藍忘機さんがそわそわしている模様です

 十月、某所────。
 某所と言っても、藍忘機と言えば誰しもが最初に浮かぶ場所、それが雲深不知処である。
 仙境が如くの静けさと黄色く色づき始めた紅葉樹。そして常に青々と生い茂る竹林の対比が美しい。
 そんな秋深まる雲深不知処の景色を眺めながら、藍忘機は人知れず静かに息を吐き出した。
 彼の目の前では何よりも大切で、何にも代え難い最愛の人が木工細工に勤しんでいる。
 しめしめ、と舌を出しながら、せっせと木を刳り、何かを作り出している様は到底成人男子には見えず、魏無羨のそんな幼い少年の様な自然体は常に藍忘機の心を和ませた。
「魏嬰」
 一向に彼に関心を向けてくれない為、仕方なく、恋人に呼び掛ける。
 明るい光を放つ黒々とした目が笑いの形を取りながら藍忘機を振り返った。
「なんだい、藍哥哥」
 藍忘機を藍兄ちゃんと呼ぶ時の魏無羨は大体上機嫌だ。
 いや、彼が上機嫌以外だった時こそ珍しく、不機嫌だったりすれば内心焦ってしまうのだが、魏無羨に限っては藍曦臣の某恋人の様にご機嫌を取って、おだてる必要はまったくなかった。
 おだてたところで魏無羨はそれを逆手に取って、藍忘機を誂う材料に変えるだけである。
 まったくどこまでも陽気で少年っぽさが抜けないのが魏無羨なのだ。
「何に精を出している」
「これか? 聞いて驚くなよ」
 魏無羨の発明品はどれも突拍子もなく、驚かされるものばかりだが、藍忘機は驚いて見せる様子は見せない為、魏無羨からは藍忘機に見せてもつまらないと言う評価を頂いているようだ。
 せっかく説明してくれそうだったのに、「やっぱり止めた」とまた作業に戻ってしまい、藍忘機だけが宙ぶらりんのまま取り残されている。
 密かにムッとむくれて見せたが、魏無羨はそれに気づかず、また楽しげに創作活動に勤しんでいた。
 魏無羨が相手にしてくれそうにないから、仕方なく、寒室の兄を訪ねて見ることにする。
「あれ、藍湛、どこ行くんだ?」
 出掛けるなら一緒に連れて行ってもらう算段だったのだろうが行き先が寒室と聞いてまたもや「やっぱりいいや」とあっさり振られてしまった。
 二度も「やっぱり止めた」と言われては藍忘機も正直、面白くない。
 と言うより魏無羨に相手にされなかったことでいじけてしまい、寒室に着き、兄と顔を合わせた途端、「なんだその顔は」と指摘されてしまった。
 勿論、無表情、無愛想がお決まりの藍忘機のことだから、はたから見ればいつも通りで、違いに気が付くのは藍曦臣だからこそである。
「そんな不機嫌な顔で雲深不知処の中を歩くものではないよ。弟子たちに見られたら宗家の面目が立たないだろう」
「いつもと変わりません」
 ぶっきらぼうにそう答える弟に藍曦臣は笑うと彼の為に非常に美味しいお茶を淹れてくれた。
 彼の元には茶の味にうるさい藍啓仁が通うぐらいだから、藍曦臣の淹れる茶は、適温で、色味も良く、また湯気と共に漂う香りも同じ茶葉を使っても全く違う。
 一度なにか混ぜているのかと聞いたことがあったが、兄が差し出した茶葉は彩衣鎮で普通に売られているもので、雲深不知処がまとめて購入し、皆に配っているものと何ら違いはなかった。
「お前の不機嫌の理由と言えば一つしか思い浮かばないな。彼と何か?」
 やはり藍曦臣は藍忘機のことを非常に良く分かっている。
 ひょっとしたら恋人である魏無羨よりも一番藍忘機を理解してくれているのがこの兄かも知れないが、そこはそれ。
 藍忘機の知己はあくまでも魏無羨だから藍忘機はその考えをすぐに明後日の方向へ投げ飛ばした。
「もうじき、魏嬰の生誕日です」
「ああ、阿澄と同じ時期だったね」
「……」
 厄介なことに雲夢のあの二人は誕生日も数日違いでほぼ同じなのだ。
