『青服の日常』より

「洗濯屋の手伝い?」
「ええ」
 ボス直々の指令であるにしては変わった仕事だなと思うが口には出さない。
「場所と時間は」
「メールしました」
「え?」
 慌ててスマホをチェックする。果たして迷惑メールだらけの受信ボックスに依頼メールは、あった。タイムスタンプは朝。
 俺は朝が弱い。出勤しても午前中はあまり調子が上がらないことがほとんどだ。なので、集中力を必要とするような仕事は午後に入れてもらいがちであった。職場からの連絡は昼夜問わず来るのでスマホのチェックは頻繁にせねばならないのだが、今朝はサイレントにしていて気付かずまたスマホ自体も眠すぎてチェックも返信もしないまま出勤し、そのまま作業をしていた。
 そういうことがたまにあるから、アンダーが俺のところまで知らせに来ることになるのだ。
 余計に働かせて申し訳ないなと思いつつも、アンダーにそんなことを気にするような感情があるのだろうかという疑問もあったし、だから俺もそれについてはあまり気にしないようにしていた。
「13時に時計塔広場?」
 あと15分しかない。幸い本部から時計塔広場までは近いので昼食を抜けばなんとかなるが、ぎりぎりである。
「行ってくる」
 オフィスに吊っていた背広を取ろうとして、待てよ洗濯の手伝いに背広ってどうなんだと思う。
「服装は」
「メールしました」
 俺はメールを確認する。作業着。
「やべえ」
 着替える時間が必要だ。
「えーとアンダー」
「はい」
「着替えるから出て行ってくれないか」
「了解しました、行ってらっしゃい」
 アンダーがドアを閉めるが早いか俺はシャツのボタンを外し始めた。時間が無い。俺は着替えるのが苦手だ。急げば急ぐほどもたついて遅くなってしまうのでなるべく落ち着いてやるのがいいのだが、そうは言っても急いでしまうものは急いでしまうので心を平坦に、このときばかりは虚無がありがたいと思いながら表層はコマネズミのようにくるくるくるくる焦燥感を回しながら色々と脱いで着た。
 紺色のラインが入った青い作業着。
 作業着にしてはお洒落で気に入っている。まあ本当は特にお洒落なんかに興味はないのだが、こういうのは気分が大事だ。どんなに嫌な仕事も気分を上げて臨めばちょっとはマシになる、ような気がしているが、おそらくやっぱり気がするだけだ。
 幸い今日の俺はいつもより少しだけ気分が上向きだった。それは休憩時間にナイトやバイヤーと駄弁ったせいかもしれないし、なぜかお互いのいいところ探しなんていう意味不明な謎の遊びが始まって思ったより盛り上がってしまったせいかもしれないし、はたまた……まあその辺りのことはご想像にお任せする。
 とにかく俺は着替えを終えて、集合場所の時計塔広場まで走った。
 噴水の側に依頼人らしき人影が立っている。三角巾を被り白いエプロンをつけたいかにも洗濯屋という感じの女性だった。年齢は60代ほどだろうか。依頼人は俺に気付くと破顔し手を振った。
「来てくれたんだねえ、青服さん」
「はい。あなたが今回の依頼人ですか?」
「そうさ。私はローラ」
「あ、俺はウィリアム・スミス……アンノウンと言います」
「長いねえ。ウィルでいいかい?」
「なんでも結構です。俺は、」
「あんた細いねえ。ちゃんと食べてるのかい?」
「ええと、」
「お昼は何を食べたんだい?」
「え」
 何と答えればいいんだ? まさか食べてませんとは言えないし。
「ひょっとして、食べてないのかい?」
「う」
「若いもんがそんなことではいけないねえ。ちょうどうちにシチューが余ってるんだ、食べていきな」
「え、でも」
「仕事のことなら大丈夫さ。あんたという手伝いがいればすぐに終わるだろうからねえ」
「でも……」
「煮え切らない男は嫌われるよ。まあ食べていきなって」
 依頼人に押し負けて俺は頷いてしまった。よくわからないことになってきた。



「おいしいかい?」
「……はい」
「洗濯屋秘伝のシチューさ」
 洗濯屋秘伝のシチューという謎のワードが飛び出したが特に突っ込まないでおく。面倒だし。
「材料を弱火で煮込むのがこつでね」
 依頼人は俺が食べ終わるまでシチューの作り方のこつを語り続けた。確かに秘伝と言うだけあって細かいこつがいくつもあり、まあ納得かなといったところだ。俺は普段手料理などはあまり食べないのでそのおいしさも本当のところはよくわからなかったが、その味はどこか安心するような、回り続ける焦燥感がふっと和らぐようなそんな味だったので、こういうのをおいしいと言うのだろうなと判断してそう言った。結果依頼人が喜んでくれたのならばそれで良いと思う。
「ごちそうさまでした」
「いいえ」
 食器を流しに運んで、俺は立ち上がる。
