偶然が記す別れ道




爪に毛皮がかかる瞬間の時と、良く似ていると最近思うようになってきた。
毛繕いの最中、取っ組み合いの最中、それよりは生きる為に爪を伸ばす瞬間。
生きる為に生き物を殺す瞬間、それはあまりにも一瞬で、もう咎を感じる事はなくなってしまった。
殺すのは簡単、だが生きるのはこんなにも難しいのかと自分の掌を見てそう思う。
爪に絡んでいるのは肉食獣の毛でも草食獣の皮でもない。赤い血は人間のものだ。
これは敵の血だ。
一切の容赦情けは要らない。司令官として教育を受けてきた己の全てをここで発揮し、少なくとも王に父の正式な後任だと認められるまでは気を緩める事は出来ない。
(くさびかたびら……だったか?)
極小の鉄の輪で編まれた胴装備。
己の爪はそれすら切り裂けるほど鋭く、そして人間はこれほどまでに弱いのか。
虐殺?
否、有り得ない。
これはあくまで正当防衛、寧ろ奇襲という卑劣な真似をしてきたのは敵の方だ。
自分の国を守るために力をふるうことの何が悪い。己が正義の為に力を使うのは一族の誇りだ。獣魔として生を受け、白獅子の血筋に産まれたからには王の為に力を使うのが一族の正義。
だがどうだろうか。戦慄き震えるこの身はどうした。


「はじめは皆、そうなる」
ハッとして顔を上げれば、石の上に座っている君主の姿。
総司令官だというのに遠慮もなく戦場に踊り出たせいですっかり紅く染まり上がった白銀の髪を右肩に流して、桃色の瞳が静かに自分を見つめていた。
「良く気付いたな。良く守ってくれた」
「いえ……それなら、こんな事態には陥っているはずがありません」
「それは気にする必要はない。戦場で油断していた者が悪いのだ。正直もっと取り乱すかと思っていたが、やはりお前はレオリアルの息子だな。胆が据わってるよ」
そこで王は今日初めての笑みを浮かべた。
うっすらと歪む唇の三日月。
その端についていた血も歪んだ。


真夜中。
奇襲をかけられた。
狙われたのは聖獣軍総司令官。
もちろん人間達が、彼が総司令官だと知っていたとは思えない。人間達に見つかったのが偶然にも聖獣軍の天幕で、彼等は人間達がこんな間近まで来ていたとは思っていなかっただけ。偶然に過ぎない。
そして偶然にも、人間達は獣魔気封印装置を持っていた。獣魔気能力を封印された獣魔はただの獣だ、火器を使う人間達に次々に消される仲間達の灯火。
そこに王の使令を伝達する為に偶然そこを訪れた自分。まだ聞き慣れない重音は思考を燃え上がらせ、偶然にも尖らせたばかりの爪を鉄製装備に伸ばしていた。
龍になれない総司令官。
聖獣であるが故に肉食獣の闘い方が分からない彼等に遠慮なく火器は降り注ぎ、それが偶然、総司令官に当たってしまった。
火龍としての能力を全く発揮出来なかった黒獅子は、そのまま弾幕の嵐に遭った。
自分に使令の一部を伝え忘れた事に気が付いた王がここを訪れなければ、自分も危なかったかも知れなかった。
そう、すべては偶然。
偶然が重なった結果、自分は生きている。
火龍の王は死んで、自分は生きている。
偶然が記した別れ道。


ザリザリと猫科がものを舐める音が響きはじめたので顔を上げると、白銀の月に髪を照らされ淡く光るゼムラスが、腕を伸ばして毛繕いをしていた。
火龍王を殺した人間を執拗にいたぶり、終いには噛み殺したゼムラスの身体中には、至るところに赤い染みが出来ていた。
それを早く消し去りたいように一心不乱に腕を舐める王の姿が、先程の自分の光景と少し似ているような気がする。
そんな気がした。
「陛下は、怖くはないのですか」
「ん?」
桃色の瞳。
獣魔王という重荷を背負うゼムラスにも、恐怖はあるのだろうか。
「敵のものとはいえ、血を浴びる事が、殺す事が……そして、死ぬ事が」
大きな瞳が見開かれた。そして、言葉の真意を探るように僅かに細められる。
知りたかった。
過去の数々の戦争・紛争、そして獅子戦争を経験してきた彼が、一体どれだけの恐怖をその胸に抱いてきたのか。
自分がただ弱いだけなのか。
皆……ゼムラスでも、同じなのか。
「そうだな……お前の問いに忠実に答えるなら、血を浴びる事は気持ちは悪いが怖くはない。殺す事は慣れてしまったからよく分からないが、死ぬ事は怖いな」
「え」
「なんだ、意外そうだな? 俺には怖いものがないとでも思っていたのか?」
「はい」
「馬鹿だな。誰だって死ぬのは怖いに決まってる。俺は仲間が死ぬ方が怖いがな」

