抑圧
金麟台の高台に立ち、江澄は青い空の下、大きく息を吸い込んだ。
蘭陵金氏がこの地に拠点を構えてからと言うものの、この金麟台は数え切れない程の歌人が詩にしたように、その景観は大陸一と言っても過言はない荘厳さだった。
しかし外観はいかに優れていようともこの中に住む人々、蘭陵金氏の面々がこの宮殿同様、他より優れていたかと言えば、それは疑問も残る。
姉の嫁ぎ先をとやかく言いたくはないが、いままさに金凌と言う新しい旗印の元、生まれ変わろうとするこの家を見ると、旧家と言うものはその歴史が長ければ長いほど改革は容易ではないと実感する。
江澄が歩んで来た道も楽ではなかったが、この先金凌が進まねばならない道も平坦とは言い難いだろう。
叔父として少しでも甥の役に立てればと思うが、江澄には江澄の家があり、結局は他家の人間なのだ。
五百年の歴史を刻む蘭陵金氏を一人で背負って立つには十代の金凌はまだまだ幼く、未熟過ぎる。
彼の周囲にどんな人間を配置するかで朱にも黒にも染まる若者を導いてくれる善人がいないのなら、いっそ江澄の様に壊滅的に滅ぼされ、新しく作り変える方が楽かも知れなかった。
「良い天気だ、江宗主」
いつの間にか隣に立っていた背の低い男に話しかけられる。
男にしてはいささか声が通り過ぎる気がするが、目の前の男は女にしては背が高く、そしてどこかで見たような容貌をしていた。
「──失礼だが、どちらの家の方だろうか」
「どちらの家かだと。そんなもの決まっている」
畏まった物言いをしながら、男の目は始終笑っていた。
目尻の上がった猫の様な大きな瞳は間違いなく見覚えがある。
それもその筈。
男と思った人物は、江澄の母方の姪で、虞紫鳶の姉の一人が産んだ息子の愛娘だった。
「誰かと思えば紅楓 か」
「あー、その言い方、傷つくなぁ。それが世紀の美女を目の前にして言う言葉?」
「世紀の美女だと? 一体、どこにいる」
軽口を叩く江澄に向かい、姪の紅楓は力強い握り拳を腹に一発当てる。
とは言え、所詮は女の力だ。
痛い振りで戯けて見せたが、実際は全然痛くもなかった。
「何をしに来た。未来の花婿候補を探しに来たのか。その格好で?」
「おかしい?」
それはもう。
目一杯おかしいに決まっている。
着飾り、髪に花を挿せば、絶世とまでは言えないものの、充分に美しい。
おそらく江澄の母、虞紫鳶の若い頃もこんな感じの華やかな美女だっただろう。
しかし江楓眠が惚れたのは別の女だった。
それが江家の不幸の始まりで、彼の両親が死ぬまで解決出来なかった不和のもとでもあった。
「お前の嫁ぎ先なら、蘭陵が良いとお前の父親に言ってある」
「金如蘭? お断りよ」
男装の美少女は気位の高そうな鼻をつんと上げ、苛烈な言葉を吐き出す。
彼女は昔から男勝りで彼女の両親の悩みの種でもあったが、どう言うわけか江澄に幼い頃から懐いており、会えば必ず、「叔父様のお嫁さんにしてくれる?」が口癖だった。
今でもそんなことを思っているのだろうか、とふと笑いが漏れたが、口許が緩んだ江澄を見て、紅楓もにっこりと笑って見せる。
「私の嫁ぎ先は江家だって昔から言ってるでしょ」
「残念だが、江家の男は一人しかいない。私だけだ」
「勿論。だから私が叔父様に嫁いであげるの。だって幾つになっても独身で嫁いでくれる人がいないんでしょ」
「そうだな」
なんと惨めな叔父なのだろう。
思わずおかしくなって笑ってしまうが、その笑いは石段を上がって来る白い一団を見て止まってしまった。
「姑蘇藍氏だわ」
「ああ」
藍曦臣を筆頭に仙督である藍忘機が続き、そして今回は魏無羨の姿も見えた。
白い集団の中で黒尽くめの彼だけが白鳥に紛れたカラスの様に浮き上がっていた。
「魏無羨?」
「ああ。俺の義理の兄だ。ちゃんと礼を尽くせ」
ぶうとむくれた彼女の頬を抓り、江澄は石段を上がって来る藍曦臣たちを出迎えた。
「藍宗主、仙督も」
「江宗主」
互いに挙手で挨拶を交わし、待ちかねた様に魏無羨が江澄に飛びついて来る。
「江澄、この野郎。近頃、全然顔を見せないじゃないか」
「これでも一応雲夢江氏の宗主だからな」
「ああそうだった。一応、雲夢江氏の宗主だったな」
軽口を叩き合い、横に控えていた紅楓を彼らに紹介する。
男装の美少女に最初は驚いていたが、魏無羨はすぐに慣れて、いつもの冗談で彼女を笑わせていた。
「蘭陵金氏が中で待っている」
似たような風貌をし、立ち姿までほぼ一緒の藍氏双璧に向かい、江澄がそう言うと、二人はほぼ同時に同じ角度で頷いた。
ここまで似通った二人なのに、双子でないのが不思議なぐらいだった。
