夏の夜の二人

 その日、江澄は金凌から人生最大の難問を突きつけられていた。
「どうなんだよ、教えてよ」
と唇を尖らせ、拗ねる金凌に「知らん」と素っ気なく返したものの、粘り強い彼がそんなことで諦める筈もない。
「だって叔父上はあいつと義理の兄弟なんだろ。知らないわけがないし、叔父上の義理の兄なら、私にとっても義理の叔父だ。教えてくれてもいいじゃないか」
「だからって俺のところへ聞きに来る必要があるか。そんなに知りたいなら本人に聞けば良いだろう!」
 魏無羨本人に。
 彼と藍忘機の関係は実際、どうなのか。
 金凌がそう聞いて答えられるものなら答えて見ろぐらいな気持ちでそう言ったのだが、金凌のことだから本気で雲深不知処まで尋ねに行かないとも限らない。
 すっかりぶんむくれて立ち上がった金凌の勢いに、こいつ絶対雲深不知処に乗り込むつもりだなと悟った江澄は慌てて金凌を引き止め、彼を宥めにかかった。
「金凌、狼犬の寿命は大体十歳だ。仙子は幾つだったか」
「私が三つの時に内叔父が下さったからもう十五歳にはなってるよ。そんなことより」
「ならばそろそろ仙子の代わりの犬を見つけなければな。あんな賢い霊犬、そう簡単には見つからんぞ」
「叔父上、ごまかすの止めてってば」
「───」
 自慢ではないが、江澄はけして人付き合いが上手ではない。
 ましてや金凌の様な年下の扱いなど分からず、彼が我が儘を言う度にブチ切れそうになるが、魏無羨と藍忘機のことで何故、自分が悩まなければならないんだと言う気持ちもある。
 どちらにしても金凌に「断袖」や「衆道」と言ったいかがわしい知識をつけたくない江澄は、やむなく、彼を引き連れて雲深不知処へ直談判することにした。
 御剣の術を使えば、雲深不知処などあっという間の距離だ。
 二人の住処である静室に行く前にまずは金凌を預けるため、寒室の藍曦臣を訪ねた。
「やあ、阿……」
……ちょん、と言いかけて江澄の後ろに金凌がいることに気がついた藍曦臣は、慌てて「江宗主」と言い換え、丁寧な拱手で出迎える。
 江澄も甥が見ている手前、きっちりとお辞儀をし、金凌にも「挨拶しろ」と拝礼を促した。
「藍宗主に、拝謁します」
「ようこそ、金宗主」
 自分だって宗主なのに何で拝礼なんてしなきゃならないんだと言いたげな金凌には姑蘇の菓子を与えて関心をよそに向けさせ、江澄は藍曦臣を指で手招きし、こそこそと要件を伝える。
「困ったことになった」
「困ったこととは? 金公子のことかい?」
「そうだ。どこから聞いて来たのかは知らんが、魏無羨と藍忘機の関係を説明しろと」
「………」
 それの何が困るんだと言う顔で藍曦臣は江澄の顔を呆気にとられ、眺める。
「二人は、知己の関係でしょう。うちは皆にそう説明していますが」
「だからって何で雲深不知処で二人で住んでるんだと聞かれて、俺にどう返答しろってんだ」
「別に隠す必要もないのでは。いずれは彼も知ることだと思いますが」
「それを俺に説明させるのか。冗談じゃないぞ」
 全く江澄の金凌箱入り娘的教育にも困ったものである。普段の教育は手厳しく、「足を折るぞ」だの「妖魔を退治して来るまで帰ってくるな!」だの、もう少しお手柔らかに接してやれと言いたくなる程なのに、ことこうした大人の事情からは遠ざけて、金凌を何も知らない初な子のまま育てたいと思っている節がある。
 そんなところがおかしくて藍曦臣はにこりと笑ってしまったのだが、「何がおかしい」と江澄に睨まれて即座に誤魔化した。
「藍曦臣、金凌が魏無羨に質問する前に俺があいつと話を付けてくるから、ちょっとの間、金凌を預かってくれないか?」
「宜しいですが。何なら、そろそろ蘭室でうちの若手を集めて授業を始める頃なので、一緒に勉強させますか?」
「ああ、頼む」
 藍氏の若手と一緒なら金凌も魏無羨のことをしばらく忘れて過ごしてくれるだろう。
「あれ、叔父上はどこに行くんだ」
「叔父上は忘機と重要な話があるので、きみはしばらく私とともに藍氏の授業に出ませんか?」
