きみがいない

「宗主、藍宗主からの私信です」
 部下が持ってきた親書が入った筒を一瞥し、肘掛けに持たれる姿勢は起こさずに、江澄は「置いておけ」と言っただけで開こうとはしなかった。
 何を今更、どう取り繕うかと怒りが込み上げ、見る気にもなれない。
 あの日、あの死の間際で、金光遥はこう言った。
「あなたのために衣を洗い、あなたのために繕い物をして、あなたのために食事を作りたい」
 江澄が一度でもそんな風に感じたことはあっただろうか。
 正直に自分の心情を語れば、彼は藍曦臣に尽くしたいと思ったことは一度もない。
 彼は雲夢江氏、宗家の嫡男としてこの世に生を受けたのだ。
 人は自分に傅くのが当たり前で、それが例え、姑蘇藍氏宗家だろうと、彼、江晩吟が媚びを売ることなど絶対に有り得ない。
 妓女に産ませた子とは違うのだ。
 そう思ってしまう自分の狭量さ、そして性格の悪さがほとほと嫌になった。
「宗主」
「今度は何だ」
 苛ついている様子の彼に、部下は一瞬、怯みながらも「沢蕪君がお見えです」と小声で伝える。
「藍宗主だと?」
「ええ。宗主にお会いしたいと」
「会わん。帰らせろ」
 書面だけならまだしも、どうして藍曦臣の顔など見ることが出来よう。
 江澄は金光遥の様には藍曦臣を愛せない。
 江澄のことだけを見、江澄だけを愛すると言いながら、金光遥への未練を断ち切れない藍曦臣のことも許せなかった。
 気分転換に剣でも奮うか、と立ち上がると、許可もしていないのに江澄の私室前の庭先に藍曦臣が現れた。
「阿澄」
「──止まれ」
 近付こうとする藍曦臣に向かって、三毒を持ち上げ、近寄るなと制する。
「会わないと伝えた筈だ」
「しかし私の気持ちをきみに伝えなければ」
「あなたの気持ちは良く分かった。これ以上、伝えて貰う必要はない」
「阿澄。阿遥は、兄弟の契りを交わした弟なんだ」
「ほう?」
 江澄の顔には苛立ちが浮かんでいるが、それでも彼が振り返り、藍曦臣を見たことで幾ばくかの安堵を得られたらしい。
 藍曦臣がほっと息を吐き、そしてにこりと笑うのが見えた。
 ますますむしゃくしゃしてくる。
「俺を馬鹿にしているのか。それともまだ馬鹿にしたりないのか。藍曦臣、あなたはもっと高潔な君子だと思っていたが、わざわざ弁明に来るとはな。見苦しいぞ。さっさと去れ」
「きみに誤解されたままでは困る」
「知ったことか!」
 江澄が大声を出したため、控えの弟子たちがわらわらと駆け寄って来た。
 庭先に現れた藍曦臣に驚いた彼らはどうしたものかと宗主の指示を振り仰いだが、江澄が下がれと仕草で示したため、集まった時と同様、またわらわらと去って行った。
 本気で追い出す気はないようだと安心したのか、藍曦臣は庭を横切り、室内にいる江澄の元へとやって来る。
 白檀の香りが近付くごとに、藍曦臣の存在をそこに感じてしまい、江澄の心は不安定に揺らめいてしまった。
「阿澄」
「阿澄と呼ぶな。そう呼んで良いのは、私の身内だけだ」
「呼び名が気に入らないのなら幾らでも直そう。私の話を聞いてくれるね、江宗主」
「何を今更……。あなたの口車になど、乗るのではなかった。自分が恥ずかしくて仕方ない」
「何故。阿遥は阿様だ。きみへの気持ちと、義理の弟の平穏を願う気持ちは、けして比較にはならない」
「では聞くが、何故、俺に手を出した?」
「何故?」
「そうだ」
 手近なところで慰み物を求めたのか。
 だとしたら何故、わざわざ江澄を選んだ。
「俺と、金光遥のどこに共通点がある?」
「きみを愛したことと、阿遥はまったく関係ない」
「知るか。あなたのことも、金光遥のことももうどうでもいい。これ以上、俺をみっともなくさせないでくれ」
「江澄」
「───藍曦臣、そんなに俺が憎いのか? まだ苦しめ足りないのか。そんなに聞きたいなら教えてやるぞ。俺はあんたの裏切りにものすごく傷付いている。金光遥も、あいつに執着するあんたも憎くてたまらない。満足したらさっさと去れ!」
 言うだけ言ったが全然すっきりしなかった。
 彼のことを見たくなくて背中を向けた江澄だが、衣擦れの音がし、藍曦臣が立ち去るのが見える様だった。
 それでも江澄は振り向かず、完全に物音がしなくなるまで待っていたが、耐えきれずに振り返り、そこで目に飛び込んできた光景にはっとさせられた。
 彼の足元で、高潔な士と誉れ高い沢蕪君が床に手を付き、頭を下げて彼に土下座をしていたのだ。
