魔道祖師

 真夏の夜にぱあっと辺りを明るく照らす閃光弾が上がる。
 仙門以外の者が見ればそれは単なる花火だったが、江澄始め、雲夢江氏の人間には、蘭陵金氏の誰かが放った信号だとすぐに察することが出来た。
 自室からその信号を見た江澄は立ち上がり、直ぐ様大凡の距離を見積もって三毒を手に立ち上がる。
 その日、ちょうどたまたま藍曦臣も江澄の元を訪れていた。
 出動しようとする江澄に「私も行こう」と申し出て、けんもほろろに断られる。
「あの信号の距離を見積もったか。場所は雲夢の外れだ。蘭陵金氏が雲夢で夜狩りをするはずがなく、やるとするなら必ず江家に連絡を寄越す。しかしそんな報告は上がっていない」
「つまり?」
 藍曦臣の問いに答えるのも面倒と彼の身体を押し退けながら、江澄は雲夢江氏の門弟を収集する。
 しかしさすがに相手は沢蕪君。
 江澄と言えど完全無視は出来ない為、
「金凌だ」
と答えを上げてやった。
「金如蘭?」
「そうだ。あの跳ねっ返り以外、他家の領地にずかずか押し入り、勝手に夜狩りをする奴など蘭陵金氏にはおらん。金凌ならば仙子と単独で乗り込んだことも考えられる。あんたを連れては行けない。悪いが帰ってくれ」
「しかし江宗主。一つ私に提案が」
 藍曦臣が彼を「阿澄」ではなく、江宗主と呼んだのは既に雲夢江氏の弟子たちが集まり出していたからだ。
 早く金凌の救出に向かいたい江澄は苛つきを隠せずに、チリっと唇を噛み締めながら、辛抱強く年長者の顔を立て、藍曦臣の意見を聞いてやった。
「どんな提案だ」
「どのような状況で発せられた信号かは分からないが我々、姑蘇藍氏が得手とする音階術は邪祟の浄化に特化する。君たち雲夢江氏は不得手とする分野だ。ならば協力は出来るかと」
「───」
 確かに。
 個人的に呪術に傾倒していた魏無羨はともかく、剣術に長けた侠客集団がことの興りである雲夢江氏は、霊や祟を鎮める方面には不向きだ。
 出来ないわけではないが、その辺は姑蘇藍氏の音階術の方が優れている。
 ましてや今は何よりも大切な甥の一大事である。
 金凌の為なら自分の命さえ惜しくないのに面子に拘る必要もないから、藍曦臣に「付いて来い」と告げると、江澄は雲夢江氏の門弟を二十人程連れて信号弾が上げられた箇所へと急いだ。

 現場は鬱蒼とした森の中だった。
 ただならぬ瘴気が漂い、よくぞここに乗り込んで行ったなと金凌の相変わらずの無鉄砲振りに溜息が出てしまう。
 隣に立つ藍曦臣の表情にも似たような思いが溢れていて、江澄に同情する様な目線を向けられてしまった。
「藍曦臣、どう思う」
「かなり強く、深い怨念が立ち込めていますね。私はここで浄化を試みましょう。五人程お借りしても?」
「良いだろう。お前達五人はここに残り、藍宗主の術を補佐しろ。残った者も五人一組に分かれ、散開して金凌を探せ。犬の鳴き声が聴こえたらそこに金凌がいる」
「阿澄、江宗主。お気をつけて。どうやらこれは単なる邪祟ではなく、金公子は起こしては行けない神を怒らせてしまったのかも」
「神だと?」
「ええ。神にも色々ありますから。しかし今はその話をしている時ではないでしょう。急がねば金公子の命が危ういかも」
 こう聞いてはますます江澄の気持ちがぐ。
 返事もせずに行こうとする彼の手を掴み、藍曦臣が何やら気を送って来た。
「お守り程度に。阿澄、金公子の身は心配ですが、身の危険を感じたらすぐに戻りなさい。いいね」
「………」
 藍曦臣の気持ちは嬉しいが、江澄にとって、金凌は何に変えても守らなければならない存在だ。
 彼もそれはわかっているだろうから江澄から返事がなくとも送り出してくれた。
 すぐに藍曦臣の音階術が開始され、蕭の清らかで厳かな音が青白い光の靄となって周辺を包みだす。
 部下たちを三方向へ向かわせ、江澄は単独で残った一方へと足を踏み出した。
