金凌、江澄に変な薬を飲ませてみる

「こっちだ、こっちに逃げたぞ!」
 藍景儀の呼びかけに左右二手に分かれて金凌と藍思追が追い込む。
 追われている不審な男は藍景儀を突き飛ばし、正面突破を図ったが、行く手を遮る仙子にけたたましく吠えられ、思わずたじろいだところを追いかけてきた三人の少年に取り押さえられてしまった。
「ちょ、坊っちゃん方! 一体アタシが何をしたってんですか!」
「何をしたって、お前の格好はどこからどう見ても怪しいものだろう!」
 そう。
 男は無造作に頭頂部で一本に束ねた髪を紅い結ひもで縛り、身体にはどこかで見覚えのある黒衣を身に着けている。
 誰の目にも彼が夷陵老祖、魏無羨に傾倒しているのは明らかで、実際地面に落ちた商売道具の幟にも夷陵老祖の名が書かれていた。
「道士殿、我々の校服を見ればおわかりかと思うが、私と彼は姑蘇藍氏の門弟です。あなたがその幟に書かれた夷陵老祖、魏無羨がいま姑蘇藍氏の拠点である雲深不知処にいることはご存知ないのですか?」
「は、はあ……」
「我々はあなたが魏先輩の名を騙ることを止めれば不問にするつもりもありますが、これが含光君の知るところとなればあなたの安全は保証しませんよ」
 怪しい道士相手にも礼儀正しさを崩さない藍思追の穏やかな物言いに安心したのか、男はにやけ面で思追におべっかを使い、擦り寄ろうと試みたが、すかさず隣にいた景儀にその手を邪険に振り払われた。
「姑蘇藍氏の含光君を知らぬとは言わせないぞ」
「ああ、道友。私はただの薬師です。夷陵老祖の名を使ったのは、単に薬に泊をつけたいだけでそれ以外の他意は」
「お前に他意があろうとなかろうと、人の名を騙ることが間違ってる。それも魏無羨の名を騙るなんて」
「ああ、蘭陵金氏のお坊ちゃん」
「私はお坊ちゃんじゃないぞ! 蘭陵金氏の宗主、金如蘭だ!」
 さすがに蘭陵金氏宗主の名が出てきたとあってはこれまでと観念したのか、男は商売道具を三人に渡し、二度と魏無羨の名は騙らないと堅く誓った。
 己の罪さえ認めればまだ幼い三人のこと。
 自分たちで彼を裁くことに興味はないから道具を取り上げるだけで堪忍してやることにした。
「ところで何の薬を売ってるんだ?」
「ふふ、聞いて驚かないでくださいよ。私が調合したこの薬はとてつもない効果を秘めているのです」
「とてつもない効果?」
 何でも薬師が編み出したこの特殊な調合は、飲んだ人の性格を真逆に変えてしまうのだそうだ。
「おっかないかかあに悩まされてる世の男の為に私が編み出したこの秘薬! 飲めばたちどころに鬼ババアが心優しき聖女に様変わり!」
 こんな調子で薬を売り歩いていたのだろう。
 薬瓶を手に取った金凌は、不敵に笑うと、
「じゃあお前の身体で試させて貰おう」
と男の口元に押し込んだ。
 男は断固として拒否したが、藍景儀も面白そうだと金凌に加担し、思追が止めるのも聞かずに無理やり男の口に含ませる。
「こんな怪しげな薬を売り歩いて人に飲ませて来たんだろう。だったら自分でも飲んで見ろ。それが魏無羨の名を騙ったお前への罰だ!」
「金公子の言うとおりだ。人には飲ませて、自分は飲みたくないなど通用するか!」
「二人共、止めろよ。どんな理由であれ無理強いは──!」
 そして不思議なことに早速薬の効果が表れ始めた。
 薬師の目がうるうると潤み、縮こまって「すみません、すみません」を繰り返す。
 最初は演技かと思っていたが、どうもそうでもないらしいと分かるとなんだか自分たちが彼を虐めているみたいな気分に陥り、三人はさっさとその薬師を解放してやった。
 彼のその後が心配だが、魏無羨を騙り、薬を売ってアコギな商売をしていた罰だと思えば妥当な結末である。
「しかしこんな薬にそんな効果があるとはな」
 藍景儀が片手で持ち上げた薬瓶に他の二人は不快そうに眉を顰め、思追は「そんな薬捨ててしまえよ、景儀」と勧めたが、金凌は別だった。
