珍しく魏無羨を本気で怒らせました
秋と言えば、仙門百家、名門の子息たちを集め開かれる、姑蘇藍氏の座学である。
非常に歴史が長く、名家の子息たちの社交の場としての役割も果たしていた。
学ぶのは主に藍氏の門弟に伝承される礼節の数々である。
どんな放蕩息子であろうと、雲深不知処で学んで来れば立派な修士になると評判だった。
その姑蘇藍氏の座学を持ってしても更生出来なかった人物がただ一人。
後ほどその一人の悪党は夷陵老祖と呼ばれ、修真界すべてを敵に回し、大暴れの末、雲夢江氏の若宗主に寄って退治されたのであった。
「めでたし、めでたし」
淡々と言い放つ江澄の締め括りの言葉に、魏無羨が早速不満の声を上げる。
「なんだ。異論があるのか」
と江澄が蔑んだ目を彼に向ければ、魏無羨だって当然、黙っていられない。
不毛な喧嘩を買って出た彼によって、寒室の一室は途端に騒がしくなった。
「大体な、この俺がいつ、お前なんかに殺られたってんだ! 江澄、お前は俺を殺す度胸もなく、剣を岩にぶつけただけだろうが。藍湛が証人だぞ!」
そう。
江澄は「死ね」と魏無羨に向かい、剣を突き立てたものの、結局、彼を殺すのは忍びなく、愛剣三毒は虚しく岩を突き刺した。
それを見てしまった魏無羨は悲しみと後悔が限界まで満ち溢れ、自ら藍忘機の手を振り解いて奈落の底へと落ちて行ったのが正解だ。
世間では夷陵老祖は雲夢江氏の若宗主に殺されたと思われているが、江澄は魏無羨を殺していない。
魏無羨を殺したのは他でもない魏無羨自身だった。
「一度は江家の者として、我が家に受け入れた男だ。お前ごときでは、俺の慈悲の心など見抜けぬか」
「何が慈悲だ。三毒聖手のお前に、慈悲の心があったなんて初耳だぞ! 俺が死んでいる間、お前は一体、何人の詭道の使い手を無惨に痛ぶった。殺した数ならお前だって負けてないだろう」
「殺されて当然の者を殺したまで。詭道に傾倒する者はすべて殺して当然で、そうするべきであった」
「なるほど。それがお前の本心か」
「ああ、今でもそう思ってるけどな!」
「まあまあ、止めなさい、二人共」
ここは寒室。
言うまでもなく、代々の姑蘇藍氏宗主が住む屋敷である。
雲深不知処の中心部にあり、館の主は当然、宗主の藍曦臣だが、その弟の藍忘機は雲深不知処の中でも特に外れた、人気のない竹林の先、彼らの母親が軟禁されていた静室に居を構えている。
藍忘機の希望であり、今となっては魏無羨と二人で過ごすのにお誂え向きな立地にあるが、こうして藍曦臣に呼ばれる度、せっせと竹林を抜けて来なければならないのが不便と言えば不便だ。
そして今日はまさにその藍曦臣に呼ばれ、藍忘機と魏無羨は彼の屋敷を訪れていた。
目下の問題はこれから始まる雲深不知処での座学に関してである。
「阿凌も参加させることにした」
と江澄が藍曦臣の元へ話を持って来たのだ。
「本来なら、宗主となった金公子に参加の資格はありません。考えても見てください。蘭陵金氏の宗主が我が姑蘇藍氏から指導を受けたとなれば、金氏の立場がありますまい。金氏の歴史は現存する大世家の中でも一番古く、我が姑蘇藍氏がまだ少数の一派でしかなかった頃から、彼らと温氏は修真界の中心でした」
やんわりと答える藍曦臣の返答を当然江澄も予想はしていた。
「勿論、あなたに教えていただかずとも、修真界の歴史ぐらい俺だって諳んじられる。俺が金凌を姑蘇藍氏の座学に参加させたいのは、あいつがまだまだ未熟で、他の家の者と交流を持つ前に、蘭陵金氏を継がざるを得なくなってしまったからだ。沢蕪君、それに含光君も周知のことと思うが、金凌は人格的に問題がある。同じぐらいの年齢である彼らと交流の場を持たせ、金凌の性格に変化があればと思っているのだ」
「人格に問題あるのはお前も一緒だろ、江澄。それでも立派に宗主を務めているじゃないか」
「お前はいちいち──、黙ってろ、痴れ者が!」
「俺が痴れ者なら、お前は愚者だろ」
少し話が進んだかと思えばすぐに魏無羨が横から茶々を入れて話がまた脇道に逸れてしまう。
藍忘機はいつもの如くだんまりで、藍曦臣だけが右を向いて魏無羨をたしなめたり、左を向いては江澄をなだめたりと忙しかった。
「魏公子、江宗主は非常に礼儀正しい人です。確かに気心が知れた相手に対しては少々、辛辣で口が悪いかも知れませんが、そうでない相手には常にとても丁寧な対応を心がけていらっしゃいます」
「ほら、沢蕪君でさえお前を弁護しきれていないぞ。気心が知れた相手に対して辛辣ってのはかなり遠慮した表現だぜ。本音をぶっちゃければ、お前は相当、性格が悪いってことだ」
「俺の性格はともかく! 金凌を座学に参加させる以上、魏無羨、お前が雲深不知処の中を自由に歩き回るのは困ると。俺が言いたいのはその一点だ」
「何で俺が悪者扱いされてるんだよ」
