きみがいない

五.

 藍忘機を拐かし、贋銀作りに金光遥が関わっていることは分かったが、目的はいまだ掴めない。
 藍忘機に添い寝して貰い、うとうとと寝入ってしまった魏無羨だが、起きた時には隣にいた筈の藍忘機が見当たらず、扉を開けて部屋へと入ってきた彼を見、心底ほっとしてしまった。
 どうやら数日、彼が不在だったせいで神経が過敏になっているらしい。
 自分らしくないな、と思いながらも、今の魏無羨にとって寄り添うべき相手は彼しかいないと改めてその冷たい表情を見て思う。
「藍湛」
と呼び掛けても目線さえくれないが、「大哥」と呼び直すと白い面がこちらを向いた。
 藍忘機、藍忘機と心の中で呆れ果ててしまう。
「なあ、藍湛。どうしてお前が金光遥の兄貴なんだよ」
「三義弟が、そう言った」
「少しは疑えよ。お前の方が年下じゃないか」
 しかし世の中には年下を兄貴と呼ぶこともあるし、藍忘機が金光遥の兄であっても何ら不思議はないのだが、しかし藍忘機の実の兄が二義哥なのに、藍忘機が長兄なんて絶対におかしいだろうと魏無羨は心の中で突っ込みまくる。
 やはり金光遥の精神状態は普通ではないようだ。
 聶明玦、そして藍曦臣と義兄弟だった頃の思い出は彼にとって至上の時間だったのだろう。
 聶明玦には最後まで疑われていたようだが、それさえなければ金光遥は彼のことも頼れる兄として慕っていたに違いない。
「それにしても──、右手に藍湛、左手に沢蕪君なんて、それこそ両手に花じゃないか。欲張りすぎだろう。なあ、藍湛。どう思うよ」
 魏無羨の独り言に付き合ってくれる相手はいない。
 むしろ彼の方がはたから見れば頭がおかしくなったように見えるかも知れない。
 きっと観音堂からの生還は彼の身体に相当の負担となったのだろう。
 深傷を負い、すべてをなくし、信頼していた藍曦臣に殺されかけた。
 精神に異常を来したまともではない状態だったからこそ、身体的な苦痛をものともせず、逃げ延び、しぶとく生還出来たのだと想像がつく。その辺りは自身も一度死んだ経験のある魏無羨だからこそ、金光遥の苦しみ、生への執着がどれ程のものかが明確に分かり、毛穴が揃ってぞわっと引き締まる気持ちがした。
 魏無羨は死を選んだ時、何の執着も抱かなかった。
 執着出来る程、この世に未練も後悔も、そして希望もまったく残っていなかった。
 崖の上から彼を見送ってくれた藍忘機、そして江澄の二人に、笑顔でありがとう、そして永遠にさようならと手を振り、すべてに幕を降ろして退場したい心境だったとしか言えない。
 そんな意気込みで飛び込んだのに、わざわざ生き返らされて、そうして今は自分の全部を捧げた相手、藍忘機に閉じ込められている。
 やれやれ、と自問自答に終わりを告げ、溜息を吐いた。
「あ、そうだ、藍哥哥」
「───」
「何だよ、俺が兄ちゃんと呼んじゃいけないってのか?」
 魏無羨に藍哥哥と呼ばれた藍忘機は不思議そうな、そして幾分、嫌悪が入り混じった顔で眉を顰める。
 これはこれで悪くない。
 昔の藍湛が戻って来たみたいで新鮮な喜びがあった。
「どうした藍哥哥。そんなに俺のことが大嫌いか?」
「───どうでも良い」
「あはは、お前、俺が春画見せた時、ものすごい顔で失せろっ
て言ったよな。でもそんな時でも藍湛ってば、俺のことひそかに想ってて、実は俺とあれやこれやして見たかったんだろ?」
「────」
「それもどうでも良いか。藍湛、それはそれで新しい遊びが出来そうだ。今度は俺がお前の純潔を奪うか? 残念ながら、俺はお前に抱かれる方が好きらしいけど。藍湛がどうしてもって言うなら、立場を変えてやってもいいぜ」
