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日陰の庭
表札のない扉の前で、彼は上着のポケットから取り出した鍵を器用に鍵穴へと挿し込んだ。手早く玄関のドアを開け、まるでレディーファーストだと言わんばかりに、横で待っていた私へと目配せする。
「……お邪魔します」
「どうぞ」
ここに来たのはいつぶりだろう。
二か月……いや、三か月ぶりくらいか。
久しぶりに訪れた彼の部屋は、以前と変わらず地下にある倉庫のように暗く閉めきっていた。
水流のない淀んだ池の底のような、冷たい空気だけがどんよりと部屋の中を巡回しているような。そんな物憂げな香りが漂っている。
私は照明のスイッチを入れた。玄関と廊下が明るくなり、その明かりを頼りにリビングに入る。そのままキッチンまで直行し、持っていた買い物袋をガサガサと台の上に置いた。あとから入ってきた彼が、リビングの明かりを点ける。
「なんか、物は少ないのに綺麗とは言えないね」
改めて部屋を見渡し、そんな感想が出てきたことに少しだけ安堵している自分がいた。
あちこちに転がっているお酒の瓶。ソファに脱ぎ捨てられたワイシャツ。吸殻がたまった灰皿。
どれもこれも、彼がここにひとりでいた証拠だ。
「最近あいつも来ないからな」
「あぁ、あの子もう就職したんだっけ?」
「就職というより、アルバイトだな」
「ふーん」
転がっている瓶を拾いながら、軽く世間話のような会話を交わす。
「あの子」とは、数年前から彼が身の回りの雑用を頼んでいた若い男の子だ。たしか去年の夏頃、ショーレストランの話をしながら「もうすぐあそこに入れるんだ!」と喜んでいた気がする。
私もここに来る機会はそんなに多くなかったから、入れ違いになっていたのだろう。その子と顔を合わせることはほとんどなく、けれども印象的な子だったから忘れてはいない。
彼はデスクの前に座ると、大きなモニターのスイッチを入れた。仕事なのか趣味なのか、相変わらず難しそうなことをしている。
カチカチとマウスを操作する後ろ姿を横目に、私は部屋の片付けを進める。
お酒の瓶をまとめてキッチンの隅に、脱ぎ捨てられたワイシャツを洗濯機に。チラシやら何かの書類は、明らかに不要そうなものだけをまとめて可燃ごみの袋に放り込んだ。
続けて床掃除もしてしまおうと、モップが置いてある場所に向かう。けれどもそこに目当てのものはなく、私はモニターの前でたばこを吸い始めていた彼に話しかける。
「ねぇ、モップどこ?」
「あぁ、寝室に置きっぱなしだ。悪いな」
言われたとおり寝室に行くと、モップはシートが取り付けられたままの状態でドア横の壁に立てかけられていた。
あの人、自分でも掃除をしようと思ったのだろうか。……ちょっとかわいい。
からからに乾いていたシートを新しいものと取り替え、それを床に滑らせながら家の中を歩き回る。すると淀んでいた部屋の空気が次第に清々しくなっていく気がして、私はいつの間にか小さく鼻歌まで歌いだしていた。
それからしばらく経ったときだ。
玄関のほうでガチャンと音がした。私がびっくりして固まっていると、金髪の男の子がひょこっとリビングに顔を出す。
「やっほー岩さん、おじゃましまーす」
「あら」
「あ! 名前さん! 久しぶり〜!」
先ほど話題に出た男の子だった。私の名前まで覚えていてくれて、弾けるような笑顔で手を振ってくれる。
「お前、勝手に入ってきたのか。俺らが取り込み中だったらどうするんだ?」
「取り込み中?」
「あ、大丈夫、気にしないで」
たばこの煙を燻らせながら、この部屋の主は表情ひとつ変えずにそんなことを言う。この子が勝手に入ってきても大して気にしないくせに……悪い大人だ。
「それよりどうしたの? 何か用事?」
「んーん、別に用はないんだけどー……むしろ岩さんが何かあるかなって。お手伝いすることある?」
男の子はしおらしく声を落として、主の命令を待つワンちゃんのように静かになる。
「今のところはないな。掃除も名前がしてくれたばかりだ。それより、お前のほうはどうなんだ。店は記念イベントの最中だろ」