 藍曦臣の蕭の音の効果のおかげか、草陰で唸る狼もなりを潜め、辺りに生者の気配はしなくなる。
 動く物はすべて邪祟に乗り移られた物ばかりで、江澄は襲ってくる彼らを全部紫電の鞭先で滅多打ちにしてやった。
「阿凌! 返事をしろ! 外叔父だ!」
 江澄の声が届いたのか仙子がワンワンと吠える声が左の方角から聴こえて来た。
 仙子はかなり優秀な狼犬の筈なのに犬の声音にもどこか怯えを含んでおり、藍曦臣が「神かも」と言った言葉の意味が江澄にもようやく理解出来た。
「これか──」
 小さな祠が横倒しになっており、近くの草木に仙子の物と思しき犬の毛が付着していた。
「金凌! 返事をしろ!」
 突如としてシュルっと蛇が舌を巻く音が聞こえ、江澄はそちらへ向けて紫電を放つ。
 一度目は手応えはなかったが、二打目でようやく相手の姿が見えた。
 とてつもなく巨大な蛇で尻尾に金凌の身体を巻き付け、同じく枝に巻き付いた木の上から江澄を見下ろしている。
 その根本で仙子がキャンキャンと鳴き喚いていたが、犬の身では木に登ることも出来ず、江澄の姿を見つけ、鼻を鳴らして擦り寄って来た。
 とぐろを巻く蛇の眼が紅く染まり、カッと大きな口を開けて威嚇して見せる。
「上等だ。クソ蛇の分際で、この江晩吟様を怒らせるとはな」
 ピイッと指笛を鳴らし、部下たちを呼び寄せると、彼らの到着を待たずに江澄は再び紫電を撓らせ、金凌を捕まえている尻尾を重点的に攻撃する。
 鋭い牙の攻撃は三毒で防いだが、胴の太さだけでも江澄の両腕を回した分ぐらいはあるこの大蛇とどう太刀打ちして良いものやら。
 本音を言えば藍曦臣の手を借りたいところだが、彼は彼でこの蛇の邪力を弱めることに集中している真っ最中だ。
 言い換えれば藍曦臣の音階術があったからこの程度の大きさで済んでいるのであって、蕭の音が止めばたちどころに蛇は山にも変わる大きさに変化するだろう。
 死に物狂いで蛇と格闘している間、江澄の脳裏に浮かんでいたのは、蓮花塢で過ごした少年時代のことばかりだった。
 魏無羨が彼をからかって笑い、それに腹を立てた江澄が噛み付いて、江厭離が二人を笑いながら宥めている。
 誰よりも優しくて、誰よりも温かみがあって、当時の魏無羨と江澄にとって彼らの姉はお日様の様に明るく、母のように優しい人だった。
 そんな姉の忘れ形見である金凌だけは、守りきらなくてはならない。
 思い出の中で彼をからかう魏無羨に唾棄し、その当の魏無羨は今頃、藍忘機と雲深不知処で過ごしていると自嘲げに嗤う。
 大蛇の首が江澄の鳩尾を強打し、投げ出された彼の身体は木の幹に叩きつけられて地面へと落下した。
 衝撃で内臓がやられたのか、咳と共に大量の血が口から溢れ出た。
「なんだ、江澄。やっぱり俺がいなくちゃ駄目なのか?」
 空耳だろうが魏無羨の声がまた聴こえた気がして、江澄は三毒を支えに身を起こすと、再び大蛇の攻撃に備えて態勢を整え直した。
「…ふざけるな、魏無羨……、お前の力など借りん! お前などもう俺に必要ない!」
 紫電を構え、再び大蛇へと攻撃を開始したが、そこから先の記憶は曖昧で何をどう闘ったのか全く覚えていない。
 ただ藍曦臣の白い衣が彼を抱きかかえ、彼の朔月が蛇の頭を一刀にしたのは視界の端で確かめた。
「阿凌が……」
と伸ばした彼の手を「大丈夫だ」と握り返してくれた。
「私だけでは不安に感じたから、信号弾で忘機を呼んだ。すぐに彼らが来るだろう。きみは心配しなくて良いから眠りなさい。阿凌なら無事だ」
「藍…忘機……? どうして」
 それ以上の思考は混濁とし、藍曦臣の腕の中、江澄は深い眠りへとついて行った。
 深く、深く、底が見えない程、深い眠りの中だ。
 その中にさっきの蛇がいた。
 いや、そう思ったのは江澄だけで、実際にその蛇とさっき見た大蛇では大きさと言い、見た目の邪悪さと言い、全く別の代物だった。
