ほのかに香るきみへの思い

2.彼らの一生は常に波乱万丈

 そうしていよいよ清談会が開かれる前日となった。
 日程は明日からだが、遅れは許されない為、皆、一日前から開催地へ向かう慣習だ。
 埠頭のそばにある江家の本拠地、蓮花塢へは馬で行くより、舟で向かう方が早い。
 埠頭の名が蓮花塢となったのは、自然に咲いた蓮が群生する湖の名が蓮花湖だからである。江家はこの蓮花塢に拠点を気付いて四百年間。江澄の父の代で一度本拠地を失う憂き目を見たが、その息子、江澄の手に寄ってこの雲夢地区は再び、江家の管轄となった。
「蘭陵金氏、金如蘭殿、ご到着ー!」
 舟が埠頭に着く度に、雲夢江氏の門弟が出迎え、招待客の案内と警護に当たる。
 普段は市場で賑わう船着き場も今日は閉鎖され、剣を腰に下げた重警備が敷かれて物々しい雰囲気を放っていた。
叔叔おじうえ!」
 江澄に気付いた金凌が舟を降りたところで握り締めた剣とともにぶんぶん手を振る。
 彼の足元には勿論、狼犬の仙子がくりっとした愛らしい目で尻尾を振って、愛嬌を振り撒いている。
「金凌、仙子の面倒はちゃんと見るんだぞ。それと宴の会場には連れて行ってはいかん」
「私と仙子はいつでも一緒だよ」
「今回の宴では仙子の同行は許さん」
 その犬嫌いの魏無羨が乗った船が今にも埠頭に到着するところだった。
 姑蘇藍氏の船がそろそろ船着き場に着きそうだと連絡を受けた江澄は訪問客の相手もそこそこにこうして船着き場まで出迎えに来たのだ。
「江澄! 阿凌!」
 はねまくった髪を赤い紐で一つに束ねた魏無羨が船首に足を掛け、いち早く江澄たちを見つけて手を振っている。
 魏無羨の到着に気付いた金凌は、渋々、仙子を金氏の弟子に渡し、先へ蓮花塢へ向かうようにと早々と立ち去らせた。
 ガコンと船が船着き場に着き、早速魏無羨が降りてくる。
 まずは藍氏の若弟子たちが次々と舟を降り、続いて藍忘機が降りてきて、そして最後に宗主の藍曦臣が船着き場に足を着き、藍忘機と共に弟子たちを引き連れて江澄の方へと挨拶をしに向かって来た。
「仙督、藍宗主」
「江宗主、金宗主、此度はお招きいただきありがとうございます」
「金凌、ちゃんと挨拶をしろ」
「……含光君、藍宗主、お二人に拝謁致します」
「俺には挨拶はないのか、阿凌」
「なっ、お前に拝礼なんてするわけないだろ!」
 金凌のお目当てはどうやら藍氏の若手二人のようだ。
 藍思追と藍景儀を見つけ、早速、ごちゃごちゃと何やら言い争いを始めている。
 宗主と言ってもまだ十代だ。
 遊びたい盛りの彼らに、藍曦臣が気を利かせ、「先に行きなさい」と命令した為、金凌も小双璧たちは早速和気あいあいと江家の屋敷の方へ消えて行った。
 騒がしい子供たちが居なくなり、江澄と魏無羨は久し振りに向き合って苦笑しあう。
 どちらもどんな顔で相手と対峙して良いのかまだ掴みきれていないのがありありと見て取れた。
「来たな」
「うん、来たぜ。俺のことも招待してくれてありがとうな、江澄。素直にめちゃくちゃ嬉しかったぜ」
 魏無羨はいつも江澄より上手うわてだ。
 素直になりきれない彼の一歩先を魏無羨は歩き、いつでも江澄を引っ張ってくれていた。
「お前の行き先はまずはうちの祠堂だ。この地を踏むからには、うちの先祖に挨拶してから上がれ」
「うん。江おじさんや師姉に挨拶してからにするよ。藍湛?」
 いいかな、と言いたげな魏無羨に、藍忘機は無言で諾と頷く。
 いちいち藍忘機に許可を取るあたりは癪に触るが、今日は魏無羨と喧嘩をするつもりはない。
「では藍宗主と仙督のお二人は別に部屋を用意してあるのでうちの者に案内させます」
