藍湛とかくれんぼ

 春を思わせる陽気な鳥の囀りで目が覚める。
 ぼんやりと天井を眺め、腕の痺れを感じた藍忘機はふと其方の方向がどうなっているのか確かめて見た。
 彼の隣では魏無羨が無邪気な寝顔で寝息を立てており、藍忘機の腕を枕にして彼の薄衣を掴んで離さないようだ。
 魏無羨は本当に天衣無縫と言う言葉がぴったりな性格だ。
 寝ている時でさえ、彼には邪気がなく、飾り気もなく、素のままの魏無羨を無防備に晒す。
 人に寄っては彼のそんな性格を「野放図だ」や、「がさつな男だ」と評価するだろうが、藍忘機は自由気ままに振る舞う彼こそが愛しくて堪らない。
 恋人の袖の上だと言うのに涎でべったりと頬を濡らし、藍忘機が身につけている白絹にまで半透明な水溜まりを作っている。
 これが人の行いなら毛嫌いするどころか、迷わず避塵を抜いて天誅を食らわしているところだが、魏無羨となると藍忘機の頭の中は咲き誇る満開の花が五月の風に吹かれ、揺れている。
 そんな牧歌的で爽やか、そしてどこまでも平穏で愉しげな映像しか浮かんで来ない。
 起こさない様に細心の注意を払い、彼の口許の汚れをもう片方の袖で拭ってやり、魏無羨の頭を枕の上にそっとのせる。
 むにゃむにゃと呟き、唐突に寝返りを打った魏無羨が起きてしまったかと思ったが、彼は尻の辺りをぼりぼり掻き毟っただけで別に起きてしまったわけではなさそうだった。
 本当に魏無羨が魏無羨らしいと何故だか安心してしまう。
 魏無羨が起き出すにはまだ時刻が早い。
 彼が起きるのはいつも巳の刻で、朝餉の支度もとっくに出来ている。雲深不知処では既に午前の業務が開始している頃合いで、藍忘機は彼に食事を取らせ、魏無羨の髪を整えてから政務に取りかかるのが日課となっていた。
 たまにそんな生活にも例外はある。
 つい最近のことだったが、珍しく魏無羨が藍忘機より先に早起きし、気まぐれに姿を隠してしまった。
 目が覚めて魏無羨がいないことに面くらい、慌てて跳ね起きた藍忘機だが、当の魏無羨は術で姿を消していただけで藍忘機の慌てぶりを眺めて楽しんでいた。
 まったく幾つになっても困った問題児だが、そんな変事はめったに起こらない。
 藍忘機は魏無羨を眺めることに踏ん切りをつけると、寝台から起き上がり、まずは自分の身支度に取りかかる。
 いつもは寝間着にしている薄衣の上に校服を着用するのだが、魏無羨の涎でびっしょり濡れているから、上着だけ取り替え、髪も整える。
 腰に玉佩を垂らし、藍氏の姓を名乗る者には必須の抹額を真っ直ぐに額へと巻き付け、身嗜みを整えた後、再び、魏無羨の寝姿を確認する。
 一日の内に何度こうして藍忘機が魏無羨の存在を確認するか、何故、藍忘機が彼の不在をそれ程気にかけるのか、魏無羨はその理由にまったく気付いていない。
 細かいことに頓着しないのが魏無羨の美点だ。
 そこは変わって欲しくないから、幾ら振り回されようと、藍忘機は魏無羨には今のままで在り続けて貰いたいと切に願っている。
 昔、藍啓仁が嫌味たらたらと江楓眠に魏無羨のことを指摘した時もそうだった。
 江楓眠は「うちの嬰が迷惑をかけ、誠に申し訳ない」と頭を下げはしたものの、その顔はどこか誇らしげで、やんちゃな魏無羨の性格を愛して止まないと言いたげな表情を浮かべていた。
 藍忘機の今の気持ちはあの時の江楓眠と同じだ。
 魏無羨がいないと気付いた時の焦りはもう二度と体験したくはないが、それが魏無羨を楽しませることなら、その程度の痛み、甘んじて受けようとは思っている。
 少しは反省して、悪戯をするにしてももう少し平穏無事な悪戯を選んで欲しい希望はあるが、魏無羨が望むなら藍忘機も不承不承、受け入れる。
 彼の寝姿を今一度確認し、藍忘機は修練に出掛けようと静室の扉に手を書けたが、その時魏無羨が彼を呼んだような気がした。
