ほんの少しの雨宿り

 その日の蓮花塢はいつもと様子が少し違っていた。
 奴が来る────。
 そう連絡を受けた江澄は、雲夢江氏の門弟を総動員し、主に蓮花塢の酒蔵、そして茶楼や食事処、ともかく酒がありそうなところに人員を配置した。
 魏無羨を見つけ次第、即刻、捕縛しろと厳重警戒が下されたのである。

 時を遡ること、六日前。
 その日も暑くて暑くて堪らなかった魏無羨は、自分と藍忘機しかいないことを良いことに、衣服をたくし上げ、下衣一枚の姿でぱたぱたと股間を扇いでいた。
 勿論、藍忘機からは「やめなさい」、「暑いなら、水浴びでもしたらどうか」と控え目に注意をされていたのだが、その程度の叱咤では面の皮の厚さ万年一位の魏無羨が悔い改める訳もない。
「だって股間ここが一番暑いんだよう。お前、俺のたまたまちゃんが暑さでかぶれても平気なのか。俺と天天出来なくなっちまうぞ」
「────」
 勿論、藍忘機はこの冗談にくすりと笑うこともなく、聞かなかった振りで完全に無視された。
 ともかくも腹は剥き出しに出来るが、さすがに股間までおっぴろげと言うわけにも行かず、しっかり下着を身に着けているのだから暑さで蒸れてしまうのも当然だった。
「掻くのは止めなさい」
「だって痒いー、あ、藍湛、掻いて」
 彼の手が避塵に伸びたのを見て、魏無羨は慌てて股間をしまう。
 彼のたまたまちゃんがなくなったとしても、とりあえず藍忘機といる限り、使い道はなさそうなのだが、それでも男の勲章として大事な部位を失うわけにいかなかった。
「来たまえ」
「やだ、俺のたまちゃんをぶった斬る気だろう」
「そんなことはしない。来なさい」
 渋々、近寄った魏無羨の手から、藍忘機は扇子を取り上げ、彼に向かってそよ風を送ってくれる。
「魏嬰、この扇子は……」
「あ、沢蕪君から貰った扇子だろ。確か沢蕪君が絵を描いて、藍先生が文字を入れてくれたやつ」
 そう。
 さっきから魏無羨はその価値のつけられない大切な扇子で蒸れる股間を扇ぎまくっていたのだ。
 さすがに藍忘機の顔が引き攣ったが、魏無羨と付き合っていればこんなことは日常茶飯事だ。
 そのまま魏無羨を扇いでくれ、動かずとも涼しい風だけを楽しむことが出来た。
「んー、極楽、極楽〜」
 しかし大変なのは藍忘機だ。
 片手で魏無羨を扇ぎながら、もう一方の手で山積みの書状に返信を書き上げる。
 彼は日頃から鍛錬を欠かさないからこの程度、苦でもないだろうが、さすがにすまなく思った。
「なあ、藍湛。ずっと扇いでいて、お前の手が疲れないか?」
「平気だ」
「何だったらお前の仕事を何か手伝おうか?」
「平気だ」
「平気、平気って。俺、そんなに信用ないのかよ」
「そう言うわけじゃない」
 こんなやり取りが二人の間で繰り返され、とうとう魏無羨がブチギレた。
 超楽観的思考の彼がキレるのは非常に珍しい。
 暑さも相俟って、頭に血が昇ってしまったのかも知れない。
「藍湛は俺のことを何もわかってない! 俺を全然、大切にしていない!」
とりんごちゃんを引き連れ、実家に帰らせて貰いますを実行に移したと言うわけだ。

 当てもなくふらふらと各地を彷徨っていた魏無羨だが、とうとう道中稼いだ金も懐が寂しくなり、蓮花塢の近くまでやって来た。
「店主、酒をくれ。雲夢江氏の江宗主にツケてくれればいいよ」
と店先に入った途端、魏無羨目掛けて雲夢江氏の弟子たちがわらわらと駆け寄り、捕縛される。
「なんだお前たちは!」
と怒鳴りつけたが縄は解かれず、抵抗出来ないまま、魏無羨の身柄は蓮花塢の江澄の元へとはこばれた。

「江澄ーっ、なんの真似だ!」
「いま忙しい」
「忙しいってさっきからずっと書き物ばかりしているじゃないか!」
 政務で忙しく、魏無羨を見ようともしない江澄に向かい、魏無羨は駄目元で声を掛けてみる。
