きみがいない

六.

 一方、その頃───、深傷を負った江澄は、雲深不知処の藍曦臣の元へ逃げ込んでいた。
 平陽姚氏の弟子たちが精錬所での騒ぎを聞きつけ、駆け付けた時にはまだ鬼面の男は江澄と戦っていたが、姚宗主の亡骸を見た平陽姚氏の弟子たちも一斉に剣を構えた為、面倒とばかりに鬼面の男は逃げ去った。
 後には地面に血を流して倒れ伏す姚宗主の亡骸と、腕を負傷した江澄だけが残された。
「これは一体、どう言うことです、江宗主!」
と平陽姚氏の者たちが口々に江澄を批難し、詰め寄る。
 しかし「鬼面をかぶり、正体を隠した藍忘機が殺した」などとどうして説明出来ようか。
 止むなく鬼面の男の正体については隠し、櫟陽常氏と関係が深いとだけ告げ、ひとまず藍曦臣を呼ぶように彼らに伝えたのだ。
 報せを受けた藍曦臣はすぐさま平陽を訪れ、弟子たちを落ち着かせ、江澄を雲深不知処へ連れ帰った。
 腕の傷は浅くはないが、後遺症が残ることはなさそうで、二人ともほっと一安心する。
 しかし問題は鬼面の男の正体と、男が殺した姚宗主の死についての落とし所だった。
「その鬼面の男は確かに忘機だと?」
 江澄の腕を捲り、傷口の手当てをしながら、藍曦臣は彼に問い掛ける。
 こうなると藍啓仁に贋銀の調査を依頼し、彼が雲深不知処を留守にしているのは不幸中の幸いだった。
 あの頑固者の叔父がいれば、犯人探しに躍起になり、藍忘機のことも包み隠さずに話さなければならなくなる。
 実直な人柄なのは間違いないが、余りにも教義を重視するばかりに視野が狭く、融通のきかなさと行ったら藍啓仁の右に出る者はそうそういないぐらいなのだ。
 痛みと心労も相俟って顔色の悪い江澄の怪我を案じながら、藍曦臣は彼の身体をほぐし、疲れを緩和させてくれる。
「魏無羨も、あの男を藍忘機だと認めていた。それにあの太刀筋と剣捌き、あれは姑蘇藍氏のもので間違いないかと思う」
「そうか──。しかし忘機が何故、きみを襲い、姚宗主を──」
「それが分かれば苦労しない」
 それで、魏公子は?と聞かれたが、鬼面の男が立ち去った時、既に魏無羨の姿はそこにはなかった。
「平陽姚氏の者が駆け付けた騒動で見失ってしまった。何度もお前を守りきれないから逃げろと言ったのに。おそらく、藍忘機が連れて行ったのだろう」
「忘機が鬼面の男で、あの子が魏公子を連れ去ったのなら、ひとまず、魏公子の身に心配はないだろう」
「そう思うか? 藍忘機は魏無羨にも攻撃を仕掛けていたぞ」
 そう思う、と言うより、思いたいところだった。
 ただおかしな点は魏無羨が気が付いた点と一緒、江澄もあの手合わせで普段の藍忘機との違和感に気が付いた。
 かなりの苦戦を強いられはしたが、藍忘機ならば、もっと軽々と江澄を下す。
 彼らが手合わせしたことなど数回もないのだが、二人ともそれなりに場数を踏んでいるから、実際に剣を合わせずとも互いの力量ぐらいは量れる。
「藍忘機相手でこんなかすり傷一つなら、俺も良くやった方だ。奴なら俺の腕を一本斬り捨てるぐらい雑作もない筈」
 あの凶悪な剣の達人、薛洋でさえ、藍忘機の避塵に腕を一刀されている。
「それはさすがにきみの謙遜が過ぎるだろう。阿澄の実力もけして忘機に劣ってはいない」
「否。気休めはいい。沢蕪君、あなたも分かっている筈だ。藍忘機が本気で殺しにかかれば、俺だけでなく、あなたでさえあいつの敵にはならない。俺たち二人で何とか五分ってところだろう。まるで酔っ払いか、夢遊病者の動きのようにも見えた」
「夢遊病者?」
 そして、藍曦臣の睫毛が震え、彼の瞼が落ちる。
 弟が心配過ぎて気落ちしたのかと思ったが、どうやら違うらしい。
 ゆっくりと瞼を開くと、藍曦臣の切れ長の目が江澄を捉えた。
「阿澄、静かに声を出さずに、ここにいてくれ。必ず気配を消し、何があってもこの部屋を出ないように」
「あ?」
 しいっと人さし指で江澄の唇を閉じさせ、藍曦臣は寝室に彼を残して隣の部屋へと移動した。
