jujutsu
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金色の馨りの出所を探る遊びは、この季節ならではの楽しみだ。
昨年の記憶と照らし合わせて、この辺りの金木犀と言えばあの角の家に植えられたものだろうか、それとも今し方、通り過ぎた路地の奥に在る大きな木が、芳香の枝を此所迄伸ばしているのだろうか。そうやって蜜漬けの世界を推理しながら歩いていると、何となく、心が浮き立つ。
「何かいた?」
甘く軽やかな匂いに誘われる視線を引きとめるようにして、不意に、寒気に晒していた手が取られた。実にスマートにするりと絡められたその指は、しかし、決して逃すまいとした懸命さが何所かにあるとも思えた。
悟さんは何食わぬ顔で腰を折って、私の目線に合わせると、サングラスの奥から同じ方向を見遣った。「……何も。」と答える。「そ。」と相槌が打たれた。先を急ごう、との意思が見え透くさまで、軽く手を引かれる。
近付いて漸く見えたその双眸に揺らめいていた気色は、警戒。牽制。まさかの憂惧? 何れにしても、余裕の無い事ではないか。
こうして二人で連れ立って、夜半に表を出歩いている。その経緯からしたってそうだ。
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深夜の魔力の所為だろうか。将又、夕刻に観たテレビ番組でやっていた中華街特集の効果が、今頃になって表れたものだろうか。
唐突にふかふかほっかりとした肉まんが食べたくなった私は、財布を手に部屋を抜け、高専の敷地を抜け、最寄りではあるが決して近所とは言えないコンビニに遙々駆け込もうと目論んだのだが。門の手前に至るや否や、背後からにょっきりと長い腕が伸びて来た。そうして、思わぬ出来事に目を剥く間も無く。抱き竦められる形で取っ捕まってしまったのだった。
「悪い子はしまっちゃおうね。」
聞き慣れた声が降って来た方角、頭上を振り仰ぐ。への字に曲げられた悟さんの唇から、次いで、露骨な溜息が落とされた。非常にばつが悪くなりはしたが、断念する事など、腹の虫が許さなかった。
かくかくしかじかまるまるうまうま。
どれだけ舌が肉まんを求めているか、どれだけ買い食いする肉まんは美味しいか、どれだけ秋は食欲を増進させる季節かを直向きに説く。すると悟さんは、自分を同伴させるならば許可する、と意外にもすんなりと首を縦に振った。が。
「て言うか、この時間に一人でコンビニ行こうとする? するからしてんだろうけどさぁ。何で僕に声かけないかな。」
呆れ果てて刺々しい声を浴びせられた。怒っている、と迄は行かないが、あからさまに不機嫌だ。
それもそうか、と納得はする。女の身なりと言うだけで、夜道には撒菱の如きトラブルの種が撒かれているものだ。如何に鍛錬を積み重ねていようと、如何に呪術を修めていようと、残念ながらそれは変わらない。彼は其所を心配してくれているのだし、その厚意は有り難いものだ。とは言えども、此方にだって言い分は有る。
「……だって、いなかったじゃあないですか。帰って来ていたなんて知りませんでしたし。」
「いても言わなかったでしょ。気ぃ遣って。」
「……まあ、時間も時間ですから。」
「わかってんなら、尚更、声かけろよ。」
普段ならば小馬鹿にした笑いで窘めて終わりとしそうなものだが、この夜は違っていた。語気が強い。腕に込められた力も強まる一方である。
痛いくらいの拘束に縮こまるしか出来なくなった私に、「お返事は?」との駄目押しが為される。今夜はいやに気が立っているなあ、と思わない事もないが、心配を掛けたのも事実だ。
「……ごめんなさい。」
「あんまんで手打ちにしてあげる。」
「それは話がおかしくないですか。ねえ。ちょっと。」
言い募る私を解放すると、悟さんは切り替えも早く、すたすたと門の外に向かって歩き出してしまったのだった。
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吐息は未だ綿菓子に似る事は無いが、秋宵の夜気は頬や首筋を引っ掻くようである。思いの外、寒い。昼夜の寒暖差を舐めていた所は否めないだろう。薄手の上衣の下にぞわぞわと生じた二の腕の粟を摩る。それだけでは満足なぬくもりたり得ぬと、ふるり、と震えて申し立てる身体。繋がれた手だけは辛うじてあたたかいが、悟さんからすれば、氷でも握っているかのようであろう事は自明の理であった。
「手、冷え過ぎでしょ。」
立ち止まると、悟さんは遂によすがを解いた。かと思えば、目の前で夜色のジャケットを脱いで、私の肩へと被せてくれた。金木犀の甘いあまい香りが、彼の匂いで上書きされる。
「有り難う御座います。」と御礼を口にしたが、果たして伝わっただろうか。悟さんは何も言う事無く、暫しじいっと私の顔を見据えるのだった。