「魏無羨、お前、さっき言ったよな。なら俺がこれから言うことも、沢蕪君、含光君の二人が証人だ」
「はあ?」
唐突に名を出され、それまでぽーっと我関せずで庭を眺めていた藍忘機は、突然江澄から証人呼ばわりされ、何事かと兄に助けを求めた。
しかし藍曦臣とて、自分が一体何の証人にされたのかさっぱり分からない。
魏無羨は江澄を睨みつけ、大きな声で罵った。
「藍湛が証人ってどう言うことだよ。藍湛は俺の味方で、お前の味方なんてしないんだからな!」
「それはどうかな。含光君、世間から尊敬を集める貴殿に質問をするが」
江澄の目線を受け止めた藍忘機は、「誰がお前の命令を聞くか」と言いたげな目を彼に向けたが、江澄は一瞬怯んだだけですぐに気を取り直した。
藍忘機、そして藍曦臣を味方につけなければ、彼の大切な甥の学習の場が魏無羨によって台無しにされてしまう。
ずいっと詰め寄り、藍忘機に向かい、「座学の話だ」と江澄は教えてやった。
「座学……?」
「そうだ。俺と魏無羨が藍氏の座学を受けた時、お前も一緒に受けていたよな」
いささか顔が近すぎる様で、藍曦臣が背後で何か言いたげな顔をしていたが、当然、江澄はお構いなしだった。
彼にとって何より大事なのは姉の息子、金凌の成長を見守ることである。
「魏無羨、お前は含光君を目の敵にして、あれこれと手を尽くして嫌がらせの限りを尽くしていた。それに相違はないな」
「嫌がらせでやってたわけじゃない。俺は藍湛と仲良くなりたかっただけだって!」
「ほう。ただ仲良くなりたかっただけだと? それで藍忘機が見たいと思ってもいない春画を無理やり見せ、こいつに言われたんだよな、「今すぐ、失せろ」と」
「うっ……!」
「………」
「含光君、姑蘇の双璧と呼ばれた藍忘機と言えば、当時は我々、若手にとって、まさに模範と言える成績優秀者で我々の保護者が揃って「藍の兄弟をみならいなさい」と言うぐらいの人格者だった。そのお前が学友に対して「失せろ」と言うなんて、よほど動揺したせいだよな」
「………」
「おい、江澄、そんなこと言ってお前だって、散々、あいつらは女の出来損ないだとか、文句垂れてただろうが。そんな大昔のこと……っ」
「確かに魏無羨と一緒に中傷したこともあるが、それは俺から見ても彼ら兄弟が妬ましかったからだ。俺は藍忘機を妬んでいたし、羨ましいとも思っていた。なれることなら、藍氏双璧になりたいと思ったこともある。当時の若手は皆、同じ様に思っていたはず」
江澄は一体、何が言いたいのか。
藍兄弟は先が読めず、怪訝な顔をしていたが、魏無羨は彼の着地点をちゃんと把握していた。
「つまり、お前は何が言いたいんだ、江澄」
一応聞いては見るが、したり顔で答えた江澄の返答は魏無羨の予想通りのものだった。
「俺に対して藍忘機が声を荒げたことなど一度もない。しかしお前に対しては彼は幾度も声を荒げ、剣を抜いたことさえあった。藍忘機だけではないぞ。俺は藍先生に叱られたことは一度もないが、お前は藍先生を幾度も怒らせ、この温厚な沢蕪君でさえ怒らせたことがある。違うか?」
まさに江澄の言う通りだから魏無羨は何の返答も出来なかった。
愛しい人が不利になったと気付き、藍忘機が弁護に回ろうと口を開いたが、さしもの彼も恋人をどう弁護して良いのやら。
そのぐらい当時の魏無羨の言動は酷いものだった。
かろうじて藍忘機が言えたのは、「それは、昔のことだ。いまの魏嬰には関係はない」と言う弁護にもならない力弱いもので、江澄の笑いが深くなっただけだった。
「いまの魏無羨に関係ないだと? こいつが沢蕪君を怒らせたのはいつのことだ。確か、つい最近の聞いた筈だが。行事用で注文した酒を魏無羨が掠め取ったんだよな」
どうやら藍曦臣から江澄に漏れてしまったらしい。
魏無羨と藍忘機で藍曦臣を恨みがましい目で睨んだが、勿論、後の祭りだ。
「こんな男を名家の子息たちの眼の前に出しても姑蘇藍氏は平気と仰るのか。歴史ある、由緒正しい、藍氏の座学の歴史が魏無羨一人に穢されるかも知れないのに、それでも沢蕪君と含光君はこいつの肩を持つと?」
「……阿澄、言い過ぎだ。魏公子にだって良いところもある。それはきみが一番……」
「沢蕪君。魏無羨の良いところとは? 集まった子どもたちに酒の飲み方でも教えるか? それとも詭道の繰り方を教えるか。それだけじゃないぞ、俺はこいつから藍氏の家訓を上手くやり過ごす抜け道を散々教えて貰った。俺と聶懐桑はこいつのおかげで当時は随分と愉しませて貰ったものだ」
「江澄、この裏切り者!」
「どうなんだ、沢蕪君、含光君! それでもこいつを座学に集まる子どもたちの目に触れさせるつもりか! うちの金凌を誑かしでもたら、容赦せず、藍氏の責任も追求するぞ!」
これはさすがに藍曦臣、藍忘機の二人も返事に窮してしまった。
