長編『亀のゾンビサバイバルログ』(全26話番外編3話、完結済)

 あの地域から脱出して、しばらく経った。
 僕と神父はあの後、甲羅型リュックの製造・研究をしているメーカー、キタヤマ社に保護され、色々と検査を受けた。その後、ゾンビやなんやかやについては口外しないという約束で日常世界に復帰した。
 僕は社に手続きをしてもらって全日制の大学に編入し、神父はカンフー道場の特別顧問になって地域の人達にカンフーを教えたりしている。教会じゃなくていいんですかと訊いたら、宗派が違うと返された。
 社は当面の生活の拠点として、線路沿いのアパートに部屋を用意してくれた。
 あの地域から遠く海で隔たれたこの地域には、あの地域の情報が全く入ってこない。
 政府の見解も原発事故のままである。
 世界はあの地域だけを省いて何事もなかったかのように回っている。それがいいことなのか悪いことなのかはわからない。
 工場長のコヅカさんから頼まれたお守りの勾玉を豆腐屋さんに渡しに行ったのも、遠い昔のことのようだ。
 僕の方は今のところ、引きこもりには戻らずなんとか大学に通えている。
 旅を始める前と違って、亀だという理由で仲間はずれにされることはほとんどない。冷たく当たってくる人たちはいたけれど、優しく接してくれる友人たちもできた。僕はまだその優しさを完全に信じ切ることはできていないのだが、気長にやっていこうと思っている。

 時折、ふとした拍子にあの地域でした旅のことを思い出す。
 出会い別れた人々のこと、置いてきてしまった人々のこと。
 色々と考えてしまって、神父に話を聴いてもらうこともある。そんなとき、神父はいつものように相槌を打つだけだったけれど、聴いてもらえるだけでだいぶ心は軽くなった。
 安定しているのは神父のおかげだ。
「いつもありがとうございます、神父」
 ある金曜日の晩、食後のお茶を飲みながら、僕は神父にお礼を言った。
「何かね、改まって」
「いやあ、時々お礼を言っておかないと伝わらないかと思って。また心変わりしたなんて思われたら困りますからね」
 そうか、と神父。
「ありがたいことだ」
「ありがたいのは僕ですよ。ここに来てからもお世話になってばかりでご迷惑を……」
「迷惑ではない。迷える子羊を導くのが神父の役目だ」
「その言葉、久々に聞きました」
 出会ったときに言われた言葉だ。神父はそのときからぶれていないんだな。
「信頼できる人が側にいて、僕は恵まれていますね」
「信頼、か」
 神父は窓の外に目をやった。そのまま無言で外を見ている。
「どうかしましたか?」
「……私が君に隠し事をしていても、その信頼は揺らがぬだろうか」
 感情の窺えぬ目でこちらを見る神父。
「何かと思ったら、そんなことですか」
 僕は持っていた湯飲みをテーブルに置いた。
「神父が僕に何か隠してることは知ってます」
「……そうか」
「でも、隠してたっていいんです」
「ほう?」
「人間なんだから、他者に言えないこともあるでしょう。僕は亀ですけど、相手が喋りたくないことを無理に訊こうだなんて思いません。いいんです。そんなことで信頼が揺らいだりはしませんよ」
「だが、私は人――」
 電車が窓の外を過ぎる。轟音で、神父の言葉はかき消された。
 神父はそれ以上言葉を続けず、黙り込んだ。
 いつも冷静で落ち着いている神父が、この時はふっとどこかに消えてしまいそうに見えた。
 僕は正座した足を組み直す。
「だいたい予想はついてます。あえて言うことはしませんけど。ただ、神父がどうであろうと何であろうと、あなたがあなたであることに変わりはないでしょう。……違いますか?」
 神父がふ、と息を吐いた。
「君からそれを言われるとはな」
 そう言って、笑う。和らいだ表情だった。初めて見る顔だった。
「互いに承認し合えれば世話はない」
「持ちつ持たれつでいいと思いますけどね」
 頬杖をつきながら、僕。
「君は友人を増やしたらどうかね」
「突然何ですか、いますよ友人は。神父こそ、友達少ないんじゃないですか」
「必要がないからな」
 しれっと答える神父。
「そんなことを言って……」
「必要になったら作るとも」
「そうですか?」
「そうだ」
 言い切ると、神父は懐から何かを取り出した。
「新製品だ、食べたまえ」
 僕の口に突っ込まれる何か。甘い。カカオの香りがする。
「チョコですか」
「ああ」
 物こそ違うが、懐かしい感覚だった。携帯食料の最後の数個は、今も部屋の片隅に置いてある。
「おいしいです」
「そうだろう」
 非日常はまだ遠くにある。
 できれば何事もなく、平穏に過ごせることを願う。しかし何が起きたとしても、神父と僕なら乗り切れそうな気がした。
 窓の外を見ると、澄み切った夜空が広がっていた。
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