短編小説

 薄く目を開けた。もう何日間も、外の空気を吸っていなかった。お菓子の家の中の空気は、いつものことながら甘ったるかった。
 布団にくるまってまた目を閉じる。ベッドの周りは本、ハードカバーの物語本でいっぱいだ。
 ごろん、と寝返りをうって壁のほうを向いた。目を閉じたのに眠れない。眠いのになぜ、とわたしは思う。眠れないからといって、起きる気にはなれない。眠いからだ。
 ドアをノックする音。ああ、またおおかみが来ている。錠が閉まっていて入れないなら、窓を割ってでも入ってきたらいいのに。氷砂糖だから、すぐに割れると思うけど。
「赤ずきん、開けてくれないかな」
 最近では返事をするのもおっくうで。わたしはただ眠いの、眠いの。扉まで届く声も出したくない。そう思いながら布団にもぐりこむ。



「近頃見ないね、赤ずきん」
 お菓子の家の建っている森から、少し離れた村の中。村人たちが会話をしている。
「村に出てこなくなったね、赤ずきん」
「どうしてだろう」
「最近誰か、赤ずきんのとこ行った?」
「聞いてみないとわかんない」
「聞くの」
「いいや。やめとこう。それより、やぎちゃんがまた熱を出してるらしい」
「何か栄養のあるもの、ないかなあ」



「赤ずきん、お願いだから、」
 わたしは外の音を無視して、布団の中で丸くなる。りんごが食べたいわ、この前村で買ってきて食べたときみたいに真っ赤なりんごが。この家のお菓子にアップルパイが入ってないのは間違いだと思う。思うけど、腐るから、だからりんごはこの家にないのかしら。
 りんご。わたしは目を閉じたまま、少し前のことを思い出した。



「ねえ赤ずきん、赤ずきん。最近元気がないみたいだね」
 そうかな、と言ってわたしはりんごを受け取った。
「そう見える?」
 見える、とやぎはうなずいた。
「熱でもあるのかい。つらそうだよ」
「あなたよりも?」
 いやいや勘違いしてもらっちゃ困るね。いつもの僕とは違うんだ。やぎはにやりと笑った。
「僕、今日は調子がいいんだ。空もこんなに晴れてるしね」
 こんなに、のところでやぎは手を大きく広げた。わたしは受け取ったりんごを買い物かごに入れた。
「そんなに表に出ているのかしら、仕事に差し支えてしまう」
 不安そうな声だ。自分でもそう思った。
「赤ずきん、あまり仕事をしすぎちゃいけないよ。たまには休まないと」
 いいの、とわたし。
「好きでやってるんだから。仕事は毎日しないといけないの」
「仕事を続けたいなら、そんな体調じゃだめ。とりあえずは、医者に行かなくちゃ」
 医者にかかり慣れたやぎは、わからずやの子供に言い聞かせるような口調で言う。
「僕の紹介で行けば、きっと見てくれるよ」
「うん、助かるんだけどね――でも、いいの」
「え、どうして。絶対見てくれるのに、いいの」
 わたしはもう一度、いいの、と言った。
「いいの。ただ、これから少し先、わたしが村に出てこなくなっても気にしないで」
「赤ずきん?」
「じゃあね」
 やぎはどう答えればいいのかわからないという顔をしている。わたしは小さく微笑んでみせてから果物屋を後にした。



 布団の中でため息をつく。
 誰も気づかないのに、どうしてあの子が気づくのかしら。あの子には一番知られたくないのに。いつも病弱で、みんなから心配されている、あの子。
 体調がよくない、なんて言わなければわかってもらえないものね。でもごめんね、わたしは誰にも言うつもりはないの。手術をしなければ治らない、なんて嫌なものね。あの子のように、何をしても治らないのも嫌だけど。ああ、とても眠い。
「赤ずきん、明日、医者に行かないと」
 突然聞こえた声に驚いて目を開ける。ベッドの側に気配があった。布団から顔を出すと、おおかみがいた。
「え……どうやって入ったの」
「窓が開いてたよ」
 開いてた? ……そういえば、昨日自分で割って食べた気がする。
「でも、医者には行かないよ、生憎だけど」
 わたしは布団を頭の上まで引き上げ、そしてそのまま言う。
「ねえおおかみ、りんごが食べたいな」