「魏公子には今年も天子笑を贈るつもりなのかい? ならば早めに彩衣鎮の酒楼に注文してやらねば街で売りさばく分が足りなくなってしまう」
 藍忘機の買い方は常にまとめてだから、それこそ「この蔵一つ分」な注文で、毎年、魏無羨の誕生日後の数日は彩衣鎮から天子笑が消える始末だった。
 藍曦臣が指摘したのは既にそれが彩衣鎮の笑い話になっているからで、雲深不知処の麓にある街の十月の珍事として良く知れ渡っていた。
 そして江澄の誕生日が近いこともあり、藍曦臣が江澄の為に天子笑を贈ってやりたくとも、彩衣鎮のどこを探しても天子笑だけが店頭から消えてしまっているのである。
「兄上は江晩吟の生誕日に何を贈るおつもりですか?」
「そうだなぁ」
 先程、紅葉の色づきを眺めながら、藍忘機が人知れず溜息を吐いた理由がまさにそれだった。
 物欲の薄い彼ら兄弟だから、自分が欲しいものも良く分からないし、ましてや自分たちと全く異なる考えの魏無羨や江澄のことは本当に、頭を弄り返して見ても全然思い浮かばなかった。
 魏無羨は天子笑を贈っておけばまず間違いなく喜ぶが、毎年それでは芸がない。
 かと言って女性の様に宝玉や美しい絹を贈っても喜びはしないだろう。
 藍曦臣もまだ考えが纏まらない様で、藍忘機の問いには笑顔で応えることしかしてくれなかった。
「そもそもだ。江宗主に何かを贈ろうにも、彼が手にしていない物など、この世に存在すると思うか」
「………」
 江澄が手にしていないものと言えば、思慮深く、情け深い慈悲の心だと思うが、ただの悪口だから藍忘機も口にはせず、黙っておいた。
 半面、彼の恋人は文句なし。
 非の打ち所のない性格である。
 しかし藍曦臣に言わせれば魏無羨の評価はまるで違っていた。
「魏公子のどこが満点なんだ。彼と来たら、厩舎に忍び込んで馬を驚かせて喜んでいるし」
「馬が上機嫌になる香を調合したから、それを試して見ただけです」
「そんな香を調合する必要がどこにある」
「探究心です。魏嬰の着眼点は他者とまったく異なり、そんな彼だからこそ、数々の道具を編み出しているのです。雲深不知処でも彼が造った霊器を活用しているではありませんか」
「だとしても、馬はどうかと思うよ。魏公子のすることなら何でも受け入れるお前に言っても分からないだろうけど」
「それは兄上も一緒なのではありませんか? 大体、魏嬰の研究をとやかく言うぐらいなら、江晩吟のあの短気さこそ指摘するべきです」
「阿澄は良いんだよ。彼のは性格なのだから」
「江晩吟が良くて、魏嬰が駄目な理由とは?」
「忘機、兄に喧嘩を売るつもりか」
「兄上のことなど言っておりません。江晩吟の短慮さと短気さを指摘しただけです。兄上が魏嬰を指摘したように」
 こんな感じで普段は喧嘩一つしない仲の良い兄弟なのに、雲夢の二人が絡むといつもややこしいことになってしまう。
 しかしそのへんはいつまでもくだらないことに固執しない兄弟の為、あっさりと方向転換して、間もなく近づく雲夢二人の誕生日をどうするかの話題にすぐに切り替えた。

 藍忘機が静室に戻ると、魏無羨はまだ例の木工造りに精を出しており、辺りは薄暗くなってきたと言うのに露台の同じ場所でやり続けていた。
「魏嬰、目を悪くする」
と藍忘機が灯りを持って近づくと、いつもの笑みで出迎えてくれる。
「おかえり、藍湛」
「うん」
 魏無羨はきっと知らないだろう。
 彼のこの出迎えの挨拶だけで藍忘機がどれほど幸せな気持ちに浸っていられるか。
 先程、無碍な扱いをされていささか拗ね気味だった藍忘機の機嫌もこれですっかり治ってしまった。
「何を作っている」
「秘密だって言っただろ。でも大したものじゃないよ。まだ試作品だから、成功品が出来たらまっさきに藍湛にお披露目する」
「そうか」
 魏無羨がそう言うなら間違いなく藍忘機に真っ先に教えてくれるだろう。
