなかった。
 その江澄の手の中で愛らしい筈のうさぎが変な方向に首が曲がって息絶えている。
 殺害者はもちろん、江澄だった。
 なたで首を落とし、血抜きをする江澄の凶行を見、藍曦臣は目眩でもしたのか、額を押さえながら奥へと引っ込んでしまう。
 そんな彼の後ろ姿に向けてナタを振りかざし、
「姑蘇藍氏め」
と江澄は憎々しげに吐き捨て、その怒りは可哀想なうさぎの遺体に向けられた。
「沢蕪君、ほれ、今からうさぎの皮を剥くぞー。やだなー、可哀想だなぁ。でもこうしなきゃ肉は食べることが出来ないからなぁ」
「……きみの為に祈ってあげるからね」
「そんなもんいるか。うさぎどころか、人間もこうして殺したことがある大悪党だぞ、俺は」
 彼の目の前で吊るしたうさぎの脚を折り、藍曦臣が更に青くなってまた奥へと引っ込んでしまう。
 おかしくなって江澄はケラケラと大口を開けてご機嫌に笑ってしまった。
「姑蘇藍氏のお偉い様は残酷なことが苦手過ぎて肉も食べられないらしい。しかし調理された肉なら食べるってんだからまったくどうかしてると思うぞ」
「どうかしているのは君だよ、阿澄。命をいただくにしても、もう少しやり方が」
「やり方? ははん、あんた、俺を抱く時に手加減なんてしてくれたことがあったのか? それとも俺はこのうさぎ以下ってことか」
「まったくいつもの可愛い阿澄に戻って欲しいよ……」
「これがいつものあんたの阿澄だ。言っとくが、雲夢じゃこの程度朝飯前だぞ」
 わざとらしくゴツン、ゴツンと響かせてうさぎの骨を折る。
 顔から血の気を失い、今にも気絶しそうな藍曦臣をからかうのは楽しくて仕方なかった。
「私は好きになる相手の選別を間違えたようだ」
「別にそれでもいいぜ。しかし別れるならちゃんと慰謝料は払えよ」
「ねえ阿澄。少しは私の好みに合わせようとか思わないのかい?」
「全然!」
 だって今ここにいるのは名家の子息である江澄ではなく、ただの野蛮な雲夢人だ。
 愉快過ぎて魏無羨が雲深不知処に戻りたくないと言った気持ちも少し理解してしまった。
 しかしそろそろご機嫌を取る頃合いかと察した江澄は血に塗れた手を洗い、藍曦臣の傍らに行ってより掛かることも忘れていなかった。
 最初のうちは江澄の仕打ちに怒っていた藍曦臣もすぐに甘えて来る彼の仕草に根負けして、ごろにゃんと蹲る江澄の頭を仕方なく渋々と撫で始める。
「阿澄。きみと二人で暮らして見て、猫との生活がいかに根気がいるものかと実感したよ」
「それは良かった。俺でも沢蕪君に何かを教えてやることは出来るんだな。次は鶏の捌き方をご教示してやるか」
「結構。調理担当はきみで。私は山菜を採ってこよう。今ならユキノシタなんかが食べられそうだ」
「その前に俺を食べたいとは思わないのか、藍渙」
 膝の上に頭を載せ、挑発的な目を向ける江澄へ、藍曦臣は勿論、彼が望む通りの答えを返してやった。
 永遠にこんな時間が続いてくれれば最高だが、終わりがあるからこそ強く求め合う関係もある。
 いつもの情事より高い声で喘ぎ、性急に求めて来る江澄の紅潮した頬に口づけし、藍曦臣も満足げな笑いを洩らす。
 たった三日だけ与えられた休暇なのだ。
 互いの存在だけ感じ合い、余計なことは一切考えたくなかった。

 終
20241112
1/1ページ
スキ