いただきもの




講義室を出て、見るともなしに目に入った正面の廊下の窓から見えた景色が、つい先日鼻に馴染んだ匂いの記憶と結びついた。
そういえば、この講義室のある棟は大学の建物の一番端で、道路を隔てて隣接するグラウンドに一番近い。
思いついて、仙道は今いる建物内でも一番端の部屋に足を向けた。鍵のかかっていないドアを押しつつ中を覗くと、講義の終わったばかりの黒板にはまだ何やらの数式が書かれたままだったが、学生は既に出払っていて、お誂え向きに誰もいない。
窓際に行くと、眼下に目当ての建築物の屋根が午後の柔らかな光を反射して眩しかった。思わず顔が綻ばせて、跳ね上げ式の座面を倒して腰を降ろした。机に立てた肘で顔を支えて、しばらく後には腕を伏せて顔を乗せ、その景色を眺め続けていたが、これから昼食に入ろうとする時間帯では、粘っていても期待する光景は眺められないのかもしれなかった。
暖かい日差しは仙道の座る窓際にも燦燦と降り注ぐ。ウトウトと瞼が落ちそうになったところで、ドアが開かれる音が聞こえた。午後の講義が始まる時間にはまだまだ早いから、いずれ昼寝か弁当か、自分と同類の暇つぶしだろう、と動かずにいると、真っ直ぐに足音が自分へと向かってくる。
「よぉ」
真上から降ってきた声に顔を向けると、部の一学年上の先輩が立っていた。挨拶しようとしても眠気で頭に靄がかかったように口が回らない。
「こんなとこで昼寝かよ」
「はい、まあ…」
三井は半目の閉じた仙道に笑いを一つ落として、当然のように仙道の座る椅子から一つ置いた席の座面を、手を使わずに腰で音を立てて降ろして座り、持っていた白いビニール袋を乱暴に机に置いた。
「三井さんは食事…? ですね」
ガサガサとビニール袋から弁当とペットボトルを取り出し、割り箸を咥えて 「おう」と籠った声を返し、パッキリと割る。
「この後ここで講義だからな。おまえは昼は?」
「俺はまだ」
「あー授業中からぶっ通しでお昼寝?」
ではなかったが、寝惚けた頭では訂正も面倒で、曖昧に微笑んで見せる。このままここにいても目当ての景色は見られそうにないし、見られたとしても隣にこの賑やかな先輩がいてはゆっくりもしていられそうにない。自分も飯でも食いに行くか、と仙道はのろのろ肘を起こした。
「牧がさー」
「はい?」
弁当を頬張った口から出た名前に、立ち上がろうとした動きが止まる。
「牧」
三井は聞こえなかったのか?というように、口に入った物を食べくだしてからもう一度言い直し、仙道を見た。
「はい」
「昨日おかしかったじゃん」
「おかし…い?」
おかしかったか?と彼の人の姿を反芻する。
いや。特におかしいところも変わったところもなかった。いつも通り練習が終わって家に帰れば美味い飯が用意されていて、いつも通りの笑顔でいつも通りの時々つれない、時々厳しい態度の、やっぱりかわいい人だった。
「具合悪かったんかなーと思って」
「いやぁ…? そんなことない…と思いますケド」
「そ? あー練習中は普通? や、そうでもないか。牧にしちゃーなんてーか…こう精彩を欠く?っつーか」
「そうかな…そう…でした?」
精彩。欠いてたかなぁ、と思い出そうとしてみるが、そういえば昨日はポジション別のメニューが多く、練習中の姿を思い浮かべることができなかった。家でも具合を悪そうにしていた様子もなかった。と思う。
三井もポジションが違うのに牧のことをよく見ているようで、多少つまらなくなって、それでも人の目についた、自分では気づけなかった牧の不調が気になった。
「で、ロッカー戻ったら腰に手ぇやってるから、どうした?って聞いてもなんでもねーって言うし。まぁ、おまえが大丈夫ってんなら大丈夫なんだろうけど」
そこまで聞いて、目の端にようやく窓の向こうに出てきた目当てのものが映って、それに一昨日体験した忘れ得ないあることが結びついて、瞬時にクリアになった頭で、仙道は、「あ」、と声を出していた。
「なに?」
