いつかきみの元へ届けたい琴の音色

 無惨な光景が広がっていた。
「門弟たちをすべて集めなさい。動ける者は負傷者の介助を」
 弟は無事だろうか。
 藍曦臣が真っ先に案じたのは弟の安否だが、この修真界で藍忘機を傷つけられる者などそうはいないだろう。
 既に亡くなっている者。
 腕や足を失くし、失明して声を上げている者で現場は阿鼻叫喚と化していた。
 この惨劇をたった一人の男と一つの神器が引き起こしたのだ。
「曦臣、ちょっと来てくれ」
「明玦兄上。ご無事でしたか」
「当然だ。こっちだ」
「はい」
 部下に藍忘機を探す様に指示を与え、聶明玦に呼ばれた藍曦臣は彼の後へとついて行ったが、死体の山は累々と積み上がり、どこまでも永遠に続くのかと悲愴感に胸が塞いでしまった。
「魏公子……、いえ、魏無羨は?」
「それなんだが。あちらでお前の弟と江晩吟が揉めている」
「忘機が?」
 藍忘機が人と揉めることなどめったにないことの上、その相手がまた意外だった。
 江澄と彼の弟は、特別親しくはないが、特別険悪でもない。
 互いに関心がない様でこの二人が一つ処に共にいることがまず珍しいぐらいだった。
「明玦兄上、何かの間違えでは。忘機は」
「俺がお前の弟を見間違えるか。ともかくどちらも引く気がない様だから、兄のお前が忘機を抑えろ」
 半信半疑で向かうと確かに藍忘機が江澄の腕を捕まえ、何やら揉めていた。
 見たところ、腕を負傷している様だが、藍忘機は痛みなど感じていないかのように振り解こうとする江澄と睨み合っている。
「忘機!」
 藍曦臣が呼び掛けると藍忘機は彼らの方に視線を向けたが、江澄の腕を離そうとはしなかった。
「一体、何を揉めている。忘機、お前は魏無羨を追っていたのではなかったか」
「兄上、何故、彼を魏無羨と呼び捨てにするのです。この事態を引き起こしたのは魏嬰では……」
 今はそんなことを話している場合ではない。
「江宗主の腕を離しなさい」
「嫌です」
「忘機。現状を良く見ろ。今は味方同士で揉めることより、負傷者の手当てが優先だ」
「そのとおりだ。夷陵老祖が逃げたのなら取り押さえなければならん」
 藍曦臣の後に聶明玦も続いたが、藍忘機が江澄の腕を離すことはなかった。
「彼は魏嬰の遺体を傷つけようとしている」
「魏無羨の遺体? 彼は死んだのか?」
 どうやら二人の説明によると、魏無羨は崖から身を投げ、藍忘機が救出に向かったものの、間に合わず命を落としてしまったらしい。
 遺体の確認と回収に向かう江澄に藍忘機が追いつき、彼を魏無羨に近づけまいと止めているのがいまの状況の様だった。
「魏無羨が死んだのならもう良かろう。あの高所から落ちたのならまず助かるまい」
 そう言う聶明玦に、日頃は慎み深い江澄が血相を変えて「何故、分かる」と詰め寄る。
 普段は年長者を立て、礼儀を弁えた態度なだけに、これには聶明玦も驚き、血走った江澄の目を見、
「江晩吟、お前は疲れているんだ。先に休め」
と労いの言葉を掛けた。
「お前の姉上のご遺体は踏み荒らされぬ様、我が聶家が回収した。後でちゃんと送り届けてやるから」
 そこまで彼が言った時、こらえきれなかったのか江澄の喉から嗚咽が漏れた。
「俺のことなど、放っておけ! お前ら全員、どこかに失せろ!」
と三人に怒鳴りつけると藍忘機の腕を振り解き、谷底へ向かう道へと走って行ってしまう。
 藍忘機がすかさず追おうとしたが、藍曦臣がそれを止め、聶明玦も手伝った。
「離してください、兄上! 彼は魏嬰を殺そうと……!」
「どうせ亡骸だ。他の者の手に渡ったところで無事で済まされる筈がない。ならば江宗主の手に渡った方が良いだろう」
「どう言う意味です、聶宗主」
