魏無羨のいる日常

「んー、なんだこの巻物はぁ?」
 霊泉で身体を浄め、濡れた髪を背中に垂らしながら静室までの道を歩いていると、誰が落としたのやら一巻の巻物が砂利の上に落ちていた。
 ちなみに雲深不知処で落とし物の類は非常に稀である。
 例えば藍忘機が飼っている(自然の中に放しているとも言う)兎のフンが道端に落ちていたりと言うことはあっても、人為的に発生する落とし物はまず見ない。
 何故なら規律に厳しい雲深不知処では、無闇に物を落とす不注意者も処罰の対象になってしまうからだ。
 魏無羨が見つけた巻物はそのぐらい不自然に道端に落ちていた。
 そして開いて見た内容がまたとんでもなかった。
「なになに、男を落とす必勝項目十選?」
 馬鹿らしいと思いつつも魏無羨と言う男は奇矯で出鱈目な物に惹かれてしまう性質の持ち主である。
 早速静室で読んで見ようと懐にしまい、
「藍湛、ただいま!」
と愛する知己に声を掛け、部屋の中へと入った。
 しかし静室はもぬけの殻で、藍忘機の姿はどこにもない。
 念の為、湯呑み茶碗の中も覗いてみたが、勿論、そんな場所に藍忘機は隠れていなかった。
 せっかく藍忘機に髪を乾かしてもらおうとびしょびしょに濡れたまま帰って来たのに、これでは静室の床を沁みだらけにしてしまう。
 やむを得ず、屋外にある露台へ向かうと、早速先ほど手に入れた必勝法とやらに目を通して見た。
「なになに、まずは胃袋を掴むべき?」
 これは良く聞く俗説だ。
 しかし魏無羨は料理の類はめったにしないし、たまに振舞っても藍忘機でさえ、箸を置いてしまう代物しか作れない。
「直接的な意味であいつの胃袋を掴むことは出来るが、料理の腕前では無理だろうな」
 ま、そんなことをしなくても藍忘機は魏無羨以外には目もくれないのは今更だから呑気なものである。
 ただその中の一つに魏無羨でも実践出来そうな項目があって、その文字が目に入った時、魏無羨の目がキラキラと輝いた。
「か弱いあなたを演じ、彼をトリコにしてしまいましょう??」
 これだ!と魏無羨の中で名案が弾ける。
 こんなことをしなくても藍忘機の愛情をしっかり独り占めしている自信はあるが、たまには奇抜なことをしなくてはお互い、日常に慣れてしまう。
 魏無羨の人生は波乱万丈が望ましく、藍忘機との愛情も乱高下がある方がやる気が俄然出る性格だから、早速、病人となるべく、雲深不知処にいる女性の弟子たちのもとを訪ねた。
「え? 病人相を作りたいですって? またなんでそんなこと」
 藍忘機の遠縁にあたる女性の一人、藍罹莉を捕まえて魏無羨は自分の作戦を彼女に伝える。
「毎日同じじゃ飽きるだろ? 日々の生活には刺激もないとさ」
「だからってどうして病人になんて。そんなことをして含光君を困らせるなんて反対よ」
「困らせる気はないよ。俺と藍湛の為じゃないか」
 断っても魏無羨がしつこく頼むため、仕方なく罹莉は魏無羨の顔に化粧を施してくれた。
 顔色はいつもより白く、目の下にはクマが出来、血色の良い唇にも病人らしく白粉をはたいて貰った。
 ついでに目尻にも化粧をして貰うと、なかなかの薄幸な美男子でその出来に魏無羨も満足してしまう。
「罹莉姐さん、どう? 病人っぽい?」
「充分に病人っぽいわ。ねえ、私が協力したって含光君は勿論、人には絶対に言っちゃ駄目よ」
「勿論、分かってるって。罹莉さんに迷惑はかけないよ!」
「頼むわよ」
 化粧を施して貰った魏無羨は大満足で雲深不知処の中を大手を振って歩いて行った。
 途中、藍景儀と藍思追を見かけたから、彼らの前で病気を装って見たら、これがまた面白いぐらいに引っかかってくれる。
「だ、大丈夫ですか、魏先輩!」
「すごく顔色が悪そうだ。思追、魏先輩を静室まで運ぼう」
「うん」
と担架まで用意して彼を静室まで送り届けてくれた。
 ぜえぜえと息苦しさを装っていたが、内心、おかしくておかしくて笑いを堪えるのに必死だった。
「ら、藍…湛は……?」
「含光君なら宗主に呼ばれて協議中です」
「今すぐ含光君のところに行って、魏先輩の容態が悪そうだと伝えて来ますね!」
「うん……」
 すっかり信じ切っている二人が静室から出て行ったあと、魏無羨は堪えていた笑いを開放し、盛大に笑ってやった。
 これならば藍忘機を騙すのも問題なく行きそうだ。
「まったく雲深不知処の奴らは皆、疑うことを知らなすぎる。これも社会勉強の一つだよな」
 騙すのではなく、彼らに教訓を与えてやるのだと得意げになり、魏無羨は遠くに藍忘機の姿が見えたことに気付き、再び横になって病人を装った。
「魏嬰!」
 いつになく取り乱した藍忘機が眠る魏無羨の脇に駆け寄って来る。
