沢蕪君はお留守のようです
昼ともなると気温が上がり、蒸し暑いことこの上ない蓮花塢だが、蓮の花が咲き乱れる早朝の空気は清々しく、気分が良かった江澄はその日の朝餉を湖に迫り出した露台でとることにした。
伴侶を持たない独り身の日常は味気なく、変化に乏しい毎日だが、しかし誰に束縛されるでもなく、好き勝手に過ごしても文句を言う相手がいないことは唯一、喜ばしいことだった。
特に江澄の場合、雲夢江氏を担う跡継ぎとしてこの世に生まれ、幼い頃から魏無羨の背中を追わねばならなかった生い立ちもあり、母の虞紫鳶の教育が厳しかったから尚更だ。
江楓眠に守られ、自由気ままに過ごせる魏無羨が内心すごく羨ましかった。
父親は江澄にも優しかったが、しかしやはりそこは跡継ぎと養子。立場の違いがあり、実の息子には時折、理不尽に厳しかった。
今となれば父の想いも理解できるが、幼い頃の彼に感謝しろと言っても納得するのは難しいだろう。
いつも自分より優秀な魏無羨に引け目を感じ、奔放に生きる彼に対抗心を燃やし、自分を律し続けた十代だった。
あの当時からすれば今の江澄は家にも両親にも縛られず、魏無羨を意識することもなく、気ままに生きていると言える。
たった一人の義兄と和解するまでは、蓮花塢の景色を眺めても恨みしか湧かず、心が晴れることは少なかった。
あの当時は塞いだ胸の隙間を埋めるべく、誰でも良いから伴侶が欲しいと思っていたが、心の充足が得られるとどうでも良くなった。
ひと月か二月に一度、思いついた様に訪ねて来る理解者が一人居てくれれば充分だ。
そんな自分の心境に苦笑を漏らした時、当の藍曦臣が朔月に乗って蓮花塢の空に現れた。
「やあ、おはよう、阿澄。美味しそうな粥だね」
「………」
近頃は藍曦臣語録と言うものを江澄も的確に理解出来る様になったと思う。
今日の粥は湖で取れた淡水魚を使った粥だ。
魚だから、少々、生臭いが江澄は食べ慣れているから気にせず食べることが出来るが、藍曦臣の舌には合いそうにない。
しかし彼の胸元でモゾモゾ蠢く小さな生き物の口には合うに違いなかった。
その白い物体に気が付いた江澄の顔の綻びを見、藍曦臣も笑顔でそれを懐から出してくれた。
「雲深不知処は生き物を飼うのは禁止されているからね。君のところで預かってくれると嬉しい」
藍曦臣の両手に包まれた小さな生き物は雪のような真っ白な毛玉と言いたくなる子猫で、慣れない景色に体を震わせ、そして腹も減っているのか粥の匂いを嗅ぎ取って急にミャアミャア鳴き出した。
早速、藍曦臣の手から猫を受け取り、満面の笑みを浮かべた江澄は、温かい粥の中から魚のほぐし身を取り出し、猫の口元へと持って行ってやる。
その光景を眺めていた藍曦臣も満足したのか、嬉しげに微笑み、猫と戯れる江澄の姿に目を細めていた。
「犬だけではなく、猫も好きなんだね」
「生き物は何でも可愛い。しかし犬は役に立つが、猫は愛玩用でしかないのが残念だ」
「猫だって置いておけば鼠を狩ってくれる」
別に猫に駆除して貰わずとも雲夢江氏の食料庫はちゃんと管理されているが、確かに猫の存在は頼もしい。
「これを俺に飼えと言うのなら、御礼の品はちゃんと携えて来たんだろうな」
「御礼の品など必要だったのか」
「当たり前だ。あなたの頼みで飼うんだぞ」
どうやら礼までは考えが及ばなかったらしい。
にこにこと笑い続けたまま固まった藍曦臣だが、江澄の無言の圧力に耐えきれずに「分かった、分かった」とすぐに宥めにかかった。
「ならばこうしよう。私も猫は大好きだ。この藍藍に会いに来る為に、三日と開けずきみのもとを訪ねると約束しよう」
