ほのかに香るきみへの思い

3.それぞれの新しい居場所

 事件は清談会二日目に起きた。
 基本的に宴の開催中は皆自由に動き回り、好きな相手と好きな場所で飲み交わす。
 藍忘機は仙督就任後、初の大きな宴とあって、中央の一段高い席に神像の様に鎮座しながら、挨拶に来る宗主らの応対に追われていた。
 おそらく心を無にして、相手のお世辞に頭を下げ、殊勝に耳を傾ける振りをしているのだろう。
 姑蘇藍氏の席にいても誰も一緒に酒を飲んでくれないし、つまらないと感じた魏無羨は初日から江澄の隣の席を陣取り、底なし沼の様に用意された酒を次から次へと飲み干していた。
「お前、いい加減にしろよ。少しは遠慮したらどうだ。うちの酒蔵を空っぽにする気か」
「あいや、江澄。無礼講だって言ったのはお前だぞ。偉大なる雲夢江氏宗主のお前がそんなみみっちいこと言うなよ」
「こぼしてるんだよ、この酔っ払いめ!」
「あはは、ほんとだあ」
 魏無羨のこの泥酔状態に、ひな壇の上から藍忘機が度々、不安そうな目を送っているが、当の魏無羨は酒しか目に入っていないようだ。
 杯になみなみと注がれた荷風酒を指差し、「綺麗なお姉さん」呼びしている。
「怖いか、処女みたいに震えてるな、今にぜーんぶ飲んじゃうぞおおお」
「お前の酒が過ぎて症状が出ているだけだろう」
「江澄、お前は面白くないんだよ。あっち行ってろ」
「お前が勝手にお仕掛けてるんだろうが、お前の席はあっちだ」
「ところで義弟、澄澄や」
「誰が澄澄だ、ふざけるな!」
 そんなふうに彼らが機嫌よく酒を飲んでいる時に事件は起きた。
 見覚えのない男が、「おい、夷陵老祖!」と突然魏無羨に食って掛かって来たのだ。
「この恥知らず! 貴様は私の兄を殺したのだぞ。それをのこのこ、清談会まで現れおって!」
 どうやら随分と酔っているらしい。
 江澄は男を止めようと立ち上がったが、魏無羨に腕を引っ張られて強制的に戻されてしまった。
「良いからお前は黙ってろ。こう言うことも起こり得るだろうと、とっくに想定内だよ」
「しかし主宰はこの俺だ」
 あれだけ酔っ払っていたのに、男に怒鳴られても杯を傾ける魏無羨の顔は素面に戻っていた。
 もしかしたら最初から泥酔したのも演技だったのかも知れない。
「兄さん、済まないが、あんたの顔は覚えていないし、あんたの兄貴とやらも俺の記憶にない。今日は俺の義弟が数ヶ月も前から議論に議論を重ねてやっと開いた宴の日だ。江澄に迷惑をかけるのは止めろ」
「迷惑なのはお前の存在だ! お前のせいであのがん光君がなんと嘲笑されているのか、お前は知っていながら、彼を弄んでいるのだろう」
 さすがに藍忘機のことを引き合いに出すのは不味い。
 これでは姑蘇藍氏の面子も丸つぶれで、魏無羨を清談会に呼んだ江澄の責任問題になってしまう。
「貴殿……」
と魏無羨に止められても間に入ろうとした江澄だったが、いつの間にか現れた藍忘機が酔っ払った男の腕を引き、魏無羨と彼の間に立ったお陰で宴会場はしんと静まり返ってしまった。
「が…含光君、貴殿も目を覚ました方がいい。この男とあなたがどんな噂をされているか」
「それが何か? 私と魏嬰は、お前が言うような仲だが、それをお前に中傷される謂れがどこにある」
「が、含光君、正気か。藍の双璧と言えば、清廉潔白な壮士で、我々、修真界の誉れだぞ。それをこんな魏嬰ごときに」
「魏嬰ごときと言うお前の方が矮小な存在だ」
「藍湛、頼むから止めてくれ。これでは江澄が……」
 魏無羨の制止も徒労に終わってしまった。
 酔った勢いで男は藍忘機に飛びかかり、呆気なく、腕を取られて弾き飛ばされる。
 あちこちで膳がひっくり返り、場は阿鼻叫喚と化してしまった。
 大衆の面前で面子を潰された男は、藍忘機に加減されたとも知らず、また諦めずに飛びかかる。