確かに魏無羨が居ては何かと問題を起こすのは目に見えているし、仮に何も起こさなかったにしても、いまの江澄同様、過去の魏無羨の奇行を知る者は彼が息子たちに悪影響を及ぼすのではと気が気でないだろう。
藍忘機まで自分の味方をしてくれなそうな状況にだんだんと魏無羨の顔色も変わって来た。
「なあ、藍湛。まさかお前まで、俺のことを悪者にする気じゃないよな」
「………」
藍忘機からの返事はない。
代わりに江澄のむかつく笑いが聞こえて来ただけだった。
藍曦臣が深い溜息を吐き、とりあえずの妥協案を三人に提示する。
「座学の間、魏公子には蓮花塢へ行って貰うのはどうだろう」
「何故、蓮花塢に。お断りだ」
「俺だって絶対嫌だね。こんな性格悪い奴と顔を突き合わせて暮らすなんて絶対嫌だ!」
「ならば──、忘機と彼の二人で、どこか仮の住まいを借りて。その間だけでも雲深不知処を離れるとか」
それは良さそうだ。
魏無羨はともかくとしても、藍忘機は興味を惹かれたようだった。
「兄上がそれで構わないのでしたら──」
「私は構わないよ。お前が留守の間、仙督の業務も兼任しよう」
「冗談じゃないぞ!」
そう魏無羨は叫んで何とか抵抗を試みたが、藍曦臣、藍忘機を味方につけてしまった江澄の勝ちは揺るがないようだった。
「魏嬰、待ちなさい。魏嬰」
寒室からの帰り道。
藍忘機に呼ばれても魏無羨は振り返らず、怒りに任せて歩き続けていた。
江澄の勝ち誇った顔を思い返す度に、怒りが込み上げて来る。
邪魔者扱いされたこととか、かつての奇行についてぐだぐだ言われたことより、江澄に負けた事実が、そして藍忘機まで江澄の味方についたことがとにかく苛立たしかった。
「魏嬰……」
「聞こえてるよ! なんだよ、さっきの態度!」
唐突に振り返った魏無羨に面食らい、藍忘機は彼に突き飛ばされるまま、蹌踉めいたが、すぐに態勢を立て直し、「魏嬰」と再び彼の名を呼んだ。
「私ときみでしばらくこの雲深不知処を離れるだけだ。そんなに怒ることではないし、きみも前からここを離れたいと言っていた」
「そうだけど。追い出されたいとは言っていないだろ」
「追い出されたわけじゃない。座学が終わればまたここに戻れば良い」
「俺は戻る気はないけどな」
藍忘機は藍曦臣と違い、魏無羨を上手くなだめて手玉に取るなど出来る人間ではない。
彼に出来るのはただ哀しげに魏無羨を見つめるだけで、愛する相手の信頼を失ってしまったことに心を痛めることだけだった。
「すまない、魏嬰」
「謝ったところで何が変わる。藍湛は江澄の味方をして俺を裏切ったんだからな。俺は今日というこの日を良く覚えておくことにするよ」
「魏嬰………」
とは言え、魏無羨も身から出た錆だと言うことは良くわかっていた。
確かに座学時代の魏無羨は不真面目で皆の勉強の邪魔ばかりして年中、藍啓仁に叱られてばかりいた。
藍氏の座学の歴史の中で、途中で「家に帰れ」なんて放り出された生徒は後にも先にも魏無羨一人ぐらいなものだった。
そして多分彼のことだから、金凌がこの雲深不知処にやって来て座学の期間、窮屈な家訓に縛られて過ごしていたら、きっと老婆心から余計なおせっかいを焼いてしまうだろう。
金凌に礼節を身に着けさせ、立派な修士になってもらいたい江澄が彼の存在を疎ましく思う気持ちもわからないでもないのだ。
それでもやはり邪魔者扱いは腹が立つ。
何より一番腹立たしいのが藍忘機だ。
彼は最後まで魏無羨の味方をするべきだった。
「もう藍湛とは口聞かないからな!」
「………」
魏無羨が口を開かなければ藍忘機からはめったに話しかけて来ないから、彼らのいる空間は沈黙が重かった。
「魏嬰、持って行くものの整理は自分でしなさい」
そう藍忘機に言われたが「藍湛とは口聞かない」と心に決めた魏無羨はシカトをし続けた。
やむなく藍忘機がせっせと魏無羨の荷物をまとめている。
荷物と行っても数枚の着替えと今はまるで使っていない随弁。それに鬼笛陳情だけだ。
藍忘機の手の中に江楓眠が彼や子どもたちに作ってくれた腰佩が目に入り、それだけは自分の手の中に取り戻して置いた。
江澄がずっと保管し、魏無羨との関係が修復した時に、「父上からだ」と手渡してくれたものだった。
魏無羨の宝物は少ないが、これは数少ない彼の手元に残った雲夢時代の名残だった。
「これを」
と藍忘機が錦蓑をそっと差し出してくれた。
多分、大切な腰佩を傷つけない様にそこへしまえと言いたいのだろう。
やはり藍忘機は誰よりも魏無羨に優しく、誰よりも魏無羨のことを分かっている。
「……俺は、謝らないからな」
拗ねる魏無羨に、藍忘機は「謝る必要はない」と言い、また荷物の整理に戻って行った。
魏無羨の溜息と、藍忘機が物を片付ける音だけが静室に満ちる。
日頃から良く喋る魏無羨だから、沈黙は何よりも苦手だった。