「魏嬰、先に行く」
「ああ、うん。俺も行くよ。じゃあな、紅楓。後で乱葬崗で見たおばけの話をしてやるよ」
「そんな話、聞きたくないわ」
「ははは」
手を振り、去って行く魏無羨に思い切り舌を出しながら、イーッと歯を向く彼女を後に続く姑蘇藍氏の若者たちがちらちらと振り返っている。
こちらはまごうかたなき世紀の美男である藍氏双璧を見慣れていても、やはりうら若き美少女となると話は別なのだろう。
紅楓が「何よ」とその目線に対して文句をつけると、彼らはそそくさと先を歩く双璧の後を追って行った。
「姑蘇藍氏は嫌いだわ」
「そうか。蘭陵金氏よりはましだぞ」
「どこがよ。お高く止まって、他家の人間を見下しているわ。叔父様の義理のお兄様、魏無羨をなんと呼べば良いのかしら」
「叔父で良いだろう。自分がなんと呼ばれようとあいつはさほど気にしない」
「じゃあ魏の叔父様かしら。あの人がよく姑蘇藍氏のもとで生活出来てるわね。一番馴染めなそうなのに」
「それは俺も思っていた」
いつの間にか紅楓が江澄の腕を取って歩いている。
それに気づいて手を離せと目線で訴えたが、無駄だった。
彼女は未だに本気で江澄の嫁になると決めているようで、自分の定位置はここだと思っているらしかった。
金凌への挨拶が済んだのか、藍曦臣が江澄を探して彼の元へとやって来た。
「先程の姪御殿は」
「うるさいから母親の元へ返して来た」
「美しい娘さんだ」
「欲しいなら仲介してやるぞ。絶賛、花婿募集中だ」
「……あの娘からしたら、私はもう良い歳のおじいさんだよ」
「そうだな」
謙遜して見せたのに同意されてしまい、何とも言えない顔で江澄を見返す藍曦臣が可笑しくて肩を揺すって笑ってしまっていた。
「あの子なら、きみの甥にちょうど良いだろう」
「俺もそう思うんだが、紅楓が嫌がっている。同世代の男はガキ臭くて嫌なんだそうだ」
「なるほど。しかし虞家のお嬢さんなら引く手数多だろう。ましてやあの美貌だ。叔父上の心配は無用かと」
「それがそうも行かない。困ったことにあいつが希望する嫁ぎ先は雲夢江氏の宗主で、あの子の母親も乗り気だ」
「雲夢江氏の宗主? 私が知る限りでは、その位に該当するのは、江晩吟と言う名の男しかいないと思うが」
「その通りだ。おかげで従兄弟から睨まれている。冗談じゃないぞ」
「冗談じゃないですよ。駄目です、絶対」
「絶対? あんたの意向は聞いていないが」
ちらりと江澄に睨まれ、藍曦臣は幾分申し訳無さそうな顔をして見せたものの、全然納得していない様子で嘆息した。
まさか本気で江澄が姪と結婚するとは思っていないだろうが、こんな風に反対されると江澄の天邪鬼な性格が頭をもたげる。
何故、彼の婚姻話に藍曦臣が口出しするのかと。
二人の関係を考えれば当然かも知れないが、彼がまるで藍曦臣の所有物かのような態度を示されるのはやはり面白くなかった。
身体の関係はあれど、江澄は藍曦臣のものではないし、藍曦臣とて江澄の所有物ではない。
彼ら二人の関係はいつでも精算出来るべきで、お互いにもっと自由であるべきだった。
江澄の不機嫌さを嗅ぎ取ったのか、藍曦臣が江澄を手招きし、人気のない方へと誘い出す。
密談は大いに結構。
彼らの関係は隠匿して然るべきだから、江澄も意義は唱えず、従った。
とりあえず金麟台の使われていない部屋の一室に入り、藍曦臣が話を切り出すのを待つ。
これでも一応、彼の方が年長者だから、江澄も立てているのだ。
端からはそう見えなくても江澄なりに気は使っている。
振り向いた藍曦臣の瞳を縁取る睫毛の長さに改めて感心し、この容姿が人によって生み出されたことを称賛したい気分になった。
不思議なものだ。
藍曦臣と藍忘機の顔は生き写しの様にそっくりで違いと言えば表情だけなのに、江澄の目には藍曦臣の容姿は魅力的に映り、藍忘機の美貌はまったく心惹かれない。
つまり容姿の美醜など、性格の一致や相性の前ではどうでもいいことなのだと気付かされる。
藍曦臣から見た江澄も同じ様に魅力的に見えるのだろうか。
彼は良く江澄の容姿を褒めるから多分そうなのだろう。
江澄自身は彼ら兄弟に比べれば自分の容姿など十把一絡げのもので取り立てて褒められるものでもないと思っている。
「沢蕪君」
「ほらまたそれだ。阿澄、きみは歩み寄ってくれたかと思うとすぐにまた私の手元から逃げようとする」
「あんたは沢蕪君で、姑蘇藍氏の宗主で、俺からしてみりゃ目上の存在だ。そりゃたまには歩み寄ることもあるが、この関係だけは変わらない。節度は保つべきだろう」
「確かにね。さっきの話だが、まさか本気であの子を娶るつもりかい?」