「江家をあげての歓待は嬉しいが、しかし、紐で縛るのはさすがにやりすぎだ。寛大な魏無羨様でもこれは楽しめないぞ」
「安心しろ。お前を楽しませる気はこれっぽっちもないから。それよりこれを見ろ」
「ん?」
 魏無羨の前に、べらっと木簡が広げられる。
 一目で藍忘機のものと分かる丁寧な手で、魏無羨が雲深不知処を出たこと、そして彼が見つかったら、即刻、藍忘機のもとへ連絡を寄越して欲しいなどと簡潔に書いてあった。
 藍湛から江澄に宛てた書状だから、簡潔なんてものじゃない。
 完全に上から目線で、要件のみが書かれており、これを初見した時の江澄の苛立ちが目に浮かぶようだった。
 つまりこの捕縛はその仕返しと言うことである。
「藍湛の奴、相変わらずお前が嫌いなんだな」
「俺はお前も藍忘機も大嫌いだけどな」
 最初の感想がそれだったものだから江澄がキレてその木簡を魏無羨目掛けて投げつけて来た。
 すんでのところで躱したが、額にでも命中していたら出血ものである。
「相変わらず短気だなー。そんな態度だから、お前は藍湛に嫌われるんだ」
「藍忘機に嫌われようと俺は一向に構わんし、微塵も嘆いたりしない。いま藍忘機にお前を捕まえたと書状を書いているところだから、大人しく待ってろ」
「あいやー、江澄。俺は家出して来たんだから、藍湛に知らせるのは少し待ってくれよ。ここに置いてくれればお前の役に立つからさ」
「魏無羨、お前が蓮花塢を出て行ってから、実は我が雲夢江氏には新たな家訓が加わってな」
「ん?」
「働かざる者食うべからずだ」
「あいたっ、木簡で殴るなよ!」
「お前みたいにな。日々、ぐうたらと酒を飲むことしか考えない、酔っ払いの居場所はこの蓮花塢にはないってことだ。悔しいか、鳴いてみろ、この駄犬が」
「ふがふがふがっ、ふがっ!」
 魏無羨が両手を使えないのを良いことに、江澄は彼のほっぺたを左右に押し広げたり、やりたい放題だ。
 しかし江澄もこれでいて結構人の好いところがあるから、魏無羨が「よよよ」と情けない泣き真似をして見せたら、ひとまず捕縛した縄だけは解いてくれた。
 ちょろいものである。

 両手も自由になったし、とりあえず江澄の機嫌もいつも通りに戻ったし、と魏無羨は机の前で藍忘機への手紙を書いている江澄の横へと移動する。
「ぼさっと見ているなら墨ぐらい擦れ」
「はいよはいよー。なあ、藍湛になんて手紙を書くつもりだ」
 まったくいくつになっても彼らのやり取りは子供時代から変わっていない。
 江澄が書いた私信を覗いて見ると、藍忘機が書いたものと大差ない事務的な文面が綴られていた。
 江澄は見栄っ張りだから、人間はがさつでもちゃんと綺麗な字を書く。
 しかしその分時間がかかる為、こうしていつも苛々しているのだ。
「さっさと魏無羨を引き取りに来いって、お前、もうちょっと書きようってもんがあるだろう」
「知るか。じゃあなんと書けばいい」
「藍湛の可愛い、可愛い魏嬰を預かっている。引き渡して貰いたかったら天子笑を十瓶……」
 それは脅迫状だ。
 江澄も大してウケていなかった為、別の文面を考える。
「拝啓、藍忘機様、お宅の可愛い魏無羨を」
「なんで俺があいつに慎ましくお手紙を送らなきゃならん。しかもお前は全然、可愛くないし」
「江澄、お前ももういい歳だろう。いつまでも藍湛に僻むなよ」
「僻んでなんていないだろ。いい加減、お前ら馬鹿二人に付き合わされることにうんざりしているんだよ、こっちは」
 それはともかく江澄も魏無羨と藍忘機の喧嘩の模様が気になる様だった。
 彼らはいつも仲睦まじく、藍忘機は魏無羨を静かに見守り、好き勝手している彼を横で眺めているだけである。
 江澄と藍曦臣もそうだがあの兄弟相手では喧嘩になりようがないのだ。
「お前、藍忘機に何をしてあいつを怒らせたんだ。まさかまた春画を見せたとかか?」
「まさか」
