お猫様の嫁入り

 霧に烟る早朝の雲深不知処。
 よその土地での生活は知らない藍啓仁だが、毎朝、この霊峰とも言える雲深不知処の佇まいを眺める度、この地以上の仙境があるだろうかと深い感慨に浸ってしまう。
 起き抜けの顔で髭をしごき、満足そうに頷く叔父を見かけ、藍曦臣は上機嫌そうだなと笑顔になった。
「おはようございます、叔父上」
「曦臣か。今朝は随分と霧が濃いが、昼過ぎには晴れそうだな」
「ええ。朝露を集めて後で叔父上にお茶を淹れて差し上げましょう」
「うむ」
 目上を尊重し、従順でけして驕り高ぶらない、自身の優秀な甥を見て、藍啓仁は再び、満足げな様子で髭を扱く。
 そう。彼の可愛い甥二名は数多いる仙門の修士の中でも選り抜きだと、育ての親である藍啓仁は胸を張って答えられる。
 二人の子を放り、兄が閉関してしまった時はどうしたものかと天を振り仰いでしまったが、どちらも藍啓仁を悩ませることなく立派に育った姿を見て、親バカな感情に酔いしれてしまう。
 そうなのだ。
 彼の甥は二人とも優秀で、互い以外に肩を並べる者はいないほど、この修真界で抜きん出た存在となっているが、ただ一つ、この優秀な甥たちは揃って同じ汚点を持っていた。
 四十に手が届くと言うのに、どちらも所帯を持つ素振りを一向に見せないことである。
 藍啓仁自身、ずっと独身を貫き、生涯、伴侶を取らぬ心積もりで来たから、二人の甥のことも静観して来たが、それにしても藍忘機はともかく、藍曦臣は浮いた噂一つ出たことがない。
 藍忘機が選んだ相手もどうかと思っているが、藍氏の当主であり、次世代へ受け継いで行かねばならない身の藍曦臣が、いつまでも悠長に構えて、身を固める素振りを見せないのは困ったものだった。
 叔父の表情から、どうやら今度は不機嫌になられたらしいと察した藍曦臣は、早速、朝露を集めに叔父の前を辞退しようと頭を下げた。
「待ちなさい」
「………」
 やぶ蛇だったなぁと心の中でノンぴり考えたが、時既に遅しである。
 眉間に皺を寄せた叔父に睨まれ、藍曦臣は常と変わらぬ笑顔でにっこりと微笑んで見せた。

「自主性を重んじ、お前の好きにさせて来たが、いい加減、自分の歳を顧みてはどうなのだ」
 叔父に普通の井戸水で、普通の茶を淹れてやった藍曦臣は、笑顔は崩さず、適当に笑って受け流した。
 藍忘機は常に鉄壁の無表情を貫いているが、兄の藍曦臣も似たようなもので、彼にとっては物腰柔らかな微笑が藍忘機の無表情と同じ意味を持つ。
「私はいつも己を律し、自戒しながら生きているつもりですが、叔父上から見て、まだ私の態度には反省すべき点がお有りなのでしょうか」
「いや、お前と忘機に私が教えるべきことはもう何一つない。叔父の身として、お前たち二人はこの藍家の誉れだと思っているが、人は家庭を持ってこそ、完璧だとは思わんか」
「はあ」
 それをずっと独身で過ごして来た藍啓仁が言うかと内心、呆れてしまうが、彼らの叔父が独身でいざるを得なかった理由は間違いなく、藍曦臣たちの父が原因だ。
 いや、藍啓仁の性格上、兄の閉関がなくとも、よほど好きになる女性と巡り合わねば、多分、同じ様に独身のままでいたと思うが、彼は藍忘機と同じ次男坊である。
 後継ぎとなった青蘅君や藍曦臣とは違うのだ。
「曦臣よ。お前の信じ、これまで口喧しく言っては来なかったが……」
「叔父上」
 叔父の言葉を遮るのは年長者に対し、至極、失礼極まりないことだと分かっているが、藍曦臣は敢えて笑顔で禁を犯し、心配無用だと丁重に断る。
「叔父上の気遣いは嬉しく思いますが、婚姻については、縁次第ではないでしょうか。私と縁のある女性がいないのです。無理に娶ったところで互いに良い未来は生まれません」