「うん、順調だよ。オレもめちゃくちゃ練習頑張ったし、ミズキもショーに出してやるって言ってくれてる!」
まるで尻尾を振っているのが見えるようだ。
嬉しそうに報告する笑顔を見て、私もそのお店のことを少しばかり思い出す。
「そういえばあそこって専用の名前で呼ばれるんでしょ? 何にしたの?」
「ヒナタ!」
「へぇ、ヒナタくん。いいね、ぴったり」
「へへ、ありがと。岩さんにつけてもらったんだ」
「……へぇ?」
そんなことしてあげたんだ、という意味を込めて彼に視線を送る。けれども当の本人は私と目を合わせようとせず、ただ黙って短くなったたばこを灰皿に押し付けた。
……自分は光も当たらないような場所に住んでいるのに。
どうしてこの子に「ヒナタ」という名前をつけたのか。聞いてみたいけれど、多分この調子では曖昧にはぐらかされて終わりだ。
「そうだ、お腹すいてない? デパ地下でいっぱい美味しそうなお惣菜買ってきたの」
話題を変えて私がキッチンに立つと、ヒナタくんがパッと顔を上げて反応する。
「えっ、すいてる! 食べていいの? やったー!」
「お前、それが目的だったんだろ」
「え〜? そんなことないって」
にこにこ笑顔のヒナタくんが隣に来て、「どれ食べていいの?」なんて聞いてくる。「どれでも好きなの食べていいよ」と返せば、モニターの前から「おい」と低い声が飛んできた。
「俺のつまみは残しといてくれよ」
私とヒナタくんは声をそろえて笑う。
「「はーい」」
***
「名前さんは今日ここに泊まってくの?」
食事の後、満足げにソファにもたれるヒナタくんが、私とこの部屋の主を交互に見ながら訊ねてきた。
「うん、そのつもりだけど」
なんだか淋しげな、羨んでいるようにも見える表情が気になって、私は少しのあいだ後片付けの手を止める。
「なんだ、お前も泊まるつもりだったのか?」
「ううん、オレは帰るよ。ふたりの邪魔しちゃ悪いし」
「今さらだな」
「本当に泊まらなくていいの? なんなら私が帰るよ」
「ううん、ホントに大丈夫! あ、ご飯ごちそーさま!」
強がって遠慮しているのか、本当の心は悟らせないまま、ヒナタくんはまたすぐに満面の笑みを見せる。そして、一瞬だけ遠い場所に思いを馳せるように目を細め、小さな声で「オレにも大事な家族がいるから」と呟いた。
「じゃあ、気をつけてね」
「うん、ありがとう。じゃあね岩さん、また来るね」
「ああ」
「名前さんも、近々オレの舞台見に来てよ。絶対カッコいいとこ見せるから!」
「うん、出るとき教えてね」
「りょーかい!」
彼とふたりでヒナタくんを見送り、玄関が閉まると同時に、私は振っていた手をスッと下ろした。
さっきまであんなに温かい気がしていたのに、あの子がいなくなると、一気に部屋の温度が下がったみたいに物寂しくなる。
「さて、ここからは大人の時間といこうか」
「……言い回しがおじさんだ」
「実際おじさんだからな」
「潔くて好き」
「そりゃどうも」
リビングに戻ると、私たちは買ってきたお酒を開けた。好みはそれぞれ違うから、同じものは飲まない。
「……あの子、本当に太陽みたいな子だね。普段は容赦なくギラギラ照ってるのに、ふとした瞬間、急に陰るの」
ソファの上で寄りかかる私を受け止めながら、彼がゆったりとした渋い声で応える。
「あいつが太陽なら、名前は何のつもりなんだ?」
「ええ? そこは『名前は花だな』とか言ってよ」
「ははっ、こんな日陰みたいな場所でか?」
笑ったときの振動が彼から伝わり、いくつもの波紋を描いて私の中にこだまする。動かない水面をわずかに揺らすような、そんな些細な風が心地いい。
「日陰でもいいの。岩の下でも、水の中でも、私は私らしく、好きなように咲いていたい」
グラスに残った花のカクテルを仰ぎ、私はそっと目を閉じた。
彼のグラスが、カラリとゆるやかな音を立てる。
「……俺の庭で、こんなに綺麗な花が咲くとはな」
「ふふ」
今日一番の言葉をもらえたのが嬉しくて、もうひとくち分だけ自分のグラスにカクテルを注ぐ。
それを彼のほうに近づけると、淡い桃色と透き通った琥珀色が、お互いのグラスの中でゆらりと溶け合って見えた。