 おおかみがりんごを取りに行っている隙に、わたしは急いで着替えた。右手には買い物に行くときいつも使うかごを持ち、かごのなかには白パンと黒パンとりんごジュースを入れた。外は寒いからストールを巻き、分厚いコートを着る。そしてわたしは外に出た、正確に言うと、逃げた。トレードマークの赤ずきんは目立つから置いてきた。
 もふもふした地面を踏みながら歩く。昼下がり、少し明るい森。森の空気はやはりおいしい。甘ったるい部屋の空気には、もううんざりだったから。
 しばらくの間、眠いこともしんどいことも忘れて森の中を歩いていた。
「眠たいよう、寝たいよう」
 突然そんな声が聞こえたような気がして、顔を上げた。しかし、誰も見えない。今のはわたしの心の中の声なのだろうか。まさか。今は眠くも寝たくもない。そんなことを思い出させないでほしい。せっかく軽くなっていた気持ちが沈み始める。
「ごろごろごろごろ、森は布団じゃありません」
 足元に何かが転がってきた。「何か」は、よく見てみると、人だった。わたしはそれがまた転がり始めないように、足で止めた。
「こんにちは」
「ああ、こんにちは、こんな森に人がいたんだねえ」
 その人がわたしを認識したのを確認してから、わたしは足を離した。ふらりと立ち上がった人物は、意外と手足が長かった。
「あなたはあなたの言うこんな森、とやらで何をしているの」
「森、まあ森ともいうのかな。うん、それはね、教えてもいいんですけどちょっと恥ずかしいなあ」
 よく見るとその人物は、片手にカラフルな立方体を持っていた。手に持った立方体をじっと見る人物。まるで立方体と相談でもしてるみたいだ。わたしは相手が何か言い出すのを待った。
「あのねえ、私は逃げていたんですよう」
「何からかしら」
 わたしは尋ねる。
「私の理想から、です。正しくは私の理想であって欲しいものから、でしょうかね」
 わたしは相手に背を向けた。
「ああ、待って、もっと話、きいてくださいよ。一人でさみしかったのですよう」
「そんな聞きにくい話を聞けというの」
 相手はしゅん、と頭をたれた。
「聞いてくれるだけでいいんですよう。だってほんと、誰にも言えないし、それにあなたはこれから話そうとする内容に関係なさそうでちょうどいい」
 仕方がない、聞こう。わたしは地面に腰を下ろし、木に寄りかかった。話を聞かないとその人物は泣き出しそうな雰囲気だったからだ。
「あのですねえ」
「待って、先にりんごジュースでも飲んでのどを潤したらいいと思うの」
「ありがとう。ええ、とですね。
 私はとある手品師の助手をしているんです。その手品師、仮にN本さんとでもしておきましょうか。N本さんは、優しいんです。
 優しいならいいでしょう、ですって? いやまあ、もうちょっと聞いてくださいよ。
 N本さんは手品師だから、当然手品をします。まあ、その手品のたねは大半が魔法なんですけど、観客は一大スペクタクルを見たくってワタクシたちの手品を楽しみにしてるんでしょ、っていうのがN本さんの持論で、まあ実際そうなんですけど。N本さんはどうも魔法がうまいというかなんというからしくて、ほとんどの手品を一人でやってしまうんです。助手いらずなんです。私はすることがまったくなくて。それで、よく心配になるんです。私なんかいなくたって、N本さんはやっていけるんじゃないか、って。
 夕日を見てるとき、夕日って、ただでさえセンチメンタル、みたいな気分にさせるものでしょう? そんなときなんかにふっと考え出したりすると、もう止まらない。考えがぐるぐる回って、いらないよね、いらないでしょ、じゃあもう本当に私などいらないよなあ、今私がいなくなったってN本さんは困らないし、探しにも来てくれないのだろうなあ、よし、いなくなろう、って、そんな気分になって、ふらりと逃げちゃうんです。
