とある目撃談 忘羨

 とある日の蓮花塢。
 久し振りの夜狩りに出、魏無羨はうきうきと蓮花塢の屋敷までの道を藍忘機と歩いていた。
「あそこの粥は塩っ気がちょうど良くて美味いんだぜ。でもってあの婆さんが売る簪は相場よりちょい高いから、藍湛、誰かに簪を贈りたくなっても絶対あの婆さんから買っちゃ駄目だ」
などと藍忘機が特に必要としていない情報を愉しげに説明する魏無羨に藍忘機も目を細めていた。
 夜狩りに行くにはまだ早い時間だ。
 魏無羨の希望で今回の旅は御剣の術は使わず、すべて彼らの足だけでここまで辿り着いた。
「なあ、藍じゃ…」
 後ろを振り返りながら歩いていた魏無羨が躓いて転びそうになるのをいち早く気付いた藍忘機は、スッと腕を伸ばし、彼を支えてやる。
 頼りになる相棒の自分への深い愛情を感じながら、魏無羨は舌を出して「ごめん」と軽く謝った。
「やっぱり藍湛は頼りになるな。お前といれば俺は怪我知らずだ」
「うん」
 藍忘機の「うん」には様々な感情が込められている。
 魏無羨に頼られて嬉しい気持ちと、褒められて誇らしい気持ちと、そして絶対にきみを守り抜くと言う藍忘機の堅い信念だ。
 そんな彼の気持ちにどう応えて良いやら、魏無羨もたまに考えることがあるのだが、どうも彼の性分として真面目に「ありがとう」とか、「俺も藍湛、大好きだよ」と言ってやることが出来ない。
 些細な感謝や、ちょっとした冗談なら幾らでも言ってやれるが、自分の本心は明かしたくないのだ。
 これは魏無羨自身、気づいていない彼の悪癖だった。
「藍湛、こっちこっち。正面から行かずに、いきなり行って江澄の奴を驚かせてやろうぜ」
 気のせいかいつもの「うん」が帰って来ないが、藍忘機は黙ったまま、魏無羨のさせたいようにさせ、付き合ってくれた。
 しかし蓮花塢の江澄の住まいに近付くと、藍忘機が魏無羨の肩を掴む。
 彼の方が背が高い為、魏無羨より先に遠くを見通せるようだ。
「どうかしたか?」
「──兄上が来ている」
「へ? 沢蕪君?」
「うん」
 そう言われた魏無羨は慌てて藍忘機の頭を抑えつけ、中腰になって庭木の間を進む。
 さすがに兄の逢瀬を覗き見しては悪いと感じた藍忘機が小声で「魏嬰」と窘めたが、勝手知ったる蓮花塢内のこと。
 魏無羨は「しいっ」と人差し指を立てるとそのまま江澄の部屋の前の庭まで進んで行った。
 植え込みの中から聞き耳を立てると、まさかそんなところに人がいるとは思ってもいない藍曦臣と江澄の会話が聞こえて来る。
「先日、話題にのぼった議論の件だが、俺は聶兄の意見に賛成だ。平等、平等と言うが、世の中の仕組みと言うものは強者と弱者。弱者の理論ばかり聞いていては社会全体が成り立たない」
「きみらしい意見だね」
「俺らしいと言いながら、どうせあんたは反対なのだろう」
 どうもせっかく二人で会っていると言うのに、くっそ真面目な会話で時間を無駄にしているらしい。
「江澄の奴、いつもあんな感じなのか。沢蕪君も良く付き合ってるよな」
とひそひそと藍忘機に耳打ちしたが、彼は賛成も反対もしたくないのか、聞こえない振りで遠くを見ていた。
 なんだよ、つまらないなと思いながら、魏無羨は再び、部屋の中を覗いて見たが、どうやら真面目と思ったのは会話だけでちゃんとするべきことはやっているらしい。
 口付けしようと顔を近付ける藍曦臣に微笑み、するりと江澄が彼の腕の中から擦り抜ける。
 しかし彼の普段の格好とはまるで違っていて、腰帯を巻いていないゆったりとした薄衣姿に魏無羨も思わず「おお」と感嘆の声を上げてしまった。
 なかなかの妖艶っぷりだ。
「お前の兄貴が江澄のこと好きだと分かって、なんで江澄?と思ったけど、やっぱり好きな相手の前だと江澄も随分変わるんだな、なあ、藍湛」
と振り返って藍忘機の同意を求めるが、藍忘機からは呆れた視線しか貰えなかった。
「魏嬰」
と説教じみた声音が聞こえて来たから慌てて彼の口を塞ぐ。
「ちょっとぐらい見たっていいだろう。大体、人の濡れ場なんてそうそう見ることはないんだから。後学の為だよ」
「江晩吟はきみの義弟だろう。彼に済まないと思わないのか」
「全然! だってあいつとはとっくに縁を切ってるし」
 もちろんこれは冗談だ。
 さすがに魏無羨だって相手が藍曦臣と江澄でなければこんなコソコソ覗いたりしない。
 身内に親しい二人だし、それに覗き見される不用心な彼らが悪いのだから、今後の藍忘機との生活の為にしっかり勉強させてもらおうと思っていた。
 しかし珍しく藍忘機がなかなか引き下がらなかった。
 魏無羨の目を片手で塞ぎ、彼の盗み聞きを邪魔しようとちょっかいをかけてくる。
「藍湛、見えないだろ!」
「あそこにいるのは、私の兄だ」
「そうだよ、沢蕪君だ。それに沢蕪君と江澄の仲なんて今更だろ」
「そう言う意味では」
 そろそろ二人は寝台に雪崩込むかと思ったが、どうやら江澄がその気分ではないらしい。
 藍曦臣も特に慌てる素振りは見せずに、むしろ江澄の気ままさを愉しむ様に素っ気ない彼の態度に目を細めていた。
「その扇子は、懐桑からかい?」
「良く分かったな」
「書を書いたのは私だ」
 通りで達筆だと褒める江澄に礼を言いながら、人差し指をくいっと動かし、江澄に舞いを見せるようにおねだりする。
 魏無羨の知る江澄ならそんな頼み、「ふざけるな」で一蹴するのだが、恋人の頼みとなるとまた別なのか、裸足のままその場で舞いを披露し始めた。
「うわぁ、あいつ、すげえな。いつの間にあんな舞踏覚えたんだ」
と感嘆する魏無羨の横で、珍しく藍忘機も「うん」と褒める。
「藍湛、今、江澄のこと褒めた?」
「……いや」
「いや、いまお前、うんって言っただろ。俺のこと好きとか言いながら、もしかして藍湛もああ言うお色気たっぷりな舞踏を舞える奴が好きなわけ?」
「きみの勘違いだ、魏嬰」
 江澄と藍曦臣の逢瀬を覗き見して、後々、彼をからかってやるつもりだったのに、魏無羨の気分はすっかり腐ってしまった。
 二人には挨拶をせず、来た道を引き返す。
 大人しく魏無羨の後について江家に忍び込んだ藍忘機も、魏無羨に従って、黙ってそのまま江家を去った。