 自分の打たれ強さに称賛の拍手をあげたいぐらいだった。
 本当に魏無羨と言う男は、どんな苦境に立たされようと、どれだけ強く踏み潰されようと、しぶとく起き上がり、笑い飛ばせる。
「藍、にいちゃん♪」
と魏無羨が藍忘機の袖を引き、彼の膝の上に乗ろうとすると、すぐさま上から下ろされてしまった。
 それでもめげずに椅子に座る藍忘機の太腿に跨がり、彼の股間に自分の尻を押し当てる。
 こうして藍忘機を揶揄い、その気になった彼に押し倒され、嫌と意宇ほど責められた夜は数え切れない程ある。
 藍忘機は忘れていても、彼の身体は忘れていないようで、無意識に藍忘機の腕が魏無羨の腰を抱き、堅くなった逸物が魏無羨の尻に入りたそうに彼の肉を押し上げていた。
「お前の兄になった覚えはない」
「そりゃお前の記憶は欠如しているんだから、俺と道呂になった記憶だってないだろうさ。なあ、藍哥哥ぁ、俺たち何度も愛し合って、その度に俺が藍哥哥、もう許してえって泣いて頼んだだろ?」
「何の話だ」
「あはは、なあ、藍湛。お前ってば表情に出なくてもすぐに耳とか首が赤くなるのは変わらないな。どうやらただのお人形かと思ったら、ちゃんと喋れるし、思考もある。おまけに性欲も」
「やめろ」
「安心しろ。さすがにここじゃ俺もやりたくないさ。いつまた金光遥が入ってくるか分からないしな。ただでなんか見せてやるもんか」
 しかし藍忘機に意志があるとすると、事後処理が少し厄介なことになりそうだ。
 姚宗主を殺した時も、明確な殺意があったことになる。
 それに江澄も。
「なあ、藍湛。お前、江澄は殺していないよな?」
 魏無羨の問いに藍忘機は再び眉を顰め、「江……?」と呟き、続けて「誰だ」と問うた。
「江澄だ。俺を攫う前、お前と闘っていた奴だよ。紫色の、派手な衣で着飾った、陰険そうな男だよ。実際、陰険なんだけどな」
 江澄が聞いたら怒りで魏無羨を百回は鞭打ちそうだが、いつでもふざけてしまうのが魏無羨なのだから仕方ない。
「殺してない」
「本当か?!」
「邪魔が入った。人が詰めかけたから、騒ぎになる前に逃げた。ただ、あいつの腕は斬っておいた」
「お前ね、江澄を殺さなかったのは目一杯、褒めてやるけど、腕を斬っただと? ってか、沢蕪君だってお前を救えないぞ。江澄がどんだけ執念深いか、お前だって良く知ってるだろう」
「知らん」
「らんじゃあん!」
 江澄のことだ。腕を失えば、きっと一生、恨みを忘れないだろう。
 間に立たされる藍曦臣の苦労を思うと笑うに笑えないどころか、おそらくあの二人の関係もこれで終わりだ。
 そのへんは追々考えるとして、まずは藍忘機を連れ、ここをどう脱出するか。
 江澄の生存がはっきりして、俄然、元気が湧いて来た。
「そうだ、藍哥哥。お前、俺に何か用があって来たんじゃないのか?」
「三義弟が呼んでいる。きみが起きたら連れて来いと」
「あー、はいはい、またあいつのお呼び出しか。まあ、いい。奴の意図も探る必要があるしな。なあ、藍哥哥。どうしてお前は平陽のあの精錬所にいたんだ? 何故、姚宗主を殺した?」
「あの男が余計なことを話すかも知れないと言われた」
「三義弟とやらにか?」
「そうだ」
 どうやら藍忘機の思考は、金光遥の言いなりとなっているようだ。魏無羨が知る彼は意志が強固で洗脳に適さない男の筈だが。
(何しろ、頭の堅い姑蘇藍氏の中でも、藍湛と藍先生は群を抜く頭の堅さだぞ。俺だって藍湛を洗脳することなんて出来そうにないのに、金光遥の奴はどうやった?)