 仕方がないから江澄が間に入って藍忘機の腕を掴んだ。
 ぎりっと彼の冷たい目が江澄の視線とぶつかり、そこで止まる。
「江晩吟、私に触れるな」
「お前がその腕を離せば、離してやる」
「忘機、止めなさい」
 藍曦臣の制止で、ようやく藍忘機は男の襟首を離し、放り投げた。
 床に座ったままの魏無羨に「行くぞ」と告げ、彼の腕を取って会場から出て行ってしまう。
「こんな宴会、最悪だ! 最低、最悪な、史上稀に見る清談会だっ!」
と男は江澄に当たり散らし、雲夢江氏の弟子に両脇を抱えられ、会場から追い出される。
「皆さん、新しい膳と酒をご用意致します。どうぞ気分を入れ替えてお楽しみください」
と場を仕切り直し、空気の入れ替えの為、踊り子たちも招き入れたが、盛り上がっていた宴はすっかり白けた場になってしまっていた。
「やはり魏無羨は疫病神だ。どうして江宗主は魏無羨などを宴に招いたのか」
「それはあれだろう。仙督の藍忘機におもねったのでは。彼が言った通り、含光君とあの魏の某は……」
「そう言えば魏嬰に献捨で身体を受け渡した莫玄羽は泰夫人に裸で言い寄って」
「色魔は魂魄が変わっても受け継がれるものなのか」
などとひそひそ不快な話が江澄の耳にも入ってくる。
 全員をその場に並べて紫電で打ち殺してやりたいが、怒りに震える江澄の手を、誰かのひんやりとした手が優しく触れ、とんとんと宥める様に叩いて自制を促した。
 振り返ると、案の定、藍曦臣が微笑を浮かべ、立っていた。
「江宗主、くだらない者たちの野次など聞き流しなさい」
「……しかし、俺が魏無羨を呼んだのは、そんなに悪いことですか? 犯人はあいつじゃなかったと皆、知ったのに」
「場所を変えましょう」
 藍曦臣に促され、二人は宴を中座し、蓮花塢の中を散策する。
 彼の身体から薫る白檀の匂いを吸い込むうちに、江澄の怒りも少しずつ収まって来た。
(そう言えば、白檀には防虫の効果もあったが、精神を穏やかに保つ効能もあったな。なるほど、効果がある)
 藍曦臣の歩幅に合わせ、ゆったりと進み、すうっと息を吐き出すと、さっきの馬鹿馬鹿しい喧騒もくだらない小事だと受け流すことが出来た。
「沢蕪君、聞いても良いですか?」
「ええ。なんなりと」
「……人は、何年経てば、その者が犯した罪を許すことが出来るのでしょう」
「うーん、それは犯した罪の大きさに依るからなんとも」
「でも、魏無羨の罪はすべて誤解だった」
「すべて、ではありません。彼に殺された姑蘇藍氏の弟子たちも確かにいましたし、彼の兄が魏公子に殺されたのもきっと事実なのでしょう。魏公子とて自分の身を守る権利はある。しかしだからと言って、殺された者に彼を恨むなと私は言う事は出来ません。許すかどうかは、その人の心がけ次第です」
「………では、俺はいつまで、魏無羨の恩を感じ、彼に恩返しせねばと思わねばならないのですか?」
「………」
 清談会に魏無羨を呼び、再び彼に活躍の場を持たせられれば、それがきっと恩返しになると思っていた。
「それがこんな形で、魏無羨を攻撃する材料になってしまうなんて」
「江宗主……」
 藍忘機はきっとこれまで以上に江澄を忌み嫌うだろう。
 彼が隠居同然の生活を送っていた魏無羨を衆目の前に引き摺り出し、攻撃する相手を探している暇人たちに餌を与えてしまったも同然だ。
 それなのに魏無羨はそんな江澄をまたもや庇ってくれた。
 こぼれ落ちる涙を江澄は慌てて拭う。
 悔しくて、悔しくて堪らなかった。
 そんな江澄に、藍曦臣は「阿澄」と優しく語りかけ、彼の肩に手を置く。
 阿澄と呼ばれたのは何年振りだろう。
 藍曦臣の顔が優しい姉と重なり、そしてまた藍曦臣の顔に戻った。
「差し支えなければ、筆と紙を用意して貰えませんか?」
「……書状でも書くのですか?」