 実は彼にはこの薬を使わねばならない理由が持ち上がっていたのだ。
 藍景儀から瓶を奪い、
「叔父上に使う」
と口にして二人を真っ青にさせる。
「江宗主にそんな怪しげな薬を使うなんて絶対駄目だ、金凌!」
「そんなことを言っても、お前らのとこの宗主のおかけで私はまた来期も姑蘇の座学に参加せねばならなくなったんだぞ。叔父上はお前は蘭陵金氏の宗主である自覚があるのかとめちゃくちゃ怒ってる」
「うちの宗主のせいじゃないだろう! 金凌、きみが座学をサボって遊んでばかりだから、沢蕪君はそのままをきみの保護者である江宗主に伝えただけじゃないか」
「だから、いちいち叔父上に告げ口する必要があるかって話だろ」
「姑蘇藍氏の宗主は告げ口なんて卑怯なことは絶対しない!」
「そうだ。沢蕪君や含光君ほど高潔な存在がどこにいるって言うんだ。自分のサボりを棚上げして、沢蕪君を侮辱するのは、金凌、蘭陵金氏のお坊ちゃんと言えど許さないぞ!」
 姑蘇の小双璧は二人。
 対する金凌の味方はハッハッと舌を出して尻尾を振っている仙子だけだ。
 これは非常に歩が悪いから、景儀から取り上げた薬瓶はさっさと懐にしまってしまった。
 こうすれば高邁な二人が金凌から無理やり奪うことなど出来ないのを分かった上の行為である。
「金公子、悪いことは言わないよ。江宗主に何かあったらどうする気だ」
「なにもないさ。あの薬師だって普通に歩いて去って行っただろう。そもそもどうせ薬だ。効果が消えれば元に戻るさ」
「効果が切れて元に戻るなら、きみが江宗主に叱られるのが先延ばしになるだけじゃないか」
 真実を口にしてしまう藍思追の口を塞いで、金凌は愛らしい顔を凄ませて二人をゆっくり指さして見せる。
「この薬のことは、黙ってろよ、二人共」
 聞かれても絶対に答えられるはずがない。
 そんな薬を江澄に飲ませたと知れたら、金凌はともかく、姑蘇藍氏の二人はどれほどの罰を受けるか。
 想像するだけで顔色が青ざめた。
「私達を絶対に巻き込まないでくれよ、金公子」
「そうだ。きみが言い始めたことなんだからな。私と思追はちゃんと止めたぞ」
「お前たちの名など出さなくても、この金如蘭が叔父上に本気で叱られることなんて絶対ないから大丈夫さ」
 だったら座学をサボっていたことも素直に叱られろよと思う二人だが、相手は蘭陵金氏のお坊ちゃんであり、そして一族の宗主でもある。
 触らぬ神に祟りなしを決め込むことにして、小双璧は金凌と別れ、姑蘇へと帰ってしまった。

 それから翌日のこと。
 何も知らない藍曦臣が蓮花塢を訪れて見ると、屋敷の中は大変な騒ぎになっていた。
 何でも家主の江澄の様子がただごとではないらしい。
 江澄の一大事と聞き、藍曦臣も慌てて彼の寝室へと向って見た。
「大師兄を頼ろうかと皆で話し合っていたところです。思わぬ時に藍宗主の訪問を受け、助かりました」
「まだ病状を見てみなければ何とも言えません。それで、江宗主の様子はどの様な?」
「それが──、特に病と言うわけではないのですが」
「病ではない? では何が」
 彼の問いに江澄の副将が困惑気味に口ごもる。
「なんと言いますか。その、非常に人当たりが良いと言いますか」
「人当たりが良い?」
「ええ。始終、笑って居られます。今の時分は曼珠沙華が見事に咲いておりますが、花を手に取り、とても美しいと仰って」
「…………」
 それが大病扱いされてしまう江澄は一体、普段、部下たちにどんな接し方をしているのか。
 しかし藍曦臣も江澄の人となりは良く識っているから、その説明だけで彼のどこがおかしいのかすぐに悟ることが出来た。
「江宗主の心に一体どんな変化が──。近頃、何か変わったことは?」
「特にこれと言って。ただ、藍宗主からのお手紙を見て大変ご立腹ではありました」
「私の手紙? 」
「ええ。金宗主の座学でのご様子を藍宗主が宗主にお伝えしてくださったでしょう」
 心当たりがあった藍曦臣はすぐにああ、と息を吐き出した。