 春画どころか、それ以上のことを日々、実践しているというのに、今更春画で藍忘機が狼狽えるはずもない。
「藍湛を怒らせたんじゃない。たまに離れることも必要と思っただけさ。江澄だって始終沢蕪君と一緒ならたまには苛つくこともあるだろ」
「始終、一緒じゃなくても苛つくな。いちいち気を使われるとうるさいと思ってしまう」
 それは江澄の許容度が極端に低すぎるだけだと言う突っ込みはさておき。
「俺も似たようなものさ。藍湛はとにかく俺を甘やかしてくれるんだ。例えばさ、俺が暑がっていたとして、お前は自分の手が怠くなるまで俺のことを扇いでくれるか?」
「俺はお前の従者じゃないぞ」
「それだよ。疲れたら疲れたと言えばいい。俺なら「藍湛、疲れたから代わってよ」と遠慮なく言う。で、お互い、かわりばんこに扇ぎ合う。これが真の気遣いってもんだろう」
 真かどうかはともかく、藍忘機は魏無羨とは違う。
 彼は自分を魏無羨に背負わせたりしないが、魏無羨のことは軽々と抱き上げる。
 出来る、出来ないではなく、彼らの関係は常に魏無羨が藍忘機に庇われる側なのだ。
 それは藍曦臣から似たような扱いを受けている江澄も同意のようで。
 二人とも面倒をみられるだけでは嫌なんだよなってことで納得し合った。
「まあ、沢蕪君は俺が嫌だと言えば簡単に折れてくれるけどな。その点、藍忘機の方が厄介か」
「そうなんだよ。藍湛はちっとも悪くないし、あいつが俺のためにしてくれることは充分伝わるから、余計に俺が心苦しいんだ」
「人にツケておいて、その酒を手土産に持ってこようなんて奴が心苦しさを感じるかどうかは疑問だけどな」
「その話は明後日の方角に置いとけよ。お前、金持ちのくせに、いちいちしみったれなんだよ」
「やかましい。お前みたいに宵越しの金は持たない奴が宗主になったら、途端に破産するわ。持ったら持っただけ全部使いやがって、少しはな……」
「わかったってば。なあ、どうしたら藍湛に俺の主張を伝えて仲直り出来ると思う?」
「俺が知るか」
「江澄ーっ、友達だろう」
 とりあえず、魏無羨から藍忘機に手紙を書いて見ることにした。
 藍忘機に手紙を書くなど初めてだ。
 何を書こうか考えていると、江澄が横からさっさと書けと急かして来る。
 まずは蓮花塢に着いたこと。
 そしてしばらくは江澄のもとに身を寄せることと、あと一つ、これが重要だ。
 藍忘機にももう少し魏無羨を頼りにしてもらいたい。
 全部じゃなくてもいい。と言うか全部任されても困る。百の内、十個ぐらいを頼ってくれればそれで彼は満足なのだ。
「それにしても雑で汚い字だな」
「うるさいな。意味が通じればいいんだよ」
「なになに、藍湛、俺は蓮花塢に着いたけど、まだ少し考えることがあるから江澄のところに厄介になるつもりだ。ついでにこの間のこと、お前も良く考えろ。俺も考えるからさ。あと蓮花塢に来たら荷風酒を飲むべきだから、江澄に買ってもらおうとしたら、あいつがケチで買ってくれなくて、おまけに縄で縛られて──、これで藍忘機に何が言いたいのか通じるのか? ただの近況報告だろう」
「読むなよ、馬鹿」
「あとその縄で縛られたくだりは黙ってろ。藍忘機に知られると厄介だ」
 江澄に手直ししてもらい、何とか藍忘機への手紙が仕上がった。
 しかし読み直して見てもどうもしっくりいかない奇妙な文だった。
「そもそも江澄に聞くのが間違いだったな。こいつ自身、私信とか全く書かない奴だし」
「人に手伝わせておいてその言いぐさか」
 ひとまず雲深不知処の藍忘機に向けて、魏無羨の手紙は送られて行った。
 そのうち藍忘機からの返事が蓮花塢に届くだろう。
「なあ、江澄」
「んー」
「俺と藍湛はずっと雲深不知処で一緒で気が付かなかったけど、こうして返事を待つって言うのも楽しみなものなんだな」
「知るか」