「んー、ら……」
 もう一度聞こえ、はっとして振り返る。
 確かに「ら」とは発音したのだが、続いて出て来た寝言は、「来、来、来」だった。
 どうやら夢の中で誰かを手招きでもしてるらしい。
 それが自分なら申し分ないが、苦笑を浮かべつつ、また外出しようとする藍忘機の背に今度は「江澄」の名が聞こえて来た。
 つまり、手招きして呼んでいるのは江澄のことで、彼の夢に絶賛出演中なのは、藍忘機ではなく、江晩吟のことらしい。
 途端に藍忘機の表情から笑みが消え、いつもの昏い目が戻ってくる。
 とは言え、夢は夢だ。
 自分にそう言い聞かせ、朝の務めに出る。
 しかし江澄への苛立ちは消えなかった為、途中、竹林で竹を一本、殴りつけてやっていた。
 ありがたいことに竹はしなやかに撓る植物の為、藍忘機の強打を食らっても何とか持ちこたえてくれる。
 そんな彼の怒りは露とも知らず、魏無羨は一人残された部屋でぐうぐうと呑気に寝息を立てていた。

 厳格な家訓と勤勉さを尊ぶ姑蘇藍氏では、朝の起床と共にまずは木刀を使った修練が開始される。
 藍曦臣は宗主として弟子たちの様子を見守っていたが、弟がやって来たことに気付き、「おはよう、忘機」と彼の方を見ずに声を掛けた。
「おはようございます」
 心なしか、弟の声がいつもより暗く、険しく聞こえる。
 弟の心の機微に敏い、兄弟想いのこの兄は、藍忘機の不機嫌の理由を探ろうと彼の顔を覗き込んで来たが、心を読まれたくない藍忘機は即座に目を逸らしてやった。
 これはますます怪しいと藍曦臣の興味を惹いてしまう。
「どうした、忘機」
「別に。どうも致しません」
 仲の良い兄弟だが、皆の前では沢蕪君と含光君。
 どちらも藍氏の門弟たちにとって素晴らしい模範と鑑となる人物の為、幾ら血族と言えど、人前で馴れ合ったり、軟弱な様子はけして見せないのが藍氏宗家の者に課せられた役割だ。
 それは理解しているが、弟を構うのが何より好きなこの兄は、藍忘機の不機嫌な様子を見るとどうしてもちょっかいを出さずにいられない。
 兄とはそう言う生き物なのだ。
「どうだ、今日は久し振りにお前と私で手合わせをしてみないか」
「してみません」
「─────」
 頑固君とは、また絶妙なあだ名を付けてくれたものだ。
 苦々しく笑いながら、藍曦臣は弟の手に木刀握らせ、「いざ」と勝負を勧める。
 ここまでされては藍忘機も渋々、付き合うしかなく、めったに見られない姑蘇の一、二を競う二人の手並みを拝見しようと、練習中だった門弟たちがわらわらと周囲に集まってきた。
「忘機、お前は私の弟だ。年齢に免じ、二手お前に譲ろう。来なさい」
「結構です。兄上の方が二歳お歳を召されているのですから、遠慮なく、二手先にお打ちください」
 何とも可愛くない物言いに、藍曦臣の笑顔も引き攣る。
 ではどちらも譲り合いはなしにと決め、藍曦臣の方から早速、跳躍して藍忘機に斬りかかった。
 するりと兄の攻撃を躱し、下から薙いだ剣先で藍忘機も反転に出る。
 見物している弟子たちからは歓声よりも、二人の華麗な動きに溜息が漏れ出した。
 剣の勝負と言うより、剣舞を観覧している様な気分にさせられる。
 しかしどちらの切っ先も早く、またどちらも実力伯仲しており、勝負の行方はまったく掴めなかった。
「何をそんなに不機嫌になっているのだ、忘機」
 左から襲う兄の剣を立てた指で弾き、藍忘機も左へと回転した体から横へ木刀を薙ぎ、兄の首元を狙う。
 藍忘機の攻撃の癖はとっくに藍曦臣も掴んでおり、ガチンと派手な音を立てて二人の木刀がぶつかった。
 本当に、まったく勝負がつきそうにない。
「江晩吟に、腹が立ってます」
「阿澄? いま、お前、阿澄と言ったか? 彼がお前に一体、何をした」
 藍曦臣が驚くのも無理はない。