「俺もあんたも世継ぎを作ることを望まれている。子を作る能力があるうちはそのしがらみからは逃げられないさ。それとも去勢でもしてみるか」
「私は真面目に話しているよ」
江澄だって真面目に話している。
そりゃ藍曦臣の言う真面目からはかけ離れているかも知れないが、彼のなかでは真摯な部類だ。
「相手があいつとは限らないが、そのうち結婚はするさ。必ずする。言っておくが、俺は自分の子が欲しい」
「きみは口では突き放していても心のうちでは相手を思いやる気持ちがある人だと思っているよ。愛情を抱けない相手と結婚する様な人ではない」
「俺の両親を知らないのか? 父親は魏無羨の母親を一途に想い、母はそんな父を恨んでばかりだった。しかし俺と姉の二子をもうけた。世の中そんなもんさ」
「納得いかない」
「あんたが納得いかずとも、結婚するかどうかを決めるのは俺だ。あんたの指図は受けない」
突き放す様な江澄の言葉に藍曦臣は傷ついた様子を見せ、眉間に皺を寄せた。
江澄だって彼を傷つけるのは本意じゃない。
ただ単に自分の権利と彼が立ち入って良い領域をはっきりさせたいだけなのだ。
(多分に───。俺と言う人間は、彼よりずっと冷酷だ)
藍曦臣の目に浮かぶ非難の色を見、江澄はしみじみそう思った。
傷つけたいわけではないが、嘘で塗り固めてその場をごまかす様な真似もしたくない。
相手に適当に合わせ、相手が望むような答えをあげられればそれが一番だが、そんな器用な真似が出来る性格でもないのだ。
つくづく藍曦臣は好きになる相手を間違えたとしか思えない。
誰もが思わず微笑んでしまうような美を持ちながら、よりにもよって選んだ相手が江澄だったなんて。
本当に姑蘇の兄弟は揃って自ら苦難と言う足枷を嵌めたがっているとしか思えない。
「沢蕪君」
「私が君からそう呼ばれるのを嫌がると分かっていてわざと呼んでいるのかい。そんなきみに返事をする義理があるだろうか」
おやおやすっかり拗ねてしまったと内心笑い、とりあえずご機嫌を取っておくことにした。
何も今すぐ誰かと結婚する気はないし、いま江澄が藍曦臣を必要としているのも確かなことだ。
彼の隣へと躙り寄り、白い頬にそっと唇を寄せた。
それでも藍曦臣のご機嫌斜めは直りそうにない。
「さっき話したのは、今後、ひょっとしたらの話だ。今すぐ誰かと結婚したいって話じゃないし、姪と結婚することも考えてない。考えても見ろ。俺とあの子じゃ歳が釣り合わなすぎる。金凌が妥当な線だろう。あんたのところの若いのと結婚させても良いが」
「そんなに子が欲しいのなら、きみを幸せにしてくれる相手を探してその人に尽くすべきだ。きみがご機嫌を取る相手は私ではない」
「拗ねるのかよ。まったく藍忘機と言い、姑蘇の人間は頑固でわからず屋だ」
「きみがそれを言うとはね」
どうやら本気で藍曦臣を怒らせてしまったらしい。
だからと言って江澄もこれ以上彼のご機嫌など取りたくないから、それならそれでいいやと肩を竦め、諦めた。
勝手に部屋を出て行く江澄を藍曦臣の声が引き止めたが、
「あんたが聞く耳を持たないんだろ」
と切り捨てさっさとその場を後にした。
いささか彼に悪いことをしたとは思ったが、一度折れれば充分だ。
謝罪を受け入れない藍曦臣の方が悪い。
そんなふうなことを思いながら歩いていると、会いたくもない魏無羨と鉢合わせてしまった。
顔を合わせた途端、くるりと後ろを向く江澄に魏無羨が「はあ?」と声を上げる。
「何なのお前、その態度。なあ、俺がお前に何かしたか」
「喧しい。いまお前の相手をする気分じゃない」
「俺の相手をする気分じゃないって、それ完全に八つ当たりだろう」
まったく、本当に魏無羨と言う男は腹が立つ。
彼の言うことはいちいちもっともで、江澄が言い負かされるのが常だから余計に腹が立つのだ。
「藍忘機のところへ行ってれば良いだろう。暇だからって俺に擦り寄るな」
「だって藍湛は清談会の打ち合わせがあるって言うんだから仕方ないだろ。江澄、お前が俺の相手をしなくて誰が俺の相手をするんだよ」
「だから知るかってんだ。藍忘機が清談会の打ち合わせに出ていると言うなら、俺も金凌の叔父として顔を見せねばならん」
「お前の姓は江。金凌の姓は金。お前は江家の宗主で、今回の清談会は蘭陵金氏のもの。お前の口出しは無用だ」
「本当に口が減らないな」
「俺からそれを取ったら何も残らないからな」
自分で言うなと可笑しくて吹き出してしまった。
こうなっては喧嘩の振りもしづらくなる。
魏無羨とお互い貶し合って馬鹿話をしているうちにさっきの藍曦臣との言い合いなどすっかり忘れ、久し振りに雲夢の悪ガキ二人に戻っていた。