 会いたい気持ちもありつつ、ほんの少し距離をおきたい気持ちもある。
 魏無羨が送った手紙は藍忘機に喜びをもたらしただろうか。それとも逆に悲しませてしまったか。
 顔が見えないから、相手の反応がわからないからこそ、抱くことが出来る不安と期待だ。
「江澄、お前はいつもこんな気持ちで沢蕪君を待ってるんだな」
 魏無羨にそう言われた江澄が今更ながら顔を赤らめる。
 彼はまだ藍曦臣とは何の関係もない、単なる宗主同士の付き合いだと人目をごまかしたいのだ。
「お前だって、いつも藍忘機と一緒にいたわけじゃないだろう」
「そうだけど、昔は会いたい人に会えずにいても他に考えなきゃならないことが山積みだったろう。でも今は特に考えることもなくて、毎日藍湛と二人で過ごしてる。あいつがいる生活が当たり前になって、朝起きたら藍湛がいたのに、今は会いに行かなきゃ、あいつの顔も拝めない。この違いは大きいよ。沢蕪君が来ない時の江澄はどう過ごしてるんだ?」
「だから、俺はあの人に振り回されることはないし、お前が言うように、他に考えなきゃならないことが山積みなんだよ。たまにふと最近来ないなと思うことがあって、そのまま二ヶ月、三ヶ月放って置かれてもあの人は必ず俺に会いに来るからな。しかも何も悪びれずに、何の弁解もなしに来る。もう慣れた」
「そっか。多分、沢蕪君はまめに来なくてもちゃんと江澄が待っているって知ってるんだよな。だから弁解しないんだ」
「俺はそんな辛抱強い男じゃない。必要なくなればすぐに捨てる。あの人にも幾度もそう伝えている」
 それは嘘だ。
 江澄ほど一度心を許した相手に執着する男もそうそういない。
 魏無羨と藍忘機はどうだろう。
 彼らの間に執着はないが、それはお互いを疑ることのない信頼関係がしっかり結ばれているからだ。
 信頼関係だけでなく、二人の依存関係も出来れば対等にしたい。
「藍湛に会いたくなっちまったな」
 ぼそりと呟いた魏無羨の言葉に江澄は馬鹿にした様に鼻で嗤ったが、しかし彼の為に酒蔵に貯蔵しておいた酒を振る舞ってくれた。

 そして雲深不知処────。
 魏無羨からの手紙がついた時、本当にたまたま、偶然に、藍曦臣が弟のもとを訪ねていた。
 魏無羨が静室を出て行ってからというものの、藍忘機は普段と変わらない様に見えて、その行動は実に奇妙だった。
 普通に歩いていたと思ったら急に石に蹴躓いてよろめくし、茶を飲むのかと思えば、傾けたままドボドボとお湯をこぼし続ける。
「すわ、含光君がご乱心!」
と雲深不知処に衝撃が走ったが、当の藍忘機は飄々とした無表情でいつもの日常を送るだけで、彼の口から「魏嬰」の名が出ることはなかった。
 藍曦臣が「魏公子は」と言い出そうものなら、藍忘機の目が遠くなり、心ここにあらずの状態になってしまう。
 そんな彼のもとに魏無羨からの手紙が届き、まるで新品の玩具を与えられた子供の様に、いそいそと丸められた紙を広げる弟に藍曦臣は失笑を洩らしてしまった。
「忘機、落ち着きなさい。手紙は逃げていかないよ」
「この糊は、接着力が強すぎます。魏嬰からの手紙が破れてしまう」
 どうやら江澄が使っている糊は、少々付きが良すぎるようだ。
 貸してごらん、と藍忘機から手紙を取り上げ、お湯を沸かしている火に近づけ、糊が柔らかくなるのを待つ。
 その間も藍忘機は藍曦臣が大事な手紙を火に焚べてしまうのではないかとハラハラしていた。
「阿澄からの手紙はいつもこうだ。多分、彼が人一倍慎重な性格だからだと思うのだけど」
 魏無羨の手紙をじっと見つめたままの藍忘機の表情からは、江晩吟のことなどどうでもいいと言いたげな焦りがありありと映し出され、またもや藍曦臣は笑ってしまう。
「そろそろ良い頃合いだろう。そっと開けなさい」
「はい」
 大切に扱わなくては、魏無羨からの大事な手紙は切れてしまう。