 江澄が雲深不知処を訪れることは公務以外ではめったにないし、来たとしても藍忘機は彼に無関心の為、江澄も意地でもこちらから頭を下げるかと互いに無関心を競い合っている。
 だから藍曦臣の知らないところで江澄が藍忘機の元を訪れるなどあろう筈がなく、考えにくかった。
「阿澄が来たなら来たと何故、私に伝えない」
「雲深不知処には来ていませんし、来たとしても会うつもりなどありません」
「では、彼の何がそんなに不満なんだ」
「魏嬰の、夢に勝手に出て来ました」
「え?」
 さすがの藍曦臣も呆れ果ててしまったのだろう。
 何かと思えば、「勝手に夢に出るな」などと言う、どちらが勝手なんだと言いたくなるとんでもなさである。
 藍曦臣の足が止まり、腰に手をやり、溜息を吐き、完全に戦意を喪失したところで、藍忘機の突きが首元にぴたりと決まった。
 今日の勝負は藍忘機の勝ちだが、「こんなのは勝負にならない」と藍曦臣も木刀の切っ先を撥ね除ける。
 門弟たちに修練を続ける様に伝え、兄弟は汗を流す為に、修練後の日課である藍氏の霊場である水辺へと向かう。
 禊ぎが済めばようやく朝食にありつくことが出来るのだ。
 この一連の流れが彼らが少年の頃からずっと続けている朝の務めだった。
 上に羽織っている校服を脱ぎ、兄弟は薄衣を身に着けたまま、冷たい霊水の中へと身体を浸す。
 水浸しになったおかげでどちらの肌にも薄衣が貼りつき、一見華奢に見える体の見事な筋肉美をくっきりと映し出していた。
「さっきの話だが」
「もう結構です。ちょっとした冗談です」
 お前が冗談を言ったことなど数える程もないだろうと藍曦臣が眉を吊り上げ、呆れ顔をする。
 彼ら兄弟は他人の目があるところでは、例えそれが身内の叔父であってもめったなことでは素顔を晒さないが、赤ん坊の頃から互いを良く知る二人だけの時は別だ。
 優秀な兄弟だろうと幼い頃はそれなりに殴り合いの兄弟喧嘩もしたし、藍忘機とて兄に対しては多少の甘えは見せてきたから、やはり藍曦臣の前だと弟の彼に戻ってしまう。
 衣冠を取り、どちらも水でぐっしょり濡れてしまうと、どちらがどちらなのかさっぱり区別がつかなくなった。
「忘機や。お前は優秀な弟だが、さすがに魏公子が見る夢にまでお前の我が儘を通すのはどうなのかと私は思うよ。ましてやそんなことで恨まれては阿澄が気の毒だ」
「江晩吟にわざわざ伝えることでもありませんし、私が一方的に苛立つだけなら、彼には何の影響もないと思いますが」
「阿澄は私の大切な人だ。彼の悪口は私が傷付く」
「では兄上も魏嬰に対し、これからは何も口出ししないと約束して下さい。それでしたら私も兄上の願いを聞き届けます」
「──忘機。お前ね」
「はい、何でしょう」
 雅正を尊ぶ藍氏の男子は、例え腹が立っても狼狽えてはならず、勿論、人前で悪態などけしてついてはいけない。
 常に心を穏やかに、湖面の様に平静を保つよう彼らは門弟たちに教える立場なのだから尚更だ。
 だが、やはりそこは兄弟同士。
 藍曦臣はさりげなく、藍忘機の肩を突き、彼を水面に沈め、笑いを洩らす。
 そして水から起き上がった藍忘機にまったく同じことを仕返されて、どちらも不敵な笑顔で火花を散らした。
 こんな悪ふざけは彼らしかいないからこそ出来るのであって、身内に対しての愚痴やぼやきぐらいは生きてれば彼らとて多少はたまる。
「江晩吟も兄上も身の程を知るべきです」
「おいおい。ならば私だって言わせてもらうが、これまでに何度魏公子の失態を庇ってやったと思っている」
「頼んでいません」
「頼まれずとも、私はお前の兄なのだ。兄が弟とその道呂を守るのは当然だろう」
 魏無羨を守るのが当然との言葉に、藍忘機も幾分、機嫌を直す。
 しかし彼の江澄嫌いはそう簡単には修復出来なかった。