「……江澄の奴、本当に頭くる」
呟いた魏無羨の言葉が聞こえたのか、藍忘機が唐突に立ち上がり、立てかけておいた避塵を手に取った。
「どこへ行くんだよ、藍湛」
「……江晩吟を追い返す。二度と雲深不知処の敷地には入らせない」
「止せってば。本気で怒っちゃいないっての」
「………」
本当に。
本気で江澄に腹など立ててはいない。
彼らの関係はそんな浅いものではなく、親しい間柄だからこそ、お互い本音をぶつけられるのだ。
仕方がないから魏無羨も機嫌を直し、
「藍湛のこともさ。ああは言ったけど、本気で怒ってはいないよ。むしゃくしゃしただけさ」
と付け加えてやった。
「ただお前まで江澄の味方をしたのは、ちょっと悔しかった。本当は座学のことなんてどうでも良いし、雲深不知処を離れることだって、どうでもいい。藍湛も一緒だしな」
そう彼が言うと、藍忘機はとても嬉しそうに破顔した。
まったくこれだから、と言いたくなる。
やはり魏無羨の藍湛は世界で一番可愛くて、誰よりも頼りになって、何よりもそばにいて欲しい存在だ。
「なあ、藍湛。雲深不知処を離れたら、酒が飲み放題?」
「きみの好きに。ただ私達の食い扶持は、自分たちで稼がないと」
「それなら俺に任せとけって。名家の出の藍湛は経験ないだろうが、乱葬崗でひもじい暮らしの経験もしている俺はちゃんと自活の方法を知っているんだ。俺が金を稼いでやるよ。心配すんな」
「うん。任せる」
にっこりと笑いかけて来る藍忘機がとにかく愛しくて、魏無羨は彼の頬に盛大な音を立てて口づけてやった。
彼らの珍しい大喧嘩はこれで一件落着。
翌日にはいつもの忘羨に戻って、夫夫仲睦まじく雲深不知処を出て行った。
しかし一件落着となったのは忘羨の関係だけで、江澄への魏無羨の怒りはまったく収まっていなかった。
弟夫夫の様子を見ようと藍曦臣が江澄を伴って彼らが暮らす僻地の屋敷を訪れたのたが、江澄だけはどう頑張っても敷地に入れず、見えない壁に邪魔され、彼らの屋敷に足を踏み入れることが出来なかった。
「魏無羨! お前の仕業だな! せっかく来てやったのにこの仕打ちはなんだ!」
「誰が来てくれと頼んだよ。確かお前、俺が子どもたちに悪影響を及ぼすとのたまわっていなかったか? 悪人の俺はお前のお目汚しになるのは申し訳ないから、お前とは今後一切、顔を合わせずにいてやるよ」
「魏無羨! 後で後悔しても知らないからな!」
「誰がするもんか! 藍湛、玄関に塩まいておけ!」
ぷりぷり怒って帰ってしまう江澄に藍曦臣が困惑し、何とか魏無羨をなだめようかとしたのだが無駄だった。
「魏公子、阿澄も甥を思って言っただけで……」
「もちろん、そんなことは俺も分かってるさ。心配いらないよ、沢蕪君。お灸を据えたら、俺からちゃんと仲直りしに行ってやるさ」
「本当かい? 阿澄は口ではあんなことを言っていても、きみのことは肉親同様に思っているんだからね。それを忘れない様に」
「分かってる。沢蕪君、あの我儘お姫様のことよろしく頼むよ。江澄のご機嫌を取るのはお手の物だろ」
やれやれ、と言う顔で江澄の後を追う藍曦臣に笑いながら、魏無羨は藍忘機が持って来た塩を盛大に門の前にぶちまけてやった。
兄のことを心配げに眺める藍忘機に「大丈夫だよ」と声を掛け、魏無羨は藍忘機の飾り気のない素朴な出で立ちに満足げな微笑を浮かべる。
雲深不知処にいた時はきっちりと髷を結い、冠を外さなかった藍忘機だが、この地で魏無羨と二人で暮らす彼は簡素な衣に身を包み、髪も簡単に後ろで結っているだけだった。
こんな素朴な姿でも藍忘機の美貌はまったく崩れず、むしろ白の校服より若く見えて、魏無羨も満足だった。
「俺達、ずっと二人っきりでここで畑を耕しながら、暮らしても良いかもな。どう思う、藍湛?」
「きみがそうしたいなら」
「あはは」
高々と魏無羨は笑いを上げたが、多分、金凌の座学が終わる頃には彼らは雲深不知処に戻るだろう。
庶民の暮らしを楽しんではいても、藍忘機はやはり皆の尊敬を集める含光君で、修真界を取りまとめる仙督だ。
「残念だが、俺の含光君はこんなところで芋の山に埋もれて終わる様な器じゃない。お前の居場所はやはり雲深不知処だ」
「私の居場所はきみのそばだ、魏嬰」
これまでも、これからも。
藍忘機はそう言ったが、魏無羨に言わせればこれまでもこれからも。
含光君は含光君であり続け、彼の藍湛は姑蘇藍氏の藍忘機である時が一番似合っている。
ただ今はちょっと寄り道の最中で、
「俺のご機嫌を取るためだけに、庶民に扮してるだけさ」
と魏無羨がからかうと、鍬を構えた藍忘機が戯けて見せ、魏無羨を大いに笑わせた。
ほんの束の間の楽しい時間だ。
ひょっとしたら江澄の陰険さがもたらした賜物なのかも知れないが、そのことには目を瞑り、鍬を振り上げる藍忘機に向かい、魏無羨も思いっきり空に飛び上がって抱きついてやった。