 考え得ることは藍忘機の記憶が曖昧な点だ。
 魏無羨のことを覚えていない。
 江澄のことも名前すら覚えていないようだ。
 何より金光遥を自分の三義弟だと信じ、まったく疑っていない。
「なあ、藍哥哥」
「無駄口を叩かず、早く歩け」
「無駄口を叩くのが俺の趣味なんだよ。藍湛、お前さ、沢蕪君のことは知っているのか?」
「知っている」
「へえ。お前とあの人はどんな関係?」
「二義弟だ」
「いや、お前の兄貴だぞ」
「藍曦臣は義弟だ」
「あはは」
 これを当の藍曦臣が聞いたらどんな顔をするだろう。
 よりにもよって弟に義弟呼ばわりされるなんて。
 藍曦臣の戸惑い顔が浮かんだがそれこそ笑えない。
「なるほど良く分かったよ。なあ、藍哥哥ぁ、俺、歩くの疲れちゃった。抱っこ」
「────」
「なんだよ、抱っこしてくれないの、藍湛? いつもは俺が恥ずかしいから抱っこなんて止めろよって言っても、勝手に抱っこするくせに」
 藍忘機が魏無羨を無視してさっさと歩き出した為、勝手に彼の背中によじ登る。
「止めろ」
「藍湛、ひょっとして俺じゃ勃たなくなったのか? じゃあ、口で試しても良いぜ。いつもお前のそれ、舐めてやってただろう。どんな味か教えてやろうか?」
 最後のそれは藍忘機の耳許でこっそりと告げたのだが、藍忘機は顔を茹で蛸みたいに真っ赤にして、声もなく、魏無羨を振り払う。
 本当に昔の藍忘機が戻って来たみたいだ。
 けたけた笑う魏無羨の背後から、「お前と言う人間は、本当に相変わらずだな」と呆れた声が聞こえて来る。
 どうやら待ちくたびれた金光遥がお迎えに来てくれたようだ。
 いまだに仮面をつけたまま、素顔を晒さない彼にとある一室へと案内される。
「よし、じゃあ、真面目な話をしよう」
「そう願うよ。かけたまえ」
 魏無羨が席に着くのを待ち、仮面をかぶったままの金光遥はとんとんと指で円卓を神経質そうに叩いていた。
 白に薄い水色と金の紋様が入った西洋式の円卓で、その趣きは蘭陵金氏の調度品を彷彿とさせた。
 斂芳尊と呼ばれるのは好まないが、櫟陽常氏を名乗りながら、その心はいまだに蘭陵金氏宗主の座にあるようだ。
 以前の彼はいつも泰然とし、口元には自然な笑みを浮かべていた。
 ここに居る彼はその残骸を掻き集めた集合物だ。
「斂芳尊、その仮面の下の素顔を見せてくれないか? 本当にあんたなのか確認したい」
「あいにく、人に見せられる顔ではなくてね。お前の豊かな想像力で補えば良い」
「かつてのあんたをか」
「そうだ。お前が玄羽の顔で、魏無羨を名乗るようにな」
 それはそうだろう。
 あの崩落で生き残っただけでも奇跡だ。
 腕は藍忘機に斬られたとは言え、他の部位は無事で生還出来たとも思えない。
「何故、櫟陽常氏宗主を名乗った?」
 魏無羨の問いに金光遥が答える。
「所有している土地があった。そして協力者がいたからな」
 その協力者と言うのがどうやら平陽姚氏の姚宗主らしい。
 金光遥の悪事が知れ渡った時にはあれ程殺すべきだなどと皆を扇動していたくせに、彼の小者振りはまるで難病並みに治療不可のようだ。
 金光遥もそれには同意の様で、「あんなくだらない小者など、微塵も期待していないけどね」とあっさり切り捨てる。
 藍忘機に彼を殺させたのも彼の指示だろう。
「建設的な話をしよう。魏無羨、夷陵老祖。もしも私の手許に、お前が作った陰虎符がまだあると言ったら信じるか?」
 陰虎符──?
 魏無羨の眉が顰められる。
「あんたの目的はそれか?」
「否。陰虎符はあくまで目的達成の為の便利な道具に過ぎない。真の目的はもっと別のこと、私には大きな目標がある」
 つまりまた陰虎符を使い、たくさんの人を殺めて、大陸を掌握しようと言う算段だろうか。そのために贋銀を作り、資金を集め、着々と準備をしていた──?