「ちょっと待て、江澄。別の部屋ってなんだよ。俺と藍湛は一緒の部屋だぞ」
「………」
 いちいち言わずともわかってると怒鳴りつけてやりたかったが、今日は魏無羨との喧嘩はなしだ。
 再度そう自分に言い聞かせ、江澄は再び、藍氏の二人へと振り返った。
 単に挨拶を交わすつもりで向き直っただけなのだが、藍曦臣に微笑まれ、一瞬、ピクリと動きが止まってしまった。
 なんだろう、この感情は、と心に躊躇いが浮かび上がる。
 違和感は拭えなかったが、藍曦臣らは部下に託して、自分たちは別の道から江家の屋敷を目指した。
 子どもの頃から彼らが良く使っていた抜け道だ。
 魏無羨もすぐにそのことに気づき、周囲を見渡す彼の目にも望郷の念が浮かんでいた。
「魏無羨、その」
「あー、金丹のことなら、本当にもういいって。せっかくお前と会えたんだし、もっと楽しい話しようぜ。あ、そうだ。雲夢に来たからにはやっぱり荷風酒を飲まなきゃな」
 魏無羨がいつにもまして饒舌なのは、この再会に彼もいささか緊張を感じているせいだ。
 金丹のことは気にしないと言われても、この問題は彼らの間にこの先もずっと横たわったしまうし、江澄が彼に感じている負い目が払拭されることもないだろう。
 だからせめて、彼を雲夢江氏に戻したかった。
 未だに裏返しになっている彼の鑑札を表に返し、江家の一番弟子は魏無羨だと世に知らしめたい。
 しかし魏無羨はそれを望むのだろうか。
 江澄はその一抹の不安を拭いきれずにいた。
「沢蕪君から聞いたと思うが、今回、藍忘機の仙督就任のお披露目と共に、お前の名を修真界の名簿に復帰させてはどうかと思ってな」
「うーん」
 どうやら魏無羨はあまり乗り気ではないらしい。
 江澄の表情に翳りが差し、魏無羨が慌ててそれを否定する。
「違う、違うんだって。ただ俺は今更もう仙門がどうとかどうでも良いかなって」
「どうでも良いと言う言い方はないだろう。お前にとって雲夢江家とはそれだけの価値しかないものなのか?」
「怒るなよ。今日は喧嘩はなしで行こう。俺も本音を話すから、お前も短気は引っ込めろ。勿論、お前の提案は嬉しいよ。俺のために考えてくれたことには本当にものすごく感謝する。でも考えても見てくれ。俺が仙門を追われた時の状況をさ。お前も直に見ていたから知っているだろう。やってないことまで悪事は全部俺のせいにされて、会ったこともない見ず知らずの奴に敵呼ばわりされてさ。人の醜さと言うものを嫌と言うほど見せつけられた。もうあんな胸糞悪い想いは充分だ。俺はまだ若いけど、一生分を生きた気分なんだよ。ゆっくりと余生を一番好きな相手と過ごしたい。そいつも、俺のことを誰よりも必要としてくれる。今更離れられないよ」
「……その相手が藍忘機なのか?」
「うん。ついでに暴露すると、藍湛とは寝たぞ」
「………」
「気持ち悪いよな。でもお前が俺に未練を持たないようにはっきり言ってやる。俺には藍湛が必要で、藍湛のそばが俺のいる場所だ。しかし蓮花塢は愛している。雲夢江氏も大好きだ。お前はこれからも俺の兄弟弟子だよ、江澄」
「なら、お前はこれからは姑蘇藍氏を名乗るのか?」
「それとこれは別の話だ。そもそも藍先生始め、藍家の長老たちが許すかよ。禁酒も絶対ごめんだし」
「ああ、それはたしかにお前には無理だな」
「言うかよ」
 互いを肘で突き合い、すっかりいつもの彼らに戻った。
 満開に咲く蓮の花を二人で眺め、少し泥臭い匂いをたっぷりと胸に吸い込む。
 このにおいが彼らが育った蓮花塢のにおいだった。
「お前が藍氏を名乗らないのなら、許してやる」
「お前の許しがあろうとなかろうと、俺を藍湛から引き離すことは出来ないぞ。今の俺は藍哥哥にいちゃん命なんだから」