「いや…なんでもねーっす」
学生には見えない、厩舎の人間に引かれて出てきた馬達の毛並みが、午後の柔らかい日差しを浴びて光る。そんな美しい光景が、見たかった姿が、やけに生々しい情景に取って代わられて、そちらの場違いな映像がじわじわと仙道の頭を侵食し始めた。
「じゃあ明日の練習も出て来れるな。そうだ、おまえこの次の講義とってんの?」
「え? あ?」
いきなり変わったらしい話題についていけなくて頭が混乱する。窓の外で馬たちは優雅に散歩をしている。頭の中で微笑んでいた牧が、いきなり辛そうな顔をして仙道を睨む。辛そうな顔なのに吐く息までどこか色っぽく扇情的だ。
「授業ー。民俗学。とってねーの? 単位稼ぎたいならオススメだぜ? 代返チェック緩いしテストはノートがありゃなんとかなるし。取るんならノート譲るぜ?」
「…あ? そうなんですか? え、ノート?」
「あ、おまえにゃもっといいノート提供者がいるか」
目の前の三井の話に集中しようとすると、頭の中の牧が大きくなってくる。その牧に睨まれれば睨まれるほど、一昨日の記憶が蘇ってきて、あらぬ箇所に血が集まり始める。わかっている。牧はこんな表情を晒して自分を誘わない。その状況にならない限り。全部自分の妄想であることに意識を集めようとすればするほどに頭の中の牧は蠱惑的だった。
「なんだよ。さっきからなに見てんの? え、馬?」
仙道越しに伸び上がって窓を見ようとする三井が、目に入る景色に眉を寄せる。わかりはしないだろうと思いつつ、なんとなくそれをブロックしつつ、仙道は辛そうだったという牧の様子を聞き出そうと焦った。が、問いながらも頭の中の牧は消えてくれなくて、それどころか牧はもう服まで着ていなくて、外の散歩中の馬たちに虚ろに目は流れる。
「あれ? そういや、おまえも昨日ランニング戻ってくんのいつもより全然遅かったよな」
「いや、俺は別に。あー、その牧さんホント大丈夫って? 言ってました?」
「なんだよ、やっぱ気になんの?」
「そりゃー…。その、牧さん…え? あ? 腰!?って?」
「うん。腰ってか尻ってか。だからナニ見てんだって」
三井は箸を置いて、仙道の頭を乱暴に押しのけた。
「やっぱ馬? なに、おまえ馬好きなの?」
「え? 馬?! いやそんな! いや! スキです!!」
「? ふーん…?」
三井が探るような視線を仙道に投げてくる。いつもであればそんなものは笑顔で受け流すことができたが、いろいろと焦る情報が一度に投げ入れられて処理しきれなくて、仙道は自分の顔が赤くなっているだろうことを感知した。それを見た三井の目がいきなり何かを察したように見開き、次いで意地の悪そうな笑顔へと変わる。
「…おまえさー、いい加減にしとけよ?」
「え? …なに言って」
「仙道くんはお馬さんが好きなんだよなー?」
「そうですけどそれとこれとは…」
「コレってなんだよ」
ついに耐えきれないといった様子で三井が爆笑する後ろでドアが開いた。見れば今まさに仙道の頭の中であられもない姿だった牧が、爽やかな笑顔を浮かべてすぐに見つけた自分達へと足を向けてくる。
「よぉ、三井。仙道もいたのか」
「お? 牧ー! 待ってたぜー」
「えあ? 牧さん?! なんで?!」
思わず裏返った声が出た。
「次この講義だからな」
涙まで浮かべて笑いこけていた三井が背後を振り向く。
万事休す。
さっきまで体中の熱を集めていた下腹に、氷が押し当てられたような気が仙道にはした。
「よぉ、牧。腰、平気か?」
「いや、だから大丈夫だと」
「そっかそっか! だよなー!」
三井はいつの間にか食べ終わっていた空の弁当箱をまとめてビニール袋に突っ込んで、立ち上がった。
「あんまり牧に無理させんなよ仙道。じゃな。俺ゴミ捨ててくるわ。授業始まるまであと30分だな。邪魔者は時間潰してくっからお二人でごゆっくり~」
置き土産に残したセリフに仙道はいよいよ青褪めて、傍に立っていた牧をそっと見上げた。牧は窓の外に顔を向け、そこから見える風景に何やらを発見したようだった。その顔がゆっくりと仙道に戻される。