夜になり、江澄が一人で酒を飲んでいると藍曦臣がやって来た。
何も言わず、目の前の席に座り、江澄が酒を飲み干すと酒を手に取って盃に注いでくれる。
機嫌が直ったのかと思ったがどうやらそんなこともなかったらしい。
コトンと酒瓶を卓に置いた音で何気なく視線をあげた江澄と藍曦臣の視線が噛み合う。
「相変わらず不機嫌だな」
と問いかけると、
「そんなことはない」
と返って来た。
「いつものあんたならこんなに黙っていないだろ」
「雲深不知処にいる時の私のことを知らないかい? 殆ど誰とも会話をせずに読書に耽っていることも少なくないよ。それに我が家の家訓は」
「無駄口禁止だろ。座学を受けてる半年間、嫌と言うほど聞いたし、うんざりする程清書した」
魏無羨が写した量に比べれば江澄が写した量など比較にもならないが、それでも今でもしっかり記憶に残っている程だ。
藍曦臣の顔にもようやく苦笑が浮かび、彼らの間の気まずさも薄れて行った。
卓の上で伏せられている使われていない盃を手に取り、江澄は酒を注ぐと藍曦臣の前へと置いてやった。
彼が飲まないことは分かっているが、飲むことで気が紛れることもある。
特に解決しようのない出口のない問題に突き当たった時は酒ほど気分転換になるものもなかった。
「俺もあんたも跡継ぎを求められる立場だ。自分の意のままにならないことも受け入れなければならないこともある」
「阿澄、きみは私よりずっと考えが大人だ。私はそれほど割り切って考えられない」
「割り切らなきゃ乗り越えられないことばかり起きたからな。平坦な道だったらどれだけ良かったか」
しかし平坦でなかったからこそ今がある。
あの時雲夢江氏が滅ぼされず、両親も姉も健在だったら、今こうして藍曦臣と向き合うこともなかっただろう。
「あんたは普通に妻を娶って結婚して、俺の子とあんたの子でいがみ合いをしていたかも知れない。昔の俺達みたいに」
「私は君たちと張り合ったことは一度もないよ」
「うん」
そうだ。
藍曦臣は江澄と肩を並べることはなく、「沢蕪君」として遠い存在のままだっただろう。
そう考えると今の自分も悪くないと思えて来る。
「阿澄」
江澄が注いだ酒を飲み干し、藍曦臣は熱のこもった目を彼に向けて来た。
機嫌は直っているようだが普段の彼とはやはり違う。
どうした、と問うと、「済まないことをした」と唐突に謝られた。
「何の話だ。結婚の話であんたを突き放して傷つけたのは俺だぞ」
「うん。さっきも言った様に、きみの方が大人だ」
「藍曦臣?」
何があったと再び問いかける前に彼が江澄の隣へと移動し、頭をもたげて来た。
やはりなにか変だ。
単に酔っただけじゃない。
むしろなにかあったから江澄からの酒を受け取った様に見えた。
「謝らねばならないようなことをしでかしたのか」
「うん。してしまった」
「一体何を」
「当たってしまったんだ」
「誰に」
全く要領を得ない。
詳しく聞いて見るとどうやら江澄の姪、紅楓と一悶着あったようだ。
自分の娘の様な年齢の少女相手に何をしているんだとほとほと呆れたが、当の藍曦臣はもっと悄気げている。
さすがに江澄までお小言を言って彼を追い詰めることは出来ず、代わりに空になった彼の盃に酒を注いでやった。
「困った男だな。相手は十代の娘だぞ」
「確かに自分の娘のような年齢だ。しかし私からきみを奪おうとするなら相手の年齢は関係ない」
「だったらなんで落ち込んでるんだ。あんたは何も悪くないんだろう」
「大人気ないことをした。ただただ恥ずかしい」
何を言ったのかは知らないが、藍曦臣が口にする程度のことだ。
きっと紅楓自身はそれが嫌味とは気づかず、彼女は何も分かっていないに違いない。
しかし言った当人である藍曦臣は後悔に苛まれ、こうして自己嫌悪に陥っている。
酒が入って気弱になっている彼を見て江澄も怒る気力もなくなってしまった。
「まったくあんたと言う人は」
「うん。最低な人間だ」
そこまで酷くはないだろう。
むしろこんな風に落ち込んで自省している彼は可愛らしくもある。
江澄は藍曦臣の顎を掴むと自身の方へと引き寄せ、半ば乱暴に唇を重ねた。
彼らは跡継ぎを望まれる立場で、いずれは精算しなければならない関係だが、やはりいつまでも彼に愛して欲しいし、常に江澄のそばに居て欲しい。
そうは思っていても言葉に出して約束は出来ないから、せめて態度で示したい。
のしかかり、押し倒す江澄の背を藍曦臣が強く抱き、その心地よさに思わず声を漏らしてしまった。
江澄が一番愛しく思う相手はやはり目の前の彼しかいない。