「――桜に攫われそう、って表現あるじゃん。」
「今は秋ですが。何ですか、藪から棒に。」
手の平に残った体温が冷え切らない内に、ふた度、固く手を繋がれる。街灯も少なく、そして月を臥して待つような夜だ。先程みたいに近付かれない限りは、その表情を窺い知る事は難しい。声色から機嫌の良し悪しを判断するしかないのだが、「んー……。」と継がれた声に乗せられた色は、本人も正体を掴みかねているかのように望洋としたものであった。
「金木犀のにおいが強いな、って。」
「秋ですからね。」
「うん。だから、もしかしたら……見失うかも、とか思っただけだよ。万が一にも有り得ないけどね。」
「有り難いと思ったこのジャケットは、詰まり、マーキングの類いですか。」
「犬かよ。魔除けと言え、魔除けと。」
「では、この手の趣旨は?」
「首輪。」
「犬ですか。」
何とか軽口で応じてはいるが、内心、驚いていた。情緒らしい情緒を見せてくれやしないこのひとが、えも言われぬ不安で揺らぐ、だなんて。
「貴男らしくない感傷ですね。そんなにも気に懸かるならば、世界中の金木犀の木を圧し折って回りそうなものですが。」
「僕の事、そんなヤバい男だと思ってたの?」
「若干。いえ、大分。いえ、かなり?」
「正直でよろしい。正直者が馬鹿を見る、そんな時代じゃなきゃね。」
片手で下顎を掴まれる――と言うのは形だけで、もにもにと頬を揉まれた、の方が行為を正しく表せるだろう。「ひゃめへくらひゃひ。」と間抜けな発音で訴えると、くつくつと喉で笑われた。振り払おうとする気配を察知したのか、早くに放されはしたが、その手で今度は頭を撫ぜられる。頭蓋に沿って、髪の一筋を掬って終いとした手付きは、今しも失せそうな輪郭をこわごわと確かめているようにも思えた。
歩が進められる。明かりも人気も無い小路をゆく影は、私達二人のものだけであった。しんと静まり返った世界は、華やかな香気に満ちている。歩くだけでふわふわとした心地がする。それなのに寂しく映るとしたら、このひとの背中がそう見せているのだろう。「悟さん。」。名前を唱えて、一歩、近くに寄り添う。
「あんまん買ってあげますから、元気出してください。」
「別に元気無い訳じゃないけど、そこは、「今夜は一緒に寝ましょうか。」って誘うところじゃないの。」
「そこまで寒くはないでしょう。」
「今、着ているのが誰の上着だと思っているんだか。風邪引いたらどうしてくれんの。」
「では、返しましょうか。」
「どの口が。これだけ身体冷やしておいて。」
絡め取った手を持ち上げると、悟さんは私の手の甲に唇を寄せた。反応を楽しむ横目が、ちろり、と頬を舐める。気障ったらしい仕草に、凍えた神経に火がともるのを感じた。
「うん。あったまったね。」
「……誰の所為だと。」
「お陰、でしょ。」
二人の間に割って入る金色に染められた秋風を、今は、無粋だと思ってしまった。
俄に血が通った為にちりちりとする指先に力を込めて、彼の手の甲に甘く爪を立てる。細やかな抗議の心積もりであったが、一向に意に介していない様子で手を繋ぎ直された。愛おしむように指の腹で私の手の甲を撫で返して、悟さんがけらけらと笑う。
「良いカイロも手に入った事だし、ジャケットの貸し出し料はあんまん二個で済ませてあげる。」
「たかりじゃあないですか。」
「急いで出て来たから、財布、持って来てないんだよ。誰かさんの所為で。」
「それは――」
仕返し染みた強調をされたが、台詞を噛み砕くと、咄嗟の反撃も意気を失ってしまった。
何時だって悠々としている悟さんの気を急かす事が叶う。私は、彼にとって、そんな存在、なのか。
自覚するなり、胸がむず痒くて困る。この暗がりでは恐らく見えやしないだろうが、熱い頬を隠す為に、ジャケットの襟を顔へと手繰り寄せる。胸いっぱいに彼の匂いが入り込むと、あれ程馨っていた金木犀はもう、触れられやしない遠くへと退散してしまった。
「……有り難う御座います。」
「こちらこそ。」
コンビニのLEDライトが、夜闇を無遠慮に蹴散らしながら客人を手招いている。店内から漏れ出て尚まばゆい明かりに浮かんだ白皙の横顔は、この夜陰の中でどれ程の感傷に浸されていたのだろう。男心と秋の空、とはよく言ったものだ。このひとをも只の男へと変じさせてしまうのだから、秋と言う季節は実におそろしい。――仮令、そうだとしても。
悟さんにやられたように、私も骨張った手の甲をひっそりと指で摩る。捕まえているようであった手の強張りが弛んで、普段を思わせる遊びが出来た。
秋の夜長のセンチメンタルなんて、蒸かし立てのあんまんよりもぬるい、これくらいの体温でも氷解させてしまえるのやも知れない。
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