jujutsu
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その青褪めたかんばせを目に入れずとも、少女の心は窺い知れよう。憂いを隠し切れぬが故に硬く凝った声音にこそ、彼女の緊張はわかり易く映し出されているからだ。
「冥さん。」
畳が敷かれたのみの、小ぢんまりとした簡素な一室。そこで静謐な正座姿で待機していた女のもとを訪れたのは、以前から何かと懇意にしていた少女であった。しかし、常はきらきらと光りを纏うその白目は、今は微かに赤みを帯びていた。保冷剤辺りで冷やしはしたのだろう。それでも腫れが引き切らぬ目蓋をぱちりぱちりと気忙しく瞬かせて、声を掛けたきり、入り口で立ち尽くす。それ等全てを伏せ勝ちな双眸に映しながらも、女は気付かぬげに、「おや。」と応答した。
「忙しい君が、一体、私に何の用だろう。こんな時に金儲けの話でも?」
鷹揚に応じてみせる女の態度は、何所か態とらしいと思える程に何時もの調子であった。
その「何時も通り」を真っ正面から受けようと、強張る少女は寸分たりとも弛みはせず、寧ろ、神経の糸を弥に張り詰めさせた。「冥さん。」。先程よりも切実さを増した、渇いた声であった。心を奮い立たせるまじないであるかの様に、もう一度、女の名を口にしてから、少女は提げていた紙袋を胸に掻き抱いた。ここには己の心の臓が納めてある。そう言われれば信じざるを得ない程に切迫した仕草であった。そうして暫くして、少女が紙袋にそっと手を差し入れる。次に華奢なそれが現れた時には、帯の巻かれた札束が五つ程携えられていた。
「これで、私のファーストキスを買ってください。」
不可思議な台詞と言う他なかった。だが、少女の眼差しは極めて真剣である。
女に呈示されたのは、一般的な女子高生では到底得難い金額である。それは呪術師としても同じ事であった。少女の等級を考えると、幾つもの任務を――ともすれば命を賭してでも熟し、辛々手にした成果である事は容易に推測が叶った。僥倖と言う言葉とは縁遠い大金を握り締めた手指は、血の気が失せて蒼白くなっており、指先に至っては、今しも札束を取り落としかねない程にかたかたと震えている有り様である。
少女のその様子を、女は一瞥する。一瞥して。
「――そうか。」
素気無いくらいの短さで応えた。それは、期待が外れた時の落胆を感じさせる音を含んで部屋に響くのであった。自らの声帯が形作ったものであったにも関わらず、意図していなかったものであったのか。女は半瞬だけ、己の漏らした声色にはたと目を見張った。それから、微笑んだ。自嘲の様に微笑んだのであった。
未だ小部屋の入り口で棒立ちになっている少女。その面立ちの一つ一つを確かめる様に、女はじっと視線を遣る。つ、と、眸子が唇で止まった。固く噛み締められて、今しも血が滲み出そうである。これが最初で最後の睦み合いになると言うのに。そう思えば、女の微笑みには純粋な可笑しさが宿った。
「自分の唇にこれだけの額を吹っ掛けるとは、随分とませた娘だ。」
蝋人形も斯くやと言った陰鬱な頬に、途端に朱が注がれる。その彩りを捉えて、女はゆうっくりと首を振る。
「いや、侮った心算はないよ。呪術師として自己肯定感は強いに越した事はない。」
「今はそう言う話はしていません。今だけは。」
「そうだろうね。だが、その金額以上の価値が生まれるかもしれない唇をそんな風にしていては、ねえ。」
上げられた語尾に一縷の光を見た少女の肩から、厳しく気負った目許から、唇を噛み締める皓歯から、力が抜ける。雪崩れる様に勢い込んで、女へと詰め寄る。その面貌には、今や、期待と興奮が齎す若々しい赤色が内側から滲み出ていた。
「では、これで買ってくれますか。今が買い時ではありませんか。」
「違うだろう。そこは、貰って欲しい、と言うべきだ。」
「……そう言いながらも、お金は確りと懐に入れるんですね。」
「勿論。」
何とも如才無く、遠慮も無く。女は、間合いに入って来た少女の手から、札束をすっかり引っ手繰ったのであった。諭す様な優し気な声音は幻聴であったのではないか、と疑う程に鮮やかな手際。つれないとも取れるその「何時も通り」には、まどかな頬の凝りも遂に氷解した。ころころと堪え切れずに笑う少女に釣られて、ひ、ふ、み、よ、と札勘定をしていた女の目尻も綻びを見せる。
「私は金に目が無い。けれども……いや、だからこそかな。大切にするよ。」
使わないのか、いざと言う場面で使うのか、大切に使うのか。定かではない中でも、少女は、「はい。」と頷いた。頷いて、ほろり、と。涙腺をも弛ませた。傍らに札の山を築かせていた女は、震える目蓋から頬、頤を伝って畳へと滑り落ちたひと雫を見取った後、未だ幼さの残る手を恭しく取った。包み込むと、少し痩せた事が感じ取れた。
明日、少女は卒業の日を迎える。晴れやかなる日と同時に、さる呪術師の家へと輿入れする事は、入学前から決まっていた。女は、知らず、ささやかに心当てにしていたのだ。己を拐うよう懇願されるか、匿ってくれるよう縋られでもするかを。それだけの実力と財力は兼ね備えていた。しかして少女の願いは甘やかで、そして背負った覚悟は頑なであった。
だから。
「色を付けてあげよう。これから先に何があろうと、忘れる事の無い、飛びきりのキスにしてあげる。」
別れの口付けが、今、交わされる。
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