終わり
20241029
蘭陵金氏がこの地に拠点を構えてからと言うものの、この金麟台は数え切れない程の歌人が詩にしたように、その景観は大陸一と言っても過言はない荘厳さだった。
しかし外観はいかに優れていようともこの中に住む人々、蘭陵金氏の面々がこの宮殿同様、他より優れていたかと言えば、それは疑問も残る。
姉の嫁ぎ先をとやかく言いたくはないが、いままさに金凌と言う新しい旗印の元、生まれ変わろうとするこの家を見ると、旧家と言うものはその歴史が長ければ長いほど改革は容易ではないと実感する。
江澄が歩んで来た道も楽ではなかったが、この先金凌が進まねばならない道も平坦とは言い難いだろう。
叔父として少しでも甥の役に立てればと思うが、江澄には江澄の家があり、結局は他家の人間なのだ。
五百年の歴史を刻む蘭陵金氏を一人で背負って立つには十代の金凌はまだまだ幼く、未熟過ぎる。
彼の周囲にどんな人間を配置するかで朱にも黒にも染まる若者を導いてくれる善人がいないのなら、いっそ江澄の様に壊滅的に滅ぼされ、新しく作り変える方が楽かも知れなかった。
「良い天気だ、江宗主」
いつの間にか隣に立っていた背の低い男に話しかけられる。
男にしてはいささか声が通り過ぎる気がするが、目の前の男は女にしては背が高く、そしてどこかで見たような容貌をしていた。
「──失礼だが、どちらの家の方だろうか」
「どちらの家かだと。そんなもの決まっている」
畏まった物言いをしながら、男の目は始終笑っていた。
目尻の上がった猫の様な大きな瞳は間違いなく見覚えがある。
それもその筈。
男と思った人物は、江澄の母方の姪で、虞紫鳶の姉の一人が産んだ息子の愛娘だった。
「誰かと思えば
「あー、その言い方、傷つくなぁ。それが世紀の美女を目の前にして言う言葉?」
「世紀の美女だと? 一体、どこにいる」
軽口を叩く江澄に向かい、姪の紅楓は力強い握り拳を腹に一発当てる。
とは言え、所詮は女の力だ。
痛い振りで戯けて見せたが、実際は全然痛くもなかった。
「何をしに来た。未来の花婿候補を探しに来たのか。その格好で?」
「おかしい?」
それはもう。
目一杯おかしいに決まっている。
着飾り、髪に花を挿せば、絶世とまでは言えないものの、充分に美しい。
おそらく江澄の母、虞紫鳶の若い頃もこんな感じの華やかな美女だっただろう。
しかし江楓眠が惚れたのは別の女だった。
それが江家の不幸の始まりで、彼の両親が死ぬまで解決出来なかった不和のもとでもあった。
「お前の嫁ぎ先なら、蘭陵が良いとお前の父親に言ってある」
「金如蘭? お断りよ」
男装の美少女は気位の高そうな鼻をつんと上げ、苛烈な言葉を吐き出す。
彼女は昔から男勝りで彼女の両親の悩みの種でもあったが、どう言うわけか江澄に幼い頃から懐いており、会えば必ず、「叔父様のお嫁さんにしてくれる?」が口癖だった。
今でもそんなことを思っているのだろうか、とふと笑いが漏れたが、口許が緩んだ江澄を見て、紅楓もにっこりと笑って見せる。
「私の嫁ぎ先は江家だって昔から言ってるでしょ」
「残念だが、江家の男は一人しかいない。私だけだ」
「勿論。だから私が叔父様に嫁いであげるの。だって幾つになっても独身で嫁いでくれる人がいないんでしょ」
「そうだな」
なんと惨めな叔父なのだろう。
思わずおかしくなって笑ってしまうが、その笑いは石段を上がって来る白い一団を見て止まってしまった。
「姑蘇藍氏だわ」
「ああ」
藍曦臣を筆頭に仙督である藍忘機が続き、そして今回は魏無羨の姿も見えた。
白い集団の中で黒尽くめの彼だけが白鳥に紛れたカラスの様に浮き上がっていた。
「魏無羨?」
「ああ。俺の義理の兄だ。ちゃんと礼を尽くせ」
ぶうとむくれた彼女の頬を抓り、江澄は石段を上がって来る藍曦臣たちを出迎えた。
「藍宗主、仙督も」
「江宗主」
互いに挙手で挨拶を交わし、待ちかねた様に魏無羨が江澄に飛びついて来る。
「江澄、この野郎。近頃、全然顔を見せないじゃないか」
「これでも一応雲夢江氏の宗主だからな」
「ああそうだった。一応、雲夢江氏の宗主だったな」
軽口を叩き合い、横に控えていた紅楓を彼らに紹介する。
男装の美少女に最初は驚いていたが、魏無羨はすぐに慣れて、いつもの冗談で彼女を笑わせていた。
「蘭陵金氏が中で待っている」
似たような風貌をし、立ち姿までほぼ一緒の藍氏双璧に向かい、江澄がそう言うと、二人はほぼ同時に同じ角度で頷いた。
ここまで似通った二人なのに、双子でないのが不思議なぐらいだった。
「魏嬰、先に行く」
