ほのかに香るきみへの思い

1.ほのかに香るきみのにおいも忘れ得ぬ思い出

 今年の清談会は雲夢江氏主宰で開かれる。
 三日間にかけて開かれるこの宴は各世家の持ち回りで開催され、多くの客人が訪れるのだ。
 今でも語り草となっているのは贅を尽くした蘭陵金氏の宴で、それ以来、清談会は世家の威信を賭けて行われる、当番となってしまった世家には少々厄介なものだった。
 江澄が初めてこの清談会を取り仕切ったのは彼がまだ宗主となったばかりの頃だった。
 あの頃は人員も今程おらず、尚且つ、魏無羨の騒ぎで雲夢江氏への視線が厳しかった時だったから、姉の江厭離の協力で何とかそれなりのものを開いて客を招くことが出来たが、それでも胃に穴が開くんじゃないかと言うぐらい、神経をすり減らしたものだった。
 そしてあれから十数年。
 夷陵老祖、魏無羨が復活し、彼の働きで真犯人も露呈した。
 そのゴタゴタがようやく収まった今回の清談会は、仙督に就任した藍忘機のお披露目会も兼ねた盛大な宴にしなければならなかった。
 姑蘇藍氏との連携も必要で、江澄にとっては本当にこの一ヶ月間、気の休まらない時期を過ごしていたのである。
「料理については以上です。問題は席についてですが」
 江澄の説明に、姑蘇から清談会の打ち合わせに来た藍曦臣、藍忘機の兄弟が上品に相槌を打つ。
 まったくよりにも寄ってなんで自分がこの二人の為に、執事のような役回りをせっせと熟さなければならないのだと内心不満たらたらだったが、勿論、大世家の沽券に関わることだから、江澄も気を抜かずに何とか気力を持たせて乗り切っていた。
「今回の清談会は含光君の仙督就任のお披露目会も兼ねています。それで姑蘇藍氏の席順についてですが、藍宗主より、弟君の含光君を上座に置くことになりますがよろしいでしょうか」
「問題ありませんよ。こうして事前に打ち合わせの場まで設けて下さって、江宗主のお気遣いには感謝致します」
「こう言った儀礼的なことは、うちの世家は不慣れですから。私が以前、清談会を開いたのも考えて見ればもう十年以上前の話です。あの時は姉も姉の夫も健在だったので、蘭陵金氏の手を借りることも出来ましたが、今回はそうも行きません。何かお気づきの事があればぜひ、教えて頂きたいです」
「そうは言っても、私もほぼ人任せだから。忘機はもとより清談会に参加すること自体、珍しいし。懐桑が一番詳しいかも知れませんね」
「聶兄とは明後日、打ち合わせをする予定にしています」
「精が出ますね、江宗主。あまり根をお詰めにならない様」
「ありがとうございます、藍宗主」
 今回の打ち合わせでは藍忘機に関することが多かった為、わざわざ彼も足を運んで貰ったのだが、殆ど黙ったきりで応対したのは兄の藍曦臣の方だった。
 自分より宗主に就任した経験も長いし、伝説となった豪奢な宴を開いた金光瑶の仕事ぶりも見ていた藍曦臣だから、何か貴重な情報を得られるかと思い、密かに今回の打ち合わせに期待していたのだが、どうやら江澄の期待程、この浮き世離れした聖人は俗事のことなど関心はないようだった。
「姑蘇藍氏はこれまで開かれた清談会のことも事細かに議事録に綴っておられるとか」
「ええ。必要とあらば弟子に届けさせましょう」
「そうして頂けると助かります」
 江澄が二人を呼んだ理由はもう一つあった。
 金光瑶の悪事が明るみに出、これまで魏無羨の仕業だったと思われていた事件の数々は彼と無関係だったことが証明された。
 今回の清談会で江澄は魏無羨を修真界に戻したい。
 そう思っていたのである。
「魏無羨はいま姑蘇藍氏の食客となっています。お二人の意見を聞いてみたいと思っていまして。沢蕪君、含光君、これについてはどう思われますか」
「魏公子か……、彼については」
 さしもの藍曦臣も、弟の道侶については意見しづらいらしい。
 兄に「忘機」と促され、ようやく藍忘機が伏し目がちだった瞼を開き、江澄の方へと視線を向けた。
 彼とはあの観音堂以来、殆ど話をしていない。
 金丹のこともあり、江澄は藍忘機の視線に耐えられず、彼が目を上げるのと同時に、あらぬ方角へと視線を彷徨わせた。
「魏公子を修真界に復帰させたいとの江宗主の配慮、私もそろそろ良いのではないかと思うが、お前の意見はどうだ?」
「それは魏嬰本人が決めることだと思います」