 静かに後ろ手で扉を閉め、部屋には江澄だけが取り残される。
 言われた様に息を殺し、寝台の上で成り行きを見守っていると、藍曦臣の声がやたらと大きく「やあ、忘機」と話し掛けるのが聞こえて来た。
「そのような奇妙な面を何故、つけている?」
 やあ、忘機と大きな声で話したのはおそらく江澄に訪問者が誰で、何の意図かを知らせる為だろう。
 藍忘機の声は聞こえないが、藍曦臣がその他に一言、二言、弟に向けて語る声は隣の部屋にも良く通った。
「私にどこへ来て欲しいと? 櫟陽? そこに何があると言うのだ。もしかして魏公子も一緒なのか?」
───櫟陽。
 やはりそうかと江澄はいつでも飛び出せるように三毒を握り締める。藍忘機が藍曦臣を無理やり連れて行くのならいつでも斬りかかるつもりでいたが、少し待てよ、と彼も考えが改めた。
 藍曦臣がわざわざ江澄に二人の会話を聞かせているのは、藍忘機の言いなりになって動き、江澄に別行動を取らせる心積もりなのだろう。
 行き先さえ分かれば、きっと魏無羨と藍忘機を拐かした犯人を見つけ出すことも出来る筈。
 一言も洩らすまいと一層息を殺し、神経を耳に集中させた。
「三義弟? 阿遥のことか? 阿遥が私を待っていると?」
(金光遥───?)
 どうやら藍曦臣の不安が的中した様だ。
 それ以降、彼らの会話は洩れて来ず、江澄が隣の部屋をこっそり覗いて見ても、兄弟の姿はどこにもなかった。
「姑蘇藍氏! 起床!」
 江澄が大声で寒室の廊下に飛び出てそう叫ぶと、就寝中だった弟子たちがその声に応えて集まった。
 誰も彼も寝起きとは思えないきっちりした身なりで剣を携え、出て来たところはさすがは規律を重んじる姑蘇藍氏と言うところか。
 代表と思しき若者の一人が、「江宗主、何用ですか」と不審げな面持ちで問い掛かけてきた。
「沢蕪君はどちらへ行かれたのです?」
「何故、江宗主が?」
 彼らの質問に一言、
「藍宗主が拐かされた! 犯人は私と魏無羨を狙った鬼面の男だ!」
と答えると、集まった皆の顔が一様に蒼白となった。
 藍忘機に続き、藍曦臣まで───。
 泰然自若を旨とする彼らの顔色もさすがに変わる。
「ことは慎重を期す。姑蘇藍氏、雲夢江氏、それに蘭陵金氏の三つの世家だけで、含光君、藍宗主、それに魏無羨を拐かした犯人を追求しに向かう。早速、蘭陵と雲夢に使者を送れ」
 江澄の命に姑蘇藍氏の面々は拱手で応え、さっきの若者が代表して再び質問を投げかけて来る。
「宗主を拐かした犯人は、含光君を攫った者で間違いないのですか?」
「間違いない。私と魏無羨で捜査中だったが、途中、鬼面の男に襲われ、私は負傷し、魏無羨は行方知れずだ」
「そんな、魏先輩まで」
「思追、どうする? 今晩は藍先生も不在だ」
「みんな、落ち着け! 姑蘇藍氏たる者、いついかなる時も慌て乱れることなかれだ」
 藍思追と言う名は江澄も聞き覚えがあった。
 彼を呼び、江澄はこれからどうするかの指示を事細かに伝える。
「私は鬼面の男を追って、姑蘇から櫟陽へ向かう。緊急を要する為、藍宗主、含光君不在の間、姑蘇藍氏の統率は一時、この江晩吟が指揮を執る。それで不満はないな」
「ありません!」
「江宗主、腕から血が滲んでいますが、手当ては」
「問題ない。確かお前たち二人はうちの甥と親しくしていた顔だな」
「はい、藍思追です!」
「藍景儀です! 沢蕪君、含光君がお戻りになるまで、我々は江宗主に従います」
「では現場の指揮はお前たちに任せる。私は馬での移動が厳しい為、馬車を一台、用意してくれ」
「わかりました」
 姑蘇の小双璧の噂なら江澄の耳にも届いている。
 若手だが、藍忘機の信頼も厚いと評判の彼らに任せても問題ないだろう。
 江澄の指示ですぐさま蘭陵と雲夢に伝令が走り、雲夢江氏から、そして蘭陵金氏からも金凌が一隊を率いて、叔父と合流し、救出隊は櫟陽を目指して突き進んだ。[newpage]七.