「そうだが」
「或いは、自分の師を殺した女を妻とした我が父を見習えと?」
「曦臣」
「婚姻はそんなに簡単なものではありません。互いが想いを寄せ合い、夫婦の縁を結んでも、彼らの愛情が身内に受け入れられるとは限らない。静室で暮らす忘機と魏公子を見る度、私は母のことを思い返します。母は二人の藍氏を受け継ぐ男児を天より授かりましたが、母の墓はいまだにこの雲深不知処に建てられません」
「………」
 完全に不機嫌になってしまった藍啓仁を見、藍曦臣は内心、してやったと笑ってしまった。
 彼らの母のことを切り出したのは、わざと藍啓仁を怒らせる為だ。
 叔父はこうして藍曦臣に結婚しろと迫って来るが、一生を賭けて愛しても良いと決めた女と婚姻した青蘅君を責め、二人の母を受け入れなかったのも藍啓仁なのだ。
 そして今また、藍曦臣の弟、藍忘機が選んだ相手を、男と言う理由で存在さえ受け入れる気のない藍啓仁に対する当てつけでもあった。
 結婚するのは構わないが、その女が藍啓仁の意に沿うとは保証しませんよ、と暗にそうほのめかす藍曦臣に、藍啓仁は渋い顔で茶を啜った。
「正直なところ、どうなのだ。曦臣よ、お前はいまだ誰も愛する対象を見つけていないのか」
「それは──、勿論、私にもおりますが、おそらく叔父上の意に沿う相手ではないので、紹介は控えているだけです」
「なんだ。相手がいるのなら、その者とすぐに所帯を持てば良かろう」
「よろしいのですか?」
「当たり前だ。藍氏の宗主が遠慮する必要がどこにある。お前が気に入ったのなら、家柄や身分は問わないぞ」
「家柄は問題ありませんよ。何なら、我が姑蘇藍氏より先に仙門を建てた名家でありますし」
「我が藍氏より古いだと? 温家は滅んだが、ならば蘭陵金氏か? それならば何の問題もなかろう」
「………」
 本当に連れて来て良いものかと藍曦臣は思案したが、一番の問題は彼のお相手のご意向だ。
 連れて来いと言われて、すぐに連れて来られる様な相手ではない。
「そのうち、気が向いたら、叔父上にご紹介します」
「何を悠長なことを言っている。私の歳も考えろ。兄上から預かったお前たちが身を固め、藍氏のオトコとして恥ずかしくない身分になるまで、叔父の私は死ねんのだぞ」
「はあ……、叔父上がそうおっしゃるなら、連れて来て見ますが」
 後で責任は取りませんよ、と言う目を向ける藍曦臣に、藍啓仁は「良いから連れて来い」と突っぱねる。
 それならば、と早速、江澄の元へ使いの者をやった。
 事情を話すと絶対に来てくれないと思ったから、適当な理由を作り、雲深不知処まで呼び出した。
 その日の午後のうちに単身で雲深不知処を訪れてくれた江澄の姿を見、藍曦臣は改めてその美貌に惚れ直してしまう。
 今日の江澄はいつも頭頂部で一つに纏めている髪を、紐で束ねただけで馬の尻尾の様に下へと下ろしていた。
 艶やかな黒髪が風に靡くのを見、触れて、感じてみたい願望に身が騒ぐ。
 藍曦臣の出迎えに気が付いた江澄が、余所行きの硬い表情で、「藍宗主」と軽く頭を下げた為、藍曦臣も調子を合わせて丁重に頭を下げて出迎えた。
「江宗主、突然のお呼び出し、誠に申し訳ない」
「姑蘇藍氏の慇懃無礼振りはいまに始まったことではないからな」
 まったく取り付く島もない。
 しかしこれはあくまで外向けのよそよそしさで、本来の江澄は情に深く、嫌だ、来るなと拒みながら、その実、帰る素振りを見せれば途端に手のひらを返す天邪鬼な愛しい存在だ。
「で、急な用件とは?」
「ええ。まずは叔父が江宗主をお待ちなので」