「ああ、うん。俺も行くよ。じゃあな、紅楓。後で乱葬崗で見たおばけの話をしてやるよ」
「そんな話、聞きたくないわ」
「ははは」
手を振り、去って行く魏無羨に思い切り舌を出しながら、イーッと歯を向く彼女を後に続く姑蘇藍氏の若者たちがちらちらと振り返っている。
こちらはまごうかたなき世紀の美男である藍氏双璧を見慣れていても、やはりうら若き美少女となると話は別なのだろう。
紅楓が「何よ」とその目線に対して文句をつけると、彼らはそそくさと先を歩く双璧の後を追って行った。
「姑蘇藍氏は嫌いだわ」
「そうか。蘭陵金氏よりはましだぞ」
「どこがよ。お高く止まって、他家の人間を見下しているわ。叔父様の義理のお兄様、魏無羨をなんと呼べば良いのかしら」
「叔父で良いだろう。自分がなんと呼ばれようとあいつはさほど気にしない」
「じゃあ魏の叔父様かしら。あの人がよく姑蘇藍氏のもとで生活出来てるわね。一番馴染めなそうなのに」
「それは俺も思っていた」
いつの間にか紅楓が江澄の腕を取って歩いている。
それに気づいて手を離せと目線で訴えたが、無駄だった。
彼女は未だに本気で江澄の嫁になると決めているようで、自分の定位置はここだと思っているらしかった。
金凌への挨拶が済んだのか、藍曦臣が江澄を探して彼の元へとやって来た。
「先程の姪御殿は」
「うるさいから母親の元へ返して来た」
「美しい娘さんだ」
「欲しいなら仲介してやるぞ。絶賛、花婿募集中だ」
「……あの娘からしたら、私はもう良い歳のおじいさんだよ」
「そうだな」
謙遜して見せたのに同意されてしまい、何とも言えない顔で江澄を見返す藍曦臣が可笑しくて肩を揺すって笑ってしまっていた。
「あの子なら、きみの甥にちょうど良いだろう」
「俺もそう思うんだが、紅楓が嫌がっている。同世代の男はガキ臭くて嫌なんだそうだ」
「なるほど。しかし虞家のお嬢さんなら引く手数多だろう。ましてやあの美貌だ。叔父上の心配は無用かと」
「それがそうも行かない。困ったことにあいつが希望する嫁ぎ先は雲夢江氏の宗主で、あの子の母親も乗り気だ」
「雲夢江氏の宗主? 私が知る限りでは、その位に該当するのは、江晩吟と言う名の男しかいないと思うが」
「その通りだ。おかげで従兄弟から睨まれている。冗談じゃないぞ」
「冗談じゃないですよ。駄目です、絶対」
「絶対? あんたの意向は聞いていないが」
ちらりと江澄に睨まれ、藍曦臣は幾分申し訳無さそうな顔をして見せたものの、全然納得していない様子で嘆息した。
まさか本気で江澄が姪と結婚するとは思っていないだろうが、こんな風に反対されると江澄の天邪鬼な性格が頭をもたげる。
何故、彼の婚姻話に藍曦臣が口出しするのかと。
二人の関係を考えれば当然かも知れないが、彼がまるで藍曦臣の所有物かのような態度を示されるのはやはり面白くなかった。
身体の関係はあれど、江澄は藍曦臣のものではないし、藍曦臣とて江澄の所有物ではない。
彼ら二人の関係はいつでも精算出来るべきで、お互いにもっと自由であるべきだった。
江澄の不機嫌さを嗅ぎ取ったのか、藍曦臣が江澄を手招きし、人気のない方へと誘い出す。
密談は大いに結構。
彼らの関係は隠匿して然るべきだから、江澄も意義は唱えず、従った。
とりあえず金麟台の使われていない部屋の一室に入り、藍曦臣が話を切り出すのを待つ。
これでも一応、彼の方が年長者だから、江澄も立てているのだ。
端からはそう見えなくても江澄なりに気は使っている。
振り向いた藍曦臣の瞳を縁取る睫毛の長さに改めて感心し、この容姿が人によって生み出されたことを称賛したい気分になった。
不思議なものだ。
藍曦臣と藍忘機の顔は生き写しの様にそっくりで違いと言えば表情だけなのに、江澄の目には藍曦臣の容姿は魅力的に映り、藍忘機の美貌はまったく心惹かれない。
つまり容姿の美醜など、性格の一致や相性の前ではどうでもいいことなのだと気付かされる。
藍曦臣から見た江澄も同じ様に魅力的に見えるのだろうか。
彼は良く江澄の容姿を褒めるから多分そうなのだろう。
江澄自身は彼ら兄弟に比べれば自分の容姿など十把一絡げのもので取り立てて褒められるものでもないと思っている。
「沢蕪君」
「ほらまたそれだ。阿澄、きみは歩み寄ってくれたかと思うとすぐにまた私の手元から逃げようとする」
「あんたは沢蕪君で、姑蘇藍氏の宗主で、俺からしてみりゃ目上の存在だ。そりゃたまには歩み寄ることもあるが、この関係だけは変わらない。節度は保つべきだろう」
「確かにね。さっきの話だが、まさか本気であの子を娶るつもりかい?」