 彼の気持ちは疑いようのないものだから藍忘機もその日を待つことにしてそれについて尋ねるのはもう止めにした。
「きみの生誕日が間もなくだ」
「そうだっけ? まだ一月はあるぞ」
「もう一月だ。準備をしなくては」
「俺は藍湛が横にいて、天子笑が並々入った盃を片手に持ってりゃそれで幸せになれるよ」
 魏無羨ならばそうだろう。
 思わず微笑が漏れたが、藍曦臣と既に取り決めたことがあった。
「明日からしばらく留守にする。兄上と出掛ける用事があるから、きみはしばらく蓮花塢に行ってはどうだろうか」
「へ? 蓮花塢に?」
 魏無羨としては勿論嬉しい申し出だが、藍忘機から蓮花塢に行けと言うのも珍しい。
 普段は魏無羨が行きたいと言わねば彼の口から蓮花塢や江澄の話が出ることはないし、そもそも藍忘機は魏無羨を一人で雲深不知処から出したくないのか、出かけてくればなんて言うことも稀だ。
 そんな疑問が魏無羨の顔に出ていたから、藍忘機は見た目はいつも通り、内心はちょっと慌てながら「きみの世話が出来なくなるから」と追加しておいた。
 藍曦臣も留守となると魏無羨の御目付役が不在となり、万が一藍啓仁などの大御所を彼が怒らせてしまった時、誰も責任を負えなくなってしまうのだ。
 そのへんは魏無羨も分かっているから、藍忘機のとっさの言い訳にすぐに納得してくれた。
 後の問題は蓮花塢の受け入れ状態だがこれは問題ないだろう。
 魏無羨一人の食い扶持が増えたところで困るような経済状態ではないし、宗主の江澄も魏無羨について何だかんだと文句を言いながら、来たら来たで喜んで迎え入れることは藍忘機も疑っていない。
「じゃあ早速明日、蓮花塢に発つかな。それとも藍湛が送ってくれるのか」
「江晩吟にも話をしなければならないし、勿論ちゃんと送り届ける」
「うん!」
 江澄の元へ預けておけば藍忘機としても安心だ。
 江澄自身に言いたいことはあれど、彼と魏無羨の仲の良さは疑っていない。
 実際、翌日、魏無羨を蓮花塢へと送り届けたが、江澄は「冗談じゃない」、「こっちも忙しいんだ」と文句をたらたら垂らしながら、やはりどこか喜んでいた。
「魏嬰が世話になる礼だ」
と幾ばくかの金銭と天子笑を差し出してみたのだが、金銭の方は受け取らなかった。
 藍曦臣からの贈り物ならともかく、藍忘機の手から渡されては、江澄の性格だ。
 姑蘇藍氏からの施しなど天変地異が起ころうとけして受け取らないだろう。
 こうして魏無羨を江澄の元へ送り届けたあと、藍忘機は早速、藍曦臣と打ち合わせた場所で落ち合い、とある山をまるごと一つ、ひと月の間借り入れる契約を交わした。
 山の持ち主は
「こんな獣しか寄り付かない辺鄙な場所に、何故こんな大金を」
と不思議がっていたが、辺鄙であるからこそ相応しいのだ。
「契約書を交わしたのだから、間違ってもこの山には誰も近づけぬ様、ちゃんと見張っていただきたい。そうでもないと」
 藍曦臣にそう笑顔でそう言われた山の持ち主は、一体どんな目に合わされるのかと真っ青になり、幾度も頷く。
「一体、ここをどんな用件で使うつもりなんです? ひと月後に返してくださる条件だが、使えなくされては困りますよ」
「問題ない。邪祟を少し放つだけだから」
「邪祟?! それって、鬼ってことですか?!」
「ええ、まあ」
「心配無用。返す時には綺麗に片付けてお返しする」
 それまで一言も喋らなかった藍忘機の冷たい視線と淡々とした物言いに、山の持ち主もたじろぎ、渋々と承諾してくれた。
「一つだけ良いことがあります」
「ほう。して、その良いこととは?」
「この山には温泉が湧いているのですよ。少しばかり熱めですが、傷を癒やすには最適です」
 それは確かになかなか良さげな場所だ。
 兄弟は同じ顔で頷き合い、山の持ち主が不可解な表情で先行きを心配する中、早速、追加の金銭を支払ってこの山の麓にも誰も近づかせない手筈を整えた。