終わり
20241031
非常に歴史が長く、名家の子息たちの社交の場としての役割も果たしていた。
学ぶのは主に藍氏の門弟に伝承される礼節の数々である。
どんな放蕩息子であろうと、雲深不知処で学んで来れば立派な修士になると評判だった。
その姑蘇藍氏の座学を持ってしても更生出来なかった人物がただ一人。
後ほどその一人の悪党は夷陵老祖と呼ばれ、修真界すべてを敵に回し、大暴れの末、雲夢江氏の若宗主に寄って退治されたのであった。
「めでたし、めでたし」
淡々と言い放つ江澄の締め括りの言葉に、魏無羨が早速不満の声を上げる。
「なんだ。異論があるのか」
と江澄が蔑んだ目を彼に向ければ、魏無羨だって当然、黙っていられない。
不毛な喧嘩を買って出た彼によって、寒室の一室は途端に騒がしくなった。
「大体な、この俺がいつ、お前なんかに殺られたってんだ! 江澄、お前は俺を殺す度胸もなく、剣を岩にぶつけただけだろうが。藍湛が証人だぞ!」
そう。
江澄は「死ね」と魏無羨に向かい、剣を突き立てたものの、結局、彼を殺すのは忍びなく、愛剣三毒は虚しく岩を突き刺した。
それを見てしまった魏無羨は悲しみと後悔が限界まで満ち溢れ、自ら藍忘機の手を振り解いて奈落の底へと落ちて行ったのが正解だ。
世間では夷陵老祖は雲夢江氏の若宗主に殺されたと思われているが、江澄は魏無羨を殺していない。
魏無羨を殺したのは他でもない魏無羨自身だった。
「一度は江家の者として、我が家に受け入れた男だ。お前ごときでは、俺の慈悲の心など見抜けぬか」
「何が慈悲だ。三毒聖手のお前に、慈悲の心があったなんて初耳だぞ! 俺が死んでいる間、お前は一体、何人の詭道の使い手を無惨に痛ぶった。殺した数ならお前だって負けてないだろう」
「殺されて当然の者を殺したまで。詭道に傾倒する者はすべて殺して当然で、そうするべきであった」
「なるほど。それがお前の本心か」
「ああ、今でもそう思ってるけどな!」
「まあまあ、止めなさい、二人共」
ここは寒室。
言うまでもなく、代々の姑蘇藍氏宗主が住む屋敷である。
雲深不知処の中心部にあり、館の主は当然、宗主の藍曦臣だが、その弟の藍忘機は雲深不知処の中でも特に外れた、人気のない竹林の先、彼らの母親が軟禁されていた静室に居を構えている。
藍忘機の希望であり、今となっては魏無羨と二人で過ごすのにお誂え向きな立地にあるが、こうして藍曦臣に呼ばれる度、せっせと竹林を抜けて来なければならないのが不便と言えば不便だ。
そして今日はまさにその藍曦臣に呼ばれ、藍忘機と魏無羨は彼の屋敷を訪れていた。
目下の問題はこれから始まる雲深不知処での座学に関してである。
「阿凌も参加させることにした」
と江澄が藍曦臣の元へ話を持って来たのだ。
「本来なら、宗主となった金公子に参加の資格はありません。考えても見てください。蘭陵金氏の宗主が我が姑蘇藍氏から指導を受けたとなれば、金氏の立場がありますまい。金氏の歴史は現存する大世家の中でも一番古く、我が姑蘇藍氏がまだ少数の一派でしかなかった頃から、彼らと温氏は修真界の中心でした」
やんわりと答える藍曦臣の返答を当然江澄も予想はしていた。
「勿論、あなたに教えていただかずとも、修真界の歴史ぐらい俺だって諳んじられる。俺が金凌を姑蘇藍氏の座学に参加させたいのは、あいつがまだまだ未熟で、他の家の者と交流を持つ前に、蘭陵金氏を継がざるを得なくなってしまったからだ。沢蕪君、それに含光君も周知のことと思うが、金凌は人格的に問題がある。同じぐらいの年齢である彼らと交流の場を持たせ、金凌の性格に変化があればと思っているのだ」
「人格に問題あるのはお前も一緒だろ、江澄。それでも立派に宗主を務めているじゃないか」
「お前はいちいち──、黙ってろ、痴れ者が!」
「俺が痴れ者なら、お前は愚者だろ」
少し話が進んだかと思えばすぐに魏無羨が横から茶々を入れて話がまた脇道に逸れてしまう。
藍忘機はいつもの如くだんまりで、藍曦臣だけが右を向いて魏無羨をたしなめたり、左を向いては江澄をなだめたりと忙しかった。
「魏公子、江宗主は非常に礼儀正しい人です。確かに気心が知れた相手に対しては少々、辛辣で口が悪いかも知れませんが、そうでない相手には常にとても丁寧な対応を心がけていらっしゃいます」
「ほら、沢蕪君でさえお前を弁護しきれていないぞ。気心が知れた相手に対して辛辣ってのはかなり遠慮した表現だぜ。本音をぶっちゃければ、お前は相当、性格が悪いってことだ」
「俺の性格はともかく! 金凌を座学に参加させる以上、魏無羨、お前が雲深不知処の中を自由に歩き回るのは困ると。俺が言いたいのはその一点だ」
「何で俺が悪者扱いされてるんだよ」
「魏無羨、お前、さっき言ったよな。なら俺がこれから言うことも、沢蕪君、含光君の二人が証人だ」