「大体、何をもって、お前はそんなに[[rb:阿澄 > かれ]]に対して偉そうな態度を取るんだ」
「偉そうな態度など取った覚えはありません。お言葉ですが、あの者は魏嬰にもっと感謝の意を示すべきです。それに兄上は藍氏一族を統率する宗主でありながら、身内の私より、他家の江晩吟の肩を持つおつもりですか? ならば私も兄上の意見には従いません」
「お前だっていつも私のことより、魏公子ばかり気に掛けているじゃないか」
「当たり前です。兄上、あなたは弟の私に気に掛けてもらいたいのですか」
 まったくこれでは本当に議論にならない。
 そもそも藍曦臣は弟に甘いのだから、自分を兄と慕えばこそ、我が儘も口にする藍忘機のことが実は可愛くて仕方なかった。
 貝のように口を閉ざし、ぶすっとしてしまった弟の腕を突き、藍曦臣は「しかしだ」と続ける。
「この間の魏公子の悪戯だが、あれはやはり、やりすぎだ。きちんと𠮟った方が良い」
 例の魏無羨の隠れんぼだ。
 藍曦臣にも迷惑を掛けることになり、結局、二人で後で謝罪に向かったが、魏無羨はいつも通りで謝罪を口にした後はけろりとしていた。
「魏嬰は、あれで良いのです。私は彼に変わって貰いたいとは」
「忘機、私はお前の為を思って言っているのだ。阿澄も勝手な面はあるが、彼だってさすがにあそこまで無頓着なことはしない。彼は意外と繊細だからね。でも魏公子は違う。些末なことを気にしないのは彼の美点かも知れないが、そのせいで度が過ぎてしまうことも多々ある。これはちゃんと指摘してやらないと、彼がまた気付かず、お前を傷付けることになるのではと私は危惧しているのだ」
「それは───」
 藍曦臣の言うことももっともすぎて藍忘機は反論の言葉が出て来なかった。
 魏無羨のしたいこと。
 彼が望むことは何でも受け入れるし、叶えてもやりたいと思っている。
 それが例え、二人の別れ話であったとしても、藍忘機が納得出来る説明さえ与えて貰えば、彼は魏無羨の為にいつでも潔く身を引く覚悟は出来ている。
 何より彼が一番に望むのは魏無羨が常に自由で、奔放かつ、気ままに過ごせることだからだ。
 でもこの間の悪戯───、魏無羨の言葉を借りれば、隠れんぼの一件は本気で辛かった。
 魏無羨は分かっていない。
 彼が藍忘機の目の前から、完全に去ることになったあの忌むべき日の記憶───。
 手から彼の重みが不意に消え、落ちていく魏無羨を信じられない思いで見つめ、そして伸ばしても届かない手を必死に突き出すことしか出来なかった。
 あの日の絶望と困惑、慟哭したくても現実への理解が追いつかないあの時の感情はとてもじゃないが一口では説明出来ない。
 母が亡くなった時の記憶より藍忘機を打ちのめし、そして現実を拒否したくて、受け入れることが出来なかった。
 母が死んだ時の藍忘機はまだ幼く、死と言うものが何なのか、それさえ良く理解していなかった。
 しかし受け身にならざるを得なかった父母の死とは違い、魏無羨の死は藍忘機にまだやれることがあった筈だった。
 中途半端で、未練を残し、死の間際の魏無羨の手の感触は、藍忘機の精神を蝕み、彼から理性を奪ってしまった。
 魏無羨の死後、彼の居場所を守ろうと誰もいない乱葬崗に閉じこもり、藍啓仁に逆らってまで同族に剣を奮ったのも、彼が正気ではなかったせいだ。
 それらの悲哀を、当時、既に死人となっていた魏無羨が知る筈もなく、彼が復活し、道呂となってからも藍忘機からは一言も魏無羨に告げていない。
 彼との再会を藍忘機がどれ程の歓びで迎え入れたのか。
 そのことを魏無羨はおそらく百分の一も理解していない。
 それはそれで別に良いのだ。
 魏無羨に自分の重い気持ちなど背負わせたくない。
 でも魏無羨を失った時のあの哀しみを再び味わうのは二度とごめんだ。