 夜道を少し歩き、いつぞやの藍忘機に受けとめて貰った大木のそばへと辿り着く。
 そこで足を止めた魏無羨を気遣い、藍忘機が彼の頭を撫でてくれた。
「何故、きみが江晩吟などと自分を比較する」
「別に比較はしてないさ。ただ、なんと言うか、江澄は年相応に大人の色気ってもんを手に入れてるのに、俺はちっとも変わらないなって」
「それがきみの魅力だ。きみに字を与えてくれた江楓眠殿は、きみが何者をも羨むことなく、常に自分のみを見、思うがままに生きるよう願ってその名を付けてくれたのでは?」
「そうだけど。藍湛、俺の舞いを見てみたいか?」
「どちらでも」
 どちらでも、かと。
 魏無羨は半ば腐って、笑いを漏らす。
 藍忘機がどちらでもと言ったのは、踊りたいのなら踊ればいいが、江澄の真似なら止めておけと。
 彼はきっとそう言いたいのだ。
「やっぱり藍湛は俺のことを何よりも一番に考えてくれるな」
「きみも私を何よりも一番に思ってくれる」
「うん。でも、まあ、見てくれよ。江澄の真似じゃない。お前にも何かしてやりたいから、だからここで踊って見せたいんだ」
 魏無羨の気持ちを理解してくれたのか、藍忘機はうんと頷くと少し彼から距離を置き、魏無羨がすうっと息を吸い込むのを見守ってくれた。
 本当言うと、舞踏など一度も習ったことはない。
 当然だ。
 雲夢江氏の師弟にはそんな技術は必要ないし、江澄が踊れるようになったのは、おそらく彼が成人し、大人の嗜みとして覚えただけで別に江澄だって踊るのが趣味で覚えたわけじゃないだろう。
 みようみまねで踊って見せたから、きっと藍忘機以外の者なら、手を叩いて笑い出しそうだが、そんな稚拙な踊りでも藍忘機はずっと微笑んだまま見守ってくれた。
(こんなに愛情深い知己に恵まれて、俺はお前にこの礼をどう返せばいい)
 踊り続け、足を踏み外して倒れる魏無羨を、埠頭で彼を支えてくれた様にまたもや藍忘機が抱えてくれた。
「藍湛、俺の踊り、どうだった? 江澄より良かったか?」
 当然だ、と言いたげに藍忘機は笑い、魏無羨の額に口付けてくれた。
「魏嬰、きみが何よりも一番だ。きみに勝る者は、私にとってこの世に一つとあり得ない」
「うん」
 いつぞやの様に、星空を眺めながら、二人で抱き合い、愛し合った。

 俺にとっても、藍湛が何よりも一番だ

 そう想いを込めながら、彼の口付けに応えて、腕の中の藍忘機の身体を強く抱き締める。
「そう言えば何をしに来たんだっけ」
「夜狩りだ」
「あー……」

 面倒くさいから、妖魔退治はこのまま江澄と藍曦臣に押し付けてしまおう。
 そう二人で話し合い、密かに笑う。
 幾千の星の下で改めて自分たちの愛を誓い合った。


終わり
20240705
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