長編『亀のゾンビサバイバルログ』(全26話番外編3話、完結済)

 かたん、かたん。
 規則正しい音と振動で目を覚ました。
 ここは……列車。座ったまま寝ていたらしい。
 向かいの座席には窓の外を眺める神父。視線の先を追うと、無限に瞬き呼吸し続ける星々が広がっていた。
「君は」
 窓の外を見つめたまま、神父が口を開く。
「ほんとうのさいわい、を信じるかね」
「ほんとうのさいわい」
「左様」
「信じるかどうかですか」
「そうだ」
 僕は床に目を落とす。ワックスで磨かれた木目は使い込まれて古く、車内灯に照らされてオレンジ色の身体を横たえている。
 ほんとうのさいわい、と僕は呟く。
「ほんとうのさいわいが、あったらいいですね」
「というと」
「全ての考えを判定できるようになればほんとうのさいわいが何かわかるようになる、って言った人がいたみたいですけど、そんなことをしていたら人生……亀生が終わってしまいます」
「全て分析し尽くすことはできないと」
「ええ。だから、ないんですよ、ほんとうのさいわいなんて」
「君は信じていないのか」
「普段は信じてますよ。そうしないと先の見えない生という名の頑張りなんて続けられません。でも、心の底から信じてるわけじゃない。生活の中でこうして、列車に揺られながら窓の外なんか眺めてふと我に返るとき、気付くんです。ほんとうのさいわいなんてどこにもないんだなって」
「なるほど」
「でも、あったらいいなとは思いますよ。その方が素敵じゃないですか」
「どうだろうな」
「神父は信じてるんですか、ほんとうのさいわい」
「私か?」
「そうです」
 窓の外にやっていた目を僕に戻す神父。
「定められた枠の中で生きること。それ以外何も私にはなかった」
「……」
「しかし私は今ここにいる。今日はこうして列車などにも乗って」
 夜色の瞳の底は深く、漆黒の湖が大きく口を開いている。
「実を言うと、私はほんとうのさいわいなどなくても構わないと思っている。……聖職者にあるまじき発言かもしれないが」
「いえ、そんなことは」
「いや、いい。私は……枠の外に出た。そしてこうして生きている。そのことを思うと、ほんとうのさいわいを考えることなど遠い遠い山の向こう、そのまた向こうの海の底、深海にあるようで」
 君は、と神父が呟く。
「君は、深海にいるのだな」
 そうしているうちに、光の散りばめられた十字架が汽車の真向かいに止まる。神父はそちらに一瞬だけ目をやった。
 僕は何だか息が苦しくなって、
「神父、まだ降りないんですか」
 と訊いた。
「私は降りない。君は?」
「僕も……そうですね、僕も降りません。神父はここに用事とかあるんじゃないんですか」
「そうだな。作ろうと思えば作ることもできる。が、いかんせん宗派が違う。ゆえに、君が降りないなら私は降りない。君が降りるなら私も降りよう。いつも言っている通り、好きにするといい」
「厳しいですね、神父は」
「そう思うかね?」
「思いますよ」
「ここには私と君しかいない。本当のことを言っても誰も怒りはしない。何より……私は君の考えが聞きたい」
「僕は……」
 神父は黙っている。
「僕は、降りたくないです」
「そうか」
「ずっとこうして空を昇っていたい。他のことに煩わされずにどこまでも」
「ならば、そうしたまえ。私は君が望む限り、どこまでも同行しよう」
 ふ、と気が抜ける。
「久しぶりに聞きました、その台詞」
 僕はくすくすと笑う。なぜかはわからないが、無性に嬉しかった。
 列車は天の川を昇り続ける。



 虫の声。川のせせらぎ。身体の下に草の感触。
 目を開けると、隣に神父がいた。半身を起こして空を見ている。
「起きたか」
 神父が僕を視界にとらえる。
「僕、どれくらい寝てました?」
「……どうだろうな」
「あれ、珍しいですね。神父にわからないことがあるなんて」
「私にもわからないことはある。今や、わからないことの方が多いほどだ」
「うわー謙虚」
「神父だからな」
「もしかして、神父も寝てました?」
「む」
「あ、そうなんだ。珍しいことが多いですね」
 僕は川の方を見た。夏の夜、街灯に照らされた川は涼しげに流れている。
「ふわあ。しかしなんだかよく寝た気がします」
「それは何より」
「夢を見たような気もするけど、覚えてないや。でもこんなにすっきりした気分なんだし、きっといい夢でしょう」
「ああ……私も、そう思うよ」
「ふふ」
 僕は伸びをして、立ち上がった。
「コンビニでアイス買って帰りますか」
「よい案だ」
「夏はまだまだ続きますからね。僕、夏好きなんですよ。神父は?」
「好ましいな」
「見解の一致! 嬉しいなあ」
「亀よ、私はチョコレートアイスが好きだぞ」
 神父が立ち上がってキャソックについた草をはたく。
「早くアイス買いたいってことですね。行きましょう行きましょう」
 僕は先に立って歩き出す。
 遠くで流れ星が一筋、空を横切っていった。


(おわり)
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