「藍先生が?」
「ええ。案内しましょう」
 先に立って歩く藍曦臣に続きながら、江澄は辺りの様子を窺い、「おい」と小声で藍曦臣を呼ぶ。
「藍先生が俺に用とは、何の話だ」
「別に。ただきみに会いたいと」
「藍先生がか? 俺に会いたい理由など、あるはずがないだろう」
 他に人影がないと見て、余所行きの仮面を取り外し、普段の江澄に戻った彼を見、藍曦臣は可愛いなと笑ってしまう。
 額をツンと突いてやると、ムッとむくれた顔で睨まれた。
 無類な猫好きと一緒で、藍曦臣は江澄につれなくされればされる程、デレた時の彼が愛しくて堪らなくなるのだ。
 せっかく大事な人を叔父に紹介する日なのだからと、ついでに寒室へ立ち寄り、彼に雲深不知処の工房で作った冠をつけてやった。
 事情を知らない江澄は「余計なことをするな」とか、「銀なんて姑蘇藍氏みたいで嫌だ」と散々、駄々を捏ねまくってくれたが、そこは藍曦臣の怪力で抑え込み、無理やり装着して、やっぱりこっちの方が良いかな、と幾度も付け直す。
「一体、何の真似だ」
「どれも雲深不知処の工房で私の為に作られたその中でも選りすぐりの冠なのだが、きみにはどれが似合うだろう」
「どれもこれも俺の趣味じゃない。元に戻してくれ」
 しかし江澄が着用してきた冠は、普段から愛用しているせいか革に少々、傷が入っている。
 大雑把な江澄は気にしないが、姑蘇藍氏の人間なら目についてしまう程度には傷んでいる為、藍曦臣は珍しく我を通して自分が一番気に入って、大事な場面にしかつけていかない装飾の凝った一品をまっすぐ丁寧に頭の上に被せてやった。
「やはりきみは何を身に着けても似合う」
「馬子にも衣装と言いたいんだろう。いい加減に離せ」
「それではまったく逆の意味だ。きみの気品は隠そうとしても隠しきれるものではない」
「あんたが言うとただの嫌味だ。自分の姿を鏡に映して見ろよ」
「え? 抹額が曲がってるかい?」
 どこかいびつなところがあるだろうかと改めて鏡で自分の居住まいを確認する藍曦臣に、江澄は思いっきり疲れた溜息を吐く。
 珍しく褒めてやったのに気が付かないあたりも藍曦臣らしいと言えた。

 さて、事情を知らぬ江澄を連れ、藍啓仁の元へと向かった藍曦臣だが、応対に出て来た藍啓仁の格好を見て、藍曦臣は冗談が過ぎたかと早速江澄を連れて来たことを後悔してしまった。
 先ほど、藍啓仁に会わせる為に、江澄にとっておきの冠を装着させた藍曦臣だが、藍啓仁もまたとっておきの、それも晴れの日にしか身に着けない豪奢な羽織物でめかしこんで待ち受けていたのだ。
 多分、藍曦臣の想い人に会う為に、失礼のないようにわざわざ着替えてくれたのだろうが、逆にとても済まないことをした気持ちになってしまった。
 恋人とともに現れる筈なのに、藍曦臣が連れて来たのが雲夢江氏の宗主とわかり、藍啓仁も理由がわからんと言った体で顔を顰める。
「あー、江宗主、今日はどういった御用向きで」
「藍先生、私は藍先生が私に御用だと聞き、伺いました。ご質問の意味がわかりません」
 二人ともわけが分からないと言う顔で、対面させた藍曦臣を見つめる。
「曦臣よ、これは一体……」
「ええ。ですから、私の一番愛しい人が彼で」
「………!!」
 くわっと江澄が目を剥いたが、藍曦臣の襟首を掴む前に、藍啓仁がばたっとその場に昏倒してしまった為、二人ともそれどころではなくなってしまった。
「叔父上、しっかり! お気を確かに!」
「あんたは藍先生を殺す気か!」
 江澄に怒鳴られ、しまいには蹴られ、どうにかこうにか藍啓仁を正気に戻した二人だが、ありがたいことに藍啓仁は何故そこに江澄がいるのかをすっかり忘れてくれていた。