 それが遊びや冗談であれ、藍忘機はもう体験したくない。
 藍曦臣はそんな弟の姿を見続けて来たからこそ、兄として納得していないのだ。
 藍忘機が江澄に向ける鬱憤と似たようなもので、やはりこの兄弟の本質はとても似通っているとしか思えない。
「私はただ、何の理由も知らされず、彼が目の前から消えてしまうことが怖いだけです。魏嬰に対して、怒りなど」
「分かっている。これでも私はお前の兄だ。お前の考えのすべてを理解出来るわけではないが、お前がいかに彼を想い、苦しんで来たかを誰よりも理解している。多分、魏公子よりもね。それが私は許せない」
「しかし」
「しかしじゃない。私はお前に二度とあんな辛い思いを繰り返させたくはない。だから今回の悪戯はさすがに度が過ぎたのではないかと、いささか彼に腹を立てている。私の言い分は間違っているか?」
 藍曦臣の言い分はともかくとして、藍忘機はとっくに彼を許している。
 しかしたまには魏無羨を懲らしめることも必要だ。
 そう藍曦臣に力説され、藍忘機の心も揺らぎ始めた。
 魏無羨はあんな性格なのだから、多少、痛い目を見たとしてとすぐに立ち直る。
 言い替えれば彼のあの性格では多少𠮟られた程度ではまったく反省などせず、また同じことを企てるのだ。
 さすがにここらでしっかりと釘を刺す必要はあるかも知れない。
 弟の表情の変化で、彼の意向も兄に伝わった様で、兄弟は視線を合わせ、と頷き合いって、早速、魏無羨を嵌める作戦を練り始めた。

 そしてそんなこととは露知らず。
 一方の魏無羨はいつもの巳の刻に目を覚まし、上半身を起こして寝台の上で大きく伸びをした。
 ふわああと喉の奥まで見えそうな欠伸もし、衝立の向こうで朝食を用意してくれているであろう藍忘機に掛ける。
「おあよー、藍湛! 今日も良い天気だな!」
 魏無羨の明るい声とは裏腹に、衝立の向こうにいる筈の藍忘機からは一向に返事が返ってこない。
 妙だな、と寝乱れた髪のまま沓を履いて、衝立の向こうを覗いてみたが、いつもなら湯気の立つ朝餉を手に、魏無羨の起床を待ってくれている藍忘機の菅田がどこにも見当たらない。
 妙だなと思いつつも、藍忘機だって厠ぐらい行くだろうと特に深く考えていなかったのだが、魏無羨の身支度が整い、あとは藍忘機に髪を梳かして貰うだけだと言うのに、藍忘機が戻って来る気配がなく、さすがにこれはおかしいと魏無羨も思い始めた。
「藍湛?」
 静室には部屋が幾つかあるから隅から隅までくまなく探し、そんなところに潜んでいないだろうと思われるつづらの中まで開けて藍忘機が隠れていないか確かめた。
 そんなことをしているうちに顔馴染みではない外弟子の一人が、魏無羨の物と思われる食事を持って静室を訪れる。
 藍湛は?と聞いたのだが、彼は怯えた表情を見せ、何も答えずにそそくさと出て行ってしまった。
「何だ、こりゃ」
 やっぱり今日は朝からどこか奇妙だ。
 とりあえず出された食事を口にしたが、一口含んで吐き出してしまった。
 姑蘇の味付けは魏無羨には甘すぎる。
「なんだよ、藍湛の奴、一体、どこに行ったってんだ?」
 きょろきょろと辺りを見渡してみたが、やはり藍忘機が戻る気配はない。
 それに部屋の中を良く見渡してみたら彼の避塵もないし、何ならいつもは机に置いてある忘機琴まで紛失していた。
「ひょっとして、俺、置いていかれた?」
 考えて見れば、そんな経験始めてだ。
 藍忘機はいつだって魏無羨にちゃんと断ってから出掛けていたし、それに彼ほど嫉妬深い人間もめったにいないから、いつでも魏無羨を目につくところにおきたがった。
 しかし藍忘機が留守なのは確かだ。
 とりあえず味覚は合わずともこれを食べるしかない朝食を腹の中に詰め込む。
 お腹の中に入ってしまえば味付けなんかはどうでも良い話だ。