 大きな瑠璃色の瞳を輝かせ、じっと江澄を見つめているが、襲ってくる気配は感じられない。
 多分、藍曦臣に首を落とされたことで鎮められたのだろう。
 江澄が指先で頭部に触れて見ると、嬉しげに身を震わせ、彼の手に身体を巻き付けて来た。
 夢の中なのにとろとろとなぜだかすごく眠い。
 蛇と共に寝続け、次に起きた時、
 江澄の身体は雲深不知処のどこかに寝かされていた。[newpage] その日。
 雲深不知処では長く眠りについていた子供がようやく目を開けた。
 彼の父母は大喜びでその子を抱き締め、「良かった、良かった」と神に感謝の言葉を捧げていたが、その子は唐突に開かれた目の前の現実に付いて行けずに戸惑っていた。
 どうやらここは雲深不知処の中らしい。
 そして姑蘇藍氏の校服を着るこの夫婦が彼の両親で、彼はその両親から藍静と呼ばれていた。
 いつから自分は姑蘇藍氏の人間になったのだろう、と疑問に思いながら鏡を覗いて見たのだが、そこに映るのは彼が自分だと思いこんでいた姿ではなく、藍氏の抹額をつけたまだ幼い少年だった。
「外に出てもいい?」
と親に尋ねる声も幼く、少年は自分のことが分からなくなってしまった。
 大人の視線から見た雲深不知処の景色と、子供の背丈で見る雲深不知処は随分と大きな隔たりがある。
 少年はどうやら藍家の分家筋の生まれらしく、彼が雲深不知処を歩いていると、
「やあ、藍静、すごいや。ようやく目が覚めたのかい?」
とそこら中から声がかかって来た。
 目の前に「寒室」の文字が見えてぴくりと身体を硬直させる。
 ただ寒室の扉の前には二人の護衛が立ち塞がっていて、中へ入って藍曦臣に会うことは出来なかった。
「ご両親の許可を得て、まずは藍先生に会いに行きなさい。藍宗主は誰ともお会いになりません」
 どうやら藍曦臣はまたもや閉関し、寒室の扉を閉めてしまったらしい。
 仕方なく藍忘機の居室である静室へと向かったが、そこから流れる琴の音を聴き、何となく近寄りがたくて藍静はまた両親の元へと戻ることにした。
 どうして自分が姑蘇藍氏の少年の身体に入ってしまったのかさっぱり分からない。
 それに自分が不在の間、蓮花塢はどうなっているのか。
 そんなことを口にする子供に不安を抱いた少年の両親は、藍静を連れ、藍啓仁のもとへ相談に行くことにした。
「見たところ、お子に異常はなさそうだが、たまたま見知っていた蓮花塢の名を口にしただけではないか」
「そうですが。蓮花塢の主はあの件以来、ずっと眠ったままだとか。藍静が急に目覚めたことと何か関係あるのかも知れません」
「江宗主とそなたらの息子に何の関係があると申すのだ」
 三人の話は藍静にとって驚愕ものだった。
 藍静として目覚めた江澄の本体は蓮花塢で眠りについたままなのだ。
 あの後、多分、藍忘機の協力を得て、大蛇を鎮めた藍曦臣は江澄を蓮花塢へと連れ帰ったのだろう。
 しかし江澄は目覚めず、藍静となって別の体で目覚め、そして藍曦臣はと言うと閉関してしまっている。
「藍先生、冥室でこの子の身体を調べていただくわけには行きませんか? もしかしたらこの子の身体にいるのは藍静ではなく、江宗主なのかも」
「馬鹿も休み休み言いなさい。それでなくとも宗主の曦臣があの調子なのだ」
 藍啓仁は相変わらず頑固な爺さんだ。
 藍曦臣に会えないのなら、やはり頼れるのは藍忘機と魏無羨しかいない。
 両親の目を盗んでこっそりまた静室に向かって見た藍静はその途中の竹林で白兎と戯れる藍忘機と会うことが出来た。
 藍静の瞳に気がついた藍忘機がこちらを振り向き、彼に「うさぎは好きか」と静かに尋ねて来る。
 こくりと頷くと藍忘機は手招きし、彼を膝に抱いて、ふわふわした可愛い兎を抱かせてくれた。
「見慣れない子だ」
「……ら、藍静です」