「俺もあんたも世継ぎを作ることを望まれている。子を作る能力があるうちはそのしがらみからは逃げられないさ。それとも去勢でもしてみるか」
「私は真面目に話しているよ」
江澄だって真面目に話している。
そりゃ藍曦臣の言う真面目からはかけ離れているかも知れないが、彼のなかでは真摯な部類だ。
「相手があいつとは限らないが、そのうち結婚はするさ。必ずする。言っておくが、俺は自分の子が欲しい」
「きみは口では突き放していても心のうちでは相手を思いやる気持ちがある人だと思っているよ。愛情を抱けない相手と結婚する様な人ではない」
「俺の両親を知らないのか? 父親は魏無羨の母親を一途に想い、母はそんな父を恨んでばかりだった。しかし俺と姉の二子をもうけた。世の中そんなもんさ」
「納得いかない」
「あんたが納得いかずとも、結婚するかどうかを決めるのは俺だ。あんたの指図は受けない」
突き放す様な江澄の言葉に藍曦臣は傷ついた様子を見せ、眉間に皺を寄せた。
江澄だって彼を傷つけるのは本意じゃない。
ただ単に自分の権利と彼が立ち入って良い領域をはっきりさせたいだけなのだ。
(多分に───。俺と言う人間は、彼よりずっと冷酷だ)
藍曦臣の目に浮かぶ非難の色を見、江澄はしみじみそう思った。
傷つけたいわけではないが、嘘で塗り固めてその場をごまかす様な真似もしたくない。
相手に適当に合わせ、相手が望むような答えをあげられればそれが一番だが、そんな器用な真似が出来る性格でもないのだ。
つくづく藍曦臣は好きになる相手を間違えたとしか思えない。
誰もが思わず微笑んでしまうような美を持ちながら、よりにもよって選んだ相手が江澄だったなんて。
本当に姑蘇の兄弟は揃って自ら苦難と言う足枷を嵌めたがっているとしか思えない。
「沢蕪君」
「私が君からそう呼ばれるのを嫌がると分かっていてわざと呼んでいるのかい。そんなきみに返事をする義理があるだろうか」
おやおやすっかり拗ねてしまったと内心笑い、とりあえずご機嫌を取っておくことにした。
何も今すぐ誰かと結婚する気はないし、いま江澄が藍曦臣を必要としているのも確かなことだ。
彼の隣へと躙り寄り、白い頬にそっと唇を寄せた。
それでも藍曦臣のご機嫌斜めは直りそうにない。
「さっき話したのは、今後、ひょっとしたらの話だ。今すぐ誰かと結婚したいって話じゃないし、姪と結婚することも考えてない。考えても見ろ。俺とあの子じゃ歳が釣り合わなすぎる。金凌が妥当な線だろう。あんたのところの若いのと結婚させても良いが」
「そんなに子が欲しいのなら、きみを幸せにしてくれる相手を探してその人に尽くすべきだ。きみがご機嫌を取る相手は私ではない」
「拗ねるのかよ。まったく藍忘機と言い、姑蘇の人間は頑固でわからず屋だ」
「きみがそれを言うとはね」
どうやら本気で藍曦臣を怒らせてしまったらしい。
だからと言って江澄もこれ以上彼のご機嫌など取りたくないから、それならそれでいいやと肩を竦め、諦めた。
勝手に部屋を出て行く江澄を藍曦臣の声が引き止めたが、
「あんたが聞く耳を持たないんだろ」
と切り捨てさっさとその場を後にした。
いささか彼に悪いことをしたとは思ったが、一度折れれば充分だ。
謝罪を受け入れない藍曦臣の方が悪い。
そんなふうなことを思いながら歩いていると、会いたくもない魏無羨と鉢合わせてしまった。
顔を合わせた途端、くるりと後ろを向く江澄に魏無羨が「はあ?」と声を上げる。
「何なのお前、その態度。なあ、俺がお前に何かしたか」
「喧しい。いまお前の相手をする気分じゃない」
「俺の相手をする気分じゃないって、それ完全に八つ当たりだろう」
まったく、本当に魏無羨と言う男は腹が立つ。
彼の言うことはいちいちもっともで、江澄が言い負かされるのが常だから余計に腹が立つのだ。
「藍忘機のところへ行ってれば良いだろう。暇だからって俺に擦り寄るな」
「だって藍湛は清談会の打ち合わせがあるって言うんだから仕方ないだろ。江澄、お前が俺の相手をしなくて誰が俺の相手をするんだよ」
「だから知るかってんだ。藍忘機が清談会の打ち合わせに出ていると言うなら、俺も金凌の叔父として顔を見せねばならん」
「お前の姓は江。金凌の姓は金。お前は江家の宗主で、今回の清談会は蘭陵金氏のもの。お前の口出しは無用だ」
「本当に口が減らないな」
「俺からそれを取ったら何も残らないからな」
自分で言うなと可笑しくて吹き出してしまった。
こうなっては喧嘩の振りもしづらくなる。
魏無羨とお互い貶し合って馬鹿話をしているうちにさっきの藍曦臣との言い合いなどすっかり忘れ、久し振りに雲夢の悪ガキ二人に戻っていた。