「はあ?」
唐突に名を出され、それまでぽーっと我関せずで庭を眺めていた藍忘機は、突然江澄から証人呼ばわりされ、何事かと兄に助けを求めた。
しかし藍曦臣とて、自分が一体何の証人にされたのかさっぱり分からない。
魏無羨は江澄を睨みつけ、大きな声で罵った。
「藍湛が証人ってどう言うことだよ。藍湛は俺の味方で、お前の味方なんてしないんだからな!」
「それはどうかな。含光君、世間から尊敬を集める貴殿に質問をするが」
江澄の目線を受け止めた藍忘機は、「誰がお前の命令を聞くか」と言いたげな目を彼に向けたが、江澄は一瞬怯んだだけですぐに気を取り直した。
藍忘機、そして藍曦臣を味方につけなければ、彼の大切な甥の学習の場が魏無羨によって台無しにされてしまう。
ずいっと詰め寄り、藍忘機に向かい、「座学の話だ」と江澄は教えてやった。
「座学……?」
「そうだ。俺と魏無羨が藍氏の座学を受けた時、お前も一緒に受けていたよな」
いささか顔が近すぎる様で、藍曦臣が背後で何か言いたげな顔をしていたが、当然、江澄はお構いなしだった。
彼にとって何より大事なのは姉の息子、金凌の成長を見守ることである。
「魏無羨、お前は含光君を目の敵にして、あれこれと手を尽くして嫌がらせの限りを尽くしていた。それに相違はないな」
「嫌がらせでやってたわけじゃない。俺は藍湛と仲良くなりたかっただけだって!」
「ほう。ただ仲良くなりたかっただけだと? それで藍忘機が見たいと思ってもいない春画を無理やり見せ、こいつに言われたんだよな、「今すぐ、失せろ」と」
「うっ……!」
「………」
「含光君、姑蘇の双璧と呼ばれた藍忘機と言えば、当時は我々、若手にとって、まさに模範と言える成績優秀者で我々の保護者が揃って「藍の兄弟をみならいなさい」と言うぐらいの人格者だった。そのお前が学友に対して「失せろ」と言うなんて、よほど動揺したせいだよな」
「………」
「おい、江澄、そんなこと言ってお前だって、散々、あいつらは女の出来損ないだとか、文句垂れてただろうが。そんな大昔のこと……っ」
「確かに魏無羨と一緒に中傷したこともあるが、それは俺から見ても彼ら兄弟が妬ましかったからだ。俺は藍忘機を妬んでいたし、羨ましいとも思っていた。なれることなら、藍氏双璧になりたいと思ったこともある。当時の若手は皆、同じ様に思っていたはず」
江澄は一体、何が言いたいのか。
藍兄弟は先が読めず、怪訝な顔をしていたが、魏無羨は彼の着地点をちゃんと把握していた。
「つまり、お前は何が言いたいんだ、江澄」
一応聞いては見るが、したり顔で答えた江澄の返答は魏無羨の予想通りのものだった。
「俺に対して藍忘機が声を荒げたことなど一度もない。しかしお前に対しては彼は幾度も声を荒げ、剣を抜いたことさえあった。藍忘機だけではないぞ。俺は藍先生に叱られたことは一度もないが、お前は藍先生を幾度も怒らせ、この温厚な沢蕪君でさえ怒らせたことがある。違うか?」
まさに江澄の言う通りだから魏無羨は何の返答も出来なかった。
愛しい人が不利になったと気付き、藍忘機が弁護に回ろうと口を開いたが、さしもの彼も恋人をどう弁護して良いのやら。
そのぐらい当時の魏無羨の言動は酷いものだった。
かろうじて藍忘機が言えたのは、「それは、昔のことだ。いまの魏嬰には関係はない」と言う弁護にもならない力弱いもので、江澄の笑いが深くなっただけだった。
「いまの魏無羨に関係ないだと? こいつが沢蕪君を怒らせたのはいつのことだ。確か、つい最近の聞いた筈だが。行事用で注文した酒を魏無羨が掠め取ったんだよな」
どうやら藍曦臣から江澄に漏れてしまったらしい。
魏無羨と藍忘機で藍曦臣を恨みがましい目で睨んだが、勿論、後の祭りだ。
「こんな男を名家の子息たちの眼の前に出しても姑蘇藍氏は平気と仰るのか。歴史ある、由緒正しい、藍氏の座学の歴史が魏無羨一人に穢されるかも知れないのに、それでも沢蕪君と含光君はこいつの肩を持つと?」
「……阿澄、言い過ぎだ。魏公子にだって良いところもある。それはきみが一番……」
「沢蕪君。魏無羨の良いところとは? 集まった子どもたちに酒の飲み方でも教えるか? それとも詭道の繰り方を教えるか。それだけじゃないぞ、俺はこいつから藍氏の家訓を上手くやり過ごす抜け道を散々教えて貰った。俺と聶懐桑はこいつのおかげで当時は随分と愉しませて貰ったものだ」
「江澄、この裏切り者!」
「どうなんだ、沢蕪君、含光君! それでもこいつを座学に集まる子どもたちの目に触れさせるつもりか! うちの金凌を誑かしでもたら、容赦せず、藍氏の責任も追求するぞ!」
これはさすがに藍曦臣、藍忘機の二人も返事に窮してしまった。