 慎重に、両手の指を使ってゆっくりと糊を剥がす藍忘機のことを藍曦臣は微笑ましく眺めていた。
「魏嬰は、無事、蓮花塢に着いたようです」
「うん、だろうね」
 だって手紙に使われた紙には九弁蓮の透かしが入っている。
 江澄からの手紙はいつもぶっきらぼうで、要件のみしか書かない事務的な物だとしても、香を焚きしめ、季節ごとの花が添えられ、彼なりの気遣いが感じられた。
「魏公子はなんと?」
「………」
「忘機?」
 どんな深刻な内容が書かれているのかと気になる藍曦臣も手紙を覗き込む。
 手紙は途中までは魏無羨の字で、そして後半部は江澄が代筆した様だった。
「なになに、しばらくは蓮花塢にいるつもりだから、藍湛も雲深不知処で頑張れよ?」
「………」
「あと江澄がうるさいから少しお金を送って欲しい。こいつケチだから金がないなら酒を飲むなってうるさいんだ」
「…………」
 兄弟はためつすがめつ、幾度も互いに読み合い、真剣にその意図を探って見たが、結局わかったのは金を送れの部分だけだった。
「江晩吟は、守銭奴なのですか」
「いやいやそれはおかしいだろう。そもそもなんで魏公子は雲深不知処を出て、蓮花塢へ?」
「扇子を扇がせろと言われ、疲れるからきみはやらなくて良いと」
「それだけで出て行くか。他に理由がある筈だ」
「────私が彼の……を斬るのではないかと」
「聞こえなかったよ。彼の何を斬る気だったんだ?」
「斬るつもりなんて毛頭ありません」
「だから、何を」
 ぼそぼそと藍忘機は伝え、そして今度はちゃんと「玉袋」と藍曦臣の耳に届いたのか、心優しき兄は湖よりも深く、色濃い溜め息を盛大に吐き出した。
「忘機や、いつもお前には言っているが、お前たちは少し、自制というものをだね」
「私は一度もそんな真似はしていませんし、魏嬰を脅したこともありません」
「脅したことはないにしても、これまで魏公子の服を何枚破いたことか、お前たちが使っている水浴び用の盥だって」
「潔白です。兄上が江晩吟に日々送り続けている私信よりは迷惑をかけていません」
「………」
 ここで彼らが兄弟喧嘩をしても何も収まらない。
 とりあえず魏無羨は蓮花塢を満喫し、しばらく雲深不知処に帰るつもりはないことははっきりした。
 そして藍忘機に対し、魏無羨が何やら不満を抱いていることはわかるのだが、その締めくくりは「藍湛はそのままで最高だし、お前は何も変わる必要はない。俺達はこれまで通りで行こう」と記されていて、これでは一体、何をどうすれば魏無羨の不満が解決するのかさっぱり分からない。
 多分、前半を魏無羨が書き、後半は江澄にまかせてしまったせいだろう。
 変われと言いながら、途中から何も変わるなと言われ、どうしたら良いのか分からなくなって悄げる弟を見、藍曦臣も気の毒になってしまった。
「とりあえず阿澄に早く魏公子を戻す様に伝えよう」
あの丶丶江晩吟が兄上の言う事を聞くとは思えません」
「お前ね……、何故そこを強調する。その一言は兄の私に対し、非常に失礼だよ」
 とりあえずこうしていても何も始まらないから、二人で蓮花塢へ行ってみることにした。
 読んで分からないのなら、書いた本人たちに聞くしかない。
「阿澄の私室はこっちだよ。そっちは弟子が多いから近づかないように」
 蓮花塢にすっかり詳しくなってしまった藍曦臣の案内で、二人は江家の門弟には見つからずに江澄の私室へとたどり着く。
 その部屋では魏無羨と江澄がぐでんぐでんに酔っ払って、二人で幸せそうに仰向けになって熟睡していた。
 魏無羨はともかく、普段は毅然とした厳粛な態度を貫いている江澄は、とても弟子たちに見せられる格好ではない。
 やれやれ、と藍曦臣が江澄を起こしに向かい、藍忘機は魏無羨を抱き上げ、顔にかかった前髪を払い除けてやる。
 愛しい人の寝顔についつい顔の筋肉が緩み、思わず微笑んだ藍忘機の様子に、藍曦臣も穏やかな笑みを見せた。
