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銃熱を背負う
町の中を走っていた。
誰かに追われている。逃げないと。
息が、苦しい――。
普段から利用しているスーパーの前を通りすぎ、いつもは車や人が出てこないかと確認するだけだった路地に足を向ける。
この道に入るのは初めてだ。どこに繋がっているのか、どれだけ走ればいいのかもわからない。とにかく逃げなければならないことだけがわかっていて、住宅街を突っ切るように伸びているその道を、私は夢中で駆け始めた。
近づいては遠ざかっていく景色たちは、どこもみな殺風景だった。夜でもないのに人の気配がまるでない。道路も、家も、ブロック塀も、そのほとんどが灰色ばかり。たまに私が走っていく両サイドを、駐めてある赤い自転車や、地面に放置された青いバケツ、オレンジ色のカーブミラーが素知らぬ顔で過ぎていくだけ。私ひとりが慌ただしくて、周りには一切温度がない。
息は苦しいし、全身で風を受けている感覚はあるのに、それを切り裂くリアルな音も、ぜぇぜぇと騒がしいはずの自分の呼吸音さえ聞こえなかった。
民家の間を必死に駆け抜けながら後ろを振り返ると、一人の男がまっすぐに私を追いかけてきていた。すらりとした長身。黒いスーツを着て、片手に銃を持っている。
――殺される。そう直感した私はさらに走った。
入り組んだ路地を右に左にと曲がっていく。それを何度か繰り返した先で、ふと狭い車庫が目についた。黒い車が駐まっている。あそこに隠れればやり過ごせるかもしれない。私は車と壁の間に滑り込み、体を小さく丸めた。
息切れがして肩が膨らむ。
駄目だ。動いていたら見つかってしまう。
足音は確実に近づいてきていた。小さくなって地面を見つめることしかできない私は、すぐに後悔した。留まってはいけなかった。走り続けなければならなかった。一度止まってしまったら、そこから一歩も動けなくなる。
足音が止んだ。男がこちらを見ている。私にはわかる。もう、撃たれる。
ドンッ
背中に衝撃を受けた。気持ちが悪い。背中の中心で渦を巻くように、どす黒い何かがぐるぐると円を描く。終わった。私は死ぬのだ。
視界が暗くなっていく。外側から中心に向かって、少しずつ闇に侵食されていく。
私は背中に何かが這うような気持ち悪さを感じたまま、視界の真ん中に残っていた微かな光さえも見失った。
***
心臓がバクバクと暴れている。反射的に目を見開けば、そこは一面の濃紺だった。
自分は今どこにいるのか。思考よりも先に目が慣れてきて、なんだか見覚えのあるその空間を、じっと注意深く観察する。
自分の右側と、左奥にある窓の位置。その窓の形通りに浮かぶ薄明。少しだけ短く見えるカーテンのシルエット。……知っている。ここは寝室だ。私は寝室のベッドで仰向けになっている。
そう自覚した瞬間、体を覆っているタオルケットがやけに冷たく感じた。踠いて踠いて、勢いよく水中から顔を出したときのように、緊張と安堵が入り交じった溜め息が自分の口から吐き出された。
今のは何だったんだ。夢か。――そう、たしかに夢だ。だって私はここにいる。家のベッドで横になっている。タオルケットの匂いも間違いなく自分のものだ。私は今、生きている。
「……よかった……夢で……」
心臓はまだ落ち着かないけれど、脳ではきちんと理解した。大丈夫。そのうち静かになる。こうして深呼吸をしていれば、きっと。……大丈夫。大丈夫。
「はぁ……ぁ、」
無意識に隣の温もりに触れようとして、自分の手が震えていることに気がついた。まだ動揺している。
私は彼に伸ばしかけた手を引っ込め、ぐっと息を飲んだ。そして、少しでも気を紛らわせようと、眠っている彼の横顔に意識を集中させた。
いつも見ているから、暗闇の中でもうっすらとわかる。わずかに前髪がかかるおでこ、眉間、鼻筋、唇、顎、喉仏。その見慣れた輪郭を、順に目で追っていく。
だいぶ呼吸が落ち着いてきた。もう大丈夫だ。さっきのは夢で、私は撃たれてなんかいない。あの気持ち悪さは幻。なんともない。
私はようやく彼の腕に触れた。温かく厚みのある肌に安心する。その安心がもっと欲しくて、太い腕を抱きしめた。肩先に額を寄せ、縋るように胴体へ腕を回す。そして片脚を彼の腿に乗せ、最後にきつく目を瞑った。
「……どうした?」
はっとして目を開ける。彼の顔がこちらを向いていた。何と言えばいいのかわからなくて、私は「ちょっと……」と呟きながら彼のシャツを握りしめる。
「変な夢でも見たか」
彼が動く気配がしたから、私は彼の上から脚を下ろし、抱きしめていた腕をそっと放した。こちらに向けられた体が、まるで分厚い壁のようだ。
「背中を、撃たれた……」
「……あ?」
彼は私の背中に手を回すと、確かめるように何度か撫でさする。
「夢の話か?」
「うん……」