 陳情の笛の音に共鳴した陰虎符の瘴気が魏無羨の身体を蝕む。
 何とか自我を持ち堪えているが、一瞬でも気を緩めると陳情と陰虎符の放つ狂気に流されてしまいそうだった。
 震える指で狂ったように笛を鳴り響かせ、魏無羨はその瘴気をすべて自分の身体に呑み込もうと貪欲に吸収し続けた。
 おそらくその様子をじっと静観している金光遥には、彼が陰虎符を制御しようとしているようにしか見えまい。
 実際に魏無羨がやっているのは全く別のことだった。
(あんな死別、二度とごめんだ─────)
 江厭離の死を嘆き、虞紫鳶、江楓眠の死に涙したのは嘘偽りない魏無羨の本心だ。
 陰虎符のせいで、屠戮玄武を倒すときに剣の形を取っていた陰鉄を手に入れてから、魏無羨の人生は逆行し始め、そしてすべてを失った。
 始めから金光遥にこの力を渡してやるつもりなど毛頭ない。
 問題は陳情の霊気が陰虎符の陰気に耐え、そして魏無羨の身体がこの禍々しい陰気をすべて吸収出来るかだ。
 彼の身体は保たないかも知れないが、一度は失った命だ。
 投げ出した筈の命が再びこの世に戻され、そして魏無羨に架せられた咎を払拭し、真犯人を見つけることが出来た。
(藍湛──、お前と言う伴侶を得られただけで俺は満足だ)
 藍忘機との短い日々を思い返し、魏無羨はにやりと不敵に笑って見せる。
 しかし予想通り、一度に吸い取るには、魏無羨の身体が耐えきれず、ぐはっと大きく咳き込み、咳と同時に悪血が彼の口から飛び散った。
「魏無羨?」
「──だ、大丈夫だ。ひ、久々だから……、慣れるまでに少し時間がかかる……。もう少し時間を貰えれば」
「分かった」
 どうやら金光遥は彼を信じきった様で、自ら片方だけの腕を使って魏無羨を助け起こすと、彼を寝かせていた寝台へと運んでくれた。
 丁寧に口元の汚れた血まで拭いてくれる。
「夷陵老祖、制御には、あとどれぐらいかかる」
「三日もあれば──」
 それまでに藍忘機は一度でも魏無羨の元へ帰って来てくれるだろうか。
「藍湛と、会いたい」
「分かった。部屋で休むと良い。戻ったら、大哥をお前の部屋へ向かわせよう」
 誰が大哥だ、と悪態つきたいのに、魏無羨の身体は力が入らず、金光遥に支えられて部屋へと戻った。
「藍湛────」
 お前と、抱き合いたい。
 最期に彼と口付けし、藍忘機の声で、「さすがは魏嬰だ」と褒めて欲しい。
 しかし藍忘機はなかなか帰城出来なかった。
 櫟陽に向かう途中、突然、素直に従っていた藍曦臣に抵抗され、二人で剣で争う最中、遅れてやって来た江澄が追いついたのだ。
「含光君! 江宗主、どうして含光君が沢蕪君と?」
「良いからお前たちは櫟陽へ向かい、先に魏無羨を救出しろ!」
 藍忘機の腕前は姑蘇藍氏の者なら誰でも周知である。
 相手になるとすれば彼らの宗主の藍曦臣と、そして彼らをここに連れて来た江澄だけだった。
 思追は江澄と藍曦臣に拱手し、
「我々は櫟陽へ向かうぞ!」
と皆を先導し、先へ向かう。
「忘機、目を覚ましなさい!」
 藍曦臣が幾ら呼び掛けても無駄だった。
 江澄も彼に加勢し、二人で藍忘機を追い詰める。
「沢蕪君、藍忘機の手から剣を取り上げるぞ!」
「分かった。きみは左へ」
「承知」
 藍曦臣は朔月を手に、そして江澄は三毒を握り締め、藍忘機へと斬りかかろうとした時、櫟陽常氏の屋敷と思しき辺りから不意に禍々しい黒い瘴気が立ち上った。
 キーン、と耳を劈く様な激しい音と、そしてその場にいた誰もが魏無羨が藍忘機を呼ぶ声を聞いた気がした。
「魏無羨?」
「阿澄、あの屋敷は───」
 黒い瘴気が煙の様に立ちこめる場所。
 間違いなく、櫟陽常氏、常恨生の屋敷だった。
「沢蕪君、姑蘇藍氏の弟子たちを先に屋敷へ向かわせてしまった!」
「何だと? 阿澄、忘機は後回しだ」
 そう言い、二人は藍忘機を振り返ったのだが、当の藍忘機は避塵を落とし、まるで耳鳴りがするかの様に耳を塞ぎ、地面に蹲っていた。
「忘機?!」
 藍曦臣が駆け寄ると、藍忘機は必死な形相で何かを思い出そうとある言葉を繰り返し、呟き続ける。
「魏嬰、魏嬰、魏嬰、魏嬰────」
 再び、爆発音が響き、とりあえず藍忘機は藍曦臣に任せることにして、江澄は姑蘇藍氏の弟子たちの応援に向かおうと常恨生の屋敷へ駆け付けた。