確かに魏無羨が居ては何かと問題を起こすのは目に見えているし、仮に何も起こさなかったにしても、いまの江澄同様、過去の魏無羨の奇行を知る者は彼が息子たちに悪影響を及ぼすのではと気が気でないだろう。
藍忘機まで自分の味方をしてくれなそうな状況にだんだんと魏無羨の顔色も変わって来た。
「なあ、藍湛。まさかお前まで、俺のことを悪者にする気じゃないよな」
「………」
藍忘機からの返事はない。
代わりに江澄のむかつく笑いが聞こえて来ただけだった。
藍曦臣が深い溜息を吐き、とりあえずの妥協案を三人に提示する。
「座学の間、魏公子には蓮花塢へ行って貰うのはどうだろう」
「何故、蓮花塢に。お断りだ」
「俺だって絶対嫌だね。こんな性格悪い奴と顔を突き合わせて暮らすなんて絶対嫌だ!」
「ならば──、忘機と彼の二人で、どこか仮の住まいを借りて。その間だけでも雲深不知処を離れるとか」
それは良さそうだ。
魏無羨はともかくとしても、藍忘機は興味を惹かれたようだった。
「兄上がそれで構わないのでしたら──」
「私は構わないよ。お前が留守の間、仙督の業務も兼任しよう」
「冗談じゃないぞ!」
そう魏無羨は叫んで何とか抵抗を試みたが、藍曦臣、藍忘機を味方につけてしまった江澄の勝ちは揺るがないようだった。
「魏嬰、待ちなさい。魏嬰」
寒室からの帰り道。
藍忘機に呼ばれても魏無羨は振り返らず、怒りに任せて歩き続けていた。
江澄の勝ち誇った顔を思い返す度に、怒りが込み上げて来る。
邪魔者扱いされたこととか、かつての奇行についてぐだぐだ言われたことより、江澄に負けた事実が、そして藍忘機まで江澄の味方についたことがとにかく苛立たしかった。
「魏嬰……」
「聞こえてるよ! なんだよ、さっきの態度!」
唐突に振り返った魏無羨に面食らい、藍忘機は彼に突き飛ばされるまま、蹌踉めいたが、すぐに態勢を立て直し、「魏嬰」と再び彼の名を呼んだ。
「私ときみでしばらくこの雲深不知処を離れるだけだ。そんなに怒ることではないし、きみも前からここを離れたいと言っていた」
「そうだけど。追い出されたいとは言っていないだろ」
「追い出されたわけじゃない。座学が終わればまたここに戻れば良い」
「俺は戻る気はないけどな」
藍忘機は藍曦臣と違い、魏無羨を上手くなだめて手玉に取るなど出来る人間ではない。
彼に出来るのはただ哀しげに魏無羨を見つめるだけで、愛する相手の信頼を失ってしまったことに心を痛めることだけだった。
「すまない、魏嬰」
「謝ったところで何が変わる。藍湛は江澄の味方をして俺を裏切ったんだからな。俺は今日というこの日を良く覚えておくことにするよ」
「魏嬰………」
とは言え、魏無羨も身から出た錆だと言うことは良くわかっていた。
確かに座学時代の魏無羨は不真面目で皆の勉強の邪魔ばかりして年中、藍啓仁に叱られてばかりいた。
藍氏の座学の歴史の中で、途中で「家に帰れ」なんて放り出された生徒は後にも先にも魏無羨一人ぐらいなものだった。
そして多分彼のことだから、金凌がこの雲深不知処にやって来て座学の期間、窮屈な家訓に縛られて過ごしていたら、きっと老婆心から余計なおせっかいを焼いてしまうだろう。
金凌に礼節を身に着けさせ、立派な修士になってもらいたい江澄が彼の存在を疎ましく思う気持ちもわからないでもないのだ。
それでもやはり邪魔者扱いは腹が立つ。
何より一番腹立たしいのが藍忘機だ。
彼は最後まで魏無羨の味方をするべきだった。
「もう藍湛とは口聞かないからな!」
「………」
魏無羨が口を開かなければ藍忘機からはめったに話しかけて来ないから、彼らのいる空間は沈黙が重かった。
「魏嬰、持って行くものの整理は自分でしなさい」
そう藍忘機に言われたが「藍湛とは口聞かない」と心に決めた魏無羨はシカトをし続けた。
やむなく藍忘機がせっせと魏無羨の荷物をまとめている。
荷物と行っても数枚の着替えと今はまるで使っていない随弁。それに鬼笛陳情だけだ。
藍忘機の手の中に江楓眠が彼や子どもたちに作ってくれた腰佩が目に入り、それだけは自分の手の中に取り戻して置いた。
江澄がずっと保管し、魏無羨との関係が修復した時に、「父上からだ」と手渡してくれたものだった。
魏無羨の宝物は少ないが、これは数少ない彼の手元に残った雲夢時代の名残だった。
「これを」
と藍忘機が錦蓑をそっと差し出してくれた。
多分、大切な腰佩を傷つけない様にそこへしまえと言いたいのだろう。
やはり藍忘機は誰よりも魏無羨に優しく、誰よりも魏無羨のことを分かっている。
「……俺は、謝らないからな」
拗ねる魏無羨に、藍忘機は「謝る必要はない」と言い、また荷物の整理に戻って行った。
魏無羨の溜息と、藍忘機が物を片付ける音だけが静室に満ちる。
日頃から良く喋る魏無羨だから、沈黙は何よりも苦手だった。
「……江澄の奴、本当に頭くる」