「兄上、私は魏嬰を連れて先に帰ります」
「うん。私はここに残るよ。阿澄が起きた時に魏公子がいなくてはびっくりするだろうから」
「はい」
 避塵に乗り、魏無羨と共に雲深不知処へ。
 彼を抱いたまま、長距離を移動するなど藍忘機には造作もないことだった。
 ただ、雲深不知処に辿り着く前に思い直し、途中、景色の良い高台を見つけた為、地上に降り立ち、魏無羨が起きるのを待つ。
 膝の上で熟睡している彼の寝姿は何度見ても飽きない。
 半刻はおろか、一日でも一年でもずっと見ていたい寝顔だった。
「んー……」
 心地良く寝ていたのに急に冷たい夜気にさらされ、魏無羨は鼻を擦った後、何かの違和感に気がついて目が覚めた。
 幻の様に美しい顔が魏無羨を覗き込み、彼の髪を愛しげに撫でている。
「藍湛……」
 そう名前を呼ぶと、藍忘機は嬉しそうに破顔した。
「藍湛、そんな嬉しそうに笑うなよ。俺、お前にひどいこと言って飛び出したのに」
「何もひどいことなど、きみは言っていない」
「なあ、藍湛」
 ここらで本当に話し合わなきゃ駄目だと魏無羨は感じていた。
 大切にされるのは心地良い。
 魏無羨だって藍忘機を大切にしたい。
 しかし彼は魏無羨を甘やかしはしても、魏無羨が藍忘機を甘やかすのは好まない。
 これでは彼は藍忘機の愛玩動物だ。
 ちっとも対等ではない。
「俺は藍湛が大好きだ。お前は俺に優しいし、何よりいつだって俺に寛容で、俺を一番信じてくれる。そんな相手を好きになるななんて無理なことだろ」
「きみは大切にされて当然の存在だ」
「藍湛、だから、俺にとってはお前も大切にされて当然の存在なんだよ。なんでそれがわからないんだよ」
 起き上がり、藍忘機の手から離れてしまった彼の髪を名残惜しそうにしながらも、藍忘機は魏無羨の手が彼の頬に触れたのをはにかんで喜んでくれた。
 愛しさが胸につのって、鼻の頭がツンと痛くなる。
 魏無羨だって藍忘機が好きでたまらないのだ。
「今日は俺がお前を襲っちゃうからな」
「魏嬰、帰ってからにしよう。きみは私とともに雲深不知処へ帰るつもりは?」
「……帰ってやらなくもないけど、これからはもうちょい俺を信じてくれないと。俺だってやりきれないよ」
「きみには全信頼を置いているつもりだ。でも私事できみを煩わせたくない。きみには───」
「俺には?」
 続きをと藍忘機に催促したが、彼はそれを言う代わりに馬乗りになる魏無羨の上半身を自分の方へ引っ張り、胸に抱き締めた。
 息苦しいほどの激しい口付けをされ、魏無羨の口からくぐもった声が洩れる。
 彼の唇の端から唾液が垂れて顎を伝ったが、それでも藍忘機は魏無羨を離してくれなかった。
「ら、藍湛! 止めろったら。こんな風にごまかすのは、俺を大切にしてないってことだぞ!」
「大切にしている。私にとって、きみは全てに優る。魏嬰、きみに私の仕事を手伝わせれば満足なのか? きみに扇子を渡し、それで私を扇がせれば満足なのか。私が望んでいるのは、きみが何にも縛られない、自由気ままなきみでいてくれるのを隣で見つめることだ」
「藍湛……」
「私はきみを愛している。きみは、私にも縛られてはいけない。そのままのきみでいてくれるのが、私が一番望むことだ。そしてそんなきみに尽くすのが、私が一番したいことだ」
 藍忘機がそんな風に考えていたなんて思っても見なかった。
 魏無羨としては、藍忘機に甘やかされた分、同じ量を藍忘機に返してやりたい。
 しかし藍忘機が望むのは魏無羨からのお返しではなく、あくまでも魏無羨が、魏無羨らしくいること。
 彼らしく過ごすことだった。
「──藍湛、分かったよ。俺はお前が大好きだから、お前が望む魏嬰のままでいる」
「私が望む魏嬰ではない。きみが望む魏嬰だ。それが私の望みにも叶う」
「藍哥哥ぁ、お前って奴は本当に」