「それで、洗濯というのは」
「干す作業を手伝ってもらおうと思ってね。洗濯は機械が自動でやってくれるんだが、うちは天日干しを売りにしていてね。いつもは夫がテレキネシスで干してくれるんだが、風邪引いちまって病院さあ。天気は明日から雨で今日を逃すと仕事が遅れちまうから、青服さんに頼んだってわけさ」
「俺、テレキネシス使えないですよ?」
「手で干すんだよ。それを手伝ってくれりゃあいい。あたし一人じゃ間に合わないが、二人ならじゅうぶん間に合うからね」
「わかりました」
「じゃ、庭に出ようか」
 依頼人と俺は庭に出た。
 庭は思ったより広く、広大と言っても差し支えない広さであった。その上ご丁寧にも芝生である。サッカーができそうだ。そこに物干し竿がたくさん立ててある。
「洗濯籠は夫が病院に行く前に運んでくれたんだよ。あたしが広げて干すから、あんたは洗濯物を一つずつあたしに渡しておくれ」
「わかりました」
 たくさんの衣類の中からズボンだとかシャツだとかを取って依頼人に渡す。衣類は脱水してありはするものの、やはり少し重くはあった。
 依頼人は手際よく皺を伸ばして物干し竿に干していく。本職の人はさすがに速い。俺が家でやるときなんかとは全然違うなと思いながらそれを見ていた。
 干す作業はあっという間に終わった。
「あとは乾くのを待って、畳む作業だね。それまでうちでお茶でも飲んでいきな」
「いや、さすがにそこまでは……」
「どうせ待つんだ。何もしないで待つよりはお茶でもしてた方が楽しいだろ? それにこの歳にもなるとあんたみたいな若者と話す機会もあまりなくてね。寂しい年寄りの話し相手になっておくれ」
「ええと」
 俺だってそろそろ若者といえるほどの歳でもなくなってきたのだが……
「さあ、入った入った」



「始めて会ったときも思ったけど、あんたちゃんと寝てるのかい? クマがすごいよ」
 紅茶を淹れながら依頼人。
「ええと……」
 クマがすごいのは平常運転なのだが。
「眠れないのかい?」
「まあ、そういう日もありますね」
 ほぼ毎日そうではあるが、そんなことを言って不健康な奴だと思われてはいけないので曖昧に言う。
「眠れないってのも大変だねえ」
「はは……」
 眠れない夜のぐるぐる思考を誤魔化す手段があればいいのだが、音楽を聴いたりネットサーフィンをしてみたりしてもなかなか誤魔化されてくれずに夜が更ける毎日である。まあどうせ世の中の会社員なんて皆そうだ。皆眠れぬ夜を誤魔化して生きてるんだろう。ドクターだって眠りには色々問題があるようだし、ウィリアム・スミスである俺ですら不眠症とまではいかずとも眠れないのだから皆きっと眠れないはずだ。それが普通なのだと思う。
「趣味とかあるのかい?」
 趣味。趣味?
「実家で飼ってる犬の写真を眺めることですかね……」
「それは趣味って言えるのかい」
 依頼人はふふふと笑う。
「何かあるだろう、旅行とかサーフィンとか」
「サーフィン?」
「若者はサーフィンが好きだろう?」
 そうだろうか。
「夏になると車にサーフボードを積んで出かけるじゃないか」
 この人は普段一体どういう若者を見ているのだろうか? だが詳しく聞くのも面倒だったので流すことにする。
「俺はサーフィンはそこまで」
「そうなのかい? まあそんなひょろい身体じゃあバランス取れなさそうだしねえ」
「そうですね」
 世の一般的な人々がサーフィンをできるのなら俺もサーフィンはできるとは思うのだが、この世界の人々的にサーフィンをする若者というのはそう一般的ではないと思うのでできないはずである。
「じゃあ編み物とかやるのかい?」
「編み物?」
 また謎の趣味を出してくる依頼人だ。ウィリアム・スミスはおそらく編み物はしない。
「いえ……」
「インドア派かなと思ってね。それじゃあ、今流行のえすえす……えすえふ? ほら、インターネットの……」
「SSですか?」
「違うね、遠く離れた人とやりとりするとか何とか」
「SNSですか?」
「そう、えすえぬえすだよ。それはやってないのかい?」
「やってませんね」
「おや」
 学生時代にやってみたこともあるが、気力のないときに交流するのがただただ疲弊を生んだのと、他人の目が気になりすぎて「こんなことを言ったら変な奴だと思われるかもしれない」「誰かをひどく怒らせるかもしれない」などと考えていたら何も発信できなくなったのでやめてしまった。それ以来SNSには触れていない。
 ネットに詳しいバイヤーやデバイス辺りならやっているかもしれないが、詳しいからと言ってSNSをやるとは限らないのでよくわからない。そういう話もしたことないし。
「友達はいるのかい?」
 友達。
 友達?
