魔道祖師

 祠堂とは先祖の霊を祀る場所。
 江澄はここに来る度、過去に囚われ過ぎな自分を惨めに感じ、同時にここでしか得られない安らぎも得ることが出来る。
 以前はここに名も無い位牌が一つ置いてあった。
 結局、その人物は死後、蘇ってしまった為、その位牌は不要となって捨ててしまったが、両親や姉の位牌とは離れて一番端に置いていた名のない位牌の存在は無視したくとも必ず江澄の視界に入り、懐かしい声で呼びかける幻聴をもたらして来るから困り物だった。
「宗主、大師兄がお越しです」
「……」
 部下に呼ばれ、立ち上がった江澄だが、訂正することは忘れなかった。
 何しろここは江家の祠堂。
 両親や先祖の位牌が安置された場所である。
 そんな場所で破門した弟子を大師兄呼びすることは許されない。
「現状、うちの門派には、大師兄に当たる弟子はいない。間違えるな」
「あ、はい」
 何とも奇妙なことだが、裏返しにされた鑑札には魏無羨の名は消えずに残っているのに、ここでは彼の存在はなかったことにされている。
 ならばさっさとそんな鑑札も取っ払ってくれれば良いのに、それが出来ない江澄の複雑な心境を理解してくれる者はそうそう居なかった。

「うおーい、江澄!」
 広間に出ると、毎度のことだが、魏無羨と一緒に藍忘機も彼を待っていた。
 当然といえば当然である。
 現状の魏無羨の修為では雲深不知処から蓮花塢までの距離を御剣で移動するだけの力はなく、かと言ってロバでまったりのんびりと進んでいては、雲深不知処で待つ藍忘機が帰りを待ち侘びる。
 ならば魏無羨をここまで連れて来てさっさと要件を済ませる方が藍忘機としても望ましいのだろう。
 今更彼との関係改善など望んでいないし、媚び諂うのも人柄じゃない。
 藍忘機も特に江澄と親しくしようとはしない為、彼らは適度な距離で互いに無関心を貫く関係性を築いていた。
「今日は一体、何の用で来た」
「いや、最近、ご無沙汰だからさ。藍湛に頼んでお前に天子笑のお裾分けを持って来た♪」
「それはつまり俺にと言うより、ここで開けて一緒に飲めと言うことだろう」
 魏無羨の酒好きは相変わらずだ。
 酒と言えば藍曦臣の酒癖の悪さは最悪だった。
 魏無羨に愚痴をこぼそうとしたのだが、その弟が隣で仏像の様に鎮座している為、止めて置いた。
 早速、盃を二つ用意し、魏無羨と酒を開ける。
 米酒特有のまろやかな甘さが二人の鼻腔を愉しませ、自然と笑みが溢れた。
「人生に何より必要なものは、まさに美酒だな」
「江澄! お前はさすがに分かってる! もう聞いてくれよ。雲深不知処の石頭な連中ときたら」
 ここで藍忘機が片目を開いた為、魏無羨はもごもごと口を閉じ、あっという間に一杯を飲み干した。
「江澄、何かつまみ寄越せ。蓮の実があれば良いけど他にもあれば肉でも何でも大歓迎よ。あ、あと藍湛に何か菓子でも」
「不要だ」
「遠慮するなよ。蓮花塢の蓮蓉餡を使った菓子は本当に美味いぞ。俺と江澄はガキの頃から大好きで良く師姉に作って貰うために二人で手伝いを買って出たんだよな」
「姉さんが作ったものなら、何でも美味い」
「本当にそうだ。藍湛には一度も味あわせてやれなかったのが残念だな。ところで江澄、席をはずしてたみたいだが、何をしていたんだ?」
「別に。祠堂で先祖の位牌に線香を上げていた」
「ああ、うん」
 自称面の皮厚さ世家一を名乗る厚かましい魏無羨でもさすがに江家の先祖となると多少の気まずさはあるらしい。
 それもそうだろう。
 江楓眠に我が子の様に育てられ、彼の母親と江楓眠の過去の話で虞紫鳶との関係を悪化させ、結局、江家を捨てて出て行った。
 その代償として魏無羨は大きな支払いを果たしたが、彼の中で江澄との約束を破ったこと、そして江厭離と彼女の夫、金子軒の命を奪ってしまったことへの罪悪感は簡単には拭えない。
 黙って酒を空ける二人を見ていた藍忘機だが、その場では結局、一言も喋らず、静かに茶を啜っていただけだった。
「じゃあなー、江澄。今度はお前が雲深不知処に遊びに来い!」
「行くか。お前と違ってこっちは暇じゃない」