「藍静。ああ、生まれつき身体が弱く、何年か前から寝たきりになっていた子か。回復したのか。良かったな」
「………」
 まさか自分は江澄だと言うことも出来ず、藍静は大人しく藍忘機の腕の中で兎と戯れていた。
 それにしても人が変われば随分と態度も変わるものだ。
 彼が江澄だった時の藍忘機と言えばひたすら虚無な目を向けるだけで付き合いで言えばもう二十年以上なのに、彼らの関係は深まるどころか距離があく一方だ。
 それはそれで構わないが、藍静を見る藍忘機の目は非常に穏やかで、これがあの冷徹な含光君かと疑いたくもなる。
「あの、含光君……」
「なんだ」
「えと、う、魏…いや、夷陵老祖は?」
「夷陵老祖? 誰が彼をそう呼べと?」
「………」
 では一体、ここではどう魏無羨を呼べばいいのか。
 藍静の様な子供がいきなり「魏無羨は?」と聞いたらものすごく変だし、雲深不知処での魏無羨の呼ばれ方など意識したこともないから全く聞き覚えがない。
 しかし藍忘機は不審に思いつつも「魏嬰はいない」と答えてくれた。
「いないの?」
「そうだ」
「なんでいないの」
「……蓮花塢へ帰った。江晩吟が目覚めないから」
「………」
 困ったことになった。
 この雲深不知処で江澄が頼れる存在と言えば、藍曦臣と魏無羨の二人のみ。
 その二人とも会えないとなると残るのはこの藍忘機だけだが、彼は藍静の中身が江澄だと知って今みたいに優しく接してくれるだろうか。
 そもそも藍忘機に助けを求めるなんて無様な真似もしたくない。
 結局、「静室作戦」は失敗に終わり、やはり「寒室作戦」を決行するしかないようだった。

 寒室の門戸の前には門番が立っている為、藍静こと江澄は別の出入り口を使うことにした。
 子供の身体の利点、小さい身体を最大限に活用し、藍曦臣の部屋へ面した庭に垣根の下から直接忍び込んだのだ。
 雲深不知処の領内でそんな不届きなことをする門弟はいない前提になっているから忍び込むのは非常に容易だった。
 が、いつもなら明るく開放された開口部は、雨戸まできつく閉じられ、日の光が差し込む隙間もないほど密閉されている。
 コンコン、と一回、叩いてみたが返事もなく、再度、コンコンコンと幾度か叩いてようやく藍曦臣が扉を開けてくれた。
(藍曦臣……、あんた、何やってんだよ)
と江澄が呆れてしまうぐらい、窶れて、身を細くした彼が藍静の姿を見、そっと穏やかに笑ってくれた。
「どこから来た子だ。ここには立ち入っては行けないと聞いて来なかったのか」
「……」
 俺が江澄だとやはり言い出せず、それでも藍静が手を伸ばすと、藍曦臣はその手を取って、彼を抱き上げてくれた。
 いつかの閉関の時のように痩せ細っていながらも、軽々と藍静を抱え、そして部屋に迎え入れて、おそらく彼の為に差し入れられたであろう手つかずの菓子を手に取って「食べなさい」と藍静の口元に運んでくれた。
 しっとりとした甘みが口の中に広がり、もしゃもしゃと食べる藍静の姿に、藍曦臣の口元にも笑みが戻る。
「ほら、口元が汚れてる」
 彼の優しさはいつものことだが、藍曦臣に子が出来たらきっとこんな表情をするのだろうなと思うと、藍静の中の江澄の心はほんの少しちりっと痛んだ。
 こうなる前の二人の関係はれっきとした恋人だったと思うし、藍曦臣は寝たきりになってしまった江澄の為に閉関までして自省をしてくれている。
 早く下の身体に戻って彼のことも安心させてやりたいが、藍曦臣のこんな姿を見ると、江澄と言う存在は彼にとって本当に良い存在だったのだろうかと疑問に思い始めてしまった。
 ついと顔を持ち上げて、藍曦臣の唇に藍静の唇を重ねると、「ませた子だ」と窘められたが、特にそれ以上の注意もされなかった。
(藍曦臣。俺のためにここまで塞ぎ込まないでくれ───。俺はそんな価値のある人間か?)