 びっくりしすぎて声も出なかった江澄だが、すぐに正気に戻り、慌てて藍曦臣を立ち上がらせる。
「いいんだ。きみを傷付けてしまった。本当に申し訳ない」
「沢蕪君、俺は何も土下座をしろとは」
「では何をすればきみは私に心を開いてくれる? なんども言うように、きみと阿遥は比べられない。阿遥は私の恩人で、友で、兄弟だ。しかしきみは私がこの人ならばと心に決めた人だぞ。何故、私の気持ちを疑ったりする」
「……だ、だって、あんたが──」
「違うと言った。これまで何度もきみに気持ちを伝えた筈だ。私はきみを愛している。きみ以外の人を愛するつもりはないし、きみ以外の人に私の心を預けるつもりもない」
「けど……っ」
「信じられないなら、このまま夜までここで土下座をするだけだ」
「正気か!」
 むしゃくしゃして髪を掻き毟りたい心境だった。
 こんな卑怯な謝り方があるだろうか。
 目上で、しかも昔から尊敬していた藍曦臣が彼に向かって土下座など────。
 これでは許すも許さないもない。
「立て……っ!」
「嫌です。きみが許してくれるまでここを動きません」
「藍曦臣!」
「阿澄、江晩吟、きみを心から愛している。私を疑わないでくれ」
「────」
 藍曦臣を立たせようとするのだが、彼の方が力がある為、動かすのは容易ではなかった。
 仕方がないから江澄も彼の横に座り、彼の衣を引き、「沢蕪君」と呼び掛ける。
 それでも立ってくれない為、仕方がないから、彼の抹額を掴み、その綾布に口付けた。
 藍氏の抹額は身内の者以外にはけして触らせない。
 父母と実子と、そして妻と認めた者だけだ。
 口付け、そして掴んだ抹額を放り投げる江澄に、藍曦臣はようやく頭を上げると、自身の抹額を彼の手の中に預け、そして再び、江澄の口許へ運んだ。
「……馬鹿っ、無理やり触れさせようとするな!」
「先に口付けたのはきみだ。何度でも口付けてくれ。ついでに私の口にも触れて貰えると嬉しい」
「調子に乗るなよ、藍曦臣。今回だけは大目に見てやるだけだ。まだ許したわけじゃない」
「ならば一晩中、きみの許しを乞うて、きみの為に尽くそう」
「一緒になどいたくないと言っている」
 しかし口ではどう言おうと江澄の手は藍曦臣の抹額を握り、彼の唇が近付くと、素直に瞼を閉じた。
「阿澄、可愛い」
「……黙れ…っ」
「こんなに可愛いきみから、どうして離れられる。きみがこれ程怒るのも、私への愛情が深い故だ。それに応えなければ、私は男を返上しなくてはならない」
「殺すぞ」
 そう言いながらも江澄の舌は藍曦臣の舌に巻き付き、彼の首に腕を回して、更に深い口付けを求めて体の上下を入れ替えて来る。
 二ヶ月もの間、ずっと会わずに、ひたすら藍曦臣を憎んで来たのだ。
 久しぶりに水にありつけた放浪者の様な飢餓感に煽られ、江澄は藍曦臣の唇を求め続けた。
「俺は…、金光遥の様に、あなたに尽くせない──。そんなのは、俺の理性が許さない」
「気にしなくて良い。きみに尽くすのは私の方だ」
「嫌にならないのか、こんな性格悪い奴。俺だったら」
「それはきみが阿澄本人であって、本人だからこそ見えない自分があるからだ。きみが見えないきみ自身を、私は良く知っている。きみは、私が見えない私自身を知りたくはないかい?」
「────」
 髪を撫でつけてくれる藍曦臣の指の優しさに江澄の表情が溶け、飼い主に甘える猫のように彼の鼻梁に自分の額を擦り当てる。
「藍曦臣──、嫌わないでくれ。あなたに去られたら、俺は」
「それは私がきみに求めることだ。阿澄、きみはきみのしたいようにすれば良いだけだ。忘機が魏公子のそのままを愛する様に、私も素直で率直なきみ自身を愛している。怒りたいときは怒れば良いし、腹が立ったら私を殴ればいい」
「藍宗主を殴ったり出来るものか」
 すっかり機嫌を直した江澄の髪を梳き、久々に嗅いだ彼のにおいを藍曦臣は胸に吸い込み、満足げに唇を押し当てる。

 魏無羨が藍曦臣に話した江澄の攻略法とは───

「素直に、謝る時はごまかさずに謝れ。あいつはこっちから頭を下げてしまえば、それ以上は怒れない奴だ」

 確かに魏無羨は江澄の性格を知り尽くしている。
 遠い姑蘇の空の下、魏無羨が突然、クシュンとくしゃみを連発した為、心配した藍曦臣は彼の為に布団を一枚増やして魏無羨の身体に掛けてやった。

番外編 終わり

20240529
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