表札のない扉の前で、彼は上着のポケットから取り出した鍵を器用に鍵穴へと挿し込んだ。手早く玄関のドアを開け、まるでレディーファーストだと言わんばかりに、横で待っていた私へと目配せする。
「……お邪魔します」
「どうぞ」
ここに来たのはいつぶりだろう。
二か月……いや、三か月ぶりくらいか。
久しぶりに訪れた彼の部屋は、以前と変わらず地下にある倉庫のように暗く閉めきっていた。
水流のない淀んだ池の底のような、冷たい空気だけがどんよりと部屋の中を巡回しているような。そんな物憂げな香りが漂っている。
私は照明のスイッチを入れた。玄関と廊下が明るくなり、その明かりを頼りにリビングに入る。そのままキッチンまで直行し、持っていた買い物袋をガサガサと台の上に置いた。あとから入ってきた彼が、リビングの明かりを点ける。
「なんか、物は少ないのに綺麗とは言えないね」
改めて部屋を見渡し、そんな感想が出てきたことに少しだけ安堵している自分がいた。
あちこちに転がっているお酒の瓶。ソファに脱ぎ捨てられたワイシャツ。吸殻がたまった灰皿。
どれもこれも、彼がここにひとりでいた証拠だ。
「最近あいつも来ないからな」
「あぁ、あの子もう就職したんだっけ?」
「就職というより、アルバイトだな」
「ふーん」
転がっている瓶を拾いながら、軽く世間話のような会話を交わす。
「あの子」とは、数年前から彼が身の回りの雑用を頼んでいた若い男の子だ。たしか去年の夏頃、ショーレストランの話をしながら「もうすぐあそこに入れるんだ!」と喜んでいた気がする。
私もここに来る機会はそんなに多くなかったから、入れ違いになっていたのだろう。その子と顔を合わせることはほとんどなく、けれども印象的な子だったから忘れてはいない。
彼はデスクの前に座ると、大きなモニターのスイッチを入れた。仕事なのか趣味なのか、相変わらず難しそうなことをしている。
カチカチとマウスを操作する後ろ姿を横目に、私は部屋の片付けを進める。
お酒の瓶をまとめてキッチンの隅に、脱ぎ捨てられたワイシャツを洗濯機に。チラシやら何かの書類は、明らかに不要そうなものだけをまとめて可燃ごみの袋に放り込んだ。
続けて床掃除もしてしまおうと、モップが置いてある場所に向かう。けれどもそこに目当てのものはなく、私はモニターの前でたばこを吸い始めていた彼に話しかける。
「ねぇ、モップどこ?」
「あぁ、寝室に置きっぱなしだ。悪いな」
言われたとおり寝室に行くと、モップはシートが取り付けられたままの状態でドア横の壁に立てかけられていた。
あの人、自分でも掃除をしようと思ったのだろうか。……ちょっとかわいい。
からからに乾いていたシートを新しいものと取り替え、それを床に滑らせながら家の中を歩き回る。すると淀んでいた部屋の空気が次第に清々しくなっていく気がして、私はいつの間にか小さく鼻歌まで歌いだしていた。
それからしばらく経ったときだ。
玄関のほうでガチャンと音がした。私がびっくりして固まっていると、金髪の男の子がひょこっとリビングに顔を出す。
「やっほー岩さん、おじゃましまーす」
「あら」
「あ! 名前さん! 久しぶり〜!」
先ほど話題に出た男の子だった。私の名前まで覚えていてくれて、弾けるような笑顔で手を振ってくれる。
「お前、勝手に入ってきたのか。俺らが取り込み中だったらどうするんだ?」
「取り込み中?」
「あ、大丈夫、気にしないで」
たばこの煙を燻らせながら、この部屋の主は表情ひとつ変えずにそんなことを言う。この子が勝手に入ってきても大して気にしないくせに……悪い大人だ。
「それよりどうしたの? 何か用事?」
「んーん、別に用はないんだけどー……むしろ岩さんが何かあるかなって。お手伝いすることある?」
男の子はしおらしく声を落として、主の命令を待つワンちゃんのように静かになる。
「今のところはないな。掃除も名前がしてくれたばかりだ。それより、お前のほうはどうなんだ。店は記念イベントの最中だろ」
「うん、順調だよ。オレもめちゃくちゃ練習頑張ったし、ミズキもショーに出してやるって言ってくれてる!」