呟いた魏無羨の言葉が聞こえたのか、藍忘機が唐突に立ち上がり、立てかけておいた避塵を手に取った。
「どこへ行くんだよ、藍湛」
「……江晩吟を追い返す。二度と雲深不知処の敷地には入らせない」
「止せってば。本気で怒っちゃいないっての」
「………」
本当に。
本気で江澄に腹など立ててはいない。
彼らの関係はそんな浅いものではなく、親しい間柄だからこそ、お互い本音をぶつけられるのだ。
仕方がないから魏無羨も機嫌を直し、
「藍湛のこともさ。ああは言ったけど、本気で怒ってはいないよ。むしゃくしゃしただけさ」
と付け加えてやった。
「ただお前まで江澄の味方をしたのは、ちょっと悔しかった。本当は座学のことなんてどうでも良いし、雲深不知処を離れることだって、どうでもいい。藍湛も一緒だしな」
そう彼が言うと、藍忘機はとても嬉しそうに破顔した。
まったくこれだから、と言いたくなる。
やはり魏無羨の藍湛は世界で一番可愛くて、誰よりも頼りになって、何よりもそばにいて欲しい存在だ。
「なあ、藍湛。雲深不知処を離れたら、酒が飲み放題?」
「きみの好きに。ただ私達の食い扶持は、自分たちで稼がないと」
「それなら俺に任せとけって。名家の出の藍湛は経験ないだろうが、乱葬崗でひもじい暮らしの経験もしている俺はちゃんと自活の方法を知っているんだ。俺が金を稼いでやるよ。心配すんな」
「うん。任せる」
にっこりと笑いかけて来る藍忘機がとにかく愛しくて、魏無羨は彼の頬に盛大な音を立てて口づけてやった。
彼らの珍しい大喧嘩はこれで一件落着。
翌日にはいつもの忘羨に戻って、夫夫仲睦まじく雲深不知処を出て行った。
しかし一件落着となったのは忘羨の関係だけで、江澄への魏無羨の怒りはまったく収まっていなかった。
弟夫夫の様子を見ようと藍曦臣が江澄を伴って彼らが暮らす僻地の屋敷を訪れたのたが、江澄だけはどう頑張っても敷地に入れず、見えない壁に邪魔され、彼らの屋敷に足を踏み入れることが出来なかった。
「魏無羨! お前の仕業だな! せっかく来てやったのにこの仕打ちはなんだ!」
「誰が来てくれと頼んだよ。確かお前、俺が子どもたちに悪影響を及ぼすとのたまわっていなかったか? 悪人の俺はお前のお目汚しになるのは申し訳ないから、お前とは今後一切、顔を合わせずにいてやるよ」
「魏無羨! 後で後悔しても知らないからな!」
「誰がするもんか! 藍湛、玄関に塩まいておけ!」
ぷりぷり怒って帰ってしまう江澄に藍曦臣が困惑し、何とか魏無羨をなだめようかとしたのだが無駄だった。
「魏公子、阿澄も甥を思って言っただけで……」
「もちろん、そんなことは俺も分かってるさ。心配いらないよ、沢蕪君。お灸を据えたら、俺からちゃんと仲直りしに行ってやるさ」
「本当かい? 阿澄は口ではあんなことを言っていても、きみのことは肉親同様に思っているんだからね。それを忘れない様に」
「分かってる。沢蕪君、あの我儘お姫様のことよろしく頼むよ。江澄のご機嫌を取るのはお手の物だろ」
やれやれ、と言う顔で江澄の後を追う藍曦臣に笑いながら、魏無羨は藍忘機が持って来た塩を盛大に門の前にぶちまけてやった。
兄のことを心配げに眺める藍忘機に「大丈夫だよ」と声を掛け、魏無羨は藍忘機の飾り気のない素朴な出で立ちに満足げな微笑を浮かべる。
雲深不知処にいた時はきっちりと髷を結い、冠を外さなかった藍忘機だが、この地で魏無羨と二人で暮らす彼は簡素な衣に身を包み、髪も簡単に後ろで結っているだけだった。
こんな素朴な姿でも藍忘機の美貌はまったく崩れず、むしろ白の校服より若く見えて、魏無羨も満足だった。
「俺達、ずっと二人っきりでここで畑を耕しながら、暮らしても良いかもな。どう思う、藍湛?」
「きみがそうしたいなら」
「あはは」
高々と魏無羨は笑いを上げたが、多分、金凌の座学が終わる頃には彼らは雲深不知処に戻るだろう。
庶民の暮らしを楽しんではいても、藍忘機はやはり皆の尊敬を集める含光君で、修真界を取りまとめる仙督だ。
「残念だが、俺の含光君はこんなところで芋の山に埋もれて終わる様な器じゃない。お前の居場所はやはり雲深不知処だ」
「私の居場所はきみのそばだ、魏嬰」
これまでも、これからも。
藍忘機はそう言ったが、魏無羨に言わせればこれまでもこれからも。
含光君は含光君であり続け、彼の藍湛は姑蘇藍氏の藍忘機である時が一番似合っている。
ただ今はちょっと寄り道の最中で、
「俺のご機嫌を取るためだけに、庶民に扮してるだけさ」
と魏無羨がからかうと、鍬を構えた藍忘機が戯けて見せ、魏無羨を大いに笑わせた。
ほんの束の間の楽しい時間だ。
ひょっとしたら江澄の陰険さがもたらした賜物なのかも知れないが、そのことには目を瞑り、鍬を振り上げる藍忘機に向かい、魏無羨も思いっきり空に飛び上がって抱きついてやった。
終わり
20241031