秘密
実は藍曦臣に秘密にしていることがあった。
いつも唐突にやって来る恋人を気付かない振りで出迎えているが、本当はとっくに彼の匂いを嗅ぎつけていた。
かすかな衣擦れの音とともに、それと気が付かない程、仄かな紫檀が香る。
藍氏が衣に焚きしめている檀香はみな同じ様に感じられても、藍曦臣や藍忘機の位になると、それぞれの好みに合わせた調合が用意される。
明け方になるといつも勝手に消える恋人とは言え、肌を合わせ、その腕に抱きしめられて眠りにつけば自然と匂いは脳が覚えてしまうものだ。
そしてその日も江澄は藍曦臣の匂いを嗅ぎつけた。
書き物をしている彼の背後から藍曦臣の香りが近付き、冷たい手のひらが両目を塞ぐ。
ふざけて耳に息を吹きかける彼に、またかと苦笑が洩れた。
「沢蕪君」
誰だ、と問い掛ける前に答えを当ててしまう江澄に悔しがるでもなく、藍曦臣は彼の横に腰掛け、体重をのせてくる。
意外と江澄にちょっかいを出してはその反応を見て面白がる子供っぽいところがあるのだ。
もともとの性格がそうなのか。
それとも相手が江澄だから反応を楽しみたいのか。
そのへんは定かではないが、江澄に突き飛ばされてクスクス肩を揺らしている辺り、多分後者なのだろう。
「随分とご無沙汰だったな。別に待ってはいないが」
彼の方を見ずに尋ねると思わず聞き惚れる美声が返ってくる。
「やっと古書の編纂が終わってね」
どうやら姑蘇藍氏の方々は、年がら年中、古書を整理し、新旧の文献を纏めることに余年がないらしい。
もとは坊さんだった藍氏の歴史を考えれば、筆まめなのも確かにと頷ける。
「ねえ、阿澄」
「なんだ」
「きみからの返事をもう二十日も待っているのだけど、私の私信はちゃんときみに届いたのだろうか」
そう言えばそんな手紙を数日前に受け取った気がする。
いや、数ヶ月前だったろうか。
いつもの美文に、いつもの近況報告で、江澄は返事が必要だとは思わず、藍曦臣からの文をしまう専用の箱にしまっておいた。
「きちんと読んでくれたかい?」
「ちゃんと読んだ」
「それで返事は?」
「いつもと変わりない近況報告にどう返事を書けと?」
あっさりと言ってのける江澄に、藍曦臣は「きみって淡白だよね」と笑う。
本当はそんなこともない。
人一倍見えっ張りだし、傷つきたくないから、本音を口にしない。
肌を重ねる関係になっても彼を信用出来ず、愛されることに自信も持てず。
彼が去ることになっても自分だけは傷つかない。
その為だけに虚栄を張っている。
「阿澄」
と今度は藍曦臣が人差し指で彼の横顔を突いてきた。
さすがにイラッとしてその手をはねのけるが、楽しげに笑う藍曦臣の余裕はさすがだ。
だからこそ、この人が好きなのだろう。
こんな人でなければとてもじゃないが江澄の相手なんてしてられない。
「沢蕪君」
「なにかな、江宗主」
「藍渙」
「だから何かな、私の阿澄」
今度は江澄から寄りかかる。
ふざけて倒れる藍曦臣と一緒に床に転がった江澄もおかしさが込み上げ、笑ってしまった。
いつでもきみを笑顔にしたい。
藍曦臣のそんな声が耳に聞こえてきそうだった。
終わり
20240609
いつも唐突にやって来る恋人を気付かない振りで出迎えているが、本当はとっくに彼の匂いを嗅ぎつけていた。
かすかな衣擦れの音とともに、それと気が付かない程、仄かな紫檀が香る。
藍氏が衣に焚きしめている檀香はみな同じ様に感じられても、藍曦臣や藍忘機の位になると、それぞれの好みに合わせた調合が用意される。
明け方になるといつも勝手に消える恋人とは言え、肌を合わせ、その腕に抱きしめられて眠りにつけば自然と匂いは脳が覚えてしまうものだ。
そしてその日も江澄は藍曦臣の匂いを嗅ぎつけた。
書き物をしている彼の背後から藍曦臣の香りが近付き、冷たい手のひらが両目を塞ぐ。
ふざけて耳に息を吹きかける彼に、またかと苦笑が洩れた。
「沢蕪君」
誰だ、と問い掛ける前に答えを当ててしまう江澄に悔しがるでもなく、藍曦臣は彼の横に腰掛け、体重をのせてくる。
意外と江澄にちょっかいを出してはその反応を見て面白がる子供っぽいところがあるのだ。
もともとの性格がそうなのか。
それとも相手が江澄だから反応を楽しみたいのか。
そのへんは定かではないが、江澄に突き飛ばされてクスクス肩を揺らしている辺り、多分後者なのだろう。
「随分とご無沙汰だったな。別に待ってはいないが」
彼の方を見ずに尋ねると思わず聞き惚れる美声が返ってくる。
「やっと古書の編纂が終わってね」
どうやら姑蘇藍氏の方々は、年がら年中、古書を整理し、新旧の文献を纏めることに余年がないらしい。
もとは坊さんだった藍氏の歴史を考えれば、筆まめなのも確かにと頷ける。
「ねえ、阿澄」
「なんだ」
「きみからの返事をもう二十日も待っているのだけど、私の私信はちゃんときみに届いたのだろうか」
そう言えばそんな手紙を数日前に受け取った気がする。
いや、数ヶ月前だったろうか。
いつもの美文に、いつもの近況報告で、江澄は返事が必要だとは思わず、藍曦臣からの文をしまう専用の箱にしまっておいた。
「きちんと読んでくれたかい?」
「ちゃんと読んだ」
「それで返事は?」
「いつもと変わりない近況報告にどう返事を書けと?」
あっさりと言ってのける江澄に、藍曦臣は「きみって淡白だよね」と笑う。
本当はそんなこともない。
人一倍見えっ張りだし、傷つきたくないから、本音を口にしない。
肌を重ねる関係になっても彼を信用出来ず、愛されることに自信も持てず。
彼が去ることになっても自分だけは傷つかない。
その為だけに虚栄を張っている。
「阿澄」
と今度は藍曦臣が人差し指で彼の横顔を突いてきた。
さすがにイラッとしてその手をはねのけるが、楽しげに笑う藍曦臣の余裕はさすがだ。
だからこそ、この人が好きなのだろう。
こんな人でなければとてもじゃないが江澄の相手なんてしてられない。
「沢蕪君」
「なにかな、江宗主」
「藍渙」
「だから何かな、私の阿澄」
今度は江澄から寄りかかる。
ふざけて倒れる藍曦臣と一緒に床に転がった江澄もおかしさが込み上げ、笑ってしまった。
いつでもきみを笑顔にしたい。
藍曦臣のそんな声が耳に聞こえてきそうだった。
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