「ともだち……」
『   ……』
 ともだち。
 ともだち?
「──……」
 頭が痛い。
「ウィル!」
「はい」
「大丈夫かい? 紅茶でも飲みな、さっきから一口も飲んでいないじゃないか」
「はい」
 俺は紅茶に口をつける。ほどよい温かさだった。
「おいしいだろ」
「ええ」
 紅茶の味はよくわからないが、これもおそらくおいしいと呼んで差し支えない味なのだろう。何よりファーストフード店のアイスティーとは全然違う味だし。ナイトの淹れる紅茶もファーストフード店のやつとは全然違う味なのだが、前にそう言ったらなんとも微妙な顔をしていた。
「夫のお気に入りの紅茶でね。帰ってきたら淹れてやろうと思ってるんだ」
「なるほど、素敵ですね」
「ふふふ」
 別に素敵だとも何とも思っていなかったが、普通の感性ならこの反応が良い感じだと思う。現に依頼人も笑っているし。
 普通の感性なら?
 何を言っているんだろうか、ならばとかもしとかそういう仮定は一切なく、俺は普通の感性、一般人であり平凡中の平凡「ウィリアム・スミス」なのに。
「ウィル」
「……はい」
「クッキーも食べなよ」
「クッキー」
 テーブルの中央に積み上げてあるそれを一つつまんで食べた。
 甘い。が、ドーナツとは違った感じの甘さである。
「おいしいかい?」
「おいしい、です」
 たぶん。
 ドーナツやコンビニのクッキーとかとは違う味だし。
 さっきからそればっかりだ、俺は。でもそれが一般的だろう。人間とは比較する生き物、他のものとの比較でしか自分の感性をはかることはできない。比較する生き物が人間なら、比較でおいしさを知ろうとする俺だって人間、それも、一般的なそれである。何もおかしいことはない。
「このクッキー、そこのケーキ屋さんで買ったんだよ。時計塔広場前のケーキ屋はケーキもおいしいけどクッキーも絶品なのさ」
「へえ……」
 時計塔広場前にケーキ屋があるなんて気にしたこともなかった。あの広場を通るときはいつもギラギラ輝く明かりが眩しくて下ばかり見ているからな。
 依頼人はそうではないのか? いや、この依頼人には少しばかり一般的でないところがあるから、店の取り扱い物や店舗にまで注意を向ける好奇心や注意力やなんやかやがあるのかもしれないな。
「その筋では有名なケーキ屋でね、あんたんとこのボスちゃんもお気に入りさ」
「え?」
「ボスちゃんは不思議な人だけど、なかなかどうして話がわかる奴でねえ」
「ローラさん、うちのボスとは一体どういうご関係で……?」
「ひ・み・つ」
「えっ」
「ご婦人はミステリアスな方が魅力的だろ?」
「え、あ、えー、なるほど……?」
「ふふ」
 よくわからないが、依頼人はボスと知り合いのようだ。アンダーもそれならそうと言ってくれればよかったのに。
 いや、アンダーはそういう情報を俺たちに教えるような性格ではないか。
 でも依頼人がボスと知り合いなら、依頼人も絶望やこの世が地獄であることについて「わかっている」人間なのだろうか?
 俺は依頼人を見つめる。
 依頼人は息子を見るかのような笑みを浮かべてこちらを見ている。
 ……よくわからないな。今日の俺はいくらか気分がいいから少しだけこの世についても希望的観測を持って生きているし、いや、この世が地獄であることは変わらぬ事実だが、それでも――が……?
 俺は今何を考えようとしたのだろうか。
 この世は疑いようもなく地獄なのに。
 善人は騙されるし、子供は死ぬし、努力は報われず、身体は重く、夜は長く、朝日は無慈悲で、世界の全てが目を耳を頭を肩を腕を苛み締め付ける。そこに希望などあるはずがないし、あると思う方が間違っているし、そんなことを思いながら生きるなんてただ辛いだけだと俺が一番わかっているじゃないか。
 おかしいな。今日はなんだか調子が悪い。疲れているのかもしれない。だが……いや、何か……希望を否定し、絶望について思えば思うほど、何かが消えてゆくような、忘れかけているような……誰を?