 逃げてる最中はそりゃもう絶望と悲しみとあせりでいっぱいなんです。追いかけてきてくれないということはN本さんはやっぱり私を必要としてないんだ、これからどうしよう、どうやって生きていこう、もういなくなりたいよう、って感じでねえ。それがあまりにもつらいので最終的には考えること自体からも逃避する始末です。
 まあ結局N本さんは探しに来てくれて私を連れて帰るんですけど、そのあと、いくらN本さんから『キミは要るよ』って聞かされても、また、まだ、不安になるんです。逃げちゃうんです。逃げるのがやめられないんです。怖いんです。何回必要だって言われても足りないんです」
「そんな感じなのね」
「そんな感じです」
 ふうん。理由こそ違えど、わたしたちは逃げている者仲間なのか。でも、
「それだけではないんでしょう」
 何度必要と言われても足りない、なんて理由だけで逃げに逃げられるものなのだろうか。
 相手は立方体を持ち上げて、
「さあ、どうでしょうね」
 と言った。
 しばらくわたしも相手も無言だった。そうこうしているうちに、相手のお腹がぐう、と鳴った。
「お腹空いたの?」
「えー……空腹は死に至る病、といいますよね」
「パン、持ってるけど食べる?」
 きらっと相手の目が光るのが見えた。期待させておきながらあげないのはかわいそうなので、持ってきた白パンと黒パンを半分ずつあげることにした。
「おいしいです、ほんとにおいしいです、なんでこんなおいしいのかわからないほどおいしいですううう」
 わたしの目の前の人物は、涙声で喜びながらパンを食べている。こんなにうれしそうな人を見るのは久しぶりだ。パンをあげてよかった。
「絶望の中にいてもうれしいことはあるんだなあ、ってことを、忘れないようにしますね」
 大げさな人だ。そんなことを考えながらふと周囲に目をやると、森がもうオレンジ色に染まっていた。
「あら、もう夕焼けの時間なのね」
「もうですか! 夕方! うわあ、時間がない」
 いきなりあせり始めた相手をちらりと見ると、両手で立方体を持って、地面に寝転がっているところだった。
「パン、あと、話、聞いてくれてありがとうですうう」
 そして、その人物は、ごろごろごろごろ転がって見えなくなった。
 いきなり転がってきて慌てて転がっていったその人の名前を聞いていなかったことに思い至ったのは、3分ほどたってからだった。



 目を開けると、おおかみがいた。
「あれ、どうしているの」
「どうしてと言われても。りんご、むいてきたよ」
 そう言われて初めて、自分が家のベッドにいることに気づいた。心なしか、甘い匂いが薄くなっていた。
「わたしのこと、探した?」
 おおかみは少し考えるそぶりを見せてから、答えた。
「探したよ。布団に深くもぐってたからね。一瞬、いなくなったかと思った。よく寝てるようだったから、起こさずに見ていたんだ」
「そう」
 おおかみのむいてくれたりんごは、甘酸っぱくておいしかった。わたしは、転がっていたあの人のように、おいしいですうううと言ってみた。おおかみは持ってきてよかった、と言って嬉しそうな顔をした。
 お返しに何かあげようと思って、半分になっていた白パンをおおかみに勧めると、ありがとう、と言って食べた。
 パンを食べ終わったおおかみは、やっぱり避けられない質問をした。
「明日はちゃんと病院に行くよね?」
 逃げながらでも前に進めるのだろうか。どこか遠いところにいるのかもしれない転がる人のことを、わたしはそっと思い出した。

 ああ、それでもやっぱり、行きたくないけれど。


  [完]
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