 しかし陰虎符があったとしても金光遥の悪行は知れ渡っている。その上に陰虎符の恐怖はまだ皆の記憶に新しい。
 たった一つの法器の欠片を奪い合って何千人も死んだのだ。
 今更その陰虎符をちらつかせたとしても無駄に危機感を煽り、一斉攻撃で潰される可能性は考えなかったのだろうか。
「それは勿論、考えた。だからわざと蘭陵や清河、それに雲夢で贋の銀を使わせ、お前たちの疑いを蘭陵金氏、そして平陽姚氏に向けさせる様、仕向けたんだ」
「どう言う意味だ」
「きみたちは馬鹿じゃない。特にきみなら私と櫟陽常氏の関係に気が付くと思っていた。そうしたら」
 どんぴしゃり。
 藍忘機と魏無羨が金光遥の思惑通りに二人だけで櫟陽の空に現れた。
 彼らを地上から弓で射かけ、多分、本当は魏無羨のみを攫うつもりだったのだが、たまたま、藍忘機だけが引っかかってしまったのだろう。
「狙わせたのはきみだったのに、いち早く忘機が飛来する弓矢に気が付いてしまった。しかし御剣の術で飛行中な上、きみを抱いていたから忘機も自分の身体できみを庇うしかなかったんだろう。落ちていくきみに向かって霊力を放ち、きみは遠くへ飛ばされた。しかしその誤算のおかげで便利な宝剣も手に入れられた」
「どうやって藍湛の意識を封じた?」
「陰虎符さ。藍忘機は落ちた時の衝撃で一時的に記憶を飛ばしていたから簡単だった。そしてこうしてお前も私の手に落ちた。神が私に力添えをしてくれているのだろう」
 何ともはや、呆れ果てる程、壮大な計画だ。
 魏無羨と藍忘機、そして陰虎符を使って世界征服でも企んでいるのだろうか。
「言っておくが、俺はもう陰虎符に触れる気もないぞ。あんな物は作るべきじゃなかった」
「いや、鬼才を持つお前だからこそ、陰鉄から陰虎符を精錬することが出来たんだ。魏無羨、私が何度試みようと陰虎符を制御することは出来なかった。本来の力も出し切れない。お前の協力が必要だ」
「俺を攫った目的はそれか」
「否。言った筈だ。陰虎符はあくまで目的遂行の為に必要な道具だ。お前とそこの大哥、それに曦臣兄上がいれば陰虎符に頼らずとも新天地で私の帝国を作ることは可能だろう」
「新天地?」
「長話が過ぎたようだ。その計画についてはおいおい話すとしよう。まずはお前が私に協力するか、否かだ」
「するわけないだろ」
 あっさりと断り、小指で耳の穴を穿る魏無羨の手を、金光遥の手が勢いよく払い除ける。
「なあ、斂芳尊」
「その呼び名は止めろ。協力するか、しないのか」
「しつこいなあ。そんなに沢蕪君に何度も殺されたいのか。藍湛に人殺しなんてさせやがって」
「あの人は私と共に死ぬことを選んでくれた」
 それはお前の幻想だと突き放したかったが、確かに金光遥が瓦礫の下に埋まりそうな時、藍曦臣は目を瞑り、彼と死ぬことを受け入れた。
 結局は彼を殺すことが偲びなかった金光遥の手で追いやられたが、あの後、閉関してしまい、食事も睡眠もろくに取れない日々を藍曦臣が送っていたのも事実だ。
「あの人を自分の手に掛けるのが偲びなくて、私は自分の手で曦臣兄上を突き放した。魏公子、お前にこの違いが分かるか? 私は自分の妻と自分の子も手にかけた男だ。それだけではなく父も殺し、義理の兄弟も殺し、明玦兄上もこの手で葬った。何の後悔も罪悪感もなくね。でもあの人を殺すことだけは出来なかった」
「まあ、それは美談だと思うけどさ」
「美談なんてものじゃない。あの人だけが私を認めてくれた。私の罪を知っても受け入れ、それでも私と共に逝こうとしてくれた。絶望しかない、何の意味もない私の人生の中で、唯一、あの人と過ごした時間だけが穢れのない時間だった。藍忘機にその絆を感じたお前なら分かるのではないか」