 常氏の敷地では既に姑蘇藍氏の白い校服も常氏の黄色の校服が入り混じって戦っていたのだが、その中に蘭陵金氏の姿を見つけ、江澄はいつもの癖でまず金凌の姿を探してしまった。
「金凌! どこにいる! 勝手に行動するな!」
と呼び回ったが、金凌の姿はどこにもいない。
 怪我をして横たわっている蘭陵金氏の弟子を助け起こし、金凌は?と聞くと、その弟子は金凌は既に屋敷の中へと入って行ったと告げた。
 サッと江澄の顔色が青ざめる。
 藍忘機は藍曦臣の元にいたが、中にどんな罠が仕掛けられているかも定かじゃない。
「金凌!」
 紫電を奮い、櫟陽常氏の者を吹き飛ばすと、江澄は腕の痛みなどすっかり忘れ、金凌を探し、常氏の屋敷の中を走り回った。
 そして金凌はと言うと、父から受け継いだ形見の品、[[rb:歳華 > スイホワ]]を握り締め、死んだ筈の内叔父と対面していた。
 金凌の命で飛び掛かった仙子の牙と爪の攻撃で金光遥がかぶっていた面は取れ、半面が焼け爛れた内叔父の素顔が晒し出されている。
 仙子が低く呻っているが、幸いにも魏無羨は陰虎符の陰気を吸い込みすぎて気を失っていた。
「───内叔父、どうして……」
「阿凌、お前を育てたのは誰だ? そんな恩知らずに育つとは、どうやら悪態をつくしか脳がない、知能の低い外叔父に毒されたようだな」
「退いていろ、阿凌!」
 金凌の腕を引き、頭上に掲げた江澄の手から紫色の稲妻が奔り、金光遥向かい、飛んで行く。
 しかし紫電の攻撃は彼が手にした陰虎符によって弾き飛ばされてしまった。
「江宗主、きみと言う人は昔から野蛮で手がつけられなかったが、少しも成長しないな。魏無羨の金丹を奪って、彼より修為が上がったから少しは改心したかと思ったのに」
「────っ!」
「外叔父を馬鹿にするな!」
 金光遥の挑発に乗ってしまいそうな金凌を慌てて江澄は引き戻す。
 やはり彼はまだ若すぎる。
 金光遥が先程嘲笑したように江澄の短気さは相変わらずだが、それでも以前よりは多少感情を抑えることが出来るのだ。
 特に怒りが心頭に達した時ほど、江澄は冷静にその怒りを蓄積することが出来る。
「金光遥、魏無羨に何をした」
「何も。きみが彼にしたことよりはマシだと思うよ」
「黙れ! 言っておくがお前の手下の鬼面の男なら、既に沢蕪君が捕らえたぞ」
「二義哥が? 曦臣兄上がここに来ているだと?」
「阿遥」
 彼の問いに応える様に、藍忘機を肩に背負った藍曦臣が現れた。
 信じられない様に金光遥を見、そして死んだように動かない魏無羨を見て、深い溜息を洩らす。
「阿遥、きみはまた同じ過ちを犯すつもりなのか?」
「いいえ、曦臣兄上。私は同じ過ちなど犯さない。二度と失敗しない。あなたを迎えに来たんだ、二義哥」
 そんな甘言を囁かれても藍忘機をあんな目に合わせ、目の前に魏無羨が倒れているこの状況で藍曦臣が彼を信じられるはずがない。
「阿遥、忘機を洗脳し、あの子が一番大切にしている魏公子まで手をかけて、私がきみを許せると思うか?」
「沢蕪君、あなたの手で再び送ってやれ」
 一歩身を引いた江澄に、藍曦臣は何も言い返せず、ひとまず藍忘機の身体を彼に預ける。
 藍曦臣の朔月は彼の手の中にあるが、その剣先は床に下げられたままで金光遥に向けられてはいなかった。 
「出来ないのか? ならばあなたの助力は不要。今すぐ藍忘機を連れて姑蘇へ帰れ。後は俺が」
「阿澄、まずは彼と話をさせてくれ。何かの間違いなんだ」
「間違いでこいつは魏無羨を罪を被せ、間違いで金子軒を殺し、間違いで俺の姉の命まで奪ったのか! あなたはいつもそうだ! 優しく、義理堅く、温厚で、誰も傷付けない君子のつもりだろうが、あなたの優柔不断さがこいつを増長させたんだぞ!」
「だとしても、彼が私に見せてくれた真心は偽物ではなかった」
「それがあなたの答えなら好きにするんだな。俺は俺の正義で判断する。仙子、そいつを噛み殺せ!」
「阿澄!」
「黙っていろ、藍曦臣! 邪魔するならあなたと言えど、斬る ぞ!」
 金凌の足元でグルルと呻っていた仙子は江澄の一声で跳躍し、金光遥へと飛び掛かったが、彼が陰虎符を翳して見せるとキャンキャンと哀れそうな声を上げ、再び後ろへ戻ってしまった。
