短編小説

 沈んでゆく。
 浮かび上がろうといくらもがいても、鉛に引かれて沈むだけ。
 それを何度も繰り返して、やっと俺は浮上した。
 日が射している。
 冬の平日の午後。
 この時間、人間ならば働きに出ている奴も多いかと思うが、俺は猫なので寝ているだけでいい。
 楽なものだ。猫でよかった。毎日決まった時間に外に出るなんてまっぴらごめんだからな。
 そんなことを考えながらにぼしをかじる。おいしい。きっと飼い主が置いていってくれたのだろう。
 俺はにぼしが好きだ。なぜなら噛みごたえがあるからだ。
 噛みごたえのあるものを噛むのは楽しい。普段感じているストレスなど吹っ飛んでゆく。何かを噛むことというのは己の感じている怒りや悲しみも一緒に消費することに等しい。
 いや知らん。俺は猫だし。怒りとか悲しみとか、一匹飼いだしそんなにないし。たぶん。
 とにもかくにも小腹は満たしたし、後は日向ぼっこでもしていればいい。飼い主のベッドの上で。
 俺はベッドに横たわって丸くなる。
 頭はふわふわと眠りの欠片を残していて、すぐにでも意識を手放せそうだ。
 眠りの誘いを断るのは猫流儀に反する。猫流儀なんてものがあるのかどうかは知らないが、たぶんそう。
 そんなわけで俺は伸びをし、目を閉じた。



 沈んでゆく。
 沈んでゆく。
 俺は浮上しようと懸命に足掻く。
 何をしようが意味はなく、足の重りが身体を引く、意識の重りが何もかもを引く、俺は沈んでゆく。
 起きなければいけない、起きなければ。
 しかし、それはなぜだったか?



 目が覚める。
 部屋に射し込む陽はオレンジ色になっていた。
 今日もまた、有意義な一日だった。
 人間ならば、一日中眠ってにぼしを食べていただけなんて一日は最悪の怠惰だなんて思うのだろうが俺は猫なのでそんなことは思わない。
 猫の仕事は寝ることだ。寝てさえいればいい。人間のように無理に起きる必要などない。
 楽なものだ。俺はこのまま飼い主の帰宅を待つだけでいい。
 飼い主が帰るのはきっと夜だから、もう一眠りしよう。
 時間はいくらでもあるのだから。



 沈んでゆく。
 もはや何をしようが意味はない。俺は抵抗を諦める。
 沈む、沈む、重力に従って。
 だがそのときふと光が射す。
 「正気」の光。
 今さら来たって遅すぎる、だが正気は否応なく俺の意識を覚醒させて――



 目が覚めた。
 夜。
 飼い主はいない。
 飼い主?
 猫?
 頭がぼんやりしている。
 今日もこんなに寝てしまった。起きている時間より寝ている時間の方が多いのは本当にどうかと思う。
 夢を見ていた。
 長く眠りすぎると、夢と現実の境が曖昧になる。
 猫?
 そんな夢を見ていたような気もする。
 人生で一度も猫を飼った経験はないし、猫になった経験もない。まあ猫になった経験なんてものがある人間なんてものがいたら珍しがられるか頭がおかしくなったと思われるかの二択……まあ後者の方が確実だろう。
 だが本当にそうだろうか?
 何かが刺し込んでくる。それは正気の欠片だったのかもしれないし、幻想の靄だったのかもしれない。
 俺は頭を横に振り、それを深くに埋葬した。
 どうでもいいんだ、何もかも。今日も何もなかった。
 猫はいない。
 夜は更けゆく。
 明日もまたきっと、短い一日だろう。
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