夏だ! Wkumoみんみん祭・会場

「蝶がいるよ」
「部屋の中なのにか?」
「いるんだよ、ほら、穴が空いてってるでしょ」
「待てこの部屋賃貸なのに穴が空いたら困るんだが」
「そんなこと言ってもほら、空いてるものは空いてるから仕方ないじゃん」
「いや言ってる場合じゃないだろ、逃げるんだよ!」
 俺は蟹を掴んで走り出す。その前に靴を履いて、夏だから薄着でいいのはありがたい。じゃないよ、走るんだよ!
「はー、はー……」
 アパートを離れて400mも行かないところでもう息が切れる。
「体力ないんだから走るのはやめた方が……」
「走らないと逃げられないだろ……」
「走らなくても逃げられるよ」
「なんだって!?」
「ほら」
 ぐるん。
 世界が反転する。
「!?」
「こうすれば、蝶は追ってこられない」
「何したんだお前……」
「何って、蟹世界を持ってきただけだよ」
「いや意味がわからない」
「蟹世界は通常世界の1レイヤー上にあるからね。移動してしまえば蝶は追ってはこられない、下のレイヤーにいるから」
「待てよ、空いてる空いてる」
「何が?」
「穴だよ!」
「ははあ」
 困ったようにハサミを振る蟹。
「ははあじゃねえ! 逃げるんだよ!」
 俺はまた蟹を掴んで走り出す。が、
「はー、無理だ、息が続かない」
「しょうがないなあ」
 蟹がハサミを振る。
 ぐにゃりと空気が歪む。
 踏み出した足が何かに引っかかりそうになって慌ててバランスを取る。
「うわっ何したお前」
「空間曲げた」
「何でもありだな! じゃあ今引っかかったのは空間の皺か!? 危ないことするなよぉ……」
「逃げたいんでしょぉ」
「逃げたいよそりゃ! お前は逃げたくないのか!?」
「僕はどっちでもいいんだけど」
「何でだよぉ……逃げなきゃ侵食されて呑まれるだけだろ……」
「そうとは限らないでしょ」
「限るって」
「蟹と蝶は不干渉だと思うんだけどなぁ……」
「いやお前の甲羅にも穴空きかけてたからな!?」
「困ったねそりゃ」
「困ったねそりゃじゃねえよ……蝶怖い!」
「怖いねー困ったねー」
「棒読みやめろ、お前達観しすぎなんだよ、それともどうでもいいのか」
「どうでもよくはないよ、僕だって消滅は困るし」
「困ってるようには見えないが……」
「本気で困ったら活動に支障が出るでしょ。蟹のメンタルの波はそこそこで止まるようにできてるのーだから冷静なのー」
「ちょっと何言ってるかわからない」
「まあ僕はいつもノーマルモードだからそんな気にしないでいただけるとありがたい」
「はあ……まあ、あれから逃げられるならお前がノーマルモードだろうがハードモードだろうが俺はいいんだけどさ……」
「なんでも柔軟に受け入れてくれるのが君のいいところだね」
「いいところっていうか、受け入れざるを得ない状況っていうか、今更何を言われても受け入れない選択肢はないだろここまで来たら」
「覚悟完了?」
「そういうわけじゃないけど……って駄弁ってる場合じゃないんだよ、俺は歩くからお前は空間曲げてくれ」
「はいよー」
 ぐにゃり、ぐにゃり、皺を踏まないように慎重に歩く。
「でも何で蝶が出てきて空間に穴が空いてるんだ?」
「蝶は虚無だからねー、そりゃあ空間に穴も空くさ」
「そもそも蝶って何なんだ」
「概念だよー」
「もっとわかるように説明してくれ」
「うーん、なんか突然現れて世界を浸食する概念みたいな? 意志のない怪獣みたいなものだよ」
「たとえがわかりにくい」
「災害的な? 災害よりは局所的だけど、選定もするし」
「蟹みたいにか?」
「その辺りはよくわかってないんだよね。何らかのメカニズムで侵食対象が選ばれてるんじゃないかって話だけど、選ばれた者はだいたい消えるからよくわかってない」
「やっぱり蟹じゃね?」
「違うよぉ、一緒にしないでー。どんな生物も蝶とは仲良くなれないんだよ」
「なんで?」
「うーん、意志が読み取れないからかなぁ。本当はあるのかもしれないんだけど、観察の限りではそんなのないみたいな振る舞いをするからね……」
「……」
「僕たちはこれからどうしたらいいのかねぇ。ずっと逃げ続けるわけにもいかないし……」
「本当だよ……」
「そうだ」
「そうだ?」
『おい兄ちゃん、いいもの持ってるな』
 目を上げると、目の前には怖そうなおっさん。
「な、何だいきなり!?」
『その蟹だよ。俺によこしな』
「って言ってるけど蟹……あれ、蟹? ……いない!」
『どこにやった? 隠すと承知しねえぞ』
「えっ困る、困りますよおじ……お兄さん? 蟹は渡せませんよ」
『ほう、じゃあ力に訴えるしかねぇな』
 ぽきぽきと拳を鳴らす怖いおっさん。何だ、蝶とか何とか言う前に俺の人生ここで終わりかねないんじゃないか!?
「逃げ……」
 るにもどこに行ったかわからない蟹を置いて逃げることはできないし、困った……
 とか考えてる間にもおっさんは勢いよく拳を振りかぶり、
「うわー!」
 ぱ。
「……!?」
 思わず閉じた目を開けると、さっきまでおっさんがいた地面から大量の蝶が吹き出していた。
「蝶……」
「危なかったねー」
「いやお前どこにいたんだよ……」
「蝶を探しにね」
「探しに!? っていうかさっきのおっさんは何だったんだ!?」
「何だと思う?」
 甲羅を傾げる蟹。
「……まあ、わからないなら知らなくてもいいんだよ」
「……」
「吸い寄せられるからねー蝶は」
「……」
「帰ろっか」
 反転していた世界が元に戻る。
 俺たちは自分のアパートの前に立っていた。
「ほら」
 蟹がハサミを差し伸べる。
 てけてけと歩く蟹について部屋に入ると、穴なんてどこにも空いてなかったし、蝶のちの字もなかった。
「これにて一件落着! 今日は解決祝いにピザを作ってあげよう」
「ピザ……?」
「おいしいよ」
「うーむ……」
「この前特売で買ったチーズも消費したいからね」
 ハサミをぴしっと構える蟹。
 こいつは何が何でも日常に戻りたいらしい。
 ……言いたくないことがあるなら別に、無理に聞き出すつもりもない。パートナーでも言えないことはあるしな。
「あんまり隠されすぎると気になるけどな」
「……」
「まあ、いいよ。……ピザ、一緒に作ろうぜ」
「……うん」
 頷いた蟹の様子は少し、うっすらとした感謝だか何だかわからないけれど、何らかの色がそこには見て取れて。
 本当のところはわからないけれど、その時の蟹は今日一番「人間らしく」見えたのだ。


(おわり)
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