「忘機。温家の残党がどんな扱いを受けたか、忘れたか。害のなさそうな老婆まで門に死体を吊られて晒された。夷陵老祖の亡骸ならそりゃ容赦なくいたぶられるだろう。お前たち姑蘇藍氏が関わる様なことじゃない。汚い仕事は仕切りたがりの金家にでも任せておけ」
 遺体を嬲られる。
 その言葉は藍忘機をかなり傷つけた様だった。
 放心した弟を連れ、藍曦臣は姑蘇藍氏が集まる場所へと戻ったが、宗主が不在の雲夢江氏は迷子になった子猫の様に一つ処に固まり、自分たちはどうして良いのかわからないと言う顔をしていた。
「雲夢江氏の方々。あなたたちの宗主は無事です。しかししばらくは戻ることはないでしょう。江宗主を探す人員を少しこの場に残し、残りの者は私と共に金鱗台へ帰りなさい」
 姑蘇藍氏宗主の沢蕪君にそう命じられ、江澄と副将と思しき男は安堵の顔で頷き、江澄を探す人員を選り分けると後は藍曦臣に預け、金鱗台へと戻る指示を与えた。
 夷陵老祖を殺す為の決起集会だったが、その惨状は酷いものだった。
 生き残った者は半分足らずで、負傷しなかった者は更に少ない。
 何より姑蘇藍氏はもっと大きな痛手を被っていた。
 彼らの尊敬の的である、藍曦臣の弟、含光君が魏無羨を庇った罰で槍玉に上がり、困った藍啓仁はやむなく藍忘機に三年の面壁を言いつけた。
 結局、魏無羨の遺体はどこにも見当たらず、江澄が血眼になって探していたが、時だけが無駄に過ぎて行った。
 江家の若宗主の頭がおかしくなったと噂が立ち始めたのもこの頃で、
「魏無羨を殺したのは江宗主だろ。きっと夷陵老祖の呪いに当てられたんだ」
とそんないい加減な噂がまことしやかに囁かれる様になっていた。

「曦臣兄上」
「やあ、阿瑶」
 えくぼが愛らしい、親しみやすい笑顔を浮かべた金光瑶が藍曦臣の背後から話しかけ、近付いて来る。
 彼は雲深不知処を焼かれ、藍曦臣が温氏に追われている間、親身になって支え、心のより処となってくれた人だった。
 その分、藍曦臣の信頼も厚く、彼の「曦臣兄上」と甘えて来る声を聞くと、たまらなく愛しくなったものだった。
「此度の清談会ですが、雲夢江氏の持ち回りに決まりました」
「雲夢江氏? 待ちなさい、阿瑶。江宗主から、今は家の建て直しで手が回らないから、清談会は欠席したいと提案があった筈では?」
「そうですが、夷陵老祖を亡き者にした江宗主の功績を皆、讃えたいのですよ。蓮花塢の改修も済んだようですし、此度は雲夢江氏が最適だろうと、皆の意見が合致した末の判断です」
「……そうは言っても……」
 江澄の言う通り、雲夢江氏は蓮花塢の修繕と人員の確保で、金氏から相当な借金をしているともっぱらの噂だ。
 そんな事情もあったから、金光瑶と一緒の時に、江澄から清談会の欠席の要望があった時、彼と藍曦臣は快く同意し、金光瑶も皆を説得すると江澄に約束した筈だった。
「阿瑶。きみも江宗主に約束した筈だ」
「二哥。私とて、万能ではありません。江宗主は子軒の義弟ですが、その子軒は既に故人です。夷陵老祖の件では、皆が等しく、著しい打撃を受けました。雲夢江氏だけ特別扱いは出来ません。私は皆を取りまとめる仙督の立場なのです」
「………」
 金光瑶の言うことはいちいちもっともだが、藍曦臣は江澄が不憫でならなかった。
 たった一人残された身内の姉を亡くし、その原因とも言える魏無羨の亡骸は見つからず、いまの彼はすべてが宙ぶらりんでまるで夢の中にいるような状態だ。
 話しかけても虚ろな目で淡々と返すだけで、以前の覇気に満ち溢れた、若い宗主の面影はすっかり失われてしまった。
 彼が立ち直るまでもう少し時間をやりたいところだが、仙督の決定は、修真界すべての結論だ。
 姑蘇藍氏宗主と言えど、異論はあっても反論のしようがない。
「……江宗主が気の毒だ」