「そんなに頻繁に来られては俺が困る。それになんだその藍藍なんて洒落っ気の欠片もないつまらない名前は」
「つまらなくはないだろう。藍藍が嫌なら渙渙でも構わないよ」
「いっぺん死ぬか?」
魚のほぐし身が気に入った様で、藍曦臣の子猫は江澄の指先を舐め、小さな前足で彼の手に戯れ、すっかり懐いた様子を見せる。
「渙渙が気に入らないなら、きみが好きな名をつけると良い」
当然だ。
ふん、と顎を突き出した江澄のつれなさに笑いながらも、藍曦臣も名残惜しげに子猫に手を伸ばす。
まるで二人の子供の様だったが、勿論、どちらもそんなことは思うだけで口には出さなかった。
「この子の名前はそのうち考えて置く。約束は果たせよ」
「ん? 何の約束だい?」
「いま自分で言っただろうが」
さて、と首を傾げる藍曦臣の脚を卓の下で蹴り飛ばしてやろうかと思ったが、さすがに藍氏の宗主を蹴るなんて火種のもとになりそうな真似は江澄もしない。
確かに藍曦臣は「三日と開けずに会いに来る」と言ったが、それは江澄が「困る」と断った筈だ。
他に何か言っただろうかと思案して見ても藍曦臣には何も思いつかなかった。
「つまり、猫を引き取る礼を持って来いと言うことかい?」
当然だと江澄がゆっくり頷く。
彼の手は相変わらず小さな子猫をあやしていた。
なんとも微笑ましい光景でそれだけで藍曦臣の口元も緩みっぱなしになってしまう。
「ならば小魚の燻製をたくさん贈ろう」
「そんなものは要らん。魚ならここ蓮花塢でも廃棄するほど大量に取れる」
となるとやはり藍曦臣が三日と開けずに江澄のもとを訪れるより他、何も思いつかないのだが、天邪鬼な江澄は自らは何も答えを与えてくれなかった。
ならば、と立ち上がった藍曦臣は前屈みになり、江澄の額に口付ける。
唐突な口付けに一瞬、固まった江澄だが、すぐに気を取り直して、ふん、と鼻を鳴らした。
不機嫌そうにも見えるが、ムッとした顔の頬がほんのりと赤らんでいる。
それを見て藍曦臣も堪えきれずに噴き出してしまった。
「阿澄、きみって本当に分かりやすくて可愛い」
「喧しい。湖に突き落とすぞ。生きて雲深不知処に帰れると思うな」
「はいはい。江宗主の仰せのままに」
分かりにくくて、分かりやすい。
それが江澄の好きな相手にだけ見せる彼の本来の姿だ。
「承知しました、江宗主。三日と開けずにきみのもとを訪ねるよ」
「迷惑だって言ってるんだろうが。もしも約束を違えた時は、針千本飲むんだろうな」
「一日きみの従者になって過ごす。それならどうかな」
それはそれで悪くない。
江澄の表情から彼の気持ちを悟った藍曦臣は三本指を額に当て、「絶対誓う」と宣誓した。
多分、その約束はすぐに破られることになるだろうが、その先にあるちょっとした諍いも彼らにしてみればちょっとした余興みたいなものだ。
江澄がふてくされ、それを藍曦臣が宥めて、元の鞘に収まることを二人とも楽しんでいる。
お互い男同士だが、伴侶と言うのはこう言うものなのだろうな、と改めてしみじみと感じてしまった。
「三日と開けずにあなたが会いに来るのなら、それまでには猫の名前を考えて置こう」
「では、それを楽しみにして、また来ることにしよう」
来たと思ったら忙しなく去り、江澄は再び一人になったが、藍曦臣が残していった猫が江澄の指に絡みついて戯れている。
今の彼は猫と一人で露台にいるが、心は晴れやかで気分が良かった。
いつだって離れずそばに居てくれる。
例え、身体はそれぞれ離れた場所にあったとしても、自分を必要と思ってくれる相手がいる。