 まさか藍啓仁に今回の騒動について何か訴えたりするのだろうか、と青くなる江澄に、藍曦臣はゆっくりと首を振り、否定する。
「たまには憂さばらしも必要ですよ」
「憂さばらし?」
「ともかくも、紙と筆を。あ、紙は使い古しで良いです。無駄にするだけですから」
「はあ……」
 言われた通り、藍曦臣を紙と筆がある場所へと案内する。
「ここは江宗主の私室ですか?」
「ええ。俺に私室はありません。寝て起きて、仕事をして、また寝るだけなので」
 江澄の言う通り、彼の私室はこざっぱりとして余計な調度品はなにもない。
 衝立の向こうには彼が使っている寝台が置いてあり、執務に疲れたらすぐに寝られる様に、執務室兼、寝室となっていた。
「お仕事熱心なのですね」
「貧乏症なだけです。休んでいると、たまらなく不安になる。何かをしていれば気が紛れます」
「江宗主は向こう見ずで苛烈な人柄だと評判ですが、私が見るあなたはいささかその評価にそぐわない方とお見受けします」
「小心者で臆病ですか?」
「いえ。傷つきやすい子どものように見えます」
「……」
 この言葉をどう受け止めれば良いのだろう。
 子供みたいだと馬鹿にされている気もするし、藍曦臣の労りも感じる気がする。
「紙と筆を用意しました。どうぞこの机をお使いください」
「ありがとう。きみも横に」
「?」
 藍曦臣は机の前に座り、優雅に片袖を手で押さえると、これから集大成を目の前の紙に描き出す様な意気込みで落書きを描き始めた。
 そう、明らかにそれは落書きだった。
 目が点になった江澄は、言葉もなく彼の筆が描き出す、どこか愛らしい藍啓仁の出来上がる様子を眺める。
「沢蕪君、これは、藍先生ですか?」
「ええ。私の叔父です。今頃、きっとそれ見たことかと手を叩いているに違いありません」
「はあ?」
 どうも今回の魏無羨の清談会参加は雲深不知処でも物議を醸した様だった。
 何事も起こるはずがないと主張する藍忘機と、絶対に揉めごとを起こすに決まっている。奴を雲深不知処から出すなと脅す藍啓仁の対立に巻き込まれた藍曦臣は、弟の肩を持ち、「全責任は私が持ちます」と啖呵を切って魏無羨を雲深不知処から連れ出した。
 その結果がこれだ。
 江澄まで申し訳ない気分になり、悄気げてしまったことに気づくと、藍曦臣はさっき描いた藍啓仁の似顔絵に吹き出しを付け加え、「雲深不知処、〇〇べからず」と家訓をずらずら書き並べる。
 その様子が目に浮かぶ様で、江澄はまたもや笑いを漏らしてしまった。
「沢蕪君、あなたもたいがい人が悪い」
「叔父のお小言にはもう慣れっこです。あの人は私や忘機を褒めたことなど一度もありません。出来て当たり前なのですから、褒める必要などないのです。だから私は叔父の代わりにいつも忘機のことを褒めてやりました。あの子が私の称賛を必要としていたかは不明でしたが、実を言うと、私自身が誰かに褒めてもらいたかったのです」
「沢蕪君……、俺もその気持ち分かりますよ」
「そうですか。奇遇ですね」
「ええ」
 江澄の子供時代も似たようなものだった。
 いや、それなりに彼のことを父母は褒めてくれたが、父は江澄より魏無羨を気に入っていたし、母の虞紫鳶は江澄の成績が魏無羨より悪いと徹底的に叱り飛ばし、容赦なく打擲した。
 おかげで彼の右手はいつも腫れていたし、心にも魏無羨への妬みと言う大きな病を植え付けてしまった。
「俺も誰かに褒めて貰いたかった。今回の清談会も頑張ったのに、この結果です」
「それでこの憂さばらしですよ」
「はい?」
 藍曦臣は今度は藍忘機と思しき顔を描き、その顔に涙をボロボロ流させていた。
 これは堪えきれずに笑ってしまい、彼がその藍忘機に「兄上ー」と台詞を付け加えたせいで江澄の発作は収まらなくなった。
「さあ、江宗主も憂さばらしをどうぞ」