 全部平らげてもまだ藍忘機は戻らず、仕方がないから魏無羨は食べ終えた膳を持って厨房へと向かう。
 いつもならこれらの仕事は全部藍忘機がしてくれて、彼の美味しい朝ごはんを食べながら、魏無羨の髪を結ってくれるのが朝の始まりなのだが、今日は髪も結ってくれる人がいないから幾分曲がって、おまけにぴょこんとくせ毛まではねまくっていた。
 そして奇妙なことはそれだけでは収まらなかった。
 魏無羨が雲深不知処の敷地内を歩いていると、通りすがる者たちがこそこそとまるで腫れ物を触るみたいに彼を避けて通る。
「これ返すよ。ご馳走様」
と厨房係に膳を返したのだが、ここでもまた魏無羨から膳を受け取った少年はまるで彼が伝染病でも持っているかの様な態度で膳を受け取るとそそくさと中へ消えてしまった。
「一体、今朝はどうなってるんだ??」
 自慢ではないが、これでも結構、姑蘇の面々と打ち解けることが出来たと思っていた。
 それがどうだ。
 藍忘機の姿が見えなくなった途端、皆が魏無羨を腫れ物の様に避ける。
 思追と景儀の二人を見つけたのだが、彼らでさえ、魏無羨が「おーい、思追、景儀」と呼び掛けるとまるで鬼でも見たかのように逃げ出した。
 こうなったら意地でもあの二人を取っ捕まえてこの変異を解明してやると魏無羨も意気込み、彼らを追い始める。
「ちょ、追いかけて来ないでくださいってば、魏先輩!」
「本当です、私たちには構わないでくださいよ!」
「んなこと言ったってお前ら怪しすぎるだろう! なんで俺から逃げるんだ! 助けてやった恩を忘れたのか、阿苑! 藍湛はどこ行った!」
「それは言っちゃ駄目だって宗主から……!」
 追い回すこと小一時間。
 さすがに莫玄羽の少ない金丹と痩せた筋肉しか持たない魏無羨の方が先に体力が尽きてきた。
 ぜえぜえと息を吐き、ほんの少し休んだところで二人を見失い、藍忘機のことを聞きはぐれてしまった魏無羨は止むなく寒室へ向かうことになった。
「あれ???」
 しかし、その寒室はと言うと、何やら慌ただしく、人が動き回っている。
 なあ、と弟子の一人を捕まえて聞いてみたところ、これまた思追たち同様、脱兎の如く逃げ出したから、そうは問屋が卸すかよと首根っこを捕まえてやった。
 どうやら話を聞く限り、誰かが出奔してしまい、それで捜し回っているらしい。
「まさか、沢蕪君が出奔?!」
 藍曦臣ならばもしかしたら江澄のところなのではないかと思ったが、そんな単純ではないらしい。
 消えたのは藍曦臣ではなく、何と藍忘機だとその弟子が言う。
「なんで藍湛が消えるんだよ!」
「私に聞かれても困ります。私たちは宗主の命で含光君を探しているだけなので」
 なんと、今朝は藍湛と追いかけっこの回らしい。
 魏無羨のその時の顔と来たら。もう顎が外れそうな程、大口を開けて、まん丸に見開いた目からは瞳がこぼれそうになっていた。
「藍湛に限ってそんな遊びに興じるものか! 沢蕪君はどこだ!」
「宗主も自ら含光君を探しに行きました」
「だったら俺も藍湛を探しに行く!」
 弟子たちが総出で雲深不知処の中を探しても見つからないのだ。
 おそらく、藍忘機はとっくに雲深不知処を出てしまったのだろう。
 それはそれで困った事態だ。
 魏無羨の修位ではそんなに遠くまで御剣の術は使えない。
 厩舎から「ぐわあぐわあ」と耳障りな声で喚くりんごちゃんをどうにか引っ張り出し、早速、雲深不知処の山を降り始めたのだが、麓の彩衣鎮に着くまでにかなり時間がかかってしまった。
 おまけに不運なことに着いた途端、雨まで降ってきて、哀しい気分になってしまった。
 宿に泊まりたくても普段から魏無羨は藍忘機の錦蓑に頼っているから店に払う銀子さえない。
 仕方なくりんごちゃんと橋の下で雨宿りしていると、見慣れた白い校服姿が目に入り、まさかと思う内に彼に傘を差しだしてくれた。