「え? 俺は蘭陵金氏の宗主だぞ。姑蘇藍氏の学問など必要ない」
「そうは言いましても、うちの藍思追や藍景儀も未だ私の授業を受けておりますし、金宗主も見聞を広めると思って参加なさってみては如何です」
 さすがは藍曦臣だ。
 温厚篤実の手本の様な彼にかかっては、金凌みたいに世間知らずな若者を丸め込むなど朝飯前である。
 特に問題なさそうだと判断した江澄は早速、雲深不知処の中を進み、敷地のはずれ、竹林を通り過ぎた先にある静室にいるであろう藍忘機と魏無羨を訪ねることにした。

 さわさわと涼しい風が周囲の竹の葉を揺らし、芳しい竹の芳香を露台で寝転ぶ魏無羨の元へと運んで来る。
 そこで雑魚寝になる彼を見、藍忘機は口元に笑みを浮かべながら、彼の為に琴を一曲奏でてやっているところだった。
 ふとその音が止み、魏無羨も「なんだ?」と顔を上げる。
 静室と書かれた門のところに現れた江澄を見、魏無羨は喜色を浮かべてひょいと跳ね起きた。
「なんだ、江澄じゃないか!」
 相変わらず単調な暮らしである雲深不知処での生活に、魏無羨は半分呆れ、半分馴染んでいるが、やはりかつての義弟の訪れは何よりも嬉しいらしく、彼の満面に浮かんだ喜色を見、藍忘機はほんの少し機嫌を害したが、もとより人の感情の機微には疎い魏無羨と江澄は気づきもせずに「久し振りだな!」とがしっと抱擁しあい、再会を喜んだ。
「今日は何の用で来たんだ」
「金凌のことだ」
「金凌?」
 いつになく重苦しい江澄の眉間の皴を見、魏無羨は藍忘機を振り返る。
 仕方なく藍忘機は琴を片付け、江澄の為に茶の用意をしてやった。
 お茶に精通した相手と言えばやはり藍曦臣だが、勿論、藍忘機が好む茶葉も豊潤でふくよかな良い香りがする。
「どうぞ」
と藍忘機に茶を差し出された江澄は「かたじけない」と受け取り、一服、口に含んでそのまろやかさに感嘆した。
 茶のことなど微塵も精通したくない魏無羨は、格式張った挨拶はいらないからさっさと要件に入れと江澄を促す。
「それで金凌が何だって? あいつがどうかしたのか」
「お前のせいだぞ、魏無羨」
「俺のせい?」
「お前と藍忘機がどんな関係なのか説明しろと詰め寄られた」
 それに何の問題があるのだろう。
 魏無羨と藍忘機は顔を見合わせ、首を傾げたが、江澄にとっては一大事のようだ。
「いいか、魏無羨。お前だってあいつの義理の叔父なんだぞ」
「厄介なことに身体は義理でも何でもなくて本当に叔父なんだよなぁ。莫玄羽と金子軒は腹違いの兄弟だから」
 確かにそうだ。
 余計にややこしい。
「叔父ならば、甥から尊敬される生き方を心掛けろ」
「俺はちゃんと尊敬される生き方してるってば。なあ、藍湛」
「うん」
「藍忘機に助けを求めるな。そいつはお前のことなら何でも肯定する。お前はあいつの叔父でありながら、毎日、こうして怠惰に寝て暮らし、藍忘機の紐同然じゃないか。それを金凌にどう説明するんだと聞いてるんだ」
「お言葉だが、江晩吟。魏嬰は私の知己であり、かけがえのない人だ。そして魏嬰がこの静室で蟄居同然の暮らしをしているのも、すべて彼の怠惰から来る惰性ではなく、私のため。きみにとやかく言われる筋合いはない」
 普段は寡黙な藍忘機もこと魏無羨のことにかけては黙っていない。
 江澄と火花を散らす彼をどうにか宥め、今一度江澄に確認する。
「じゃあお前は金凌の質問にどう答えろってんだ。何か意見があるからこうして乗り込んで来たんだろう」
「当然。金凌の前ではお前たちの関係を隠せ」
「は?」
「だから阿凌の前ではお前たちはただの友人で、断袖の関係であることは一言も漏らすな」
「別に俺は藍湛と俺との関係を人に見せつけたりしていないし、かと言ってごまかす気も隠す気も毛頭ないぞ。悪いことをしちゃいないのに何故、ごまかさなきゃならない」
「当たり前だ。金凌がお前たちを真似したらどうする。あいつは蘭陵金氏の宗主なんだぞ」
「江澄……」
 姑蘇藍氏の頭の堅さも相当だが、江澄の頑固さもけして負けてはいない。
 しかし魏無羨としても、金凌は江厭離の大切な忘れ形見。