「熱があるのか、どこが苦しい」
 体温を測ろうと腕を取る藍忘機の手を払い、魏無羨は苦しげに咳き込んで見せた。
 実は横になる前に果実を口に含んでおり、咳をしながらその果汁を手のひらに滴らせる。
 それはまるで血痕を思わせる赤で、それを見た藍忘機の顔がいつもより白くなった。
「あ、兄上……」
 藍忘機が後ろを振り向き、藍曦臣に助けを求める。
 藍曦臣までついて来たのは想定外だった。
 藍忘機だけならまだしも、藍曦臣がいてはいつ演技がバレるとも限らない。
 そしてバレた時に藍曦臣がいてはことが大きくなり、大目玉を食ってしまう。
 これは何としても嘘を突き通し、藍曦臣を静室から追い出さねばならなかった。
「う、魏嬰が血を……」
「落ち着きなさい、忘機。私が診てみよう」
「………」
 考えて見れば藍忘機が藍曦臣を連れてくるのも当然だった。
 金光遥と親しく付き合っていた藍曦臣は医学の造詣も深く、様々な病気にも通じている。
 彼にかかれば仮病を見破るぐらい容易いことで、魏無羨は脈を取られない様に激しく咳き込み、藍忘機の背中に隠れて藍曦臣の手から逃れまくった。
「た、沢蕪君……、少し休めば、大丈夫だから」
「しかし瘀血を吐いたのなら、体内に毒素が溜まっている可能性がある」
「魏嬰、兄上に診てもらうんだ。その上で薬を処方して貰おう」
「藍湛……、ゴホッゴホッ、お前と二人きりになりたい、俺なら大丈夫だから」
「気にせず脈を見させなさい。すぐに終わるから」
 ジタバタと藍曦臣の手から逃れるうちに魏無羨の顔に塗ったくった白粉が藍曦臣と藍忘機の手についてしまった。
 二人ともぬめっとした指先の感触に顔色を変え、指先についた白い粉を擦って見、においを嗅いで確認する。
「…………」
「…………」
「…………」
 三人の沈黙の間は果てしなく続くかに思えた。
「忘機や」
 藍曦臣が溜息と共に呆れた声を絞り出すと、立ち上がった藍忘機ががばっと床に手をついて兄に謝罪する。
「兄上、お騒がせしました。二度とこの様なことは置きぬよう、魏嬰と良く話し合います」
 ちょっとしたいたずらのせいで藍忘機が土下座をして謝ることになり、魏無羨としては針の筵どころではなく、ひたすらに藍曦臣の冷徹な視線が痛かった。
 このひとがこんな顔を出来るのかと言うぐらい、冷たすぎて肌に痛い。凍傷を引き起こす雪の嵐の様な冷たさである。
「いいかい、魏公子」
 たまりかねた藍曦臣が説教をかます前に、立ち上がった藍忘機が急いで兄の背を押し、静室から立ち退かせる。
「兄上、忘機が後でお詫びに参ります。魏嬰のことは私にお任せを」
「お前に任せているからこんなふざけた真似をするのではないか。いいかい、魏公子、忘機の気持ちをもてあそぶ様な真似は兄として断固、私は許さない」
「大丈夫です、魏嬰もちゃんとわかってます」
 なんとか藍曦臣を追い払い、藍忘機は静室に戻って来たが、文句を言うでもなく、魏無羨を恨めしげな目で睨むだけだから遊びどころではなくなってしまった。
「怒るなよ。いつも同じことの繰り返しじゃお前も飽きるだろうと思ったから、たまに病人になってみただけじゃないか」
「きみが病に罹れば遊びどころではないだろう。冗談にも程がある」
「ごめんってば、藍湛。藍哥哥、藍兄ちゃん、許してよ。俺が悪かったってば」
 藍忘機の袖を引き、うるうると潤んだ目で魏無羨が彼を見つめれば、藍忘機も怒ったままではいられない。
 渋々と顔をこちらへ向けてはくれたが、彼の仏頂面は治らず、その晩、たっぷりと仕返しをされてしまった。

 問題は藍曦臣だ。
 あれ以来、ものすごく怒っていて、魏無羨と行き合っても挨拶すら返してくれない。
 仕方がないから彼の弱点である江澄の手を借りることにした。
 至急、雲深不知処に来られたし、と江澄を呼びつけ、彼と一緒に頭を下げに行ったら、藍曦臣も不承不承、魏無羨を許してくれた。
「本当にごめんなさい、沢蕪君。二度とあんな悪さはしません」
「まったくだ。良いかい、私が君を怒るのはね、何よりも忘機の気持ちを考えて」
とまた説教されそうだったから、彼の耳元で
「江澄にもこの手は使える」
と囁いてやった。
「日頃、丈夫な沢蕪君が病気になったら、さすがの江澄も心配するんじゃないかなってさ」
 なるほど、と納得しそうな兄を藍忘機が慌てて止める。
 懲りない男、魏無羨の日常はどんなことが起ころうと相変わらずで、藍忘機から言わせてもらえば、余計なことをしなくても魏無羨との生活は波乱万丈。
 退屈だなどと思うはずがなかった。

20240818
終わり

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