「殴るぞ」
「あー、殴ったら、藍湛がすっ飛んで来るからな」
 祠堂に辿り着き、二人はそれぞれの想いを胸に、江家の先祖に向かい、叩頭した。
「魏無羨」
「ん?」
「いつでも好きな時に、帰って来い」
「江澄……」
「お前が雲夢江氏を捨てても、ここはずっとお前の家だ」
「うん。でも江澄、捨てたわけじゃない。ここは俺にとっても大切な場所だ」
 俺にとっても大切な場所だ
 魏無羨の本音を聞けただけで満足だ。
「藍忘機の部屋へ案内する」
 立ち上がる江澄の言葉に魏無羨は一番快活な笑顔で「うん!」と陽気に頷いた。

 清談会は明日からだが、その日の晩は親しくしている宗主らを集めて内輪の宴が開かれていた。
 親しくしていると言ってもあくまで雲夢江氏宗主としてだ。
 この中で本当に親しいと言えるのは金凌と聶懐桑ぐらいだろう。
 姑蘇藍氏の面子は当然この酒の席には呼ばなかった。
 飲めない者がいては酒が不味くなるし、そもそも両家の関係は良好だが、個人的な付き合いはほぼないに等しい。
 欧陽宗主の息子としきりに笑い合っている金凌を眺めながら、江澄が手酌で一人飲んでいると、聶懐桑がやってきて代わりに酒を注いでくれた。
「江さん、さすがは雲夢江氏だね。今晩から早速豪勢な宴をありがとう」
「止めろ。心にもないお世辞を言うな」
「そりゃ社交辞令ぐらい言わせてよ」
 彼は少年時代、江澄が親しくしていた数少ない友人の一人だ。
 出会ってから十数年経っているし、何よりお互い名家の子息。雲夢江氏と清河聶氏と言う修真界でも歴史のある二家の宗主であるから否が応でも付き合わねばならない相手でもあった。
「お節介かも知れないけど、江兄、きみさ、もう少し姑蘇藍氏の方々とも交流を深めた方が良いと思うよ」
「別に不仲と言うわけではないが」
「そうだけど、きみぐらいなものさ。正月の挨拶にも、雲深不知処へ出向いていないだろう」
「なんで親戚でもないのに、雲深不知処へ行って頭を下げねばならん」
「ほら、そこだよ~。忘機兄はともかく、曦臣兄上のどこが気に入らないんだ」
「別に、気に入るも気に入らないもないだろ」
 桟橋で挨拶を交わした時の藍曦臣の笑顔が頭に浮かんだ。
 沢蕪君は江澄がこの修真界で実力、人徳ともに認めることが出来る数少ない人物だ。
 それが故に近寄りがたいのもあるし、何よりもっと根深いところで江澄は好き嫌いはともかく彼の手は借りたくないとひそかに思っていた。
「そりゃ聶兄、お前は赤鋒尊の弟だ。昔から沢蕪君とは懇意にしていただろうし、親しみも感じやすいだろう。しかし俺にとってはあの人は座学時代、師としてお世話になった人で、とても友人付き合い出来る人ではない」
「曦臣兄上は狭量な人ではないよ」
「それは分かっている」
 しかし彼は江澄が宗主になりたての頃。
 表向きは親切にしてくれたが、彼が本当に困っていた時、藍曦臣も聶明玦も、どちらも江澄には全く目もくれなかった。
 彼らは彼らで自家の仕事で忙しかったとは言え、それまで「困ったことがあれば何でも言え」と言ってくれながら、江澄のことなど完全に失念していた。
 彼らには彼らの世界があって、あの三人の結束は犯し難いものがあった。
 藍曦臣は、尊敬している。
 しかし友にはなり得ない。
 今の江澄に救いの手は必要ないし、年上と言うだけで頭を下げねばならないのなら、そんな付き合いはごめんこうむるだけだった。
「しかし江兄、今回、忘機兄が仙督になっただろう」
 聶懐桑は他の者の耳に入らないように、江澄に顔を近づけて小声で話す。
「別に藍忘機など恐ろしくもない」
