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青一色の空より降り注いでいた陽光が、翳った。
殺連関東支部の玄関ホールから出た刹那。間合いに影。咄嗟に横っ跳びに回避、しようとして間に合わない。眼前は既に塞がれてしまった。女こどもの頭ならば難無く掴むであろう、大きな手。梟の如く静かに、蛇の如く密やかに、殺し屋らしく的確に狙いを定めて。直ぐ目の前に忍び寄って来ていたそれの掌中に私の生殺与奪の権は移りつつある。取り戻さなければ。腰のホルスターから得物を引き抜――こうとして、だらりと腕を下ろした。やわらかに頬を包み込んだ手の平の温度が既知の熱を宿していたからである。
私に触れるなり、急速に膨れ上がる夏の入道雲よろしく、潜められていた存在感が異彩を放つ。
「ど~したの、これ。」
声音こそ怪訝そうにしているが、口調は間延びして至って暢気。そう。突然の襲撃者とは、南雲くん、だった。
「痛そ~。」とベビーフェイスをあどけなく傾げて、親指の腹で私の左の眉をつるつると撫でて来る。指先の掠める眉の上、皮膚の一点に違和を覚えた。此所最近、鏡を覗く都度に嫌な溜息を吐かせる元凶が巣食う箇所だ。
「ああ。にきび、引っ掻いたかも知れない。」
殺連関東支部に足を踏み入れる直前、前髪の毛先に擽られて痒くて痒くて堪らずに、無作法に眉の辺りを掻いた記憶がある。その時に迂闊にもにきびを潰してしまったらしい。そろそろ破れる頃と見て触らぬよう気を付けていたにも関わらず、やってしまった。額を膿と血で汚しながら建物内を歩き回り、何も知らずに何人もの職員と顔を合わせていたのか、私は。返り血だと誤解してくれていたらどれだけ良いか。何方にせよいい大人なのに身嗜みに気が回らないと思われてしまうか。
気恥ずかしさから南雲くんの団栗まなこが見られず、彼の掌中から逃れるように顔を背ける。深追いせずにあっさりと手を引くところに駆け引きの上手さがあらわれていた。
「な~んだ。怪我したのかと思った。あ。ちょっと待ってて~。」
引っ込められた手ががさごそとトレンチコートのポケットを探っている。待たずして取り出されたのは煙草程の小さな箱だ。ぴかぴかの新品と思しきそれを開封すると、中から一枚、南雲くんの指先が絆創膏を摘まみ出した。
「は~い、じっとして~。動かないで。」
剥離紙を剥がして、ぺたり、と。絆創膏を貼り付け、早く治るおまじないでも掛けるように端から端を撫でて剥がれ落ちないようにして。血を流すにきびの手当てをしてくれた、が。
「南雲くんが絆創膏を持ち歩いているなんて、信じられない。」
「偶々だよ~。買い物に行ったら可愛い店員さんにおすすめされて、つい買っちゃったんだよね~。」
「相変わらずもてるなあ。」
「妬いてくれた?」
奇麗な半円を描く愉しげな口もと。けれども、ずいと覗き込んで来た黒目勝ちの円らな瞳の中には、人を揶揄し過ぎる悪癖のある彼にしては些か軽薄さが足りていない。目を合わしていると吸い込まれて、南雲くんのなかにとらわれてしまいそうに思えて、なるたけ自然なさまを演じて視線を逸らした。彼の額や頬や顎を何とはなしに見てゆき、にきびになんて悩まされる事が無さそうな肌理のこまやかな肌だと羨ましさが募ってゆく。レスポンスの無さに何を思ったのか、す、と。鼻先が触れ合いそうな親密な距離迄、端正なかんばせが寄せられた。JCC時代から幾ら経とうとも衰えのない、可愛さと涼しさが合わさった整った面立ちに、さらりとした黒髪が掛かる。屈託の無い笑顔がミステリアスな影を帯びる。友人もその友人もそのまた友人も、皆んなみいんな南雲くんに夢中になっていた。JCCに今も尚語り継がれている女教師・女生徒キラーの伝説は健在なのだと、速まるこの鼓動が証明している。
「どきどきして答えられない、から、少し離れて。」
「やだ。」