「分かるけど、俺なら、藍湛が罪を犯しそうなら全力で止める。藍湛も俺を全力で止めようとしていた。お前は沢蕪君にはなれないし、沢蕪君の相手としても相応しくないと思うぞ」
「それでも構わない。あの人が私の傍にいてくれることが重要だ。後のことはおいおい考える」
「問題の先延ばしばかりだな。それで新天地とは、どこへ行って、何をするつもりだ。陰虎符を何に使う」
「東瀛に私の帝国を作る。彼の地は未成熟な野蛮人どもが戦に明け暮れる未開の地だ。お前にも相応しい役職を与えよう。藍忘機と共に好きな場所で好きに隠棲しても良い。充分な金も約束しよう」
 別に魏無羨はこれまでも雲深不知処で藍忘機と幸せに暮らしていたし、新天地なんて必要ない。
 江厭離や江楓眠が眠る雲夢の地にまだまだ未練が残る。
 はん、と鼻で嗤った魏無羨の嘲笑を返事と見たのか、金光遥は更に彼に詰め寄って来た。
 薬の臭いが鼻をつく。
 どうやら彼の身体はあの深傷からまだ完全に完治はしていないようだ。
「しかし、藍忘機は? 彼にかけた呪を解くことは出来ないぞ」
「俺に不可能があると思うか?」
「本当に相変わらずだ、夷陵老祖。お前と言う男は不必要に敵を作り、いつも己が英雄になろうとする。学習しないな」
 その通り。
 魏無羨を悪事に加担させようとするのがそもそもの間違いだ。
 あの当時だってはたから見れば悪魔だったとしても、魏無羨は全力で無害な人たちを守っただけだ。
 その彼が人殺しの為の道具なんて作る筈がない。
「なあ、斂芳尊」
「その呼び方は止めろと言った」
「そんなに俺に幻滅したなら、あんたと江澄で魏無羨被害者の会でも作ったらどうだ?」
「江晩吟?」
「そうだ。何しろあいつとは俺が四歳で出会った頃からずーっと毎日毎日、そりゃあうんざりするぐらい、愚痴とお小言を言われ続けたんだ。それでもあいつは俺を改心させられなかった。江澄よりも俺との絆が少ないあんたが俺を改心させられると思うか?」
「江晩吟で思い出した。あいつだけは殺しておかないと」
「は?」
「ねえ、大哥」
 金光遥は立ったまま微動だにしない藍忘機を振り返る。
 そして恐ろしいことを口にした。
「江晩吟は殺すべきだ。腐った肉は原形も留めない程、斬って、斬って、斬りまくれ。さっさと片付けて来い」
「承知した」
 魏無羨の顔から血の気が引き、早速立ち上がって部屋を出ようとする藍忘機に縋り付く。
 心臓が口から飛び出そうな勢いで「藍湛!」とその腕にしがみついた。
 彼の身体を揺すり、下から藍忘機の目を覗き込む。
「藍湛、江澄を殺したら、俺たちの関係も終わりだぞ! 俺はお前の道呂で、俺たちの絆は何ら変わらないが、それでも俺はお前を許さない! 絶対に駄目だ!」
 そんな魏無羨を金光遥は面白い余興でも見るように笑い、手を叩いて賛美した。
「大哥に話し掛けても無駄だよ。お前では彼にかけた呪は解けやしない」
「黙ってろ! 藍湛、江澄を殺すな、分かるよな? お前はあいつの大哥じゃない。俺の道呂で、お前が一番愛しているのはこの俺だ!」
 何度も揺するうちに一瞬──、ほんの一瞬だが。
 さっき口付けを交わした時のように藍忘機の瞳にぼんやりとした自我の光りが浮かんだ様に見えた。
 彼の唇が「魏…、嬰」と動く。
 魏無羨は藍忘機の両腕を掴み、「藍湛!」と必死に呼び掛けた。
「俺だ! お前の魏嬰だ! 覚えてるだろ? 俺が木の上から飛び降りるのを受け止めて貰うのが夢だったって言って、お前は俺を受け止めてくれた! あの日から俺はお前のものになって、お前は俺のものになった!」
「……[[rb:魏 > ウェイ]]……」
「そこまでだ」
 藍忘機にかけた呪が解けてしまうと危惧した金光遥が再び、藍忘機に呪を重ねかける。
