短編小説

 まやかし。
 蝶が飛んでいた。
 飛んでいるあいだはまだ、良かったのかもしれない。
 蝶のいない季節、世界はまやかしに支配された。
 歩いていてもまやかし、座っていてもまやかし、仕事をしていてもまやかし、眠っていてもまやかし、全てがまやかし。
 まやかしから逃れることはできない。全てがまやかし、ぼんやりとぼやけていて形にならない。ぼやけたものたちは我々を取り巻いて、把握しきれない霞か靄が見えない粒子で責め立てる。
 まやかし。まやかしは救い、まやかしは破滅。まやかしに囚われた者は二度と戻ってくることができない。
 じゃあ世界まるごとまやかしに囚われれば問題ないじゃないか、ということを最初に思い付いたのは誰なのか、今となってはそれもまやかしに覆われている。そんな者などいなかったのかもしれないし、そのこと自体がまやかしなのかもしれない。
 そもそも世界がまやかしに支配されている、という事実すら俺の妄想で、まやかしなのかもしれないし。
 幸か不幸か俺には俺自身のことしかわからないし、世界がまやかしなのか俺がまやかしなのかということに判断がつけられるのも俺しかいない。
 独我論ではない。とはいえ他者から見れば独我論に見えるのかも。いいさ、好きにすればいい。世界がまやかし、ならばその見方だって究極まやかしなのだし。
 まやかし。蝶さえいなくなれば世界は平和になると誰かは思っていた、誰かとは誰か。
そんな誰かは存在しない、いや存在するのか、それすら今やまやかし。
 まやかしの中、考えれば考えるほどわからなくなる。考えた者が負けで考えない者が勝ち、そんな事実すらまやかしに覆われて霧になってゆく。果たしてそれは事実なのか? 今がまやかしなら過去もまやかし。過去に考えたものたちだって全てまやかし、だから事実なんてものも存在しないのだ。
 本当にそうか?
 まやかしの中で何を考えたって無駄だ。無駄なことは行わない、それが俺の信条だったが今やそれすらぼんやりと霞の中。
 俺たちは蝶を追う方が幸せだった?
 わからない。
 今や蝶はいないのだから。
 春になったら蝶は出てくる?
 それもわからない。
 そもそもここに春が来るかどうかということすらわからないのだし。
 一旦冬が始まった以上、それは全てを雪で染めるまで続く、わかっていただろうに。
 いや、それもまやかしなのか。
 世界が雪で覆われたとして、全てに霞がかかっていたらそのことすらわからないはず。それならそれはまやかしなのか。
 考えない、と決めた側から考えているのは俺の悪い癖なのか。
 どうだっていい。蝶はいない。諦めなければいけないんだ。
 足元が冷える。埋没する確かな感覚。概念の雪。
 冬が来る。永遠の冬。
 まやかしになった世界が冬の中で滅びてゆくのはある人にとっては絶望で、ある人にとっては救いだった。
 今となってはそれさえまやかし。
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