それだけで江澄は幸せいっぱいだった。
終わり
20240818
伴侶を持たない独り身の日常は味気なく、変化に乏しい毎日だが、しかし誰に束縛されるでもなく、好き勝手に過ごしても文句を言う相手がいないことは唯一、喜ばしいことだった。
特に江澄の場合、雲夢江氏を担う跡継ぎとしてこの世に生まれ、幼い頃から魏無羨の背中を追わねばならなかった生い立ちもあり、母の虞紫鳶の教育が厳しかったから尚更だ。
江楓眠に守られ、自由気ままに過ごせる魏無羨が内心すごく羨ましかった。
父親は江澄にも優しかったが、しかしやはりそこは跡継ぎと養子。立場の違いがあり、実の息子には時折、理不尽に厳しかった。
今となれば父の想いも理解できるが、幼い頃の彼に感謝しろと言っても納得するのは難しいだろう。
いつも自分より優秀な魏無羨に引け目を感じ、奔放に生きる彼に対抗心を燃やし、自分を律し続けた十代だった。
あの当時からすれば今の江澄は家にも両親にも縛られず、魏無羨を意識することもなく、気ままに生きていると言える。
たった一人の義兄と和解するまでは、蓮花塢の景色を眺めても恨みしか湧かず、心が晴れることは少なかった。
あの当時は塞いだ胸の隙間を埋めるべく、誰でも良いから伴侶が欲しいと思っていたが、心の充足が得られるとどうでも良くなった。
ひと月か二月に一度、思いついた様に訪ねて来る理解者が一人居てくれれば充分だ。
そんな自分の心境に苦笑を漏らした時、当の藍曦臣が朔月に乗って蓮花塢の空に現れた。
「やあ、おはよう、阿澄。美味しそうな粥だね」
「………」
近頃は藍曦臣語録と言うものを江澄も的確に理解出来る様になったと思う。
今日の粥は湖で取れた淡水魚を使った粥だ。
魚だから、少々、生臭いが江澄は食べ慣れているから気にせず食べることが出来るが、藍曦臣の舌には合いそうにない。
しかし彼の胸元でモゾモゾ蠢く小さな生き物の口には合うに違いなかった。
その白い物体に気が付いた江澄の顔の綻びを見、藍曦臣も笑顔でそれを懐から出してくれた。
「雲深不知処は生き物を飼うのは禁止されているからね。君のところで預かってくれると嬉しい」
藍曦臣の両手に包まれた小さな生き物は雪のような真っ白な毛玉と言いたくなる子猫で、慣れない景色に体を震わせ、そして腹も減っているのか粥の匂いを嗅ぎ取って急にミャアミャア鳴き出した。
早速、藍曦臣の手から猫を受け取り、満面の笑みを浮かべた江澄は、温かい粥の中から魚のほぐし身を取り出し、猫の口元へと持って行ってやる。
その光景を眺めていた藍曦臣も満足したのか、嬉しげに微笑み、猫と戯れる江澄の姿に目を細めていた。
「犬だけではなく、猫も好きなんだね」
「生き物は何でも可愛い。しかし犬は役に立つが、猫は愛玩用でしかないのが残念だ」
「猫だって置いておけば鼠を狩ってくれる」
別に猫に駆除して貰わずとも雲夢江氏の食料庫はちゃんと管理されているが、確かに猫の存在は頼もしい。
「これを俺に飼えと言うのなら、御礼の品はちゃんと携えて来たんだろうな」
「御礼の品など必要だったのか」
「当たり前だ。あなたの頼みで飼うんだぞ」
どうやら礼までは考えが及ばなかったらしい。
にこにこと笑い続けたまま固まった藍曦臣だが、江澄の無言の圧力に耐えきれずに「分かった、分かった」とすぐに宥めにかかった。
「ならばこうしよう。私も猫は大好きだ。この藍藍に会いに来る為に、三日と開けずきみのもとを訪ねると約束しよう」
「そんなに頻繁に来られては俺が困る。それになんだその藍藍なんて洒落っ気の欠片もないつまらない名前は」