 びくっと身体を震わせた後、一瞬戻りかけた彼の意識は混濁の中へと沈んでしまい、琥珀色の瞳は再び、輝きを失った。
 目の前で藍忘機が消失してしまうのを見てしまった魏無羨は唖然とし、「協力する!」と大声で叫ぶしかなかった。
 金光遥の全身に喜色の様子がありありと浮かぶ。
「始めから素直にそう言えば良いのに」
「協力するから、これ以上、藍湛に人を殺させるな! 俺は何をすれば良いか、命令しろ!」
 鼻で嗤い、金光遥は残った片手を伸ばして卓の上の茶を啜った。
 芳しい茶の香りが魏無羨の鼻にも漂ってくる。
「陰虎符を完成品に戻して欲しい。私も幾度も試みたが、口惜しいかな。どうやらお前の才にこの私は劣るようだ」
「江澄にも、藍湛にも、手を出さないと約束しろ。陰虎符を使って、他の誰も殺さないと約束出来るなら手伝う」
「笑止。江晩吟は曦臣兄上の名を使ってお前が殺す様に仕向けたんじゃないか」
「沢蕪君は江澄のことを本当に大切にしてる。あいつを傷付けたら、俺だけじゃない、沢蕪君の怒りも買うぞ。今度こそ確実にお前の命を奪うだろうよ」
「ならば二義哥に選ばせるだけだ。私か、江晩吟か」
「お前はあの人のことを何も理解しちゃいない。沢蕪君はどちらも選ばず、自己犠牲を選ぶ。あの人はそう言うひとだ」
「どうなるかは曦臣兄上に選ばせれば良い。大哥、二義哥を連れて来てくれ。姑蘇藍氏宗主、藍曦臣だ。分かるな。お前が呼び掛ければあの人は取るものも取りあえず、必ず、ここへ飛んで来てくれる」
「承知した。江晩吟は?」
「どうでも良いよ。微塵も興味ない」
 藍忘機が出て行き、そして静かに扉がしまった。
 目の前にいるこの男を殺すなら今しかないが、魏無羨の仙力は相変わらず封じられている。
 しかしさっき金光遥から漂ってきた薬の臭い。
(沢蕪君が刺したのは、金光遥の左胸か、それとも右か──。古疵を抉れば、仙力に頼らずとも勝機はある筈だ)
 しかし魏無羨のその思考は金光遥には筒抜けの様で、小型の剣をちらつかせ、抵抗しても無駄だと暗にほのめかす。
「心配しなくても、藍湛を悪巧みに利用した以上、沢蕪君が来ればお前は終わりだ」
「私がそんな間抜けだと? 曦臣兄上の仙力も当然、お前同様に奪うさ。あの人の修為に敵う筈もないからね。しかし江晩吟とは、曦臣兄上も随分と悪趣味だ。あんな男のどこが良い」
 それは魏無羨も聞いてみたいところだが、藍曦臣が江澄に惚れ気を示すのもそれなりに分からなくもない。
「江澄はあれでいて可愛いところもあるんだよ」
「ほう?」
「普段は憎まれ口ばかりで、微塵も可愛くないけどな。そんな奴が自分の前でだけ他人に見せない素顔を晒したら?」
「なるほど。確かに曦臣兄上は健気で同情を誘われる存在に弱い方だからな」
「その通り。男ってのは意外性に弱いものだ。ましてやめったに人に懐かない子猫がころりと寝転んで撫でろと腹を見せたら、骨砕けにならない奴はそうはいまい。俺なら、どれだけ可愛かろうと、肉になる生き物は全部、煮て食っちまうけどな」
「馬鹿馬鹿しい」
「斂芳尊、あんた、陰虎符を使って東瀛へ行くと言ったな。それがあんたの壮大な計画なのか?」
「そうだ。あの時もお前らに邪魔をされなければ、私と憫善で行くつもりだった」
「ミンシャン? 誰だっけ?」
「抹陵蘇氏宗主の蘇憫善だ」
「あー……、分からない。可愛い名前だけど、女の子?」
「─────」
 勿論、魏無羨の記憶に蘇憫善なんて名は欠片でさえも残っていない。
 藍忘機を目の仇にし、何かと言えば藍忘機の真似をして、姑蘇藍氏を裏切り、抹陵蘇氏を開いたのも、金光遥の手下となって悪事を働いたのもすべてその僻みが原動力だった。