はぁ、と彼が息を吐く。
「ごめん、起こして」
「気にすんな。さっさと忘れちまえ」
背中にあてられた手の熱が気持ち悪さを拭い去る。けれど、目の前に壁があることを意識して、また呼吸がしづらくなった。
苦しい……酸素が、欲しい……。
「おい、あっち向け」
「……?」
肩を掴まれ、言われたとおり体の向きを変える。おかげで視界が開け、静けさに澄んだ夜の空気がすうっと気管を流れた。
「……ぁ…………」
光を求めて彷徨っていた視線が、白み始めた空の明かりに惹かれて薄いカーテンを透いていく。荒かった呼吸も、ゆっくりと確実に落ち着いていくのがわかった。
ほっと体の力が抜ける。しばらくそのままでいると、まるで魂まで抜けたような気分になった。
――あぁ、力が入らない。死んでいるみたいだ。
私は瞬きもせず、窓からの明かりをぼんやりと眺める。
本当に死んでいたら、こんな感じなのだろうか。手も足も固まって、視線すら動かせない。もし、このままずっと動けなかったら……。
ここで、ようやく瞬きを一つする。
つられて指先もぴくりと動いた。
私はもう一度、乾いた目を癒すようにゆっくりと視界を閉じる。
銃を持ったスーツの男に追い回されるなんて、そんな非現実的なこと、私の身に起こるわけがない。あれは夢で、現実じゃない。
……それでも、怖かった。
まだはっきりと思い出せてしまう。誰かに追われているという緊張感。走っているときの息苦しさ。蹲って怯えている刹那の恐怖。あのときの映像が、感覚が、ぞわぞわと甦り迫ってくる。
「っ、」
瞼の裏に次々と流れてくる映像を止められず、また勝手に体が震え出した。目を開ければいいのに開けられない。
また、あの狭い車庫に逃げ込んで――
そのとき、彼が片腕でぎゅっと私を抱きしめた。無言で、だけどしっかりと。
「はぁ……っ、はぁ……」
薄明かりが見えた。暗い部屋の中にほわりと浮かぶ、清閑な窓のかたち。
背中が温かい。熱いくらいに、あたたかい。
すぐそばで彼の呼吸音が聞こえる。冷たく感じたタオルケットの中で、彼の体温が私を包み込んでくれている。
背中を守られているという安心感と、淡いけれど、確かに存在しているやわらかな光。これなら、また目を閉じても、また眠りについても大丈夫だという気がした。
私は赤子が親の指先を握るのと同じように、お守りを手の中に包んで祈るように、彼の手を胸に抱いて、ようやく穏やかな気持ちで瞼を下ろした。
町の中を走っていた。
誰かに追われている。逃げないと。
息が、苦しい――。
普段から利用しているスーパーの前を通りすぎ、いつもは車や人が出てこないかと確認するだけだった路地に足を向ける。
この道に入るのは初めてだ。どこに繋がっているのか、どれだけ走ればいいのかもわからない。とにかく逃げなければならないことだけがわかっていて、住宅街を突っ切るように伸びているその道を、私は夢中で駆け始めた。
近づいては遠ざかっていく景色たちは、どこもみな殺風景だった。夜でもないのに人の気配がまるでない。道路も、家も、ブロック塀も、そのほとんどが灰色ばかり。たまに私が走っていく両サイドを、駐めてある赤い自転車や、地面に放置された青いバケツ、オレンジ色のカーブミラーが素知らぬ顔で過ぎていくだけ。私ひとりが慌ただしくて、周りには一切温度がない。
息は苦しいし、全身で風を受けている感覚はあるのに、それを切り裂くリアルな音も、ぜぇぜぇと騒がしいはずの自分の呼吸音さえ聞こえなかった。
民家の間を必死に駆け抜けながら後ろを振り返ると、一人の男がまっすぐに私を追いかけてきていた。すらりとした長身。黒いスーツを着て、片手に銃を持っている。
――殺される。そう直感した私はさらに走った。
入り組んだ路地を右に左にと曲がっていく。それを何度か繰り返した先で、ふと狭い車庫が目についた。黒い車が駐まっている。あそこに隠れればやり過ごせるかもしれない。私は車と壁の間に滑り込み、体を小さく丸めた。
息切れがして肩が膨らむ。
駄目だ。動いていたら見つかってしまう。
足音は確実に近づいてきていた。小さくなって地面を見つめることしかできない私は、すぐに後悔した。留まってはいけなかった。走り続けなければならなかった。一度止まってしまったら、そこから一歩も動けなくなる。
足音が止んだ。男がこちらを見ている。私にはわかる。もう、撃たれる。
ドンッ
背中に衝撃を受けた。気持ちが悪い。背中の中心で渦を巻くように、どす黒い何かがぐるぐると円を描く。終わった。私は死ぬのだ。
視界が暗くなっていく。外側から中心に向かって、少しずつ闇に侵食されていく。
私は背中に何かが這うような気持ち悪さを感じたまま、視界の真ん中に残っていた微かな光さえも見失った。
***
心臓がバクバクと暴れている。反射的に目を見開けば、そこは一面の濃紺だった。