「あなたはいつも雲深不知処でこんなことをしているのですか?」
「ええ。ひと目につかない禁書室でしかやりません。万が一にも忘機にこんなところを見られたら、兄としての威信が」
「あはは」
 藍曦臣に勧められるまま、江澄も古紙に好き勝手なことを書き殴っては鬱憤を晴らさせてもらった。
 彼は藍曦臣のような絵心はないから、円を描いた下に棒を引き、その棒人間を犬に追い回させて見たり、魏無羨と見立てた棒人間を木に縛り付け、江澄と思しき棒人間が紫電で滅多打ちにする。
 子どもの遊びに二人して熱中し、気づけば藍曦臣の顔が江澄のすぐ隣に合った。
 睫毛の長い目が江澄を見、薄桃色の唇が花びらの様に笑いの形を取る。
 白檀の香りが強くなり、彼の顔が近づいて来たのを感じた時、江澄は思わず目を閉じてしまった。
 かぐわしい香りが彼を包み込み、唇に柔らかい感触が押し当てられる。
 何か声を発しようと開いた唇の間から藍曦臣の舌が入り込んで来て、江澄は抵抗する気力も奪われてしまった。
 重い体にのしかかられ、彼の身体は床へと押し倒される。
「阿澄」
 そう呼ばれ、また胸が締め付けられた。
「沢、蕪君……」
 彼の名を呼ぶ江澄の唇は再び塞がれ、陶酔と言う名の余熱に理性が攫われ、熱い吐息の中、幾度も唇を重ね合う。
男同士なんて、気色悪いこと言うな
なんて思っていたのはつい先日のことなのに、江澄は藍曦臣の体を突き放すことが出来なかった。
 人と触れ合うのがここまで心地良く、脳髄が痺れる様な感覚を受けるとは思いもしなかった。
「沢蕪君……、止めてください、これ以上は……」
「私がきみに無理強いをするとでも?」
「いえ、でも」
 何故、彼にこんなことをするのだろう。
 その疑問でいっぱいになり、江澄はすぐ目の前にある藍曦臣の顔を見ることが出来なかった。
 この人なら、寝てもいいかも知れない。
 ふと自分の頭に浮かんだ妄想を、江澄は必死で振り払う。
「その……、沢蕪君は何か、勘違いを、なさっているのでは……?」
「何も間違えていませんよ。昨日も申し上げた筈。きみは誰よりも美しい。きみの表情が好きだし、きみの繊細な心も大好きです」
「………」
 昨日のそれとは、おそらく美景に美女に、美酒を持ち出した話だろう。
 藍曦臣は美女ならすぐ.目の前にいると言い、江澄は彼は自分のことを言っているのかと思い、自己評価が高い人だと思い込んだ。
 しかし藍曦臣は昔から江澄のことなど気にかけてもいなかったはず。
「……なんで、俺なんです? あなたは斂芳尊や赤鋒尊のことしか」
「そのことは出来れば触れないで貰いたい。誰にでも秘めて置きたい過去はあるものだ。そして誰にでもやり直す未来はある」
「……俺はあなたに特別な感情は」
「うん。そうだろうね。しかし私はきみと言う人を知ってしまった。雲深不知処できみが私を叱咤してくれたときに、きみと言う人に惹かれてしまった。だからきみを諦めたくない」
 この状況、どう抜け出したものか。
 江澄は泥人形みたいに固まって、縮こまっていたが、藍曦臣は清廉潔白な壮士の評判通りに、無理強いをすることなく、すぐに彼の上から退いてくれた。
 ただし、起き上がった彼の額に口づけし、少女みたいに顔を赤らめた江澄を「阿澄」と呼び、「可愛い」とからかってまた口付けする。
「冗談は、顔だけにしてください。笑えません」
「気を悪くしたのなら謝ろう。私の一方的な想いだ。受け入れてくれるなら嬉しいが、重荷になるならきみは気にせずとも良い」
「………」
 その晩は江澄は誰とも会わず、そして清談会も最終日となり、招待客は次々と埠頭に向かい、帰って行った。
「江澄」
 姑蘇藍氏の集団も帰路につき、見送りに出た江澄に気付いた魏無羨が駆け寄ってくる。
 藍忘機の視線が突き刺さる様に投げかけられたが、江澄は敢えて気づかぬ振りで、彼の義兄弟に笑みを向けた。