「あとは邪祟を集めて来るだけだな」
「ええ」
 この作業は魏無羨の陳情があったほうが手っ取り早い気もするのだが、当日まで雲夢の二人には秘密にせねばならないから兄弟二人でせっせと周辺の邪祟を狩り、山の中へ解き放った。
 まる三日かけて邪祟を放ちまくった山はどんよりと薄暗い瘴気を放つほどで、禁止令を出さずともまともな住人なら近付きたくない雰囲気を醸し出している。
 自分たちがなし得た成果に兄弟は満足げに微笑み、早速、蓮花塢へと魏無羨たちを迎えに行くことにした。

 一方。
 蓮花塢の居候となった魏無羨は日がな一日、酒をかっ喰らい、江澄と二人で江家の弟子たちを教育したりと気ままな生活を送っていた。
 雲深不知処での藍忘機との生活も勿論居心地良いが、蓮花塢は魏無羨が幼少期から青年期までの多感な時期を過ごして来た場所だ。
 やはり思い入れは比ではなく、どこへ行っても懐かしさが込み上げ、隣に江澄がいる当たり前な感じを数日で改めて噛み締めてしまった。
 きっと江澄も同様だったのだろう。
 宗主になってからはいつも余裕がなさそうな顔で眉間に皺を寄せてばかりいる江宗主が朗らかに笑っているのを見、雲夢江氏の弟子たちも雪でも降り始めるのではないかとしょっちゅう天を眺める始末だった。
「それ、剪刀石头布!」
 それぞれ拳を出し合い、剪刀を出した江澄が石头の魏無羨に負けて頭を抱えて後ろへごろんと転がる。
 こんな姿を彼の甥である金凌に見られでもしたら叔父の面子は台無しだが、今は魏無羨と江澄の二人しかいないからどちらも子供じみた遊びに興じ、笑い合っていた。
 そこへ二羽の白鷺の様な藍兄弟が庭に降り立ち、ちょうどひっくり返って目線が合ってしまった江澄の表情が途端に凍りついた。
 逆さまになっておでこを出しながらこちらを見ている江澄に思わず笑ってしまった藍曦臣と、相も変わらぬ無表情の藍忘機に、江澄もムッとしてすぐに姿勢を正す。
「この数日、随分と楽しげに過ごしていたようだね」
と藍曦臣に言われ、魏無羨は「うん!」と頷いたが、江澄はいつもの不機嫌な返事だけだった。
「やっと魏無羨を引き取りに来たか」
「魏公子だけではなく、きみのこともね」
「俺も?」
 何のことかわからず、急き立てられるまま、表に出て、魏無羨は常の如く、藍忘機の腰に腕を巻きつける。
 御剣の術で長距離を移動する時はいつも藍忘機の避塵に乗せて貰ってるのだ。
 もしかしたら莫玄羽の頼りない仙力でも移動出来るのかも知れないが、魏無羨はあれ以来、随弁では以前の様に闘えない為、もっぱら鬼笛陳情しか持っていない。
 そんな魏無羨を毛嫌いする様に眉間の皺を深くした江澄だが、「きみも」と藍曦臣に促され、「どこに行くんだ」と理由も分からないまま、例の山へと一行は飛び立った。

 兄弟がせっせと邪祟を集めた山の異様な雰囲気を見、魏無羨は目をきらきらと輝かせ、そして江澄は片眉を吊り上げて怪訝そうな顔をして見せる。
「藍湛、藍湛! この山には退治しなきゃならない邪祟がてんこ盛りのようだな!」
「うん」
 思ったとおり、二人が準備した企画は雲夢双傑の闘争心を見事に煽ってくれたようだ。
「どうせなら点数制に」
 藍曦臣の提案にどうやって点数をつけるんだ?と疑問符を浮かべたのもつかの間。
 魏無羨が目を輝かせ、ぱちんと指先を打ち、懐から例の木工細工を取り出して見せる。
「聞いて驚くなよ。この小箱はこんなに小さいのに中に捕らえた魔物を好きなだけ詰め込むことが出来るんだ!」
 どうやら魏無羨がせっせと拵えていた発明品は、邪祟を捕らえて運ぶ為の箱だったらしい。
「ほい、江澄」
「あ? なんで俺に渡すんだよ」
「だって当然、俺と藍湛が組むんだから、お前は沢蕪君と組むことになるだろ」
「俺が藍宗主と?」
 嫌そうな顔をしながら藍曦臣を振り返る江澄を当の藍曦臣はにこにこと嬉しそうに眺めている。