「藍湛?!」
 彼の姿が視界に飛び込んで来た途端、もう涙がでそうな程、嬉しかったのだが、しかしその男の顔を見て魏無羨の期待も虚しく縮む。
 一見すると藍忘機の様に見える外見なのだが、口許に広がる穏やかな微笑は藍曦臣のものだ。
 でも何故か、違和感が拭えない。
 なんだ、沢蕪君か、と声を掛けてみると、彼は否定せずに、「藍湛は見つかったの?」との返事にも「まだ」と簡潔に答えた。
 やっぱり藍忘機に見えるのだが、それならそうだと言う筈だし、混乱しながらも目の前にいるのは藍曦臣だと解釈する。
「沢蕪君、これまで藍湛が行き先も告げずに、俺のそばを離れたことはないんだ」
「うん」
「何故、藍湛は何も言わずに雲深不知処を出て行ってしまったんだろう。あいつがどこかで困ってるんじゃないかって俺はほれが心配で」
「────」
 いつだって藍忘機は魏無羨のことを真っ先に考えてくれていた。
 自分のことよりも魏無羨の為に奔走し、魏無羨のことばかり気に掛けてもくれていた。
 そう思った途端、目の前が雨の雫でぼやける。
 これは涙なんかじゃないぞ、と鼻を啜り、袖で雨を拭ったが、困ったことに橋の下で雨宿りしてると言うのに彼の顔はびしょ濡れになってしまった。
 そんな魏無羨を見、藍曦臣は非常に彼らしくないことを魏無羨に向かって仕掛けて来た。
 彼の涙を指で拭い、そっと優しく撫でたのだ。
 いや、藍忘機なら躊躇なくするだろうが、藍曦臣が魏無羨の頬に触れたことなど一度もない。
「おまえ、やっぱり、藍湛じゃない?」
「────」
 否定は肯定なのか、それとも聞こえない振りで済ませる気なのか。
 後ろを振り向く彼の背中を捕まえ、魏無羨は藍曦臣の衣服を脱がそうと試みる。
 これが藍曦臣なら絶対に、何があろうと抵抗するし、おまけに「止めなさい」と声を発して止めるはずだ。
「やっぱりお前、藍湛だろう! 俺のこと騙すとは、藍湛も随分やるようになったじゃないか」
「それは私の兄だ」
「へ?」
 見かねた藍忘機が別の傘を差し、橋の上から降りて来て、魏無羨に揉みくちゃにされる藍曦臣を救い出し、ついでに二度と兄に触れないようにと自分の体で魏無羨を覆い隠す。
「え、こっち、沢蕪君なの? 藍湛じゃなくて??」
「ちゃんと忘機は忘機の服を着ているし、私もいつもの恰好じゃないか」
「そうだけど」
 でも魏無羨を見下ろす藍忘機の表情の薄い翳りのある瞳。
 それでいながら、彼への愛情に満ち溢れた藍忘機の目は確かに間違いようもない藍忘機、魏無羨の藍湛だった。
「ははっ、俺が藍湛を間違うわけないじゃないか」
「完全に間違っていたけどね」
「沢蕪君がらしくないことするからだよ! そうじゃなきゃ間違えなかったさ」
 とは言え、無事に藍忘機を見つけ出せた歓びに湧く魏無羨は、藍曦臣の前だなんてお構いなしに彼の体にしがみつく。
 やれやれと肩を竦めた藍曦臣だが、魏無羨への罰は充分かと満足したのか、やっと種明かしをしてくれた。
「本当は忘機にはもっと隠れて貰うつもりだったんだけど、きみのことを見てられずに出て来てしまったようだ。まったくこれでは自浄作用なんて望めない」
「誰が誰を自浄するんだよ。もしかして藍湛の逃避行も嘘だったってこと?」
「魏公子、最初に忘機を騙したのは誰だい?」
「それは───」
 しかし、藍忘機が居ないことがこんなに不安になるなんて魏無羨も思いもしなかった。
 隣に立ち、傘を差し掛ける彼のことをぶん殴ってやっても良かったのだが、彼がここに居てくれるだけで満足で、笑みしか出て来なかった。
「心配したんだぞ、藍湛。俺にこんな想いをさせて、よく平気だったな」
「平気じゃないから出て来ちゃったのかと」
「ん?」