「そこが駄目なんだって。きみと忘機兄の不仲は既に皆、周知のことだ。心ない者が二家の関係に水を差す様な真似をし始めたらどうなる? 私はもうあの様な揉め事はごめんだよ。皆、親しく密に交流して、お互い利益を産み出して、豊かになるのが一番だ。争い事から産まれる利益はないよ」
「……つまり俺が第二の魏無羨ってことか」
「そうは言ってないけどさ。しかし匹夫な輩ほど、つまらない小細工を考えつくのが好きなんだ。これは世の中の道理さ。彼らに隙を見せるのは幾ら君に実力があっても避けるべきだ。必要ならば私が曦臣兄上との橋渡しを買って出るよ」
「別に仲違いしているわけではないし、橋渡しなど必要ない。付き合うのに等しい相手なら付き合うし、そうでないなら距離を置くだけだ」
 寄りかかっていた江澄が立ち上がった為、聶懐桑は「おっとっと」とこぼれそうになった酒を慌ててまっすぐにする。
 江澄は会場全体を見渡し、拱手で皆に呼びかけた。
「私はどうも飲みすぎてしまったようだ。お先に失礼するが、酒も料理も充分に用意した。皆さんは存分にお楽しみください。明日の清談会でお会い致しましょう」
「江宗主に感謝します」
「今回は素晴らしい宴にお招きいただきありがとうございます」
「こちらこそ。それでは失礼する」
 賑やかな宴の場を辞し、外に出た江澄は、酔った肌に当たる夜気が心地良く、少し蓮花塢の中を散策する気になった。
 江家の屋敷は湖の上にも張り出していて、長い回廊を進むと蓮花湖の景色を望むことも出来る。
 紺碧の夜空に浮かぶ朔月の形が美しく、江澄はその冷たい月面に向かい、持って出て来た杯を傾けた。
 眠いと言って出て来たが、実際は全然眠くない。
 この三日間開かれる清談会のことで頭が一杯で、蓮花湖を見ながら一人で晩酌したいと思って出てきたのたが、残念なことに蓮花湖には既に先客がいた。
 蓮の葉が揺れる湖面の中央に一艘の小型の船が浮かんでいる。
 白くぼんやりと月に照らされる人影は、おそらく藍兄弟のどちらかと思われた。
 彼らの姿はとても良く似ていて、すらりとした優美な立ち姿はお互い以外、似た風情を持つ者はそうはいないと断言出来る。
 船の上にはもう一人の影があり、そちらはどうやら船艇に寝そべって片足をぶらぶらと揺らしているらしい。
 あのぐうたらさは間違いなく魏無羨だろう。
 だとすれば船の上の白い影は藍忘機だ。
 藍忘機に魏無羨の影が重なって、二人の姿が船底に隠れ、見えなくなってしまったところで、江澄はせっかくの気分が台無しになり、場所を変えることにした。
 目指したのは彼の姉が生前好きだった湖に迫り出した小さな庵だった。
 彼女は良くそこで編み物をしたり、書を書いたりしていた。
 魏無羨と江澄でその編み物を贈る相手は自分たちのどちらだと喧嘩したものだが、残念ながら贈る相手は彼らのどちらでもなかった。
 結局、父親の江楓眠の物とわかったが、その帽子は彼らの父親には少し小さそうで、「阿離にしては珍しいな」と父も笑っていたが、魏無羨と江澄にはわかっていた。
 おそらく贈る相手は金子軒で、当時、彼女との結婚を拒んでいた彼に突き返されたに違いなかった。
(子軒、お前はどこまで姉さんを傷つけるんだ)
 昔に思いを馳せ、江澄は庵への道を進む。
 金子軒が早逝したのは彼の責任ではないが、それでも姉夫婦の幸せな時期がたった一年だったと思うと十数年経った今でも胸が痛む。
 ふと、江澄の物悲しい心にあてた様な笛の音が風に乗ってやって来た。
 悲しいのだが、どこか清涼で明るく、未来を感じさせる。
 前方の庵にも白いぼんやりとした影が佇み、その影が物悲しい音を縦に持った簫から響かせていた。
(藍宗主……?)