 藍忘機にどうしたものかと救いの目を求めたが、藍忘機はうんとも否とも言わなかった。
 彼はどちらにしても魏無羨との仲をごまかす気はないし、ありのままで行くつもりなのだろう。
 藍忘機の性格を考えればそれしか思いつかず、板挟みとなってしまった魏無羨は頭が痛かった。
「分かったよ。それで金凌に俺と藍湛の関係を説明すれば良いんだな」
「ああ。ちゃんと否定するつもりだろうな」
「……それは……何とも言いかねるけど」
 魏無羨、と江澄に凄まれ、後ろからは藍忘機の無言の圧力をかけられて、さしもの魏無羨の顔も引き攣る。
「まったくあのお子ちゃまは次から次へと良くもまあ問題ばかり起こしてくれるものだ。誰に似たんだか」
「少なくともお前とは微塵も似ていないな」
「江澄、相変わらず意地の悪いことばかり言ってるが、お前こそどうなんだよ」
「俺?」
「お前だって俺のこと言えるのかってんだ。さっさと結婚して金凌のまっとうな大人の手本になってやればいいじゃないか」
「う、うるさい! ともかく説明はしたからな!」
 そう言い放ち、江澄は静室を出て行った。
 おそらく寒室の藍曦臣のもとにでも戻ったのだろう。
 彼を見送った魏無羨は藍忘機を振り返り、「藍湛、ごめん!」と彼に抱きついて最初に謝っておいた。
「お前とのことで嘘はつきたくないけど、でも金凌は師姉の子なんだ。あの子があんな性格になっちまった原因は少なからず俺にも責任があって、何と言うか、つまり」
 口ごもる魏無羨を抱き返し、藍忘機は「心配ない」と彼の額に口付ける。
 魏無羨との関係をごまかすのは不本意ではあるが、藍忘機とて魏無羨が金凌をどれ程大切に思っているかは良く理解している。
 忘羨二人の関係を金凌が素直に受け止められる年齢になるまで、彼らの関係は伏せるべきだと言う江澄の意見もあながち間違いではないと分かっていた。
「ごめん……」
 藍忘機の同意を済まなく感じながらも、やはり受け取る側の金凌の気持ちを真っ先に考えたい魏無羨は彼の好意をそのまま受け取ることにした。
「金凌はさ、周囲の人間に裏切られることを過度に嫌うんだ。狭い視野でしか物事を考えないから、江澄が言うように俺と藍湛の関係を知ったら、俺に騙されていたと思うかも。あいつが俺達の関係を理解するにはもう少し時間が必要だ」
「分かっている」
 そう頷いてくれる藍忘機の眼差しが魏無羨への理解に溢れていて、魏無羨は更に胸が苦しくなって、藍忘機の身体を今一度ぎゅっと抱きしめた。
 しばらくして江澄が藍曦臣を伴い、金凌と共にやって来た。
 藍曦臣の授業のおかげですっかり気分を良くした金凌は魏無羨の顔を見るなり、彼と藍忘機の関係について聞いてきたが、江澄とあらかじめ打ち合わせた通り、単なる親友だよと説明すると簡単に納得したようで安堵の溜息を吐いていた。
「やっぱりな。お前と含光君が怪しい関係だなんて言う奴がいたからさ。私はそんなの絶対嘘に決まってるって言い切ったんだ。断袖なんて馬鹿げてる」
「あはは……」
 そんなこんなで金凌の来襲は呆気なく過ぎてくれたが、その日の魏無羨の気分は沈んだまま、なかなか浮上することが出来なかった。
 見るに見かねた藍忘機が魏無羨を久し振りに彩衣鎮へと連れ出してくれた。
 いつもは白い校服を着ている藍忘機もこの日はお忍びで町人が着る藍染めの簡素な普段着を着こなしている。
 しかしその美貌は隠しようがないため、彩衣鎮の町人は彼が誰だかすぐに分かっていたが、誰も藍忘機の名は口にしなかった。
「魏嬰、天子笑だ」
 例の白い瓶を二つ程、ぶら下げ、藍忘機は氷を食べていた魏無羨の目の前の卓に置く。
「ありがとうな、ニの若様」
 どういたしましてと言いたげな男前に微笑みながら、魏無羨は彼の為に甘露に漬けた果物を匙で掬って口元へ運んでやった。
「藍湛は何を着ていても大陸一の美人さんだ」
 魏無羨が口に入れてくれた果実を噛みながら、藍忘機もふっと笑いを漏らす。