「勿論、魏公子の意見も重要だ。しかし彼を修真界に戻すかは、仙督に就任するお前の判断も仰がねばならん」
 なんとも面倒くさいものだが、修真界と言えど、政の多くは政治力できまるのだ。
 かつて魏無羨が能力はありながらも修真界を追われてしまったのはまさにこの政治力の欠如で、一匹狼で、誰の指図も受けたくない魏無羨は集団の力に負けて追い出される羽目になった。
 いや、本人に言わせれば追い出されたのではなく、魏無羨自身が出て行ったのだろうが、復帰するとなればまた面倒な政治的手続きが必要なのである。
 そしてその決定権を握るのがかつての五大世家。
 しかし今は蘭陵金氏は前宗主の失態で力を失っており、清河聶氏の聶懷桑は「私は程々を知る男だよ」と称して面倒ごとからは遠ざかっている為、残るは姑蘇藍氏と雲夢江氏のニ家となる。
 つまりがこの三人が魏無羨は修真界に戻ってよろしいと決めれば、それは修真界全体のお達しごととなるわけだ。
「私は……、魏嬰の意見を聞いてからでなくては、何も答えられません」
「それは勿論、そのとおりだ。江宗主、あなたの口からその言葉が出たと言うことは、あなたはこの件に関し、賛成のご意向でよろしいのですか」
「ええ。もう一つの問題は、魏無羨の所在をどこに置くかです」
 兄の藍曦臣はふむと一旦考え込んだが、藍忘機がこの時は「姑蘇藍氏だ」とはっきり明言した。
 確かに今の魏無羨は姑蘇藍氏の食客だ。
 藍忘機とは道侶の契を結び、今後も雲深不知処から出ることはまずないだろう。しかし夷陵老祖の彼をお堅い姑蘇藍氏が受け入れるとも思えず、彼を姑蘇藍氏の者として扱うかは、更に上の、姑蘇藍氏の長老たちの賛同が必要だった。
「夷陵老祖、と言う号が浸透しているくらいですから、彼は夷陵の新派として扱ってはどうでしょう」
 藍曦臣のこの提案は一番妥当と思えたが、藍忘機も江澄も賛同しなかった。
 二人にはそれぞれ思惑がある。
 魏無羨抜きでこの話は語れない為、この話は持ち帰りで、後日、また改めて話し合うことになった。
 打ち合わせが終わると、藍忘機はさっさと席を立ち、藍曦臣を置いて御剣で勝手に帰ってしまった。
 本当に彼は徹底して江澄を嫌っている。
「申し訳ない、江宗主」
「いえ。含光君が私を許せないのも当然です。魏無羨から多大な恩を受けながら、私はあいつに言ってはいけないことを口にしてしまった。魏無羨自身は許しても、含光君は許す気にはなれないでしょう」
 それに多分、それだけではない。
 藍曦臣はおそらく江澄の思惑に気がついている。
 魏無羨を修真界に戻す真の狙いは。
 魏無羨を蓮花塢に戻すことだった。
「私の為に魏無羨は自身の修為を差し出した。ならばその身は雲夢江氏が見るべきでは?」
「江宗主、それは……」
 穏健派の藍曦臣としては、弟の主張を考えるとこれは返事がしにくいだろう。
 いつもは穏やかな笑みを浮かべている口元が失笑の形に歪んでいる。
 この人が閉関中に、偶然江澄は雲深不知処で藍曦臣と会話をしたが、その時からでは随分と頬の肉付きも戻ったなと感じた。
 金光瑶の裏切りに傷つき、聶懷桑の復讐に自身も駒として扱われたことは、この心根の優しい宗主には相当心に打撃を与えてしまったようで、彼はあの事件以降、宗主の屋敷に引きこもり、食事も満足に取らなかったと聞いている。
 信じていた者に裏切られた失意を江澄自身もよく知っていた為、落ち込む彼を見て黙っておられず声を掛けてしまったのだ。
 それ以来、こうして初めてここで会話をしたが、以前より痩せたとは言え、毅然とした沢蕪君の姿は健在で、そのことは素直に江澄も嬉しかった。
「江宗主、きみの気持ちも分かるが、きみが私に言ってくれた様に、他人を動かすことや、気持ちを量ることは難しいことだと知るべきだ。魏公子は今でも君との絆を大切に感じているが、忘機と紡いだ絆は、我が弟のことながら、今更容易に断ち切るのは難しい」
「俺は彼らを引き離すつもりで言っているんじゃありません。魏無羨が雲深不知処で藍忘機といたいのなら、そうすればいい。しかし、雲夢江氏もあいつにとっては大切な故郷の筈です。籍だけでも雲夢江氏に戻したい」
「分かった。きみの気持ちは私から魏公子にきちんと伝えよう」
「ありがとうございます、藍宗主」
 拱手し、頭を下げようとする江澄を、藍曦臣は止めさせた。