 しかし金光遥は翳した陰虎符の異変に気を取られ、金凌が自分に向け、剣を構えていることにまったく気が付いていなかった。
「おかしい、霊犬程度、陰虎符の力なら殺せる筈なのに……、どうして……」
「内叔父、金家の恥を晒したあなたの罪は、金家の宗主であるこの金如蘭が裁く!」
「阿凌!」
「止めなさい!」
 金凌が金光遥に向かい、剣を構えて覆い被さるのと、江澄、藍曦臣が止めに入ったのはほぼ同時だった。
 藍曦臣の朔月の刀身に紫電がぐるぐると巻き付き、赤紫色の光りが二人の間でピンと張り巡らされる。
 そして金凌の歳華はと言うと、以前藍曦臣が刺した場所、金光遥の左胸にしっかりと突き刺さっていた。
「阿遥!!」
 倒れゆく金光遥に藍曦臣が駆け寄り、金凌の傍には江澄が立ち、呆然とする彼を背後から支える。
 明確な殺意を持って命を奪いに行ったとは言え、幼い金凌には衝撃が大きいようだ。
 江澄の胸に身体を預け、わなわなと血塗れの手を震わせている。
「外叔父、わ…私は、何も間違っていないよね……。蘭陵金氏が受けた屈辱を晴らす為にも、わ、私が、宗主の私がやらねばならなかったんだ」
「そうだ、阿凌。お前は何も間違っていない。あいつはお前の叔父だが、お前の両親とお前の祖父、他の叔父たちを殺した元凶だ。諸悪の根源だ」
 阿遥、と金光遥を助け起こす藍曦臣を睨み、江澄は金凌をしっかり立たせると、倒れている魏無羨の傍へと駆け寄った。
「魏無羨!」
「外叔父、魏無羨は死んだの?」
「いや、生きてる。しかし脈がかなり弱くなっている。おい、藍忘機、さっさと起きろ!」
 揺すって見ても藍忘機が目覚めない為、仕方なく、江澄は魏無羨へ気を送り続ける。
 その間も藍曦臣は金光遥を抱き上げ、彼の傷口から溢れる血を止めようと必死に藻搔いていた。
「阿遥、今度こそ改めるんだ! きみは…、私の知るきみは、けして悪人ではない」
「曦臣兄上……、こんなになってまでまだ私を信じるのですか?」
「信じる……! 一度信じた人間は疑わない。それが私の信条だ」
「あなたって人は───」
 その先の彼の言葉は溢れて来る鮮血で明瞭とは聞き取れなかった。
 床に置かれた朔月に手を伸ばし、金光遥はそれを藍曦臣の手に握らせる。
「曦臣兄上、今度こそ、私の執着を絶って下さい……、二度と、蘇らずに済むように──。二度と、父を…恨まずに済むように───」
「阿遥、生きて罪を償うことも出来るんだ。楽に死ぬことだけが贖罪ではないぞ」
「この上、生き恥を晒せと? 自分の甥に、刺されて──、それでも生きろと……?」
 藍曦臣の励ましに金光遥は首を振り、そして魏無羨の元を離れた江澄も、朔月を握る藍曦臣の手に自分の手を重ね、「殺せ」と低く言い放った。
「沢蕪君、生きている以上、罪の意識はけして薄れることなく、心を蝕んでいくものだ。魏無羨に恩義がある俺もまた、終わりのない罪悪感に悩まされ、酒でごまかそうにもごまかし切れず、どうにもならずに叫びたくなることもある。しかし俺は自分で自分の経脈を閉じることも出来ん。魏無羨に与えられ、生かされた身だからな。惨めでもその惨めさを背負って生きねばならん」
「阿澄……」
「[[rb:金光遥 > こいつ]]の恨みも俺と同じだ。あなたが幾ら改心を呼び掛けても、金光遥の心に産み付けられた恨みや妬みはどれだけ時間をかけようとけして拭い去ることは出来ない。本人が望むと望まざると、記憶がある限り、心が蝕まれ、病んで行く。そんな奴には、死が慰めになる」
「───江晩吟の言…う、とおりです。次に生まれ変わる時が来たら、その時はきっと……あなたのために……繕い物をして、あなたの服を、洗濯して……あな…の…めに」
「阿遥!」
 血が溢れて喋ることも出来なくなった金光遥を抱き、藍曦臣は一頻り迷っていたが、結局、彼の胸を突き、今度こそ完全に心臓を止めてやった。
 事切れた金光遥の手が朔月から離れ、ごとっと堅い骨の音を立てて、床へと落ちる。
 こうして含光君は雲深不知処に無事戻り、偽物の銀の件についても解決し、回収が始まった。
 しかし魏無羨だけは一向に目を覚ます気配がない。
 藍忘機の記憶は一時的なもので、金光遥の呪縛が解けるとすぐに元通りとなったが、魏無羨だけは陰虎符の陰気を吸い込みすぎて目覚めることが困難だった。