「いま言ったじゃないか。本当は私がきみを宿まで連れて行って、そこできついお小言を与えた後、忘機に引き渡すつもりだった。なのに我慢出来ずに出て来ちゃったから、隠れて貰った意味がない」
 どうやらずぶ濡れで藍忘機を心配する魏無羨を見て、我慢の限界を超えてしまったらしい。
「これに懲りたら、ちゃんと反省するように」
と藍曦臣に諭されたが、魏無羨はもう彼の言葉は聞いていなかった。
「藍湛! 本当に心細かったんだぞ! 雲深不知処じゃ俺は余所者だし、お前がいなけりゃ彩衣鎮まで降りてくるのだって大変だし、何より俺の髪を見ろよ! ほら、ぐしゃぐしゃ! みんなお前のせいだからな!」
 確かに、と藍忘機がくすりと笑う。
 彼が目の前から消えずに、ちゃんとそこに存在していることが嬉しくて、魏無羨はびしょ濡れのまま藍忘機に抱きついた。
「今晩は彩衣鎮に泊まって明日、帰っておいで」
 藍曦臣のそんな勧めに従って、彼らは先に取っていた宿へと向かい、二階の個室でのんびりと湯に浸かる。
 いつもの様に魏無羨の髪を丁寧に梳き、背中を流してくれる藍忘機に感謝の念しか湧いて来ず、彼の姿を認める度に笑いが洩れてしまった。
「藍湛」
「うん」
「ちょっと呼んで見ただけ。なあ、藍湛」
「うん」
 名を呼びんですぐに返事が返ってくることがこんなに嬉しいとは思わなかった。
 ふと盥に描かれた落書きに目が留まる。
「この落書き」
「ん」
 盥に彫られた文字は、随便便喝。
 ちなみにご自由にお飲みくださいだ。
「誰だ、こんなの彫ったのは」
 体を洗うための湯おけに「ご自由にお飲みください」なんて悪趣味な冗談を落書きするのは一人しかいない。
 おまけに「随便」の文字が言い逃れ出来なくさせていた。
 藍忘機が最初に噴き出し、魏無羨もつられて笑ってしまった。
「そう言えば大昔にここの宿に泊まった気がするな」
「きみのことだから忘れていると思っていた」
 覚えているに決まっている。
 確かあの時は、温寧を助けようとした魏無羨と逃げ遅れた温寧と蘇渉の三人を藍忘機は軽々と持ち上げ、御剣の術で空へと浮き上がった。
 襟を掴まないで手を取ってくれと頼んだのに、「他人には触りたくない」と冷たく言い放ったのだ。
 その男が今は魏無羨の身体をお湯で浄めて、温め、髪まで梳いてくれている。
「藍湛、他人には触れないんじゃなかったのか」
「他人には触れない。だがきみは他人じゃない」
「うん。はは、その通りだ。俺と藍湛はもう他人じゃない」
「魏嬰、済まなかった」
「んー?」
「きみを欺き、苦しめた。見ていて私も辛かった」
 そんなことは別に良い。
 面白かったし、と言うと、藍忘機の目が大きく見開かれた。
「面白かった?」
「うん。たまには藍湛を探してあっちこっち奔走するのもはらはらして面白いよ。また隠れんぼして遊ぼうぜ」
「──魏嬰」
 その言葉の後、藍忘機が急に無口になり、おまけに深い溜息を吐いて、魏無羨を盥に残したまま寝てしまった。
 自分の言葉の何が藍忘機の神経を逆撫でしてしまったのかさっぱり分からない。
「藍湛、なあ、寒いよ。身体を拭いてよー」
「きみのことなんてもう知らない。勝手にしたまえ」
「藍湛ーっ」
 いくら呼んでもふてくされてしまった藍忘機は寝台から起き上がって来てくれない。
 仕方がないから濡れた体のまま、彼の上に跨がってめちゃくちゃ嫌がらせてやった。
 魏無羨はこの程度では反省なんかしないのだ。
 藍忘機との根比べはこの先何年続くことか。
 とりあえず、彼らの仲は相変わらず良好で、心変わりなど有り得ない。
 藍忘機のそばにはいつも魏無羨がおり、魏無羨のそばには藍忘機がいる。
 それは変わりなく続いていくに違いない。

終わり
20240227
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