「つまらなくはないだろう。藍藍が嫌なら渙渙でも構わないよ」
「いっぺん死ぬか?」
魚のほぐし身が気に入った様で、藍曦臣の子猫は江澄の指先を舐め、小さな前足で彼の手に戯れ、すっかり懐いた様子を見せる。
「渙渙が気に入らないなら、きみが好きな名をつけると良い」
当然だ。
ふん、と顎を突き出した江澄のつれなさに笑いながらも、藍曦臣も名残惜しげに子猫に手を伸ばす。
まるで二人の子供の様だったが、勿論、どちらもそんなことは思うだけで口には出さなかった。
「この子の名前はそのうち考えて置く。約束は果たせよ」
「ん? 何の約束だい?」
「いま自分で言っただろうが」
さて、と首を傾げる藍曦臣の脚を卓の下で蹴り飛ばしてやろうかと思ったが、さすがに藍氏の宗主を蹴るなんて火種のもとになりそうな真似は江澄もしない。
確かに藍曦臣は「三日と開けずに会いに来る」と言ったが、それは江澄が「困る」と断った筈だ。
他に何か言っただろうかと思案して見ても藍曦臣には何も思いつかなかった。
「つまり、猫を引き取る礼を持って来いと言うことかい?」
当然だと江澄がゆっくり頷く。
彼の手は相変わらず小さな子猫をあやしていた。
なんとも微笑ましい光景でそれだけで藍曦臣の口元も緩みっぱなしになってしまう。
「ならば小魚の燻製をたくさん贈ろう」
「そんなものは要らん。魚ならここ蓮花塢でも廃棄するほど大量に取れる」
となるとやはり藍曦臣が三日と開けずに江澄のもとを訪れるより他、何も思いつかないのだが、天邪鬼な江澄は自らは何も答えを与えてくれなかった。
ならば、と立ち上がった藍曦臣は前屈みになり、江澄の額に口付ける。
唐突な口付けに一瞬、固まった江澄だが、すぐに気を取り直して、ふん、と鼻を鳴らした。
不機嫌そうにも見えるが、ムッとした顔の頬がほんのりと赤らんでいる。
それを見て藍曦臣も堪えきれずに噴き出してしまった。
「阿澄、きみって本当に分かりやすくて可愛い」
「喧しい。湖に突き落とすぞ。生きて雲深不知処に帰れると思うな」
「はいはい。江宗主の仰せのままに」
分かりにくくて、分かりやすい。
それが江澄の好きな相手にだけ見せる彼の本来の姿だ。
「承知しました、江宗主。三日と開けずにきみのもとを訪ねるよ」
「迷惑だって言ってるんだろうが。もしも約束を違えた時は、針千本飲むんだろうな」
「一日きみの従者になって過ごす。それならどうかな」
それはそれで悪くない。
江澄の表情から彼の気持ちを悟った藍曦臣は三本指を額に当て、「絶対誓う」と宣誓した。
多分、その約束はすぐに破られることになるだろうが、その先にあるちょっとした諍いも彼らにしてみればちょっとした余興みたいなものだ。
江澄がふてくされ、それを藍曦臣が宥めて、元の鞘に収まることを二人とも楽しんでいる。
お互い男同士だが、伴侶と言うのはこう言うものなのだろうな、と改めてしみじみと感じてしまった。
「三日と開けずにあなたが会いに来るのなら、それまでには猫の名前を考えて置こう」
「では、それを楽しみにして、また来ることにしよう」
来たと思ったら忙しなく去り、江澄は再び一人になったが、藍曦臣が残していった猫が江澄の指に絡みついて戯れている。
今の彼は猫と一人で露台にいるが、心は晴れやかで気分が良かった。
いつだって離れずそばに居てくれる。
例え、身体はそれぞれ離れた場所にあったとしても、自分を必要と思ってくれる相手がいる。
それだけで江澄は幸せいっぱいだった。
終わり
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