「じゃあさ、百歩譲ってお前のことは大目に見てやるから、お前一人でその東瀛とやらへ渡れよ。そこでお前の帝国を作ってふんぞり返ればいい。俺たちを巻き込むな。雲深不知処で始終藍先生の愚痴を聞かされても、俺はあそこで藍湛と暮らすのが幸せなんだよ」
「藍忘機は使える。先程も言ったが、彼は稀少な宝剣だ。手放すつもりはない」
「俺もあいつも、けしてお前のものにはならない」
「ならばお前も共に来い。忘機も曦臣兄上と共にいたいだろう」
「金光遥! このクソ野郎! クソにたかる蠅より小者だ!」
「手伝うと言ったな。早速、作業へ入れ」
「────」
 魏無羨が決起集会が開かれた不夜天で「奪い合え」と放り投げた陰虎符はその時の衝撃で幾つかの破片に割れてしまっていた。
 金光遥が彼を連れて行った部屋に安置されていたのはまさにその陰虎符の欠片で、いまだに黒い瘴気を煙の様に放っていた。
 魏無羨が部屋に入ると同時に、主と認めたのか、陰虎符が放つ陰気が魏無羨の陳情と共鳴し、まるで叫びの様な騒々しい音を立てる。
 それを聞き、金光遥は感動に震える手で片手を陰虎符に差し出したが、陰器が放つ妖気に触れて悔しそうにすぐに手を離した。
「これだ。精錬しようにも触れることさえ叶わぬ。お前なら陰虎符の気を鎮めることが可能なのではないか?」
 どうだろう。
 そもそもこの陰虎符を精錬したのは彼がまだ夷陵老祖と呼ばれる前の話で、魏無羨本来の肉体や思念と莫玄羽の肉体が同じとは限らない。
「或いは、としか言えないな。俺にこれを精錬させたいのなら、封じている俺の仙力を返してくれないか?」
「魏無羨。私も少しはお前について調べたのだ。確かお前は江晩吟に自分の金丹を移し、その身からは一切の修為がなくなった。その後、お前はその鬼笛を手に入れ、そしてこの陰虎符を精錬した。修為がなくとも精錬出来る筈では?」
 さすがは金光遥だ。
 気が狂っていようと頭の回転はそのままだ。
「お前の詭道術法は邪術ではなく、己の精神力を使い、制御すると忘機がかつてお前を庇うために説明していた」
「藍湛が?」
「そうだ。故にお前が邪道に堕ちたとは決めがたいと。誰も当時の含光君の言葉を信じようとはしなかったが、私は彼の言うこともあながち噓ではないと思っていた。しかしお前に出来て私に出来ぬことはあるまい。そう信じて幾度も試みたが、やはり私には無理だった。となると、お前が手にしたその鬼笛が鍵となる」
「そうかなぁ」
 とりあえず今魏無羨に出来ることと言えば、藍曦臣が連れて来られるまでの時間稼ぎだろう。
 藍曦臣の仙力が奪われなければ彼と共闘し、藍忘機を元に戻して金光遥を今度こそ仕留める。
 藍曦臣の仙力が奪われてしまったら───。
 その時はその時だ。
 また別の手段を講じ、とにかく時間稼ぎに徹するしかない。
 製造元責任と言うやつだ。
 魏無羨のふざけた顔が真顔になり、座禅を組んで、陰虎符と共鳴し始めるのを金光遥も確認し、そして彼も沈黙した。
 ゆらゆらと浮き上がる陰虎符が魏無羨の目の前まで浮遊し、黒い瘴気が彼全体を包み出す。
 目を閉じたまま、魏無羨は陳情を唇に当てると、瘴気に当てられた陳情が持ち主の思惑を外れて勝手に音色を奏でだした。
 鬼笛の音色に触発されて妖気を漂わす陰虎符もまた耳が痛くなるような金属音を立て始めたが、その音は長らく待たされた主の帰りを待ち侘びる狂喜を含んでいるようにも聞こえた。
 勝利を確信した金光遥の笑いがそれに重なり、魏無羨を包む黒霧は更に濃く、深くなり、彼の五穴に向かって広がって行った。
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