「私は本当に何だ、魏嬰。魏哥哥」
「魏哥哥? あはは、もういいよ。ふてくされるのは止める。雲深不知処へ帰ろう。藍湛に髪を結って貰えないから、おかげでぼさぼさだよ」
「うん」
「雲深不知処へ帰ったら、風呂へ入りたいな」
「すぐに用意する」
「髪油を使ってしっかり梳かしてくれよ。あれいい匂いするから好きなんだ」
「分かった。きみが望むとおりにする」
 ふふ、と笑いが込み上げる。
 これは魏無羨が望む二人の形とは言えないかも知れないけど、藍忘機の好意に、藍忘機が望む形で返してやっているのだから、魏無羨は魏無羨らしく、勝手気ままに過ごすことが一番藍忘機に尽くしてやっている形になるのだろう。
 ならば二人の関係はこのままでいい。
「藍湛、家に帰ろうぜ」
「うん」
 魏無羨が口にした「家」の言葉が余程嬉しかったのか、藍忘機の口から珍しく白い歯がこぼれる。
 月夜の下、二人は今一度、お互いを抱き締め、口づけを交わした。

 一方その頃。
 寝台で目を覚ました江澄は、何故か香る白檀の匂いに思わず鼻がむずむすしてくしゅんとくしゃみを漏らしてしまった。
「大丈夫かい? 泥酔して寝ていたから風邪を引いた?」
 何故か藍曦臣が隣にいることにきょとんとして、一瞬、動作が止まる。
「何故、ここに?」
「うん。忘機と魏公子を迎えに来たんだ。ねえ、阿澄。酔っ払っていたとは言え、二人のあの手紙は酷かったよ。思わず添削したくなった」
「あれは……っ」
 あたふたと起き上がり、あわあわと弁解を始めるが、途中で面倒くさくなった。
 魏無羨と藍忘機の痴話喧嘩など、彼にとっては何の利益もなく、非常にどうでもいい話だ。
「で、あんたは俺の寝床に勝手に居座って、何をする気だ。帰らないのか、雲深不知処へ」
「きみが目覚めるのを待っていた。阿澄の寝顔は可愛いから、どれだけ眺めていても全く見飽きない」
「勝手に人が寝てるのを見下ろすな。誰の許可を得てそんな勝手な真似が許されると? すぐに出て行け、さっさと雲深不知処へ帰れ!」
「分かった、分かった、帰るよ。またね」
「またねじゃない!」
 藍曦臣を窓際まで追い詰め、さっさと行けと凄んだ江澄だが、実際に彼が帰ろうと外へ踏み出すと、その体は強い力で引き戻されてしまった。
 背中に江澄が張り付いていて、これでは帰るに帰れない。
 前に回された腕がぎゅっと藍曦臣を抱き締めるのを見、彼も笑いが込み上げ、江澄の手をぽんぽんと叩いて、ご機嫌を取る。
「阿澄、きみのそう言うところが大好きだよ。これは帰って欲しくないって言う意思表示かな」
「全部言うな。魏無羨が飲み食いした分、姑蘇の宗主のあんたがしっかり払え」
「それは、もしかして身体で払えってこと?」
 この言葉に江澄は真っ赤になり、慌てて藍曦臣の身体を離す。
「か、帰っていいぞ。ほら、離したからすぐに帰れ」
「それはいけない。魏公子はうちの食客だから。彼が馳走になった分は確かに宗主として、忘機の兄として私が弁済せねばならないだろう」
「俺がいいって言ってんだからもういいんだ。さっさと帰れ」
 これでは魏無羨が飲み食いした以上の分をお返しされてしまう。
 江澄は藍曦臣を突き飛ばし、急いで寝台へと戻ったが、それでは誘っているのも同然だ。
 すぐに藍曦臣に捕まり、捕らわれた獲物の様な抵抗を見せながら、江澄の身体は寝台へと沈み、そしてそれはすぐに微かで色めかしい呻きへと変わって行った。

 そしてここに忘れ去られたロバが一頭。
 なんとかりんごちゃんを宥めようとするのだが、手に負えないこのロバは、雲夢江氏の弟子たちを蹴りまくり、厩舎を破壊して、翌朝、藍曦臣が江澄からこっぴどく叱られたのであった。

終わり
20240608
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