「私の方こそ、きみに感謝したい。今、こうして私が政に復帰できたのも、きみの言葉があったからです」
「俺は大したことは言っていません。あなたを励ますつもりが、なんだか自分語りしてしまっただけで」
「その話に気付かされたんだ。つまりきみのおかげだ」
 藍曦臣は江澄が素直に敬意を示せる数少ない相手だ。
 その彼に感謝されるのは正直嬉しく、思わず藍曦臣を見上げて破顔してしまった。
 白い歯を見せて笑う江澄を見、藍曦臣も気さくに笑う。
「江宗主は随分とご立派になられたが、笑うと以前のきみが戻るようだ。皆で水祟を退治しに行った時のことは覚えておいでですか?」
「ああ、勿論、覚えています。魏無羨の奴、含光君に助けられてもずっとお喋りし通しで。あいつは俺を昔から変わっていないといいますが、俺から言わせればあいつだって何にも変わっていないと思います」
 昔話を思い出し、屈託なく笑う江澄の頬に、藍曦臣のひんやりとしてはいるが、それ程嫌でもない感触が触れてきた。
「ああ、失敬。柳の葉がきみの髪に」
「え、ああ、ありがとうございます」
 確かに藍曦臣の手には枯れかけた柳の葉が一葉あって、彼はそれを鼻に持って行き、匂いを嗅いでからぽいっと地面に投げ捨てた。
 それだけの特に意味もない行為なのに、この麗人がやると、そこはかとない情緒を感じてしまうから不思議なものだ。
 まるでその枯れかけた柳の葉からかぐわしい香りが漂っていたかに見える。
 江澄の視線に気がついた藍曦臣はにこりと微笑むと、
「見送りはここで結構ですよ。あなたもお忙しいでしょう」
そう江澄をねぎらってくれる。
「はい。本当のところ、清談会なんて早く終わって欲しいと思っています。俺はこう言う堅苦しい決まり事とかとにかく苦手なので」
「私も同意ですよ」
「まさか」
「そのまさかです。さっきも打ち合わせで言いましたが、うちにはこうした行事を専門にやる部署があるので、私が口を挟もうものなら、宗主は大人しく座るか、剣の修行でもしてきてくださいと追い返される」
 彼の屈託のない話に江澄はころころと笑い、藍曦臣の意外な一面を垣間見て、彼との距離が縮まった気がした。
「沢蕪君は俺には昔から目上の人で、あなたは犯し難い気品に満ち溢れた人かと思っていました。俺と変わらないですね」
「ええ。変わりません。何なら、あなたより怠け者です。弟が至極優秀なので、兄の私の出番がありません」
 これ以上藍曦臣と無駄話をし続けていたら、せっかく江澄が長年積み重ねてきた宗主の威厳とやらも崩れてしまいそうな気がしたから、程々のところで帰ってもらうことにした。
「では、清談会でお会い致しましょう、江宗主」
「はい。今回は本当にありがとうございました。お気をつけてお帰りください」
「うん。また帰って来ます。それでは」
 藍曦臣の最後の言葉には首を捻ったが、彼は江澄が思っていた以上に、結構、冗談の類も解する人のようだ。
 それから数日して、藍曦臣が約束した清談会の目録と、魏無羨が参加するか否かの返事がやって来た。
 書面には魏無羨の懐かしい字で、
「絶対行くなり!」
と書かれていて、彼が姑蘇藍氏としてなのか、それとも雲夢江氏としてなのかは明記されていなかったが、短文に魏無羨らしさが滲んでいて、江澄はその手紙をこっそり胸元にしまうと、折を見て蓮花塢の祠堂へと足を運んだ。
 魏無羨の乱暴な字が書かれた紙を供仏棚の上に置き、「父上、母上、姉上、阿羨からの返信がありました」と報告する。
「相変わらず、勝手な奴です。でも、父上と母上に言いつけられた約束を守り、魏無羨は俺を守り通してくれました」
 今度は江澄がその気持ちに応えたい。
「姉上、魏無羨の料理には、あの鶏肉と蓮根の羹を必ず用意しますからね」
 両親と姉のことを思い出すと、何年経った今でも涙がこぼれてしまう。
 そしてあの時の自分と、蓮花塢に戻りたがる自分を必死に止めてくれた魏無羨の姿を思い出すのだ。
「阿羨、お前は俺を許してくれるのか」
 しばらく江澄はそうして位牌の前で跪いていた。
 ここの匂いが大好きだった。
 ここには彼の過去がある。
 現実は儚い夢のようで、出来ることならこのまま過去に留まりたいと。
 もう何年も前から、ここが江澄が一番心安らぐ場所にとなっていた。
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