「安心したまえ。弟にはまだまだ負けませんから」
「いや、そう言うことではなく」
「言ったな! 藍湛、絶対勝利だー!」
「うん」
「いや、お前ら、勝手に」
「よし、開始ー!」
 魏無羨の合図で早速、彼を掴んだ藍忘機が避塵に乗り、空へと舞い上がる。
 どうやら彼は頂上から狩っていくようだ。
 それならば藍曦臣、江澄組は麓から挑戦するべきだろう。
 白い衣をはためかせ、旋回しながら頂上に向けて上昇する藍忘機、魏無羨を余所に、藍曦臣も江澄に向けて手を伸ばし、
「さあ、行こうか、阿澄」
と彼を誘った。
 やれやれ、と思わないでもないようだが、点数を競い合うとなれば、俄然負けん気が湧いてくる江澄である。
 藍曦臣の手こそ取らなかったものの、紫電の稲光で辺りを照らしながら、早速、目の前で動いた一体を鞭先の一撃でやすやすと仕留めた。
「藍曦臣、あんたの弟には負けられないぞ」
「勿論だよ、阿澄」
 頂上から魏無羨が奏でる陳情の音色が鳴り響く。
「魏無羨の奴、頂上に邪祟を集めるつもりだ!」
 以前、彼がまだ莫玄羽として生き返される前。
 魏無羨が魏無羨として生きていた時の狩猟大会で彼は一同から大ひんしゅくを買った前例がある。
 陳情の音色で邪祟を操り、自ら雲夢江氏の網の中にかかる様に仕向けたのだ。
「汚いぞ、魏無羨!」
 麓で吠えようと、頂上にいる魏無羨に聞こえるはずもなく、藍忘機が繰り出す避塵の白い閃光が山のそちこちで上がっていた。
 これでは負けてしまうと焦る江澄の横で、藍曦臣がゆっくりと自身の縦笛、裂氷を取り出し、優雅に口元へと運ぶ。
 江澄が見守る中、藍曦臣が奏でる蕭からは雅な音色が流れ出し、陳情が奏でる音色とぶつかり、互いを打ち消しあった。
「でかした! 藍宗主! あとは俺に任せろ!」
 陳情と裂氷が邪祟を取り合って、引き寄せられた魔物を藍忘機と江澄で討ち取って行く。
 魏無羨もさすがに割に合わないと諦めたのか、陳情を武器に邪祟を狩り始め、笛の音が止んだのを合図に藍曦臣も裂氷から朔月に持ち換えて江澄と共に邪祟を狩りながら頂上を目指した。
 結果は────
「俺と藍湛の勝ちーーーー!」
 最初に陳情で邪祟を集めた魏無羨たちの方に軍配が上がった。
「やり口が汚いぞ、魏無羨!」
「ははーん、勝てば官軍って言葉を知らないのか、江澄。そいつは負け犬の遠吠えだぞ」
「喧しい!!」
 二人はぎゃあぎゃあと喚いているが、狩りを楽しんでもらえた様で、藍兄弟としては非常に満足な結果となった。
 おまけにこの山には温泉もある。
 捕らえた邪祟をすべて浄化させ、疲れた身体を温泉で癒やし、そして雲夢双傑の二人はちゃっかりと天子笑の熱燗も愉しんだ。
 江澄は酔いが回ったのか、眠気が襲って来てぐったりしてしまった為、彼を送って行く藍曦臣とはその場で別れ、藍忘機は魏無羨を連れ、雲深不知処へ帰ることにした。
 気持ちよく酒が飲めた魏無羨は始終上機嫌で、酔って火照る肌に夜気が心地良いからとまだ散策したいと言い始める。
「せっかく湯で身体を温めたのに、冷えてしまう」
と諭したのだが、今日の魏無羨はいささか駄々っ子を発動したい気分の様で、藍忘機の腕の中でわがままを言って彼を困らせた。
「な、いいだろ、藍湛!」
 そんな魅力的で明るい笑顔で問いかけられては「嫌だ」と言える筈もない。
 少しだけだ、と応えた藍忘機に、魏無羨は「藍湛、大好き!」とからかいながらぴったりと抱き着く。
 避塵の上に乗りながら、二人で空の星を指差し、「あの星はなんだ」と質問を繰り返し、答えて過ごした。
「なあ、藍湛。小さい頃、こんな話を聞いたことはなかったか?」
「どんな話だ」
 日頃、会話を楽しむということをしない藍忘機だが、魏無羨が相手の時だけは別だ。