 しかし金凌の座学での様子は激怒こそすれ、江澄の心理を穏やかに変えるとは言い難い。
「その他には何か?」
「昨日、その金宗主が宗主をお訪ねになって、てっきりお叱りを受けるかと思っていましたが、終始、和やかに会話され、金宗主は蘭陵へお帰りになりました」
「終始和やかに?」
「ええ」
 これはやはり江澄に会って見ないと分からない。
 藍曦臣は副将には案内や付き添いは不要と伝え、既に頭に入っている記憶を頼りに入り組んだ蓮花塢の屋敷の中を進み、江澄の寝室へと辿り着いた。
「阿澄、お邪魔するよ」
 そう藍曦臣が断ってから引き戸を開けると、江澄の晴れやかな笑顔が「藍宗主」と喜びに弾け、出迎えてくれた。
「連絡をくれればこちらから出迎えに出たものを」
「………」
「あなたに会えて嬉しい」
「………」
 これは夢か。
 それとも幻か。
 藍曦臣が日頃夢見た江澄の笑顔と従順な姿が目の前にあると言うのに、彼の理性がそれを本物だと受け止めることを拒絶していた。
「阿澄」
 躙り寄り、見つめてくる江澄を片手で制し、藍曦臣はにっこりと微笑んで、近づく彼を一歩後退させる。
 まさか拒絶に合うとは思わなかったのだろう。
 江澄の顔に浮かんだ笑顔が曇り、不安げな表情を向けて来た。
「藍渙? 私が何かあなたの気に障ることでも?」
「いえ。そうではありませんが。あなたは本当に私の知る江宗主なのですか?」
 江澄の指にはちゃんと紫電が嵌めてある。
 特級神器である紫電はまるで意志を持っているかの様に、主以外に身を委ねることはない為、紫電が江澄の指に嵌ったままならば、彼が江澄であることのまごうかたなき証明となる。
 しかし目の前の江澄はあまりにも普段の彼とかけ離れていた。
 普段は藍曦臣がどれほど頼んでも「藍渙」などと名で呼ぶことはないし、「藍曦臣」と言う字でさえ、気まぐれに、そして上機嫌な時でないと口にしてくれない。
 普段は「藍宗主」、もしくは「沢蕪君」。
 この二つの堅苦しい公の肩書のみだ。
「ねえ、阿澄。昨日の夜は何を食べたのかな」
「昨日はなつめの粥と、川魚の煮付けと牛肉だ。そしていただき物の果物があったからそれを食べた。私は食べ過ぎか?」
「いえ。きみは普段から大食漢ですから、むしろ少ないと言えるでしょうね」
「うん。昨晩からどうもすぐに満腹になってしまって。酒も二本しか空けなかった」
「………」
 江澄の言う二本しかとは、勿論、瓶が二つである。
 この身体のどこにそれほど入るのかと言うぐらい、普段から江澄は良く食べ、良く飲んだ。
 藍曦臣は江澄の熱を測ろうと口元に指を伸ばしたが、何を勘違いしたのか、その指が捕らえられ、そして江澄が指先に口づけをした。
 熱を測りたかったからちょうど良いが、やはり今日の彼はおかしすぎる。
「平熱だね。阿澄、ちょっとここに座ろう」
「うん」
「……」
 この「うん」の返事も日ごろと違いすぎてゾワッとする。
 江澄と言えば、「ああ」とか「いや」などと簡潔な言葉で自分の機嫌を表すことに長けていて、けして「うん」の様などこか甘えた口調をしてみせることはほとんどないのだ。
 それこそ二人の間の感情が高まって、寝台の上で抱き合い、唇を重ねる時でさえ、江澄は気位の高い自分を曲げて見せることは絶対しない。
 むしろ藍曦臣はそんな江澄だからこそ惹かれたと言えた。
「阿澄、私の膝の上ではなく、きみも床に座りたまえ」
「やだ。藍渙のそばがいい」
「………」
 こんな駄々っ子で可愛い江澄なんて二目と見られない。
 なかなか心を開いてくれない江澄をもどかしく感じ、彼の心を手に入れたいとずっと思い続けて来たが、従順な彼はやはり江澄とは思えず、藍曦臣は彼の口づけを素直に受け入れることが出来なかった。
 口づけを拒まれ、江澄の顔にまた不安の色が浮かぶ。
「藍渙?」
「元のあなたに戻りなさい、江宗主」
「私のことが嫌いになったのか」
