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新門紅丸、新門紅丸、新門紅丸……
書類に署名をしては文鎮を外して、次の書類を裏返された段ボール箱の上に置く。文机代わりのそれは紺炉が気を利かせて設置したものであった。「どうせ動けねェんだ、今日のところは書類仕事でもやっていたらどうですかい。」と、縁側で身動きの取れなくなった紅丸の居住まいを――昼餉の後に湧いてやまぬ津々たる眠気に呑まれた女に凭れ掛かられた様子を目するなり、此所ぞとばかりに筆記具と共に用意された、それ。御膳立てされては無視を決め込んで茶を啜っている訳にもいかず、紅丸は大人しく筆を執る事にした。
第七特殊消防隊の事務仕事は紺炉が一手に担っている。紅丸が成る丈自由に立ち回れるようにと報告書を作成して、予算見積書に記入をして、特殊消防隊の回覧文書を検めて隊の角印を捺す迄熟してくれる縁の下の力持ち振りだが、それでも第七特殊消防隊大隊長の自署が必要となる書類も少なくはないのだ。常であれば町のいずこかに繰り出しているその第七特殊消防隊大隊長がひと所にとどまってくれている、この機会は到底逃せるものではなく、面倒な書類を一掃したいと思うのも宜なる哉。
――いつまで経っても苦労が絶えねェな。昔から陰になり日向になり支えてくれる頼もしい男に向けて胸のなかで独り言ちつつ、格式張った文言がずらずらと並ぶ書類の一枚を摘まむ。名前を書くだけとは言え、慣れぬ仕事にいよいよ字が縒れ始めていた。纏よりも余程重たく感ぜられる筆を一旦置く。休憩がてら身体を動かしたいものだ、と。麗らかな青空を呑気に泳いでいる綿雲を羨んでいたら、不図、心を汲んだかのように傾けられていた小さな身体が徐に直ってゆく。紅丸の視線が離れゆくぬくもりに追い縋る。
「起きたか。」
「はい……。」
「寝てんじゃねェか。」
生まれ立ての赤子のようにこくりこくりと首を不安定にして、女はあからさまに船を漕いでいた。鼻に掛かった頑是無い声は、紅丸の言葉を否定したいらしい。なれども目蓋が開かれる事はなく、代わりに唇は薄く開いて吐息を漏らして、無防備極まりない格好をしているのだからその見え透いた虚勢が可笑しいったらなかった。紅丸が、ちら、と段ボール箱の脇に積み重なる紙束の嵩を見積もる。
「片付くまでまだ掛かる。昼寝して待ってな。」
「はい……。」
「身体が冷えるようなら俺の部屋でも使うか?」
「いえ……ここ、います……。」
そうか、と。首肯するなり女の肩を抱き直そうと手を伸ばした、が、空振りに終わる。その不可思議に首をめぐらせども女の影は其所には無く、胡座を組んだ足に重みを感じて視線を下方へと流した。女は、紅丸の大腿を枕にしてすやすやと寝入っていた。
先日、第七特殊消防詰所の屋根が気に入りの野良猫が忍び込んで来た際にも、斯様に無遠慮に膝に陣取られはしたが――生来、この女は浅草の猫のように太々しい性分を持ち合わせてはいない。もっと遠慮勝ちであるのだが、これ程に気儘に振る舞うのは偏に、紅丸への親愛と信頼が綯われて図太くなった神経が為した甘えに相違無かった。日を掛けて注いで来た愛情が女の隅々に満ちているのだと、思わされると酒にでも酔わされた好い心地がした。紅丸の唇の端が愉快王の彼宛らに和やかに弛む。
それから紅丸は、冷え冷えとした板張りに身を転がしていては寒かろうと、藍染めの法被を脱いでは丸まった女の身体に打ち掛けてやった。安心し切った相好を、目蓋を擽る事で乱そうとする前髪のよこしまを指先で払う。髪のひと房に触れ、指先で梳き、頭をひと撫でしてふた撫でして――うっそりとした女の手が重なった。起こしてしまったかとばつが悪くなる間もなく。その手に導かれるは、血色の良いまろやかな頬。此方を撫でて欲しいのだと求めるようにそうっと、甘え仕草で擦り寄って来る。柔らかで滑らかな肌を手の平に受け止めると、紅丸は如何にも浮かされて、自然と目尻が下がってゆくのを感じた。
「若。右手が留守になってますぜ。」
「……この状況でやってられるか。」
「やってくれ。ほら、まだこんなに。」
そろそろ湯呑みの底が見える頃ではないかと気を配ったのであろう。急須を片手に現れた紺炉は、段ボール箱の横の未処理の書類の山を睨めると、渋茶でも飲んだかのように眉間に幾筋もの縦皺を寄せた。急須が持たれていないもう片手には追加の書類が数枚携えられている。紅丸の面持ちにも強い苦味が移った。
跪座の形で膝を突いた紺炉が、空となった紅丸の湯呑みへ煎じ茶を注ぐ。湯気越しに紅丸の膝の上に乗っかる見慣れたこうべを見遣って、やれやれ、と言った調子で青瞳が細まるが――若い二人を見守るあたたかな眼差しは、女の頬をぬくめていた手のひと振りによって遮られた。微かに微かに顰められた下がり眉が、見るな、と言っている。
「お前が他人の女に色目を使うような男じゃねェとはわかっちゃいるが、こいつの寝顔を知られるのは面白くねェ。」
「すまねェ。つい、な。野暮天はさっさと退散するとする――が、それだけはきちんと片付けてくれよ。若。提出日が近いんだ。」
包帯の巻き付いた人指し指の先で些か標高の高くなった書類の山を指して、紅丸に確りと釘を刺して、紺炉は言葉の通りに長居せずに来た道を戻った。ぎいしぎいしと板張りを踏み締める音が遠ざかってゆく。
紺炉が自室へと引っ込んだ気配を感じ取ると、紅丸は丁寧に淹れられた熱い茶をひと口啜った。潤った喉の出番は直ぐにやって来た。
「――しんもんさん……。」
「どうした?」
応えても返事が無い。寝言であった。一体どのような夢を見ているのだろうかと、独り占めにしたその寝顔を覗き見る――迄もない事だ。軽やかで軽やかで、軽やか過ぎてふわふわと浮わついている笑声が膝の上を跳び跳ねているのだから、夢の中で無体を働かれている事はないようだった。上機嫌なかんばせに釣られ、紅丸も吐息のみで笑う。
女の身体がすっぽりと覆われるように法被を引き上げてのち、紅丸の顔が段ボール箱の文机を向く。紺炉に急かされたから、と言う訳のみが熱心に取り掛かる理由ではない。否が応でも筆を執り直さざるを得ないのだ。八つ時に一緒に甘味処に行く、と言う約束を、膝で眠る彼女と交わしているのだから。ぐっすりと安眠しているこのさまでは寝過ごされそうではあるが――それも穏やかな一日となって良いか。
能力者である所以か、他人よりも高い熱を宿す掌を女の細い肩に添える。懐炉の代わりにはなるだろうとの気遣いの心算が、気が付けば肩の形を確かめるように撫でてしまっていた。可愛くてならない寝子にあふれてやまぬいとおしさを噛み締める紅丸の表情は、真昼の空に霞のようにぼんやりと浮かぶ真っ白な月のみぞ知る。
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