「曦臣兄上」
「懐桑」
 姚宗主殺しの犯人についての追求が始まった。
 雲深不知処に集まった各世家の宗主たちは、犯人は魏無羨だと言い張ったが、現場にいた江澄が「鬼面の男が殺した」と一貫して言い続けた為、今はその鬼面の男を総力を挙げて捜索中だった。
「仙督はまだ閉関中なのですか?」
「うん。魏公子が目覚めないからね。忘機は自分のせいだと穀断ちをしている」
「そんな……」
 聶懐桑は顔色を曇らせたが、問題は魏無羨と藍忘機の間だけではないのだ。
 鬼面の男の捜索に雲夢江氏も協力を申し出ているがあの事件以来、宗主の江澄は雲深不知処に一切、近付かない。
 彼は藍曦臣がこの期に及んでまだ金光遥に同情を示したことが許せないでいるのだ。
 こうなると江澄はなかなか手がつけられない。
 もう少し時間を置いて彼の気が鎮まるのを待つしかなかった。
 そして静室では閉関中の藍忘機が魏無羨の看病をしながら彼が目を覚ますのをじっと待っていた。
「魏嬰、済まなかった」
と呼び掛けると、どうしても涙が滲んで来てしまう。
 陰虎符の陰気を吸い尽くした魏無羨の衰弱は酷く、藍忘機がどれ程彼に仙力を送ろうとまるで乾いた大地に一滴の水が染み込む様に、あっという間に名残も残さずに消えてしまうようだった。