自分は今どこにいるのか。思考よりも先に目が慣れてきて、なんだか見覚えのあるその空間を、じっと注意深く観察する。
自分の右側と、左奥にある窓の位置。その窓の形通りに浮かぶ薄明。少しだけ短く見えるカーテンのシルエット。……知っている。ここは寝室だ。私は寝室のベッドで仰向けになっている。
そう自覚した瞬間、体を覆っているタオルケットがやけに冷たく感じた。踠いて踠いて、勢いよく水中から顔を出したときのように、緊張と安堵が入り交じった溜め息が自分の口から吐き出された。
今のは何だったんだ。夢か。――そう、たしかに夢だ。だって私はここにいる。家のベッドで横になっている。タオルケットの匂いも間違いなく自分のものだ。私は今、生きている。
「……よかった……夢で……」
心臓はまだ落ち着かないけれど、脳ではきちんと理解した。大丈夫。そのうち静かになる。こうして深呼吸をしていれば、きっと。……大丈夫。大丈夫。
「はぁ……ぁ、」
無意識に隣の温もりに触れようとして、自分の手が震えていることに気がついた。まだ動揺している。
私は彼に伸ばしかけた手を引っ込め、ぐっと息を飲んだ。そして、少しでも気を紛らわせようと、眠っている彼の横顔に意識を集中させた。
いつも見ているから、暗闇の中でもうっすらとわかる。わずかに前髪がかかるおでこ、眉間、鼻筋、唇、顎、喉仏。その見慣れた輪郭を、順に目で追っていく。
だいぶ呼吸が落ち着いてきた。もう大丈夫だ。さっきのは夢で、私は撃たれてなんかいない。あの気持ち悪さは幻。なんともない。
私はようやく彼の腕に触れた。温かく厚みのある肌に安心する。その安心がもっと欲しくて、太い腕を抱きしめた。肩先に額を寄せ、縋るように胴体へ腕を回す。そして片脚を彼の腿に乗せ、最後にきつく目を瞑った。
「……どうした?」
はっとして目を開ける。彼の顔がこちらを向いていた。何と言えばいいのかわからなくて、私は「ちょっと……」と呟きながら彼のシャツを握りしめる。
「変な夢でも見たか」
彼が動く気配がしたから、私は彼の上から脚を下ろし、抱きしめていた腕をそっと放した。こちらに向けられた体が、まるで分厚い壁のようだ。
「背中を、撃たれた……」
「……あ?」
彼は私の背中に手を回すと、確かめるように何度か撫でさする。
「夢の話か?」
「うん……」
はぁ、と彼が息を吐く。
「ごめん、起こして」
「気にすんな。さっさと忘れちまえ」
背中にあてられた手の熱が気持ち悪さを拭い去る。けれど、目の前に壁があることを意識して、また呼吸がしづらくなった。
苦しい……酸素が、欲しい……。
「おい、あっち向け」
「……?」
肩を掴まれ、言われたとおり体の向きを変える。おかげで視界が開け、静けさに澄んだ夜の空気がすうっと気管を流れた。
「……ぁ…………」
光を求めて彷徨っていた視線が、白み始めた空の明かりに惹かれて薄いカーテンを透いていく。荒かった呼吸も、ゆっくりと確実に落ち着いていくのがわかった。
ほっと体の力が抜ける。しばらくそのままでいると、まるで魂まで抜けたような気分になった。
――あぁ、力が入らない。死んでいるみたいだ。
私は瞬きもせず、窓からの明かりをぼんやりと眺める。
本当に死んでいたら、こんな感じなのだろうか。手も足も固まって、視線すら動かせない。もし、このままずっと動けなかったら……。
ここで、ようやく瞬きを一つする。
つられて指先もぴくりと動いた。
私はもう一度、乾いた目を癒すようにゆっくりと視界を閉じる。
銃を持ったスーツの男に追い回されるなんて、そんな非現実的なこと、私の身に起こるわけがない。あれは夢で、現実じゃない。
……それでも、怖かった。
まだはっきりと思い出せてしまう。誰かに追われているという緊張感。走っているときの息苦しさ。蹲って怯えている刹那の恐怖。あのときの映像が、感覚が、ぞわぞわと甦り迫ってくる。
「っ、」
瞼の裏に次々と流れてくる映像を止められず、また勝手に体が震え出した。目を開ければいいのに開けられない。
また、あの狭い車庫に逃げ込んで――
そのとき、彼が片腕でぎゅっと私を抱きしめた。無言で、だけどしっかりと。
「はぁ……っ、はぁ……」
薄明かりが見えた。暗い部屋の中にほわりと浮かぶ、清閑な窓のかたち。
背中が温かい。熱いくらいに、あたたかい。
すぐそばで彼の呼吸音が聞こえる。冷たく感じたタオルケットの中で、彼の体温が私を包み込んでくれている。
背中を守られているという安心感と、淡いけれど、確かに存在しているやわらかな光。これなら、また目を閉じても、また眠りについても大丈夫だという気がした。
私は赤子が親の指先を握るのと同じように、お守りを手の中に包んで祈るように、彼の手を胸に抱いて、ようやく穏やかな気持ちで瞼を下ろした。
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