 コツンと頭をもたれさせた藍静の身体を抱き、藍曦臣は赤子をあやす様に背中をぽんぽんと優しく叩いてくれる。
 多分、きっとこのまま、江澄が彼の目の前から消えてしまえば、そのうち誰か別の存在が藍曦臣の前に現れて、彼と恋をし、こうして彼の子を腕の中に抱かせてくれるかも知れない。
 そう考えると藍静は自分が江澄だとはとても言い出せなかった。
 それから毎日、垣根の下を潜って、閉関中の藍曦臣に会いに行き、彼のそばで本を読んだり、寝そべって足をぶらぶらさせたりして過ごしていた。
「藍静、お行儀が悪いから止めなさい」
と注意をするものの、藍曦臣は基本、藍静にはすごく甘い。
「藍宗主。俺が一曲舞ってあげようか?」
 そう聞くと、「俺?」と窘めながらも、では踊りなさいと指で指し示してくれる。
 これは江澄が藍曦臣の前で踊って見せる時も同じだった。
 踊るのは別に好きでも何でもなかったが、藍曦臣が彼に釘付けになるのが嬉しくて、わざとしなを作って踊って見せたものだった。
 藍静の身体は幼すぎて、江澄の身体のようにはしなやかに舞えずとも、藍曦臣もどこか気がついた様で、幼い子供の舞いを食い入るように眺めていた。
「藍宗主、泣いてるの?」
「いや。藍静の踊りが素晴らしくてついね。続けなさい。いや、待って。阿澄に教えていなかった新しい振り付けを教えてあげよう。こちらへ」
「うん」
(いま、阿澄って俺の名を呼んだよな)
 藍静が藍曦臣のそばに行くと、彼が手取り足取り、新しい舞いの形を教授してくれた。
 不意にその身体が抱き締められ、藍曦臣の身体が崩れ落ちる。
「阿澄……、私のせいだ……。私の力量が足りなかったばかりに───」
 強く、強く抱かれ、苦しくて堪らなかったが、泣いている藍曦臣の支えになりたくて藍静も彼の傍を離れがたかった。

 そんなある日のこと。
 藍静が今日も寒室へ潜り込もうと思っていると、突然、魏無羨が藍静の家に乗り込んで来て彼のことを捕まえた。
「ようやく見つけたぞ、こんなところに隠れていやがって」
 びっくりした藍静の両親は無慈悲な魏無羨の手から最愛の息子を取り返そうと躍起になって飛びかかろうとしたが、スッと現れた藍忘機が盾になり、両親の前に立ち塞がってしまった。
 夷陵老祖の魏無羨はまだしも含光君相手では、雲深不知処で盾つけるのは宗主の藍曦臣と叔父の藍啓仁以外、まずいない。
「事情は後で説明する。魏嬰、蓮花塢へ」
「ああ。藍静の両親、心配するな。ちゃんと息子はあんたたちのもとへ返すから。ただ、こいつの中に入ってるのは別の奴で、あんたたちの息子の意識は残念ながらまだ寝たままだよ」
 魏無羨からそう宣告された藍静の両親は可哀想に気を失いそうなほど青ざめていたが、これは江澄にも非のないところだろう。
 彼だって好きで藍静の身体に閉じ込められた訳ではないのだ。
「離せ、魏無羨! 襟首を掴むな!」
「なんだあ、お子様が偉そうに俺に説教か。藍湛、悪いが俺とこのちっちぇ江澄を蓮花塢へ連れて行けるか? りんごちゃんに乗ってここまで来たからさすがに腰が痛くてさ」
「無論だ。しかし」
「ん?」
「兄上にはどう伝える」
 藍忘機の質問に魏無羨はすいっと肩を竦めると、「まだ時期尚早だ」と否定した。
「蓮花塢で眠ったきりの江澄と共鳴してこいつが今どんな状況に置かれているか把握出来たが、もとに戻せる可能性が確実とは言い難い。成功すれば報告が遅れるのも数日のことだし、そのぐらいは沢蕪君もきっと許してくれるさ」
「うん」
 どうやら藍曦臣には知らせずに江澄をもとの身体へ戻すつもりのようだ。
 藍静の訪れを楽しみにしている彼には気の毒だが、江澄としてももとの身体に戻ることへの迷いは微塵もある筈がない。
「それにしてもこのガキ、江澄と思うと急に憎たらしく見えるな」