 藍湛、さすがは魏嬰だって、言ってくれよ

 そう魏無羨が彼に語り掛けた様な気がして、あの時、藍忘機の頭にそれまでの記憶が怒濤の様に流れ込んで来た。
 弓技大会での出会いで、彼に抹額を掴まれ、この世の終わりの様に感じた藍忘機は青くなって大会から逃げ出してしまったことや、その彼と夜の雲深不知処の塀の上で再会し、剣を競い合い、魏無羨の天子笑を割ってしまった出来事など。
 どれもこれも失笑したくなる様な思い出ばかりだ。
 そしてそれ以外はと言えば、太陽の様に明るかった魏無羨の顔から笑顔が消え、陰気になり、何かに取り憑かれた様に藍忘機に対しても素っ気なく、攻撃的になった。

 皆が輝かしい道を進もうとも、自分は辛く、険しい道を選ぶ。

 そう歌い、笑い飛ばしていた魏無羨の姿が忘れられない。

「魏嬰、さすがは魏嬰だ」

 そう呟き、魏無羨の手を握った藍忘機の瞳から涙がこぼれ、魏無羨の頬を濡らして行く。

「藍湛……、お前こそ、さすがは…、藍湛だ…」
「魏嬰……?」

「俺を守って……、お前が矢を受けてくれたおかげで…。お前が金光遥に捕まっちまった。ごめんよ、藍湛」
 閉じていた魏無羨の唇が開き、聞きたくてたまらなかった彼の声が藍忘機の耳に届く。
 何も言えず、何も答えられず、藍忘機は魏無羨の身体を抱き締めた。
「二度ときみを手放したくない」
「藍湛、俺もだ」
 それまでまったく明かりの灯らなかった静室にその夜から蠟燭の火が揺らめく様になったが、魏無羨と藍忘機はその後もしばらく姿は現さなかった。
 魏無羨の身体にこもった陰気がなかなか取れず、しばらく休養が必要だったからだ。
 藍忘機の琴と、藍曦臣の簫の音色が嫋々と静室から流れて水の音に消されて行く。
 月日が流れ、それから二ヶ月は経った後。
 鬼面の男の捜索は打ち切りとなり、姚宗主の本格的な葬儀が修真界全体で執り行われた。