「ははは、本当、相変わらずだなこの弟弟は!」
「弟じゃないと言ってるだろうが!」
 酔っ払いは藍忘機に抱えられ、御剣の術で浮かび上がるとすぐに小さくなって消えてしまった。
 藍忘機はよほど蓮花塢の居心地が悪くて仕方ないらしい。
 その帰りしな、二人がこんな会話を交わしているなど蓮花塢にいた江澄は思いもしなかった。
 いつになく早い速度で飛ぶ避塵から落とされぬ様に魏無羨はしっかりと藍忘機に抱きつき、
「どうしたんだよ、藍湛」
と酔っ払った息を吹きかける。
 藍忘機の態度はいつもと変わらなかったが、魏無羨を怖がらせたと知って、速度を落とし、彼の為に蓮花湖の蓮の花が良く見える位置まで降下してくれた。
「藍湛、江澄の態度がああだからって、いちいち気にしなくて良いんだぞ。あいつは何より勝ち負けが大事なんだ。だからいつも自分が先に頭を下げずに済むことだけ考えてる」
「江晩吟のことは気にしていない」
「本当にか?」
「ああ。彼が私に一瞥さえくれずとも、一向に気にならない。私にとっても彼はその程度の人間だ」
「藍湛、お前も結構、しつこいよ」
「私が思ったのは、江晩吟と会うのはきみのためにはならないのではないかと感じていたからだ」
「え?」
 しなやかな草の上に降り立ち、魏無羨を降ろした藍忘機は今一度彼を見て同じことを繰り返す。
「江晩吟は過去に生きている。君のためにはならない人間だ」
「藍湛……」
「人は二種類に分けられる。先を見通し、まっすぐ前を向くことしかしない人間と、江晩吟の様に過去を振り返り、しがらみから抜け出せずに現状でい続けたいと願う人間だ。魏嬰、きみは前者で、江晩吟は後者だ。きみたち二人が顔を合わせることは過去への執着に他ならない。きみのためにもならないし、江晩吟の為にもならないのでは」
「………」
 それでも江澄は魏無羨にとっては唯一残された蓮花塢の身内だ。
 確かに藍忘機の言うことにも一理ある。
 魏無羨だってたまには思い出に浸りたいのだ。
 優しかった江厭離を思い出し、江澄と駆けずり回って、遊び合った無邪気なあの頃を取り戻したい。
 黙りこくってしまった魏無羨の感情を察したのか、藍忘機はそっと彼の肩に手を置くと、魏無羨を振り向かせた。
「勿論、会うなとは言わない。ただ、頻繁に会うのは、特に江晩吟の為にならないのではと思う。彼はきみと違って上手く切り替えが出来ない人間だ。きみと会い、二人の過去を思い出せば、きっとそこから逃れたくないと思うに違いない」
「藍湛、お前の言いたいことは分かるし、お前の意見ももっともだと思うよ。でも江澄はさ、昔からああなんだ。本当はすごく寂しがり屋のくせに、強がりばかり言って敵を増やして、俺と師姉だけがあいつの理解者だったんだ。今も大して変わってない。むしろ前より酷くなってる。昔は宗主になりたてで右も左もわからなかったから腰が低かったけど、今のあいつは雲夢江氏の宗主だ。一族の為に精一杯我を張って生きなきゃならないんだから、あいつが息抜き出来る場所なんて俺のそばしかあり得ないだろう」
 そこまで言ってそうだろうか、と魏無羨はふと考えた。
 確かにこれまでは江厭離と魏無羨だけが江澄の理解者だった。
 しかし今の江澄にとって、もっとも安心出来る居場所はもしかしたら既に別の誰かに変わっているのかも知れない。
 振り返った魏無羨の顔に笑顔が戻っているのを見て、藍忘機も目を丸くしていた。
「大切な存在を忘れていたよ、藍湛。俺が出しゃばらなくても沢蕪君がいたじゃないか」
「兄上が?」
「その通り! 何しろ沢蕪君と来たら、藍湛の心まで読み通せる神通力の持ち主だからな」
 自分のことをからかわれたことにムッとしたのか、藍忘機が少し頬を赤らめ、ムスッとしたことに魏無羨は笑って彼の頬に口づける。
「怒るな、藍湛。お前の言う通り、しばらくは蓮花塢へ近づかないことにするからさ。それより早く雲深不知処へ帰ろうぜ。沢蕪君に相談しなきゃ」
 魏無羨に急かされるまま、藍忘機は彼を乗せて雲深不知処へと戻り、そしてそこで二人は一旦別れて、魏無羨は早速寒室の藍曦臣の下へと急いだ。