 彼の無邪気を装った、少しからかい調子のくだけた喋り方は聴いているだけで藍忘機を心地よい気分にさせてくれる。
 江澄などは始終お喋りしている彼をうるさいとすぐに怒鳴りつけるが、藍忘機はまったく逆だ。
 いつまでも、延々とこうして上機嫌に喋る彼を見ていたい。
 そんな感情が魏無羨にも筒抜けだったのか、「藍湛は本当に俺のことが大好きだな。そう顔に書いてあるよ」とまたからかわれてしまった。
 そんなことすら、藍忘機にとっては喜びである。
「小さい頃聞いた話はどうなった」
「ああ、それそれ。それな。人は死ぬとお星さまになるらしい。両親を亡くした俺のことを憐れんでか、師姉がそう教えてくれたんだ」
「江厭離殿が……。しかしきみは信じなかったのだろう」
「まあね。人が死んで星になることなんてある筈がない。俺の両親が星になって、俺を見守ってくれていたのなら、野良犬に追いかけられて、残飯を漁る息子を憐れんで木の実の一つぐらい天から恵んでくれても良いだろう。でもそんなことは現実には起こらず、俺はいつも腹を空かせて自分で食べ物を調達しなければならなかった。ただ両親が見守ってくれた証があるとすれば、それは俺がいつだって苦い経験も笑い飛ばす、そんな気の強さを手に入れたことさ。そう思いたいだけで、実際は俺一人が頑張って俺を助けて生き残って、そして江おじさんに拾われた」
「うん」
 本当にその場に藍忘機が居られなかったことが悔やまれる。
 魏無羨が食べ物を探して野良犬に追いかけ回されていたのなら、藍忘機が犬たちを全部追い払って、彼に美味しい食べ物をいくらでも与えてやれたのに。
 しかし実際はそんなことは起こりえず、藍忘機はほんの少し並みの人間より仙力が使えて、ほんの少し剣の腕が立つだけだ。
 彼も人であって神ではないのだから、幼い魏無羨を助けることは到底出来ない望みだった。
「きみは優しい」
「俺が? なんでそう言う答えに行き着くかな」
「江厭離殿の話をお伽噺と知りつつ、彼女の前で否定しなかった。両親を亡くした喪失を彼女に気遣いさせたくなかったのだろう」
「まあね。俺は江家に引き取られて毎日楽しく過ごしていたからさ。江澄は生意気なクソ野郎だったが、あいつはあいつでなかなか可愛いところもある。お星さまになった両親なんて俺にはもう必要なかったんだ」
「きみは強いし、とても優しい」
「止せって。でもさ、こうしてきれいな星空を眺めていると、両親や師姉、それに江おじさんや虞夫人がそこに居て欲しいと切実に思ってしまうなって。そんなことを考えていたんだ。皆に会いたい。いまこうして藍湛と二人で空を眺めているのも最高に幸せなんだけど、師姉の幸せを願わずにいられない」
「ならば一緒に祈ろう」
「藍湛……」
「きみが言ったんだ。幸せを願うなら、祈るべきだ。私も共に祈ろう」
 最初は戸惑い、照れるのか、「そんなのやってられるか」と笑う魏無羨だったが、やはり江厭離のことが恋しかったのだろう。
 空に程よく近い場所、藍忘機の剣の上で、二人はしばし、手を合わせ、空の星へと願いを込めた。
「えへへ」
 照れたのか、魏無羨が藍忘機を見上げ、くすりと笑う。
 彼の唇に魏無羨の唇が近付き、そして、
「藍湛の瞳はどんな星よりも綺麗だな」
と呟いて熱く舌を絡ませて来た。
「魏嬰、きみが生きてここに居てくれることが、何より私の喜びだ」
「うーん、十六年前のお前に聞かせてやりたいよ、その言葉」
 二人でクスクス笑い合い、そしてその晩はずっと星空の下、御剣の術で空を飛んで過ごした。
 朝焼けを眺めながら目を細める魏無羨の表情に堪らなく幸せを感じる。
 彼とこの先もずっと夜更けと夜明けを繰り返し、新しい朝を迎えられたらどれほど幸せだろう。
 生まれてきてありがとう、と。
 藍忘機は今一度声に出さずに魏無羨の身体をぎゅっと抱き締めた。

終わり
20240930
1/1ページ
スキ