 ぶすっとした顔で魏無羨を睨む藍静の頬に彼が無理やりブチュっと唇を押し付けた為、藍静は思わず藍忘機に掴まれて空中へ放り投げられるし、散々だった。
 彼が藍静だと思っていた時は藍忘機も非常に穏やかだったのに、江澄だと知った途端、手のひらを返してくれる。
「お前らふたりとも、ちゃんと覚えとけよ。この落とし前はつけるからな」
「勿論、勿論。俺が江澄の為に苦心して雲夢江氏を運営して、お前の居所を突き止めて、大活躍したのを、恩義に厚いお前が忘れるわけないもんなぁ。小静!」
「やがまじい!」
「あははは、藍湛、こいつ本当、江澄のちっこい頃、そっくりだぜ」
 反抗して見たところで相手は自分の三倍は大きい成人した大人の体型だ。
 しかも魏無羨、藍静ともに藍忘機の避塵に乗って移動中である。
 魏無羨の腕の中に抱かれる不快さはたまらなく嫌だったが、忍耐の字をひたすら唱え続けて何とか耐えきった。
「そう言えば魏無羨、阿凌は?」
「無事だよ。あいつもずーっとお前の寝床につききっきりで自分のせいだあって喚いているからさ。さっさと金鱗台へ送り返してやった。事情説明は後でお前からするんだな」
 ではあの瑠璃色の瞳をした蛇は一体、どうなったのだろう。
 それを魏無羨に聞いて見たが、彼もあの蛇はあの土地の霊的存在で、それが何故あんな風に暴れたのかまでは分からないようだった。
「実際、祟となるのに理由がつかない場合もある」
 藍忘機の説明に魏無羨も「そうそう」と相づちを打ち、
「誰かが祠をひっくり返したとか、その祠に立ち小便したとかさ。土地神でさえ、自分の怒りが制御出来なくなることがある。そう言うことじゃないか」
と締め括った。
 確かにあの蛇は既に浄化出来ている感じだった。
 何故、江澄が藍静の中に閉じ込められてしまったのかは、それは多分、江澄ではなく、藍静の方に蛇との確執がありそうだった。
 江澄は単にそれに巻き込まれただけで、あの蛇が怒りに我を忘れて邪祟となって発散した力で閉じ込められてしまったのだろう。
 二日後。
 蓮花塢の自分の寝室で目覚めた江澄は、いつも通りの彼の身体に収まり、彼の目覚めに気がついた紫電が赤紫色の雷を放ち、彼の全身を取り囲んだ。


 それから後日──
 雲深不知処までの山道を登り、山門で待つ江澄の元へ藍啓仁がわざわざ出迎えに来てくれた。
「藍先生、此度は身の不始末から、お宅の門下の方にご迷惑をお掛けしました」
「いや。江宗主の方のお体はもう宜しいのか」
「ええ。今はすこぶる順調です」
「それは良かった」
 例の藍静の両親にせめてもの詫びをと申し出たのだが、既に藍忘機が対処してくれたようで江澄のせいではないと両親を説き伏せたから問題ないと言われてしまった。
 しかしあの子が今後、目覚めるかどうかは何とも言えないらしい。
「たまに神に見初められた子が短命に終わるのは別に珍しいことではない」
と藍啓仁が髭を扱きながら言った。
 つまり後はすべて天の意向次第と言うことだ。
 しかし何も詫びをしないのも心苦しい為、せめてもの品を藍啓仁に手渡し、両親にはそれで勘弁してもらうことにした。
 問題は閉関中の藍曦臣だ。
「藍宗主はまだ閉関したままなのですか?」
「うむ。忘機が呼びかけても返事はないそうだ」
「会うことは可能ですか?」
「うーむ……」
 ひとまず取り合ってはくれるようで、藍啓仁とは寒室の前で別れ、江澄はそこで藍曦臣を待つことになった。
 彼が藍静だった頃に潜って通った垣根の下はさすがに使えない。
 一刻が経ち、さてどうしようかと思い始めた頃、ようやく窶れた姿の藍曦臣が顔を出した。
 江澄が藍静の体の中にいた時、彼は髪も結わず、髭も生やしたままだったのに、今は痩せてはいるもののつるりとした頬に髭の痕跡はまったくなく、いつもの優雅な藍曦臣である。
