jujutsu
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ばたばたと。遠くから来訪する忙しない足音に向けて、散らばっていた思考が収斂する。
間も無く板張りの扉を開け放って駆け込んで来たのが、脳裏に描いた通り、学生服に身を包んだ少女であったので、五条は身を預けていたリクライニングチェアに別れを告げた。のっそりと立ち上がって、一歩、二歩。距離を詰める毎に頤を持ち上げてゆく少女の額には、玉の汗が幾つも浮いている。浅く速い呼吸からも、余程急いで来たのだと知れる。火急の用でなければこうはなるまい。
「そんなに慌てて、誰か喧嘩でもしてる?」
「喧嘩で先生を呼ぶだなんて、一体、私達を幾つだと思っているのですか。」
「幾つになっても可愛い可愛い生徒万歳。」
「何ですか、その、血液型はクワガタみたいな――ではなくて。」
気を取り直す為に軽くかぶりを振った少女が、五条へと腕を伸ばす。その手指が突き出す清涼なる青色のパッケージは、コンビニエンスストア、スーパーマーケット、駄菓子屋のアイスクリームショーケースでも馴染み深い安価なアイスキャンディのものであった。
五条の胸元に突き立てられんばかりの氷菓は、夏と秋のあわいに在る空のもとを連れられて来たのであろう。少女の小さな額よりもずっと、袋に水滴を浮かばせており、冷や汗の流れる程に歯を食い締めて形の変わるのを必死に我慢している風な趣すらある。
堪え切れぬひと雫が、ぱたり、と床に落下したのを皮切りにして、少女の舌が慌ただしく回り出す。
「コンビニでアイスを買ったら当たりが出たので、もう一本、貰って来たんです。それで貴男にお裾分けに来ました。」
「高専まで全力で走ってでも? 溶ける事になる前に食べれば良かったのに。それか、誰かにあげる、とか。」
「誰か、とは? 出来れば手短にお願いしたいのですが。」
アイスキャンディの賞味期限を気遣う余りに、焦燥に支配された少女に強い語気をぶつけられても、五条はのらりくらりとしたものであった。「例えば――」と悠然と首をめぐらせて、千里先を見通しているかのような眼差しを傍らの格子窓へと移す。
「ここに来るまでに、暑そうにしてる子がいなかった?」
「悠仁が溶けかけているのを見掛けました。」
「なのにあげなかったんだ。意地悪だなぁ。」
「好きなひとと幸運を分かち合いたいと思うのは、当然の事でしょう。」
「生徒にそんなにも好かれるだなんて、教師冥利に尽きるね。」
苛立たしそうに、ぐ、と押し黙った少女が、それでもアイスキャンディを五条の手もとに押し付ける。手応えのないのにも負けまいと、己を奮い立たせている。一途な心の有り様を映し出した健気な素振りであったので、受け取ってやるべきではない、と誠意の顔をしたものが五条に語り掛けもした。
逡巡の間にも、体温を吸い取って、アイスキャンディはじわりじわりと溶けてゆく。
五条は肩を竦めると、手の中の氷菓の袋を縦に割いた。顔を覗かせた平たい棒を摘まみ上げ、長方形をした薄水色のアイスキャンディを引き出す。時間が経っている上に、暫く熱に晒されたのだ。融点は直ぐに迎えると、表面をてらてらと濡らす甘露が知らせていた。
「生徒からの厚意を無下にはしないさ。ご馳走様。」
リクライニングチェアに腰掛け直した五条がふた度、たっぷりと含みを持たせた言葉を少女へと送る――が、如何やら届かなかったらしい。少女の頬は、目にした者の胸を擽る仄赤さを滲ませていた。物言いの残酷さにカッと頭に血が上った所為ではなく、受け取って貰えた事による純粋な安堵で染まったものだろうとは、俄に柔らかくなった相好から容易に見て取れる事であった。
恋をすると女は奇麗になるらしい、とは何時聞いたものであったか。アイスキャンディを齧りながら、五条は誰から聞いたものかも、何所で見掛けたものかも思い出せぬ言葉を少女に重ねる。――それが本当に恋ってやつなのかは、過ぎてみない事には本人にだってわからないだろうけど、きれいに笑うものだな。背伸び勝ちな少女へ抱いた想いを、細かな氷と一緒くたにしてしゃくしゃくと噛み砕く。
少女は恋うた男の一挙手一投足、黒い眼帯に秘された視線の動き一つ、咀嚼の音一つ、余さず逃さず自身の中に取り込もうと、息を殺して五条へと意識を傾けていた。随分と熱の入ったさまに苦笑が禁じ得なかったが、笑っている間にもアイスキャンディは液体へと変じてゆく。五条は黙々と食べ進める事にした。時に追い付かずに溶けてしたたる糖蜜を捉えるべく下方の角に吸い付いたりもして、鋭い痛みに密かに眉間に皺を寄せた時には、四分の一を残すのみとなっていた。