「やあ、魏公子。どうやらずいぶんとお酒を召した様だ。酔覚ましのお茶でも飲みなさい」
「あ、バレた? 心配しなくてもこの酒は蓮花塢で飲んできたもので、雲深不知処で飲んだわけじゃないよ」
「蓮花塢? 江宗主のところへ?」
「そうなんだ。そこで折入ってお義兄様にご相談が御座いまして」
「何やら悪巧みをしている顔だ」
 藍忘機と同じ顔ながら、どうしてこうもこの兄弟は性格がこれ程までに違うのだろうと改めて思ってしまう。
 根本的な堅さは同じだが、藍曦臣は藍忘機にはけして求められない冗談を解する遊び心も持ち合わせている。
「江澄と昔話に浸っていたらさ、藍湛に言われちゃったんだ」
「ふむ。して忘機は何と?」
「江澄は過去に生きる人間で、俺とは正反対だから、二人が会って過去の話に浸るのは余り江澄の為にはならないんじゃないのかってさ。あ、つまり、俺は切り替えが早いけど、江澄はそうじゃないから、一度過去に戻るとずっとそこにい続けたいと思うんじゃないかって」
「なるほど」
「俺の説明でわかって貰えた?」
「勿論、分かったよ」
「じゃあ俺の頼みも察してくれた?」
「どうだろう。しかし江宗主のことは、心配せずとも大丈夫だ。彼は確かに繊細な人だが、君たち雲夢出身者は総じて打たれ強い。そうでなければ一人で壊滅状態だった雲夢江氏を立て直すことなんて不可能だよ」
「うん」
 さすがは藍曦臣だ。
 やはり彼は江澄の一番の理解者で、今では魏無羨より江澄のことを知りつくしている。
 悔しいが、江澄の哥哥の立場は彼に譲ってやらねばならない頃合いの様だった。
「では沢蕪君、江澄のことどうぞよろしくお願いします」
「きみが頭を下げるなんて珍しい」
「俺があいつにしてやれることなんてもう余りないからさ。せいぜい一緒に過去に浸ってやるぐらいだ。江澄の未来は沢蕪君じゃなきゃ語れない」
「私と彼の関係にも未来はないが、少なくとも今日や明日のことは語り合える。阿澄が昔語りをしたいのなら自由にさせてやるし、私は聞き役に回るよ。私の前では彼は何にも縛られずに自由で居て欲しい」
「うん」
 藍曦臣のその言葉は以前、魏無羨が藍忘機に言われたことでもあった。
 魏嬰は何物にも縛られず、自由で気ままに、君らしく振る舞って欲しいと口数の少ない藍忘機がぼそりと漏らしてくれた彼の貴重な本心だ。
「やっぱり沢蕪君と藍湛は似てるようで似てなくて、でもやっぱり似てるんだな」
「どうかな。私は忘機ほどしっかりものではないからね。きみはもうしばらくここでお茶を飲んでいなさい。酒の匂いを叔父上に嗅ぎつけられたら忘機が叱られる」
「はーい。って、沢蕪君はどこに?」
 聞くまでもないだろう。
 江澄が連日、祠堂に籠もっていると聞けば、蓮花塢へ御機嫌伺いに行かねば気がすまないのが藍曦臣だ。
 朔月を手に白い衣を翻して優雅に出て行く義兄を見送った魏無羨は手にした湯呑み茶碗を傾けて成功を祝してやった。

 そして蓮花塢──。
 その日は仕事が手につかず、魏無羨が残した天子笑を一人ちびちびと飲んでいると、今度は姑蘇藍氏の兄の方が御機嫌伺いにやって来た。
「やあ、阿澄」
と穏やかに笑う恋人の顔を睨みつけながら、江澄は手にした酒を見せびらかし、
「あんたには二度と飲ませないからな」
と第一声で宣言する。
「私も反省しているよ。それに飲む前にちゃんと断った筈だ。それを無理やり飲ませたのはきみだろう」
「わかってる。今日はあんたの相手をしたい気分じゃない。帰ってくれ」
「せっかく来たのにそれはあまりにつれなくないか」
「………」
 酒が入っているせいで酔っている江澄はムウっと唇を尖らせ、藍曦臣を邪険に振り払う。
 おかげで盃の酒が零れそうになり、結局、藍曦臣に盃を奪われ、自分の身体まで彼の腕の中に収められてしまった。
「飲み足りないのならのませて上げよう。さあ、飲みなさい」
「いらんことするな」
「阿澄、いつもならこの時間、きみは政務に励んでいる時刻なのに、今日は酒浸りで良いのかい?」
「今日は仕事はしない。やりたくない」
「なるほど。では私も今日は怠け者になろう」
「あんたはいつだって……」