「兄上、私とて心を痛めています。しかしこれは決定事項なのです。納得出来ないかも知れませんが、曦臣兄上が私と反対意見に回っては……」
「いや、きみの邪魔になるような真似はしないよ。安心したまえ」
「それを聞いて安心しました。それと吉報が一つ」
「吉報? 一体、何の吉報だい」
「妻を娶ることにしました」
「え?」
 藍曦臣は目の前の金光瑶を見つめ、しばしぽかんとしてしまった。
 彼らの間で意思の交換はなかったが、暗黙の了解で互いの気持ちは通じ合っていると思っていた。
「阿瑶?」
「秦家のご令嬢です。父が選んでくれた縁談なので、引き受けたいと思います」
「……そうか」
「喜んでくださらないのですか、兄上」
「いや、嬉しいよ。おめでとう、阿瑶」
「ありがとうございます」
 そう笑い、言う事を伝え終えると金光瑶は藍曦臣の元を去って行ったが、これが金光瑶への違和感が生まれた一番最初の出来事だった。
 江澄との約束を簡単に反故にし、藍曦臣に対し、あんなに思わせぶりな態度を取っておいて、この態度だ。
 頭の中で「彼は何かおかしい」と警鐘は鳴ったが、彼を信じたい藍曦臣は自分の誤解だったと言い聞かせ、見なかった振りでこの記憶を抹消することにした。
 それよりも江澄だ。
 ちょうど今、彼も金鱗台を訪れており、藍曦臣は江澄に会う為に、彼の部屋を訪れることにした。
 コンコンと扉を叩くと、陰鬱な目をした江澄が出迎えに出た。
「藍宗主」
「いや、挨拶は抜きで。この処、調子はどうだい?」
「可もなく、不可もなく。私の調子があなたに何の関係がありますか」
「………」
 この通り。
 あの一件以来、江澄の人柄はがらりと変わっていた。
 特に清談会の決定が既に彼に伝えられているのか、期待を裏切った藍曦臣に対する視線も刺々しい。
「清談会の件は、役に立てずに申し訳なかった。私もいま阿瑶から聞いたばかりで」
「藍宗主の責任ではありません。あなた方を頼った私が浅はかだった。人を頼るだけ無駄ってことです」
「江宗主……」
「他に一体、何のご用ですか、藍宗主。憐れみに来たのなら、同情は不要です」
「清談会は準備に時間と金がかかる。我が姑蘇藍氏も焼失した雲深不知処の改修工事で余裕はないが、雲夢江氏とは古い付き合いだ。私どもが助けになるのなら、遠慮せず頼って欲しい」
 ひょっとして白々しかっただろうか。
 江澄が恥を偲んで自分の財布事情を話し、清談会は無理だと金光瑶に頼んだ時に彼を助けてやれずに遠慮せずに頼れなんて自分でも良く言えたなと苦笑してしまう。
 江澄も同意だったようで、馬鹿にした様に鼻でせせら笑った。
 以前の彼ならこんな憎しみのこもった目で藍曦臣を見つめることはなかった。
 そのことがものすごく哀しかった。
「沢蕪君、魏無羨の肩を持った弟を持つあなたの何を頼れと? あなた方姑蘇藍氏は本当にどれだけ高慢なんだ」
「江宗主」
「良いから出て行ってください。金のことは、金殿に頼むしかあるまい。だとしても姑蘇藍氏のあなたには関係のないことです。三尊なんて呼ばれているが、かつての五大世家のうちの三つの代表があなた方だ。温氏が滅んだ今、今度は雲夢江氏を潰す魂胆か。だとしても、けしてあなたたちの思い通りにはさせない。俺はあなたたちをけして頼らないし、あなたたちに媚を売る気もない」
「困ったな。どこまで頑固なんだ」
「言った筈です。俺がどうだろうと、姑蘇藍氏には関係のないこと」
 そんなことより藍忘機の心配でもしていろ、と江澄に詰め寄られ、それはさすがに藍曦臣もきつい言葉で戒めた。
「忘機は反省しています。姑蘇藍氏宗主として弟に然るべき罰も与えました」
「どうだかな。含光君も魏無羨の仲間じゃないとどう証明する。俺はこの件を仙督にきちんと裁いて貰うつもりだ」