「俺のせいで嫌な想いさせてごめんな、江澄」
「いや。馬鹿者のたわけた言葉など、俺は気にしない」
「うん。じゃあな、兄弟ションディー。今度は雲深不知処に遊びに来い」
「ああ。ここはお前の家だ。いつでも帰って来い。姉さんもお前の帰りを待っている」
「うん!」
 抱き合う双傑の姿に藍忘機が痺れを切らしたのか、「魏嬰」と静かだが良く通る声が魏無羨を呼び、彼の義兄は笑顔でそれに応えて江澄の元を去ってしまった。 
 これからは遠い親戚の様に、たまに顔を合わせて、挨拶をし合う仲になって行くのだろう。
 淋しいが、それが彼らにとって一番良い終わり方なのかも知れない。
「じゃあなー、江澄!」
 大きく手を振る魏無羨に付き合い、片手を上げた江澄は、藍忘機の隣でこちらに笑みを送る藍曦臣の姿を目で追った。
 気恥ずかしくなり、視線を逸らした江澄を、あの人はどう思っただろうか。
 藍忘機の影が魏無羨に近付き、彼の傍に寄り添って二人は遠ざかる川に描かれる水紋を眺めていた。
 藍曦臣はすぐに船室へと消えてしまったが、江澄はその白い背中が気になり、船から目を離すことが出来なかった。

 清談会も終わり、いつもの日常が戻る。
 江澄の生活はいつも通りで、日々、雑務に追われていた。
 ただ、どうしても疲労が溜まって、疲れてしまった時。
 藍曦臣に教わった例の憂さばらしに興じて見る。
 棒人間に「我爱你」と言わせて、その人形に花束を持たせて見た。
 馬鹿馬鹿しくて笑いが込み上げ、ぐしゃぐしゃと墨で塗り潰して、大きく伸びをする。
 ふと檀香を彼の鼻が捉えた気がした。
 今の時期、咲く花は江澄の部屋から見える庭には植えていない。
 気のせいかとコキコキ、凝った首を曲げていると、視界の片隅に白い何かを見つけてしまった。
「お疲れかい?」
「……何をしに来たんです」
 しかも、勝手に蓮花塢に上がり込んでいる。
「きみがいつでも訪ねて来て欲しいと」
 あれは社交辞令だ。
 実際、はっきりそう言ったのだが、藍曦臣には完全に無視されてしまった。
「沢蕪君」
「おや、江宗主、この墨は良い香りがする。どこの墨だろう」
「知りません。雲夢のどこかで作ったものかと」
「墨には膠と煤を混ぜて、ほんの少し香料を加えて作るんだ。どうやらその香料の違いかな」
「香料の違いなんてどうでも良いです。俺の質問に答えてください。なんで俺を引っ掻き回すんですか」
「引っ掻き回す? 私がいつきみを引っ掻き回した? それは謝罪せねば。何で償えば良い?」
「な……っ」
 本当に勝手な人だ、と腹を立てたが、同時にこの白檀の香りは嫌いではないと感じてしまう。
「……そんなに、その墨が気に入ったのなら、後で雲深不知処に届けます」
「うん。きみが?」
「なんで俺が……! 使いの者に決まってるじゃないですか!」
 調子を狂わされ、発狂し、大声を出した江澄は、藍曦臣にからかわれたと知り、途端に真っ赤になってバタバタと机の上を整理し始める。
「阿澄、そんなに雑に扱っては大事な書類が」
「俺のすることにいちいち口を挟まないでくれますか?」
「いちいちきみが腹を立てねば良い。さて、何をして遊ぼうか」
「遊びません!」
 しかしこの波長の合わなさはこれはこれで悪くない。
 唐突に藍曦臣の腕に抱き締められ、江澄は息を瞬間的に止めてしまったものの、おずおずとその背中に腕を回して抱き締めて見た。
 やはりこのかおりは大好きだ。
 それにこの腕の中は心地良くて、安心できる。
 藍曦臣の唇が江澄の口を塞ぎに来たが、拒まずに受け、瞼を閉じて彼に身を預ける。
 新しい居場所を彼の腕の中に見つけた気分だった。

終わり
20240604
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