 藍忘機はさっき船の上で魏無羨といかがわしいことをしていたのだから当然ここにいるのは藍曦臣だろう。
 江澄が近づいたことに気づいたのか、笛の音が止み、「江宗主」と清々しい声が夜風に乗って江澄の耳まで届いて来た。
「沢蕪君」
「こんばんは。勝手に屋敷の中を散策してすまない」
「いえ、ご自由にお過ごし下さい」
 掛けても良いですか、と江澄が聞くと、藍曦臣がどうぞとあっさり受けてくれた為、裾を邪魔にならないように広げて椅子に腰掛ける。
「姑蘇藍氏の方々には退屈な宴かも知れませんね」
「そんなことはないですよ。めったにお会い出来ない方との交流も図れますし。例えば江宗主とこうして向かい合ってお話をする機会は稀ですからね」
「いつでも遠慮なく訪ねて来てください」
「本当にいつでも遠慮なく来ても構わないのかな。きみもご存知だろうが、我々、藍氏の者は冗談と本音の見分けがつかない」
「勿論ですよ」
 どうせ社交辞令だ。
 藍曦臣が自分を訪ねることなどまずないのだからなんとでも言えた。
「それより改めて沢蕪君の簫の音を聴かせて貰いましたが、さすがは藍家の方々ですね。いや、あなたの笛の音が素晴らしいのは今更のことで、褒めることは失礼に当たるかもしれませんが、私は見合いの席でも相手方の舞を見て欠伸をして縁談を断られるような無粋な男なので」
「ほう。江宗主にはそんな武勇談が?」
「まだ他にも色々ありますよ。ともかく、そんな粋を感じられない私にも沢蕪君の笛の音の良さはわかったのですから、あなたの腕前はやはりさすがとしか言えません」
「お褒めに与り、光栄です」
 社交辞令に社交辞令で返す。
 面倒くさいがこれが今の二人の適切な距離感だ。
 以前、雲深不知処で江澄が彼に御高説を垂れたことなど、今考えると冷や汗ものである。
「沢蕪君、無遠慮ながら、もう一度拝聴させてもらっても良いですか?」
「勿論。江宗主の心地よい接待の礼に、いくらでも吹いて差し上げますよ」
 湖面を走る柔らかな風に乗り、藍曦臣が奏でる笛の音が遠く、湖の向こうまで染み渡る。
 魏無羨と藍忘機が乗った舟にも音色が届いたようだ。
 藍曦臣の簫の音に合わせ、琴が伴奏に加わり、そしてもう一つの笛の音が軽やかに、少し違和感を伴って重なって行く。
 酒を飲みながらその音を聴いていると、なんとも言えない幻想的な気分に浸ることが出来た。
 空一面の星々が、今にも酔い痴れて流星になって落ちて来そうだ。
 瞼を落として演奏に没頭する藍曦臣の横顔を眺め、酒を愉しみ、夜風が体に染み入る感触に口許も緩んで来る。
「蓮花塢の絶景と、美女に、美酒か。不足するものはなにもないな」
 演奏が止み、「美女?」と藍曦臣の美しい声が江澄に問い返す。
「江宗主には親しくしている女性が?」
「あ。いえ。語呂合わせみたいなものです。美しい景色に、美酒と来れば、美女もいなくては」
 本当は藍曦臣の美貌を見て、美女を連想してしまったのだが、勿論、それは伏せていた。
「確かに美女なら目の前におりますね」
 そう笑う彼が指す美女の意味が分からず、江澄はあやふやに笑う。
 もしかしたら藍曦臣は案外と自己評価が高い人物なのかも知れない。
(確かにこの兄弟は女なら間違いなく絶世の美女だけどな)
 しかし江澄より腕力も強く、仙力さえ高くて、おまけにゴツくてデカい美女がいても、恐ろしくてとても愛でるなんて出来そうにない。
「どうやら琴の伴奏も止めてしまったようですね」
「さっきのはやはり藍忘機ですか?」
「ええ。忘機と魏公子です。魏公子は少し遊んでいましたね。わざと私と忘機の伴奏を狂わせるなんて非常に彼らしい」
「なんか、すみません」
 何故江澄が謝るのかと言うと、それは江澄にもわからない。
 魏無羨が何かしでかすと、昔から江澄は自分がやってしまったかのような共感性羞恥に苛まれてしまうのだ。
 だからついつい魏無羨には小言が多くなるし、彼に対しての言葉もキツくなる。