まるで尻尾を振っているのが見えるようだ。
嬉しそうに報告する笑顔を見て、私もそのお店のことを少しばかり思い出す。
「そういえばあそこって専用の名前で呼ばれるんでしょ? 何にしたの?」
「ヒナタ!」
「へぇ、ヒナタくん。いいね、ぴったり」
「へへ、ありがと。岩さんにつけてもらったんだ」
「……へぇ?」
そんなことしてあげたんだ、という意味を込めて彼に視線を送る。けれども当の本人は私と目を合わせようとせず、ただ黙って短くなったたばこを灰皿に押し付けた。
……自分は光も当たらないような場所に住んでいるのに。
どうしてこの子に「ヒナタ」という名前をつけたのか。聞いてみたいけれど、多分この調子では曖昧にはぐらかされて終わりだ。
「そうだ、お腹すいてない? デパ地下でいっぱい美味しそうなお惣菜買ってきたの」
話題を変えて私がキッチンに立つと、ヒナタくんがパッと顔を上げて反応する。
「えっ、すいてる! 食べていいの? やったー!」
「お前、それが目的だったんだろ」
「え〜? そんなことないって」
にこにこ笑顔のヒナタくんが隣に来て、「どれ食べていいの?」なんて聞いてくる。「どれでも好きなの食べていいよ」と返せば、モニターの前から「おい」と低い声が飛んできた。
「俺のつまみは残しといてくれよ」
私とヒナタくんは声をそろえて笑う。
「「はーい」」
***
「名前さんは今日ここに泊まってくの?」
食事の後、満足げにソファにもたれるヒナタくんが、私とこの部屋の主を交互に見ながら訊ねてきた。
「うん、そのつもりだけど」
なんだか淋しげな、羨んでいるようにも見える表情が気になって、私は少しのあいだ後片付けの手を止める。
「なんだ、お前も泊まるつもりだったのか?」
「ううん、オレは帰るよ。ふたりの邪魔しちゃ悪いし」
「今さらだな」
「本当に泊まらなくていいの? なんなら私が帰るよ」
「ううん、ホントに大丈夫! あ、ご飯ごちそーさま!」
強がって遠慮しているのか、本当の心は悟らせないまま、ヒナタくんはまたすぐに満面の笑みを見せる。そして、一瞬だけ遠い場所に思いを馳せるように目を細め、小さな声で「オレにも大事な家族がいるから」と呟いた。
「じゃあ、気をつけてね」
「うん、ありがとう。じゃあね岩さん、また来るね」
「ああ」
「名前さんも、近々オレの舞台見に来てよ。絶対カッコいいとこ見せるから!」
「うん、出るとき教えてね」
「りょーかい!」
彼とふたりでヒナタくんを見送り、玄関が閉まると同時に、私は振っていた手をスッと下ろした。
さっきまであんなに温かい気がしていたのに、あの子がいなくなると、一気に部屋の温度が下がったみたいに物寂しくなる。
「さて、ここからは大人の時間といこうか」
「……言い回しがおじさんだ」
「実際おじさんだからな」
「潔くて好き」
「そりゃどうも」
リビングに戻ると、私たちは買ってきたお酒を開けた。好みはそれぞれ違うから、同じものは飲まない。
「……あの子、本当に太陽みたいな子だね。普段は容赦なくギラギラ照ってるのに、ふとした瞬間、急に陰るの」
ソファの上で寄りかかる私を受け止めながら、彼がゆったりとした渋い声で応える。
「あいつが太陽なら、名前は何のつもりなんだ?」
「ええ? そこは『名前は花だな』とか言ってよ」
「ははっ、こんな日陰みたいな場所でか?」
笑ったときの振動が彼から伝わり、いくつもの波紋を描いて私の中にこだまする。動かない水面をわずかに揺らすような、そんな些細な風が心地いい。
「日陰でもいいの。岩の下でも、水の中でも、私は私らしく、好きなように咲いていたい」
グラスに残った花のカクテルを仰ぎ、私はそっと目を閉じた。
彼のグラスが、カラリとゆるやかな音を立てる。
「……俺の庭で、こんなに綺麗な花が咲くとはな」
「ふふ」
今日一番の言葉をもらえたのが嬉しくて、もうひとくち分だけ自分のグラスにカクテルを注ぐ。
それを彼のほうに近づけると、淡い桃色と透き通った琥珀色が、お互いのグラスの中でゆらりと溶け合って見えた。
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