こくり、と喉を鳴らして人心地ついた五条が、眉と眉の間を揉みほぐしつつ、うっそりとした少女を振り仰ぐ。
「思春期の女子、って顔してる。」
「どんな顔ですか、それ。」
「自分の精神年齢に相応しいのは年上の男だ、って錯覚している顔。」
信じられない、とばかりに目を見開くと、夢見心地であった少女の眼差しは毒蛇のひと睨みも斯くやの鋭いものへと転じた。
頭から穿ってやろうかとぎらぎらとする二つの目に見下ろされながらも、五条は一切気にせずに大きく口を開けて、残った氷菓をひと息に納める。唇に塗られた甘い名残を拭い去った舌に、「――なんてね。」と乗せるが、少女の瞳に宿る険しさはいや増すばかりであった。そうかと思えば、一転して泣き出しそうに華脣が結ばれるものだから、女心と秋の空、なんて諺が五条の頭蓋の中には過った。
二人の間に沈黙が横たわる。窓から射し込む橙を帯びる日射しが、少女のまろい頬に格子の影を這わせて、涙の通り道を作っているように見せた。
五条が声を掛けるよりも一手早くに、固く引き結ばれていた唇が、覚悟を決めた様子で徐にほどかれる。
「前々から訊きたかったのですが、貴男、私の事が嫌いなんですか。」
「ハズレ。」
銜え込んでいた木製スティックを、するり。態とらしい程に優しい微笑を形作った口唇から引き抜くと、それは五条の意思に順じたかのように表裏共にまっさらであった。
「だったら――思春期を終えたいつかが来たら、愛してくれますか。」
即答と言える答えの速度にこそ望みを見出だしたのか、逃しはすまいと少女が縋り付いた。小さな身のうちに渦巻く情念のほむらで煮詰められた期待が、どろどろと部屋の空気に重たく絡む。
将来か、或いは少し先の未来を夢見たその祈りは、己を縛る盲目的な呪いと言い換えても良い。
然しもの五条も、棒切れを弄んでいた手を止めた。外れ籤を空袋に納めてからマウンテンパーカーのポケットに仕舞うと、リクライニングチェアから腰を上げる。二人の視界がいとも容易く逆転する。五条は、静かに、静かに少女を見下ろした。少女の方も彼を見上げて静謐を守っていたが、軈てはにかんで視線を外すと、額を冷やす汗を手の甲で拭った。
いじらしい仕草だと、五条には感ぜられた。だが、それは如何したって、うら若い少女の望むようないとおしさを孕んではいないのだ。
眼帯の覆いの下で、目蓋をひと度、閉じる。
「君は、幾つになっても可愛い僕の生徒だよ。」
少女が夢から覚めるように。少女の呪いが解けるように。
ゆっくりと切りつける。
だが、窓から取り込まれた西日が照らす少女の瞳は、悄気返るどころか、恋慕の命脈を絶たれてなお懸命な光を放っていた。懸念が超えようのない壁のみならば何するものぞ、と一本の矢の如き直向きな凶暴さで以て、寧ろぎらりとしてすらいる。
「……って、言うだけ無駄か。」
五条の口もとに、自然と笑みが浮かび上がる。自嘲の笑みだ。ひっそりとした冷笑は自身に向けたものであったが、仮令無遠慮に手向けたとて、少女は揺らぎはしなかったであろう。それは予想ではなく確信であり、彼女の恋心に信頼を寄せれば寄せる程、五条は自分が如何にも独り善がりで卑怯な男になったように思えるのであった。
――まったく、見る目があるのかないのかわからないな。感慨を少女から隠そうとして、マウンテンパーカーのポケットに手を突っ込む。かさり、と貢物の残骸が鳴き声を上げた。つるりとしたビニールの感触をなぞってゆく。細長い棒の固さに行き当たった。
これが当たり籤であったならば、果たして自分は、少女の為に走っただろうか。精査に及ぼうとするのを、小さく首を振って押しとどめる。
転調を求めた五条は、努めて朗らかな調子で口を押し開いた。
「青い春は短い。他の男にも、もっと目を向けたら?」
「その目を奪った貴男が言いますか。」
「戻してあげられないから、せめて手を引いてあげようって気遣いだよ。」
「その儘、連れ去ってくれて良いのに。」
ポケットの中に潜む五条の手に、少女が布越しに触れる。いとけなく拙い誘惑の最中にあっても、まどかな双眸は射止めるようにして、眼帯の奥を確りと見据えていた。
「――君、本当に僕の事が好きだね。」
手を離す事が――いずれ手が離される事が、惜しい。
僅かでも引きとめたく思ってしまった自分を碌でなしだと断じて、五条は何方に向けたものかもわからぬ呆れを包み込んだ、苦み走った溜息を吐き出した。そうしたところで、「ええ。好きです。」なんて応えに敢えなく塗り潰されてしまうのだから、甲斐が無い。
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