夜になり、江澄が一人で酒を飲んでいると藍曦臣がやって来た。
何も言わず、目の前の席に座り、江澄が酒を飲み干すと酒を手に取って盃に注いでくれる。
機嫌が直ったのかと思ったがどうやらそんなこともなかったらしい。
コトンと酒瓶を卓に置いた音で何気なく視線をあげた江澄と藍曦臣の視線が噛み合う。
「相変わらず不機嫌だな」
と問いかけると、
「そんなことはない」
と返って来た。
「いつものあんたならこんなに黙っていないだろ」
「雲深不知処にいる時の私のことを知らないかい? 殆ど誰とも会話をせずに読書に耽っていることも少なくないよ。それに我が家の家訓は」
「無駄口禁止だろ。座学を受けてる半年間、嫌と言うほど聞いたし、うんざりする程清書した」
魏無羨が写した量に比べれば江澄が写した量など比較にもならないが、それでも今でもしっかり記憶に残っている程だ。
藍曦臣の顔にもようやく苦笑が浮かび、彼らの間の気まずさも薄れて行った。
卓の上で伏せられている使われていない盃を手に取り、江澄は酒を注ぐと藍曦臣の前へと置いてやった。
彼が飲まないことは分かっているが、飲むことで気が紛れることもある。
特に解決しようのない出口のない問題に突き当たった時は酒ほど気分転換になるものもなかった。
「俺もあんたも跡継ぎを求められる立場だ。自分の意のままにならないことも受け入れなければならないこともある」
「阿澄、きみは私よりずっと考えが大人だ。私はそれほど割り切って考えられない」
「割り切らなきゃ乗り越えられないことばかり起きたからな。平坦な道だったらどれだけ良かったか」
しかし平坦でなかったからこそ今がある。
あの時雲夢江氏が滅ぼされず、両親も姉も健在だったら、今こうして藍曦臣と向き合うこともなかっただろう。
「あんたは普通に妻を娶って結婚して、俺の子とあんたの子でいがみ合いをしていたかも知れない。昔の俺達みたいに」
「私は君たちと張り合ったことは一度もないよ」
「うん」
そうだ。
藍曦臣は江澄と肩を並べることはなく、「沢蕪君」として遠い存在のままだっただろう。
そう考えると今の自分も悪くないと思えて来る。
「阿澄」
江澄が注いだ酒を飲み干し、藍曦臣は熱のこもった目を彼に向けて来た。
機嫌は直っているようだが普段の彼とはやはり違う。
どうした、と問うと、「済まないことをした」と唐突に謝られた。
「何の話だ。結婚の話であんたを突き放して傷つけたのは俺だぞ」
「うん。さっきも言った様に、きみの方が大人だ」
「藍曦臣?」
何があったと再び問いかける前に彼が江澄の隣へと移動し、頭をもたげて来た。
やはりなにか変だ。
単に酔っただけじゃない。
むしろなにかあったから江澄からの酒を受け取った様に見えた。
「謝らねばならないようなことをしでかしたのか」
「うん。してしまった」
「一体何を」
「当たってしまったんだ」
「誰に」
全く要領を得ない。
詳しく聞いて見るとどうやら江澄の姪、紅楓と一悶着あったようだ。
自分の娘の様な年齢の少女相手に何をしているんだとほとほと呆れたが、当の藍曦臣はもっと悄気げている。
さすがに江澄までお小言を言って彼を追い詰めることは出来ず、代わりに空になった彼の盃に酒を注いでやった。
「困った男だな。相手は十代の娘だぞ」
「確かに自分の娘のような年齢だ。しかし私からきみを奪おうとするなら相手の年齢は関係ない」
「だったらなんで落ち込んでるんだ。あんたは何も悪くないんだろう」
「大人気ないことをした。ただただ恥ずかしい」
何を言ったのかは知らないが、藍曦臣が口にする程度のことだ。
きっと紅楓自身はそれが嫌味とは気づかず、彼女は何も分かっていないに違いない。
しかし言った当人である藍曦臣は後悔に苛まれ、こうして自己嫌悪に陥っている。
酒が入って気弱になっている彼を見て江澄も怒る気力もなくなってしまった。
「まったくあんたと言う人は」
「うん。最低な人間だ」
そこまで酷くはないだろう。
むしろこんな風に落ち込んで自省している彼は可愛らしくもある。
江澄は藍曦臣の顎を掴むと自身の方へと引き寄せ、半ば乱暴に唇を重ねた。
彼らは跡継ぎを望まれる立場で、いずれは精算しなければならない関係だが、やはりいつまでも彼に愛して欲しいし、常に江澄のそばに居て欲しい。
そうは思っていても言葉に出して約束は出来ないから、せめて態度で示したい。
のしかかり、押し倒す江澄の背を藍曦臣が強く抱き、その心地よさに思わず声を漏らしてしまった。
江澄が一番愛しく思う相手はやはり目の前の彼しかいない。
終わり
20241029