 部屋の扉がパスンと閉められたかと思ったら、藍曦臣の身体が覆い被さって来た。
 唇が重なり、柔らかい舌が入り込んで江澄の舌と絡まり、心地良く吸われる。
 酔い心地の火照った身体に藍曦臣の冷たい指先が気持ちよくて唇を吸われながら喘ぎの様な声が漏れ出てしまった。
 無理もない。
 藍曦臣とは日を置かずに会ってはいるが、江澄の天邪鬼な性格が災いして殆ど会話だけで過ごす日が多く、最後に抱かれたのはいつだったか思い出すのも苦労する程だ。
「……人が来たら、どうする」
「誰も近寄れない結界を張っておいた。勿論、修士なら解けるが、解くまでの時間稼ぎは出来る」
「………」
 普段の江澄ならまず絶対こんななりゆきには流されやしないのだが、この日は魏無羨のおかげで少し鑑賞的になっていたせいで、藍曦臣の人肌がすごく愛おしく、自ら彼の衣服を這いで口づけしてしまった。
 それにしても既に見慣れたとは言え、相変わらずの肉体美に惚れ惚れしてしまう。それと同時に嫉妬めいた気持ちも湧いて来て、ちょっとばかり強く乳首を噛みすぎて藍曦臣に「痛い」と注意されてしまった。
「あんたにやられてる時の俺もいつだって痛いの我慢してるんだぞ」
「痛いなら痛いと言いなさい。きみが嫌なことはしないから」
 別に嫌だなんて思っていないなんて口が裂けても言えるはずがない。
 結局、その日の行為も痛くてたまらなかったが、藍曦臣がどこで覚えて来たのか、残った天子笑を潤滑油代わりに江澄の尻に注ぎ込んでくれた為、へべれけに酔っ払った彼はわけがわからなくなり、とにかくめちゃくちゃに淫れてしまった。
 後から思い出しても頭を抱えたくなるような酩酊振りで、そして嫌になるぐらい身体もすっきりしてしまっていた。
 江澄はぐったり疲れ果て、指一本でさえ動かしたくないというのに、藍曦臣と来たら江澄の中に入れたままのものがまだ硬さを保っている。
「早く、抜いてくれ」
「まだきみと離れたくない」
 ぶん殴ってやろうかと思ったが、先程の自分の醜態を口実に責められても嫌だから仕方なく大人しくしていた。
 こうして彼の身体から香る白檀の香りに身を浸しているのは嫌いじゃない。
 むしろ好きだった。
「沢蕪君、もしかして魏無羨に何か言われて来たのか?」
「いや。彼とは今日は会っていない」
 とは言っていたが、姑蘇藍氏の人間は基本的に嘘がつけない。
 魏無羨たちが帰った後にこの訪問だ。
 何がしか彼から聞いて藍曦臣がやって来たのは十中八九間違いないだろう。
「毎朝起きると、必ず祠堂に行って、両親たちの位牌を前に線香を上げるんだ」
 江澄の声の調子からこれはこの先の行為が発展することはなさそうだと藍曦臣もやっと彼の身体を解放してくれた。
 自由になった手足で藍曦臣の身体を抱き、胸板に顔を埋める。
 少し前まではこの場所が自分にとって一番心安らぐ場所になるとは思いもしなかった。
 藍忘機と必要以上にベタベタする魏無羨に「気持ち悪い」とまで吐き捨てていたのにそれが今じゃ自分がこのザマだ。
 何とも言えない笑いが込み上げて来る。
「いい加減、過去を引きずるのは止めようと思っているのにいまだに俺だけが過去に縛られて吹っ切れずにいる」
「先祖の位牌に焼香するのは悪いことではないよ。我が家も毎日の習慣だ。亡くなった人への情が深いのはそれだけきみが彼らを愛していただけのこと。恥じることでも何でもないよ」
 そう言う意味じゃない。
 しかしここで傷を舐め合う様な真似は江澄らしくないし、どうせ藍曦臣のことだ。一を伝えれば十を察してくれる男なのだから逐一語らずとも江澄の心意はきっと理解してここにやって来たに違いない。
「思うんだけど」
 ちょんちょん、と江澄の肩を叩き、彼の意識を自分へと傾けた藍曦臣は、上目遣いになった江澄の表情にたまらなく愛しさを感じたのか幾度も口づけの嵐を降らせた。
「止めろっつの。で、何がどう思うってんだ」
「ああ、きみが余りにも可愛い顔で見上げるものだから忘れてた」
「あのな」
 いい歳したおっさん相手に何を言うかと思わないでもないが、彼らは金丹の力で若さを保っている為、藍曦臣でさえせいぜい二十代後半にしか見えない。江澄はもっと若く、せいぜい二十四、五と言うところか。