「しっかりおしよ、友達は大事さ。あんたも友達を大事にすることだ」
「友達……」
 友達?
「友情は身を助くからねえ。あたしも今日はウィルが手伝いに来てくれて助かった」
「いえそんな……」
「そろそろ洗濯が乾くころさ。取り込んで、畳もうじゃないか」



 依頼人と俺は洗濯物を取り込み、畳み方を教わりながら一緒に畳んだ。
 依頼人の指導は的確で、俺は洗濯を畳むのが苦手だったのだが、ものの数分でとても美しく畳めるようになった。正直驚いた。
「こつをつかめば簡単さ、なんでもね」
 そう言いながらものすごい速度で洗濯を畳む依頼人。
 プロだな。
 俺もプロではあるが、洗濯に関しては素人同然だ。しかし今日、畳むことに関してだけはうまくなったので今後同様の依頼が来ても自信を持って臨めるかもしれない。
 だからどうというわけでもないが。
 それから依頼人と俺は互いに洗濯を畳み、それぞれを仕分けして梱包し、辺りが暗くなりかける頃に仕事は終わった。
 家を出て、元の時計塔広場に向かって歩きながら依頼人が伸びをする。
「ふぃー終わった終わった、ありがとうねえ」
「いえ、仕事ですから」
「仕事でもありがたいものはありがたい。あんたも慣れない仕事を頑張ってくれてありがとうねえ」
「いえ……」
「ちゃんと食べて、寝て、友達大事にするんだよ」
「ええと」
 時計塔広場。ギラギラする街の明かりが俺を取り巻いている。
「じゃ、あたしは主人を迎えに行かなきゃならないからここで失礼するよ。あんたも早く帰りな」
「ええと、はい」
「また頼むよ」
「ありがとうございました」
 報酬は振り込みで。メールにはそう書いてあったな、と思い出す。
 暗い地面に視線を落としながら、俺は本部への帰路を急いだ。
 着替えて荷物まとめて早く帰ろう。いつもの疲れも抜けないし。
 入り口を入り、エレベーターに乗って廊下を歩く。すれ違う見慣れた姿。
「アンノウンさん、まだいたんスか」
「今帰ってきたんだよ」
「ほー。お疲れ様ッスね」
「そっちもな」
「えっデレた」
「うるせえ」
「今から帰るんスか? ご飯抜いて寝たりせずちゃんと食べるんスよ」
「……」
「食べるんスよ」
「善処する」
「おや、アンノウンにバイヤー。今帰りですか?」
「げ」
「げ、ではありませんよアンノウン」
「俺がどんな食事をしようが俺の……いや……前にもこんなやり取りをしたような気がする」
「気がするじゃないッスよ~ちゃんと食べろよほんとに」
「あ、そうだ」
 ナイトがぽんと手を叩く。
「今日は三人で食べに行きませんか? おいしいオーガニックレストランを知ってるんですよ。奢ります」
「いや自分で払うッスよ、ちゃんと給料もらってるし」
「ハンバーガーがいい……」
「アンノウンさんはいい加減観念するッスよ」
「おいしいですよ?」
「っていうかアンノウンさんだって何だかんだ食べるの好きでしょ、めんどいから食べないだけで」
「え」
「おや、図星ですか?」
 ナイトはくすくすと笑う。
「ほら、準備をしてきてください。そしたら行きましょう」
「オッケー」
「はあ……」
 三人が散り散りになって、俺はのろりと廊下を歩き、部屋に入る。
 オーガニックか……それはハンバーガーよりもおいしいものなのか?
 でも、今日洗濯屋の家で食べたシチューは違った味……「おいしく」あった。それならナイトがおいしいと言うオーガニックも……おいしいのかもしれない。
 そう思ったら、なんだか食べてみたいような、そんな気もした。
 空虚が薄れている。さっきまで消えかけていたはずの何かが戻ってきているような。
「アンノウンさーん、まだッスか~?」
「げ、来たのかバイヤー」
「まーた失礼な言い方する。注意されるッスよ~?」
「わかってるわかってる」
 希望があっても、地獄じゃなくても、いいのかもしれないと……なんだか今だけはそう思えるような、思ってもいいような、まやかしかもしれない、明日になったら戻っているような、そんな幽かな感覚だけど、まあ……今回はそういう話だった。
 おしまい。
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