「あなたのことを愛している。愛しているからこそ、今のきみは受け入れられない」
「なんで……」
 猫のように吊り上がった綺麗な二重の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
 それはそれで堪らなく愛おしいのだが、藍曦臣が求める江澄とは違う。
「顔だけ同じ、中身の違うきみには興味がありません。私が欲しいのは従順な淑女のきみではなく、藍曦臣たるこの私のことさえ、塵や屑としか見なさない、そんなきみの高潔さです」
「藍渙……」
「いまのきみは病を患っているのと変わりません。そんなきみに触れ、勝手をすることは、私には出来ないし、自身に許したくもないのです。分かってくれますか、江宗主」
「……嫌いになったのなら、帰ってくれ」
 ぷいっと不機嫌になり、離れて行くところは江澄らしい。
 とりあえず精神を落ち着かせる薬を調合し、彼を眠らせることにした。

 それからしばらくし、薬の効果から覚めた江澄が目を醒ました。
 寝台に腰掛け、上から覗き込む藍曦臣に向かい、「なんだお前は」と言いたげな冷たい視線を向けてくる。
「───何か、ご用か」
「お目覚めの様ですね、江宗主」
「頭が痛い。まるで悪酔いでもしたようだ。それになんだか部屋が臭い」
「部屋が臭い?」
 それは多分、おかしくなった江澄が手折ってきた草花が寝室中に飾られていたせいだ。
 藍曦臣がそれらを片付けてやると、ようやく不機嫌な顔で起き上がり、
「あなたが花を生けたのか」
と文句を言って来た。
「いえ。雲夢江氏の子弟の話では、きみが自分で手折って生けたとか」
「俺が? 花など生けたことはないぞ」
「ええ。私が生けるのなら、もう少し綺麗に生けますし、何より、そのへんの雑草を刈ってきて花瓶に生けることはしませんよ。大切なきみの寝室にそんな無礼をすると?」
「──貶しに来たのか、あんたは」
「いいえ。あなたに伝えに来たのです。阿澄、あなたをとても愛しています」
「気持ち悪い、離れんか」
 自分でも笑いたくなってしまうが、邪険にされる方が嬉しくて堪らなかった。
 やはり江澄はこんな感じでぶっきらぼうな方がいい。
「それにしてもきみの変化の理由は何だったのでしょうね」
「俺の変化? 何があった」
「いえ、こちらのことですよ。それよりも金如蘭が先日、きみを訪ねて、二人で談笑していたそうですが、叱るべきところはきちんと叱らねば駄目ですよ」
「そうだ、金凌だ! あの野郎、見つけたらこっぴどく叱ってやろうと思ってたのに、談笑して帰っただと?」
「ええ。それもきみの副将が証言人です」
「あり得ん! 誰か蘭陵に行っていますぐ金凌を引っ張って来い! あいつは自分が蘭陵金氏の宗主と言う自覚があるのか!」
「まあまあ」
「大体、あんたが余計な手紙を送ってよこすからだ!
知らなきゃ知らないで済んだのに」
「私の責任ですか」
 それは随分ととばっちりだが、江澄の文句を聞きながら、藍曦臣は始終、笑いが込み上げ、止まらなかった。
 やはり彼の恋人はこうでなければ始まらない。
「阿澄、阿凌のことは明日でも良いではありませんか。今日は私がここに居るのですから、私との時間を考えてください」
「ああ?」
 いやだ、離せと言いながら、藍曦臣の口づけを受けると江澄も渋々ながら彼の首に腕を巻き付け、口づけに応えてくれた。
 時には余りのつれなさに愚痴の一つも言いたくなるが、江澄の良さはこの扱いの難しさにあるのだ。
 つれなければつれないほど。
 心が読めなければ読めないほど。
 彼が本心を曝け出してくれた時の喜びが倍増する。
「藍渙と呼んでくれますか、阿澄」
「藍宗主」
 おかしくて笑いが込み上げて来る。
 江澄はやはりこの世の誰よりも一番愛しくて、可愛い。
 そう再認識してしまう藍曦臣だった。

終わり
20241001
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