「…仙道…」
「俺! なんも言ってませんよ!! 三井さんが! 勝手に!」
「勝手に俺の腰を笑いながら心配してくれたわけだな。…ココで」
「あ! そだそだ!」
かき回すだけかき回した三井が何をまだ言い足りないのか、ドアのノブにかけた手を止めて振り返った。
「おーい、仙道! ケンカしてもウチ来んじゃねぇぞー!? もう入れてやんねーからなー?」
三井のバカ笑いが廊下に響き、遠ざかっていく。
牧の手が隣の座面にかかった。それが引き下ろされていく様を、仙道は膝に手を置いてただ見ているしかなかった。




「よぉ、牧」
隣の席に大きな音が立って、見れば友人の身体で埋まっていた。ニコニコと笑う顔が覗いてきて、牧は溜息をついてかけていた眼鏡を外した。
「どうよ? 仲直りできた?」
「…おまえがかき混ぜたんだろう」
「なんだよ、人聞きワリィな。パートナーには優しくしろってアドバイスしただけだぜ?」
笑っていたかと思えば口を尖らせて低い声を出す。賑やかな友人は見ていて飽きるところがない。
アドバイス、と聞いて、説教前から大きな体を小さく縮こめていた仙道の姿を思い出した。こちらは飽きるどころではない。その姿や顔が思い浮かぶと顔が自然に綻んできて、牧は片手で誤魔化すように顔の下半分を覆った。
「あ! んだよ。一人で思い出し笑いかよ。スケベだなー!」
「悪い。…いや、あいつもあれで考えていないこともないんだ」
「…あー…」
「なんだ」
「牧もあいつにゃ甘いよなー」
あの件に関しては仙道だけが悪いとは言えないのだ。そこまでこの友人に説明してやるつもりはないけれども。
「おまえだって」
「なんだよ」
「その後ろに貼りついてるのどうにかしろ」
「へ?」
振り向くいた三井が、その隣で机に上体を伏せてすでに寝息をたてている流川を発見して飛び上がった。
「あっ! おまえっ! なんでついてきてんだよ! 次この講義じゃねーだろ! 早く行けって。もう始まるぞ!」
「…眠い」
「寝るならせめておまえの授業で寝ろ! 折角ガッコ来たんだから出席はしとけ!」
「…ムリ」
それきり流川は肩を揺すろうが頭をはたこうが起きる気配はなくなった。
「落第はさせるなよ?」
「クソッ! わかってるよ!」
三井はさかんに流川の頭を叩いていた手を止めて、着ていたパーカーを脱いだかと思うとそれを伏せていた流川の体にかけた。
ふ、と顔が緩んで、それをまた友人に見咎められる。
「…んだよ」
「いや」
いいな、と思った。と言えば、また三井は騒ぎ出すのだろう。自分が口を開く前に平謝りに謝り倒して、逃げるように教室を飛び出していった仙道にまた想いが飛んだ。家に帰る前にどこかで捕まえよう、と思った。あのままだと帰宅してもヘコんだままだろう。それはそれで溜飲も下がるが、いつまでも仙道が沈んだままでは、せっかくの部の休みに自分もおもしろくない。いつもの、自分に向けられる明るく穏やかで楽しげな笑顔が見たい。
もうそろそろ教授も入室してくる頃合いだ。牧は外して机の上に置いてあった眼鏡を手に取り、また顔にかけた。
「…それ」
「ん?」
「牧の眼鏡。カッコいーんだよって言ったら一丁前に妬きやがってさ。俺も見に行くって。しかも結局見ないで寝てやんの。ホントバカだよなー」
口調と合っていない表情が穏やかで優しい。
三井の口がまた尖る前に、「こんなのカッコいいか?」、と眼鏡をかけた顔から上目づかいに裸眼で見やる。
「いつもはかけてねーのに勉強するときとか本読むときだけとか? 俺、目はいーからちょっと羨ましいんだよなー。 あ、なぁなぁ」
ひっぱられて耳元に三井の口が寄せられる。
「やっぱアレ? キジョーi」
三井が言い終わる前に、裏拳で軽くその鼻面を叩いた。







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