「人の出入りの邪魔になる。」
「だから、早く教えてよ。あ、そ~だ。このまま噂になっちゃおっか~? 支部の正面玄関口で堂々とキスしていた二人だ、ってさ。」
そんな噂が流れようものならば、私の身体を雲にして辺り一面に血の雨が降り頻ること請け合いだ。やけに嬉しげな、期待しているげな微熱を孕んだ眼差しに。焼かれてしまわぬ内に回答を為す。
「――気にはなる。あの南雲くんのハートを撃ち抜くなんて、一体どんな手練手管の持ち主なのか。是非、ターゲットにハニートラップを仕掛ける時の参考にさせて貰いたい。」
途端に南雲くんはフリーズした。かと思えば、目蓋を落としてはくりくりまなこを半眼にして、至近距離から熱心に見詰めて来る――基、文句ぶうぶうじとりと睨んで来るではないか。本当にくるくるとよく表情を変える甘いマスクだ。
「その鈍感さ、すぐにでも命取りになるよ。」
南雲くんに対応出来なかっただけで気配には反応出来たのだけれど。負け惜しみを言おうと口を開いて、噤んだ。突拍子もない忠告に違いはないが、相当の手練れである南雲くんからの助言なのだから此所は有り難く頂戴しておくべきだ。額面通りに受け取って、「肝に銘じます。」と真正直に返す。何がお気に召さなかったのか、南雲くんは不貞腐れた顔付きをより険しくした。それも長引かせはしない。まばたき一つ。それで感情のスイッチを切り替えたのか、次の瞬間には、彼は頬に笑みをのせていた。――頬にのみ、笑みをのせていた。目は、笑っていない。
ぞわぞわと背中に寒気。一歩、怖じけた私の足が後ろに下がったのを見て取って、南雲くんは橈わせていた背筋を伸ばした。レッサーパンダは威嚇する時に立ち上がるんだよなあ。SNSで見たレッサーパンダの画像が不思議とポップアップされた頭に、影が差す。先ほど出会した時と同じく、女郎蜘蛛の巣の如く大きな手に目先を覆われたのだ。それから、不可視の賽子でも摘まむようにして親指と人指し指の先が近付いてゆく。
「僕に絆創膏をおすすめしてくれたのは、これっくらいの小学生の女の子。でも、君には彼女から教わらないといけない事は何もないよ~。何も、ね。」
ぐ、と。鼻先で刺青だらけの拳が作られた。南雲くんの事だから何か飛び出て来るやも知れないと身構えたものの、ぱ、と開かれた手は空っぽ。さみしさを埋めるように私の手は掬い取られ、気付いた時には彼に拐われていた。
「これで仕事は終わりでしょ。僕も。お腹減ったなぁ~。ご飯、行こうよ~。」
「ええ。絆創膏を貼った儘は恥ずかしい。」
軽やかに横断歩道を渡る南雲くんの背を追いながら、眉の上に貼られた絆創膏を小さく掻く。潰れたにきびを保護してくれているパット部分を指先でいじくると、当然な事に僅かにひりひりとした。
私が痛みに気を取られている間に、南雲くんの行き先は決まったらしい。横断歩道を渡り終えて、彼のつま先に迷いは無かった。
「じゃあ、うち来る?」
余りにもあっけらかんと放たれたものだから、本気とも、お得意の冗談とも付かない。ハア、なんて曖昧極まる私の相槌は、如何やら肯定と受け取られたと見える。長い脚の動作が少しだけ早まる。歩調を合わすと、浮かれている、とわかる程度に。
「冷蔵庫に何かあったかなぁ~。コンビニ寄ってく? 折角だから宅飲みしない? 積もる話は山程あるしさぁ~。」
肩越しに此方を振り返った南雲くんは、常から浮かべている人好きのする微笑みを深めた。「ね。」と、鼻歌でも歌い出しそうな声音で念が押される。繋がれた手に容易には振りほどけないだけの力が込められた。感情が、色濃い。彼にとって、家に人を招く事はそれだけ稀有で嬉しいイベントなのだろうか。
「南雲くんって、もしかして友達いないの?」
「いるよ~。それに、今夜には彼女もいる予定~。」
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