その言葉にハッとした。

「仲間を殺そうとする者は殺してやるし、血飛沫だって浴びてやる。俺は敵を絶対に赦さない。だからあいつも赦せない。たとえ俺が全ての根源だとしても、仲間を傷付けたあいつを赦せない」
「………」
「レオーネ。お前はそれで良い。誰でもはじめは恐れるものだ。今は分からんかも知れんが、いつかきっと分かる。大切なものを失う恐怖は、今お前が感じている殺す恐怖を遥かに凌駕する……、母親と兄弟を失ったお前に言う台詞ではなかったか」
「いえ」
首を振った。
王の言葉は正しいと思う。
失う恐怖と失った恐怖は違う気がする。既に失ってしまったものには諦めがつくかも知れない。だがこれからの未来、もし大切なものを失う事になった時。
父を、親友を、そして。

「ぁ……何となく、分かった気がします」
「そうか」
石の上で王は胡座をかいた。
血まみれではあるが、月のあかりを受ける王の姿はまさしく白銀の君だ。
その光を決して失いたくない。
彼の血を引く、一番の親友の光を。
(紙一重なんだろうな)
レオーネは思う。
死ぬのは怖い。
だって自分は、まだ18年そこらしか生きていない若造だ。戦場も初めてだし、自分は司令官の一角、本来は敵を直接倒す役割ではないのに、敵をこの手にかけた。
血を見て、浴びて、敵を殺して、味方を殺されて、混乱して。
恐らく似たようなものなのだろう。生きたいと思うのと、死にたくないと思うのは。
(よっしゃ)
勢い良く腕を払った。爪についていた血は振り払われ、大地に飛び散っていく。気持ちまで吹き飛ぶ事はなかったが、今はそれで良いのだと思う。
「頭の賢さは誰譲りだ。まさかお前、レオリアルの種じゃないんじゃないのか?」
「ちょっと、やめてくださいよ。俺はレオリアルとレオラールの息子です」
「なら偶然か? 遺伝子の成せる技だな」
「それを言うなら、サイラスだって貴方の血を引いてるとは到底思えない程の馬鹿さ加減なんですけど?」
「はははッ、確かにな!」
盛大に声を上げて笑う王に、レオーネの口端が自然に上がっていく。
「さて、フィリオの後釜を早急に決めなければならんな。お前のその賢い頭の中に誰か候補は居るか?」
「そうですね……ブライアンかルーデン、それにビル、あるいはバランとか」
「……前言撤回だ。お前はやはりレオリアルの種だな。ルーデンやビルはともかく、身長160にも満たない14、5の子供を聖獣軍の総司令官にするなんて聞いた事がないぞ。戦闘能力が高いのは分かっているが、実戦でどうなるかは」
「正直、バランの戦闘能力はビルを凌駕してますよ。同世代であいつに勝てるのはサイラスくらいですし」
ゼムラスの瞳がいぶかしげに歪む。身体ごと前に向けながら、その表情に内心レオーネは笑う。
やはり彼はサイラスの父だ。
瞬間瞬間の表情が良く似ている。
「ふーむ……まあ、風呂にでも入りながら考えてみるか。レオーネ、お前も来い」
「はい」


あの時生かされたのが自分ではなく他の兄弟だったら。
もし自分ではなく、火龍王だったら。
この方は今と同じような顔をして生かされた獣魔に笑いかけていたのだろうか。
そう考えて、やはり死にたくないと思う。
生かされて良かった。
生きていたいと、思った。





Fin

2012/07/02