 江澄の姿を目にいれると嬉しそうに微笑み、そして一言、「良かった」と呟いた。
「沢蕪君、あなたにも迷惑をかけた」
 江澄の言葉に藍曦臣は首を振る。
 あくまで彼は江澄を守れなかった自分を責めて閉関しているのだ。
 無事ならば喜ばしいだけで責める気など毛頭ないに違いない。
「藍静は、このぐらいだった」
と藍曦臣は少年の背丈の高さを手で指し示し、江澄に笑って見せる。
「あの子の中にきみがいるのではと思ってはいたが、どう取り戻すかは行動に移せなかった。魏公子に感謝しなくちゃね」
「あいつに感謝など必要ない。俺が後で天子笑を大量に贈っておくから。奴はそれで満足するさ」
「私は本当に自分が情けない。きみを失ったからと自失呆然なり、冷静さを欠き、愛する人を救いもしなかった。きみの恋人失格だ」
「───」
 けしてそんなことはないが、江澄の心には一つの蟠りがあった。
 それは藍静をあやす藍曦臣の姿が実に自然だったことだ。
「あなたは父親に向いている。女性を娶るべきだ」
「子を産んでくれる女を愛さず、きみを愛した時点で父親には向いていない。違うかい」
「………」
「しかしきみの恋人にも不適格だ」
「そんなことはない」
「阿澄。慰めは不要だ」
「本心から言っている。藍曦臣、誰がいつあんたに守って欲しいと? 俺はそれ程非力で頼りないお姫様か?」
 別に藍曦臣が江澄を助けてくれずとも良い。
 そばに居て、安らぎを与えてくれて。
 誰よりも江澄を理解し、他の誰よりも江澄ただ一人を愛してくれる。
 そんな存在が彼はずっと欲しかった。
 そう。
 もうずっと昔。
 常に魏無羨と比較され、なにかにつけ、負い目を感じながら生きていたあの頃からずっと、江澄は自分一人をずっと見続けてくれるそんな人を欲していた。
「沢蕪君、あなたを責める気は毛頭ない。妙な呪術に囚われたのは俺の失態だし」
 藍曦臣に守って貰えずとも。
 江澄は自分で自分を守れる。
 むしろ、藍曦臣の方が江澄よりも脆いのなら、江澄こそ、藍曦臣の支えになってやる。
 そんな気持ちだった。
「あんたが教えてくれた新しい舞いを見てみるか?」
 この誘いには藍曦臣も微笑み、そして琴を取り出すと手ずから弦をつま弾き、江澄の為に一曲奏でてくれた。
 藍曦臣がこの舞いを教えてくれた時は藍静の身体だった為、上手く身のこなしが出来なかったものだが、江澄はれっきとした大人の身体だから自然としなやかに身体が曲がる。
 最初は不慣れだった動きも徐々に自分の舞いと混ぜ合わせ、くるくると向かい合わせた手をくねらせ、流し目を送る江澄の視線に藍曦臣も微笑を返し、彼の動きに合わせて琴の調べも早くなっていった。
「大蛇に襲われて死にかけた時、まっさきにあんたに助けて欲しいと願ったのは確かだ」
「……済まなかった」
「でも、結局、助けてくれただろう。それに俺はそれ程やわじゃない。そんなに誰かを助けたいなら、俺より弱い相手を探せ。じゃないなら俺があんたをこの先もずっと助けて、支えてやる」
「阿澄……」
 ありがとうと言う声が琴の調べにのって江澄の耳まで届く。

 琴の調べは静室の二人の耳にも届いていた。
「この琴の音は誰の手だ。相当な技術の持ち主だろう」
「うん。私に一番最初に琴を教えてくれた人だ」
「藍湛に? え、誰だよ、誰」
 驚いて起き上がる魏無羨の髪にのった枯れ草に笑いながら、藍忘機は指で手招きすると彼の髪にのったその邪魔者を指で摘んでふうと息で飛ばして風に乗せる。
 藍忘機が琴の音に合わせて弾き始めると、魏無羨も早速、陳情を手に伴奏し始める。
 風に乗って空へと舞い上がった枯れ草はひらひらと辺りを漂い、そして清流の何処かへと消えて行った。

終わり
20240721
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