 いや、現実を受け入れられずに脳が拒否してしまったのかも知れない。
 ともかくも、何故江澄が雲深不知処にいるのかを不思議がり、ついでに
「きみも早く所帯を保たねば、御父上が泣いているぞ」
といっぱしの説教を噛まして、二人はこの対面から解放された。

 江澄とのことがバレずに済んだのは何よりだ。
 それにあの調子なら、藍啓仁は心の傷に触れまいとしばらく藍曦臣の結婚話も無意識に避けてくれると思われた。
 良かった、良かったとニコニコ顔の藍曦臣と打って変わって、騙されて連れて来られた江澄の怒りは当然、収まらなかった。
「藍宗主」
 いつになく、冷静な声でそう呼び掛けられ、藍曦臣は冷水を被った思いで笑顔も凍りつく。
「あ、阿澄、これには事情が……」
「あんた、藍先生に俺達の関係をバラして俺を破滅させる気だったのか」
「破滅だなんて、私達の関係はそれ程悪いことだとは思わない。叔父上がしつこく結婚をせがむから、それで結婚出来ない事情を分かって欲しくて君を呼んだんだ」
「ともかくも! 二度と俺を巻き込むな! あんたは姑蘇藍氏が大事だろうが、俺だって、俺の家が何より大事なんだ!」
「阿澄、怒らないで聞いてくれ」
 追い縋って見たのだが、邪険に振り払われ、そこへちょうど良く魏無羨と藍忘機が現れてくれた為、藍曦臣は好機とばかりに早速弟夫夫ふうふも連れ、彩衣鎮へと向かうことにした。
 ことの顛末を聞いた魏無羨は大爆笑して、それでまた江澄を怒らせたが、魏無羨が姑蘇が誇る美酒、天子笑を次々とお酌して、それで江澄の機嫌もようやく収まってくれた。
 さすがは天子も笑う酒。
 酒通の魏無羨が認める天下の美酒、天下笑だ。
 酒の飲めない藍曦臣と藍忘機の兄弟は大人しく茶を飲み、二人の飲んだくれを眺めていた。
「にしても江澄、藍先生を気絶させるなんてお前もなかなかやるな」
「俺に言うな。お前のアホな義兄に言え」
「……」
 自分の兄をアホ呼ばわりされて藍忘機が避塵の柄に手を掛けたが、勿論、藍曦臣が良いから、良いからと宥め、再び座らせた。
「大体、お前らが先に藍先生を怒らせるからこんな羽目に」
「えーっ、って言うか、俺が先に藍湛を好きになったんだぞ。お前と沢蕪君の仲なんて知らないし、後からお前たちが勝手にくっついただけじゃないか。俺等のせいにするなよ」
「うるさい! 魏無羨、酒が空だぞ」
「はいはい、はいよー、この酔っぱらいの暴れん坊め」
 なんだかんだ、やはり江澄の相手は魏無羨が一番上手だ。
「忘機、酒が飲めない我々は向こうで碁でも打とうか」
と弟を誘い、勝負のつかない囲碁勝負が始まった。
 そんな二人を見、魏無羨が江澄に指差して教える。
「なあ、あの勝負、どちらが勝つと思う?」
「ん? そりゃ、勿論、沢蕪君だろ」
「どうかなぁ、うちの藍湛だって、俺といつも接戦で、悔しいけど大体、俺が負けるからな」
「沢蕪君の方が先に生まれたんだ。勝つのは沢蕪君に決まってる」
「あー?」
「なんだ、文句あるのか」
「大アリだ」
 そんな二人を眺めながら、白い衣服に身を包んだ二人の麗人は目を細め、どちらも自分の恋人が世界で一番可愛いと言いたげな表情になった。
「やはり阿澄が一番可愛い」
「いえ、魏嬰の方が可愛いです」
「…………」
「…………」

 果たしてこの勝負、どちらの勝ちになるのか。
 雲深不知処で一人さみしく月を眺めていた藍啓仁は、遠くにいる兄に詫び、姑蘇藍氏の将来を案じていた。


終わり
20240905
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