 ただ藍曦臣は江澄のそんな感情を理解してくれたようで、「あなたのせいではありませんよ」と笑って返してくれた。
 何だろう、この人はとても不思議な人だと、江澄はそうしみじみ感じてしまった。
 藍曦臣の言動は嫌味なところがなく、すんなりと捻くれ者江澄の心に入り込み、まるで愛撫するかのような優しさが身体中に満ちて行く。
 こんな善人相手に勝手な思い込みで意地を張っていた自分が恥ずかしいと感じてしまった。
「江宗主」
「あ、はい」
「きみは母君似ですね」
「あ、はい。昔から良く言われます。姉は父似だったので、逆になればよかったのにと。俺は良いけど、姉は可哀想でした。いつも俺と比較されて、心無いやつが可哀想、可哀想って。姉は俺や魏無羨に言わせれば、世界で一番の美人です」
「当然だ。きみの姉君なのだから」
「姑蘇の双璧を前にして言うことではありませんね。修真界一の高嶺の花は沢蕪君、含光君です」
「私と忘機かい? 我々は、美しいと言う概念がいまいち良く理解出来ていない。いや、勿論、美しい物は理解出来るけど、美しいから好ましいのかと言うと、それは少し違うのではと感じてしまう」
「それは沢蕪君と藍忘機は既に自身が持って生まれたものだからです。貴方方が他人の物を羨むことなどないでしょうし、あるとすればそれを持つ者に絶対的な心服を感じてしまうのでは?」
「確かにそんな向きはあるね。忘機がその最たる例だ。彼は初めて魏公子と言う自分が持たざる物を持つ相手と出会ってしまった。そういう時、どうするかといえば、相手を憎んで反発するか、きみが言う通り、心服して、盲目的な愛を捧げるか」
 つまり藍忘機は後者を選んだわけだ。
「藍忘機の愛情は確かに盲目的ですね。兄君としては心配なのでは?」
「忘機は心配いらずの弟だよ。昔からあの子は私の手を取らず、甘えず、懐かない子だった」
「なるほど。沢蕪君も兄弟で苦労していますね」
「きみも兄弟に苦労をかけた口では?」
 頬杖をついた藍曦臣に顔を覗き込まれ、江澄は無意識に耳まで赤くなるのを感じてしまった。
 今が夜で本当に良かった。
「江宗主、そろそろ寝るべきでは。酔った体に夜風は触る」
「そうですね。すみません、長居をしました」
「いえ。ここの家主は貴方です」
「沢蕪君の方こそ、おやすみください」
「そうしよう」
 スッと立ち上がり、白い校服を翻す後ろ姿を見送っていたのだが、その藍曦臣がふと歩みを止める。
 てっきり忘れ物かと思ったが、彼の簫は手に握られているし、卓の上には江澄が置いた酒しかない。
「どうされました?」
「……江宗主。お手間なのだが」
「はい?」
 振り返り、藍曦臣は眉を八の字にさせて困惑顔で苦笑する。
「どちらから帰れば良いのだろうか。どうもこの屋敷の造りは入り組んでいて、帰り道を失念したようです」
 まったくこの人は、と呆気に取られ、江澄はしばらく放心してしまった。
 不意に笑いの発作が込み上げる。
 前回、打ち合わせに来た時もひとしきりこの人に笑わせられた記がする。どうやら見た目に依らず、藍曦臣とはずいぶん、愛嬌のある人らしかった。
 ふはは、と思わず笑ってしまう江澄に、藍曦臣も笑ったが、その笑みはどこまでも柔らかく、そして包み込む様で、江澄はおかしさを堪えながらも彼の横で心地よさを感じてしまった。
 こんな感情、随分と感じたことがなかった。
 ここは姉のお気に入りの場所だったせいだろうか。
 江澄自身、久方振りに穏やかな心地に浸れたみたいだった。
「沢蕪君、ではこの不肖、江晩吟が、あなたを寝室までご案内致します」
「江殿、かたじけない」
 お互いわざと仰々しく礼をし、同時に噴き出してしまう。
 聶懷桑にはあんな言葉を返してしまったが、藍曦臣となら友となれるかも知れない。
 そんな期待に江澄の胸は高鳴ってしまった。
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