「あの子に手出しをするなら、私も容赦しません。江公子、冷静になりなさい。私はあなたと敵対するつもりはない。あなたと魏公子──、魏無羨は私の弟と同世代。つまりあなたたちも弟同然だと感じています。魏公子のしでかしたことは他人事とは思えません。あなたの味方になりたい私と敵対するのが本当に得策だと思いますか」
 藍忘機同様、修真界ではその人柄に定評のある藍曦臣に真摯な言葉をかけられ、さしもの江澄も幾分冷静さを取り戻したようだ。
 冷たい視線は変わりはないが、彼が感じている今の苦痛を思えばそれは仕方のないことだろう。
「岐山温氏は滅びた。蘭陵金氏だけは以前と変わらず勢力を保ち、清河も大した被害は被っていない。姑蘇藍氏と我ら雲夢江氏だけが壊滅的な被害を被った」
「ええ。だからこそ、私はあなたのことを心配しているのです。江宗主……、」
「でもあんたら三尊は親しいもの同士、お互いのことだけを庇い合うのだろう。なら俺の雲夢江氏はどうなる。今は四大世家だが雲夢江氏が消えれば蘭陵金氏、清河聶氏、そして姑蘇藍氏の三尊がいる世家の天下だ。さぞかし雲夢江氏が疎ましくて仕方ないだろう」
「江宗主、きみは我々を誤解している」
「どこが誤解だ! 雲夢江氏の窮状を知りながら、金のかかる清談会をうちに押し付けた。ましてやうちの人材は殆ど温氏に殺されたんだぞ! 金銭面だけでもとても清談会なんてお遊びにかまけていられないってのに俺の立場が弱いことにつけ込んで押し付けたじゃないか!」
 実は藍曦臣もそれは思い当たった。
 金光瑶の意向ではないだろうが、彼の父親の金光善ならやりかねない。
 彼は温若寒同様、他の世家の弱体化を狙い、金銭的な負担をそれとなく周囲に押し付けている。
「──江宗主。先にも話した通り、我々姑蘇藍氏も厳しい状況にある」
 それ見たことか、と鼻で嗤う江澄に、藍曦臣は重ねて「しかし」と別の案を提案する。
「明玦兄上に相談して見よう。あの人ならきっと協力してくれる筈だ。私から何とか説得してみよう」
「別に何もしてくれなくても良いです。あなた方に借りは作りたくない」
「借りではない。私が勝手に引き受けることだ。きみが思い悩む必要はない」
 藍曦臣を信じて良いものか。
 江澄はしばらく無言で押し黙っていたが、彼が窮状に立たされているのもまた事実だ。
「身内でさえ裏切るのに──。他人など、信用出来るものか」
 ぼそりとそ呟いたが、それ以上の文句は言わなかった。
 身内と言うのは多分魏無羨のことだろう。
 昏い目をしている江澄の横顔を眺め、藍曦臣は何とか彼の助けになってやりたいと心底考えた。
「何をしている」
 帰るのかと思いきや、懐を探り始めた藍曦臣に、江澄が訝しげな表情を浮かべる。
 その顔は彼がかつて藍氏の座学に参加していた時の若者姿を彷彿とさせた。
「明玦兄上の元を訪ねたばかりでね。あの家は昔から因果を背負っていて、清心音で心を鎮めなければならないんだ。きみにも聴かせてあげたいと思ってね」
 そんなこと、不要だと江澄の目は言っていたが、藍曦臣は構わず、音程を合わせたのち、早速楽曲を奏で出した。
 藍曦臣の指が奏でる優雅な楽曲に、尖っていた江澄の表情も次第に変化し、やがてすやすやと寝入ってしまった。
 眠る表情はまだまだ少年のままだな。
 江澄の寝顔を見ながらそう考える。
「江宗主。力になれず、すまない」
 そっと声を掛けたが夢の中にいる江澄には届かないだろう。
 せめて彼の気持ちを解してくれる優しい夢を見てくれていると良いのだが──。
 江澄を起こさない様に、藍曦臣は静かに扉を閉め、そして部屋を出て行った。


20241101
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