 今日の彼はいつもの藍忘機のようでいて、ほんの少し斜に構えた雰囲気もあり、魏無羨は彼の新たな面を垣間見られた気がして塞いだ気持ちも幾分和らぎ始めていた。
「自分の心を偽るって、本当に嫌なものだな」
 魏無羨のそんな呟きに、藍忘機はうんともすんとも言わず、彼の為に天子笑の栓を開け、盃になみなみと注いで渡してくれる。
「酒は、良いことも嫌なことも押し流し、人を酔い心地にさせてくれるものなのだろう。私は酒に頼ることがないから分からないが、嫌なことは全部これで押し流してしまえばいい。明日にはいつものきみに戻ってる」
「うん……。お前がただの親友だなんて、これっぽっちも思ってないからな」
「分かっている」
「藍湛は俺の唯一無二。俺が一番好きな男で、たった一人、惚れた相手だ。そいつを好きだと公言することの何が悪いってんだ」
「気にするな、魏嬰」
「………」
 しかも。
 金凌にとって良き叔父でありたい。
 その見栄のためだけに、藍忘機との関係を誤魔化した自分が情けなくて。
 そしてそんな魏無羨を責めることもせず、こうして理解し、慰めてくれる藍忘機に済まなすぎて、いつもの酒もちっとも美味しいとは感じられなかった。
「この先、金凌の前に出るたび、ずっとごまかして行かなきゃならないのかよ」
「……彼と会うのはそれ程、頻繁じゃない」
「頻繁じゃないけど、その度に藍湛に済まない気持ちになるのが気が重すぎる!」
「魏嬰」
 顔を塞ぐ魏無羨がつんつんと藍忘機にその手を突かれ、手をどけて彼の方を見てみると、今度は藍忘機が魏無羨に氷と果実を匙で掬って差し出してくれた。
 ペロリと舌の上にのせると甘い蜜に漬けられた果物のひんやりとした感触が喉を潤す。
「魏嬰、これが毒だとしても、食べてしまうのは一瞬だ。喉元過ぎれば、熱さを忘れるではないが、きみを十六年待ち続けた私にとって、この程度の一瞬、苦痛でもなんでもない。それよりもこうして気を塞いで、沈むきみを見る方が心が痛む」
「藍湛……」
「金凌──、あの子がきみにとっていかに大切かは理解しているが、私とともに過ごす時間を鬱々と過ごす程、きみにとってなくてはならない、重要な者なのか? 私よりもあの子の方が大切か」
「んなわけないだろ」
「ならばいつものきみに戻れ。さあ、もう一口」
「もう良いってば」
 それでも無理やり口に果実を含ませようとする藍忘機としばしふざけ、笑ううちにようやく魏無羨のいつもの笑顔が戻って来て、藍忘機の微笑にも安堵が浮かぶ。
「藍哥哥、今晩は雲深不知処に帰りたくないな」
「うん。それを食べ終えたらきみに夜の碧霊湖を見せてあげよう」
「碧霊湖? そこで何か面白いものが見られるのか?」
「うん。蛍と湖に沈む鬼の魂魄が舞踏を踊る様だ。本来、邪を鎮める行為だが、私の大切な人の為に、沈んでいる水死体らにさっさと成仏して貰う」
「何だそれ」
 おかしくてぷっと噴き出した魏無羨を見、藍忘機も白い歯を見せた。
「藍の若様手ずからの浄化か。それは久し振りにこの目で拝めるな。楽しみにしていよう」
「きみの陳情も一緒に」
「うん」
 卓の上で二人の指が絡み、そして視線を交じ合わせた彼らはそっと唇も寄せ合う。
 魏無羨の唇を離した藍忘機はその口で額に口づけながら、「魏嬰」と彼の名を呼んだ。
「私を傷つけたと思い悩む必要はない。きみのすることは私は何でも嬉しいし、きみに傷つけられることもない。なぜなら、きみのことを心から信じているから」
「うん……」
 ありがとう、藍湛
と口には出さずに魏無羨は心のなかで噛み締める。
 こんな完全無欠で完全無比な恋人を得られたことを天に感謝したいし、藍忘機にとって自分もそんな相手であって欲しいと心から祈る。
「ったく、江澄の奴。いつもいつも勝手ばかりほざきやがって。あんな奴、不幸になっちまえ」
 魏無羨のその呪詛が届いたのかどうかは知らないが、遠く蓮花塢で一人淋しく酒を飲んでいた江澄がクシュンと大きなくしゃみを放っていた。

終わり
20240723
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