「藍湛、お前のせいじゃないんだ。余り気にするなよ」
 平陽に向かう途中の馬車の中、藍忘機は魏無羨と兄の二人に慰められたが、どちらの言葉も藍忘機の心を晴れやかにすることは出来なかった。
 藍忘機の性格ならば、綺麗さっぱり忘れてしまえと言う方が無理だろう。
 操られていたとは言え、殺してしまったのは彼の避塵だ。
 藍忘機は叔父の前で頭を付け、罪を償うと贖罪を求め、陳謝したが、この時ばかりは藍啓仁と魏無羨、そして藍曦臣の意見が一致した。
 姚宗主が本当にまっさらの無実ならともかく、彼は彼で金光遥の悪事に加担していたのだ。
 平陽姚氏の蔵からは使われていない偽物の銀が大量に発見され、彼を守銭奴だと罵る声も少なくなかった。
「私のことはともかく、油断から兄長にもご迷惑をかけることに……」
「迷惑などと思うものか。お前は私の弟だ。幾つになろうと兄が弟の面倒をみるのは当然のこと。その逆は恥と言えるが、弟は兄に寄りかかって生きればそれで良い」
「さすがは沢蕪君! ってことで、藍湛ももう気にするなよ」
「魏公子、きみにはもう少し気に病んで欲しいのだけど」
「俺? なんで俺が。ちゃんと陰虎符の始末もつけたしさ」
「私と忘機で陰気に囚われたきみの修為を修復した。少しは感謝しなさい」
「してるってば。恩着せがましいなぁ。それって何条かの家訓に反しないの? あ、そうだ。江澄が拗ねたままなんだっけ」
「うん。少し時間が経てば機嫌を直してくれるかと思ったが、今回はなかなか根が深い」
 溜息混じりの兄の憂いを秘めた顔に、藍忘機の眉がますます悄げて、済まなそうに下がってしまう。
 そんな彼は見たくないから、魏無羨は大丈夫だと元気づけてやった。
「沢蕪君もまだまだ江澄の理解が足りないな」
「どうだろう。これでも結構、分かってきたつもりなのに」
「いやいや、江澄はな」
 こそこそ、と耳打ちすると曇っていた藍曦臣の顔が少し明るくなった。
 平陽に着き、馬車から降りた藍忘機は、魏無羨が藍曦臣に何を言ったのか聞きたがったが、魏無羨は「守秘義務だ」と言って教えてくれなかった。
「きみと私の間で隠し事はなしだと言ったのはきみだ」
「言ったけど、これは沢蕪君と江澄の私事だぞ。弟のお前にだって言えないこともある」
 ぷうっと頬を膨らます藍忘機に魏無羨は葬儀の場にはにつかわしくない晴れやかな笑い声で青空を振り仰ぐ。
「絶対に言うものか。俺と藍湛が喧嘩したときに使う奥の手なんだから。お前に知られたら意味ないだろ」
「きみと私では喧嘩になどならない」
「これからすることもあるんじゃないか。何しろ、俺たちの人生はまだまだ長いんだし、爺様になったら、お互い気持ちも離れるかも知れないだろ」
「否。」
「否なの? だったら、ずっと俺はお前と一緒??」
「そうだ」
 魏無羨のこの言い草にさすがの藍忘機も噴き出し、笑いを堪えるのに必死だった。
「この葬儀が済んだらさ、沢蕪君とそれと江澄とそれと金凌も誘ってさ、金光遥の墓にも線香を立ててやろう」
「────」
「罪人だった俺が疑いを晴らして、こうしてお前と共にいられる様に、[[rb:金光遥 > あいつ]]の罪もいつかは許されるべきだ」
「魏嬰、きみは優しい」
「そっか?」
「うん。さすがは魏嬰だ。私が誰より愛している至高の宝だ」
「それは言い過ぎだよ、藍湛」
 からからと笑う魏無羨の声に、藍忘機の口元にも笑みが広がる。
 ころころと転がる小石がまるで彼らの墓参りを喜ぶように跳ねて他の石と混ざり合って消えて行った。

 いつか、きっと───
 あなたの衣服を洗い、あなたのために食事を作って
 あなたの恩に報います
 きっと、必ず───

 木々のざわめきがそんな風に語っている気がした。


終わり
20240528
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