 苛立った江澄にせっつかれた為、藍曦臣は笑うのを止めてさっきの続きにようやく戻ってくれた。
「もしも私が故人になった時、きみがきみのご両親と同じ様にずっと私を悼んでくれればきっと嬉しく思う。でも反面、早く立ち直ってきみを支えてくれる別の誰かと出会って欲しいとも思うんだ。正直な話」
「それじゃまるで俺が誰かの支えを必要としているみたいじゃないか」
「きみが必要としなくても、きみの支えになってくれる存在はいた方が良いに決まってるだろう。死後まで私はきみを束縛する気はないよ。むしろきみが心配でおちおち死んでもいられない」
「ふざけた話だ」
「そう思うなら聞き流してくれて構わないよ」
「聞き流せだと? それは無理な相談だ」
「阿澄?」
 例え、仮定や空想の話でも藍曦臣が先立つことなど考えたくない。
 一人、二人と消えて行き、最後には江澄一人しか残らなかった過去があるからこそ、二度と一人で取り残されるのだけは絶対に嫌だった。
「あんたら姑蘇藍氏は爺みたいな生活を送ってるだろ」
「爺とは」
 もとい、仙人だ。
 いい直したら藍曦臣はようやく納得してくれた。
「それで仙人のような暮らしだからなんだって?」
「酒も飲まない、飽食もしない。おまけに弟の藍忘機が常にあんたの盾になる。どう考えても先におっ死ぬのは俺の方だ。だから先に位牌になった俺を拝むのはあんたの方だってことさ」
「別にどちらが先に死ぬかで張り合うつもりはないけれど」
「俺の方が絶対先に死ぬ。そう決まってるんだ。あんたが死ぬのは俺より後だ。俺が死んだら、そうだな、別にあんたの好きにして良いよ。雲夢江氏を乗っ取るか、それとも美人な妻を貰って可愛い子どもを産ませるか」
「雲夢江氏は金如蘭の子に継がせるつもりなんだろう。以前、ちらっとそんな話をしていたじゃないか。美人な妻はどうだろう。きみはそんなに早死にする予定なのかい?」
「わからない」
 少なくとも───
 藍曦臣とこう言う関係になってからは、以前より死が身近ではなくなった気がする。
 彼と言う恋人を得てからは何かにつけ、藍曦臣がちょこちょこ訪ねて来るし、それに魏無羨や金凌たちもやって来て、一人でいる時間が以前より少なくなったのは確かだ。
 ふう、と息を吐き、再び、藍曦臣の胸板に顎を載せた江澄の髪を梳ながら、心根の優しい恋人は穏やかな笑みで江澄を見守る。
「きみはきみの思う通り、自由気ままに生きれば良い。危うく道を踏み外しそうになっても大丈夫だ。ちゃんと私が支えるから」
「うん」
 いつもなら天邪鬼な言葉しか返せない江澄だが、この日は甘えたい気分になってしまったのか、素直に頷き、藍曦臣の腕の中に顔を埋める。
「以前にも同じことを言ったよな」
「どうやら忘機も魏公子に似たような言葉を言ったらしい」
「藍忘機が魏無羨に? それってつまり魏無羨と俺が同属ってことか?」
「そうは言ってないよ」
 せっかく上手くまとまりかけていたのに最後の最後でポロリと駄目さ加減を露呈してしまうのが藍曦臣と藍忘機の違いだろうか。
 もういいやと怒ってやっても良かったが、今日は気分が良いからそれ以上藍曦臣を虐めることはせずに許してやった。
 ただ一言、彼の耳元で
「たまには俺がいれてみてもいいか」
と囁き、にっこり笑顔で即座に起き上がる彼を捕まえ、羽交い締めにしてやる。
「あんたばかりいつもいい思いをするのはずるいだろ」
「きみだって別に嫌がってるわけじゃ…、それに私を抱いたところでちっとも良くないと思うよ。ほら、きみみたいに妖艶なわけじゃないし」
「それを決めるのはあんたじゃない。この俺だ」
「阿澄……」
 勿論、本気で藍曦臣を抱こうと思っているわけじゃないが、こうして彼を虐めて遊ぶのはなかなか楽しい。
 また少し二人の距離が縮まった。
 いつか本物の知己になれる日も近いのかも知れない。

終わり
20240720
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