短編小説

「どこにも行ける気がしない」
「そりゃそうだよ、こんなご時世じゃどこにも行けやしない」
「いやそうなんだけど、気持ち的にね」
「どっちにしたって無理じゃないか。気持ちがあっても」
「そうなんだけども」
「どこも蝶に侵食されてしまって、危険だろ」
「そうだね」
「終末のようだよ。この世界は消えてしまうのかねぇ」
「そんなことにはならないと思うけど……」
「どうしてそう思うんだ」
「今までどんなことがあっても何とか乗り切ってきただろ。今回も耐え凌げばなんとかなるんじゃないかって……」
「甘いね。君は甘い。常に最悪を覚悟しておかなければ人生は……」
「最悪を覚悟したって、暗い気持ちになるだけじゃないか。それなら希望を信じたまま破滅する方がましだよ」
「自ら目を曇らせる、愚かとしか言いようがないね」
「そんなこと言ったって来るときは来るんだから、しょうがないじゃないか……」
「君ねぇ。それじゃもうちょっと楽しもうとかそういう気にはならないのかい?」
「気持ちが暗いんだよ。楽しめるわけないだろ」
「希望を信じているのに気持ちが暗いのかい」
「矛盾してるって言うがいいさ。どうせ僕は一貫しない男だよ」
「はー。だから君は駄目なんだ」
「そういう君こそどうなんだ、毎日毎日ニュースばかり見て」
「ニュースを見るのは大事だろ。常に現実を把握していないと」
「それにしたって限度があるだろ」
「仕方ないだろ、それしかやることないんだから」
「もっとこう、小説を書くとか」
「何それ。書けるわけないだろ。僕の国語の成績の低さを舐めるな。だいたいそれなら君だって、ぼんやりしてないで小説でも書いたらいいじゃないか」
「書けるわけがないだろ」
「ほら、そうなるだろ。自分ができないことを他人にすすめるなよ」
「もう、喧嘩してても仕方ないだろ」
「君がうじうじしてるのがいけないんだ」
「まあまあまあ」
「……」
 ふくれっ面をする相手を曖昧に誤魔化して、僕はため息をつく。
 褐色の壁。砂岩でできたそれは少し触るとぼろぼろ崩れる。古いのだ。
 こんなところに閉じこもってはや五ヶ月。時の過ぎるのは早いもので、世情なんか知らないとばかりに外ではセミが鳴いている。
「セミはいいなあ。蝶の仲間だろ」
 短絡的な繋げ方だなあ、と僕。
「ちょっと、喧嘩したいのは君の方なんじゃないか。閉じこもりすぎて神経が参ってるんだよ、散歩でもしてきたらどうなんだ」
「どこにも行ける気がしないって言ったろ」
「それでも、一日一回は運動をした方が良い。体力が落ちてしまうよ、ほら、行って」
 僕をぐいぐいと押し出す相手。ドアが開けられ、ばたんと閉まる。
「……」
 セミの大合唱の中に僕一人。
「追い出されてしまった……」
 湿気がじわりと肌を侵食する。
「水筒も持っていないのになあ……」
 とりあえず、ここでじっとしていても蚊に刺されてしまうだけなので歩き出す。
 昼下がり。通りには人っ子一人いない。
 皆、侵食されるのが怖くて閉じこもっているのだ。
 外に出ないようにと政府が言った、そのせいかもしれない。
 そんなことを言わなければ案外みんな外に出ていたのかな。普段と変わらぬような様相の中で、じわじわと減っていったのかもしれない。
 建物を立てても侵食される。避難所を作っても侵食される。食べ物を用意しても侵食される。
 新しく何かをすると一番に侵食されるので、人々は次第に何もしなくなっていった。
 今も抵抗している人たちはいるらしく、新聞に載ったり載らなかったりするのだが、新聞も侵食されてきているのでわからない。
 手元に届いた時点で文字が抜けていて、それは日に日にひどくなっている。
 世界はどうしてしまったのかな。
 てくてく歩きながら考える。
 どうしたもこうしたもない、突然現れた蝶を前にして我々はあまりにも無力だった。
 説得は通じず、対話も通じず、いつ現れるかどこに現れるかも全くわからなくてじわじわと崩れていく日常に、削られる。
 まあそんなことがなくたって削られるものは削られていたし、蝶のせいでそれが加速しただけともいえるし、考えたって仕方ないものは仕方ない。
 破滅がやってくるとしても、寝ていれば関係ないし。
 しかしあいつにも困ったものだよ。僕が寝ているとたたき起こしてくるんだもの。
 寝るしかないじゃないか、こんな状況。
 不気味なほど静かな大通りに差し掛かったとき、ふわりと視界を掠める青い影。
「……」
 蝶だ。
 初めて見た。
 ふわり、ふわりと飛ぶその軌跡に沿って、空間が歪んでいく。
 ひらりと留まった植物の葉が、粒子になって消えていく。
「終末だな……」
 恐れて逃げる気にも近付いて観察する気にもなれず、僕はそのままのろのろと歩き続けた。
 ライフラインに関わる活動は続けるようにと言われて開けてあるコンビニで水を買って飲んで、また歩いて、砂でできた団地の中を通って、自分の家の前に戻る。
 蝶はいない。
 安堵のような気持ち。
 なんだかんだで、これまでずっと過ごしてきた家が消えたらショックだもんな。
「ただいま」
 ドアを開けて入る。冷気。
「おかえり、って、君、水買ったのかい」
「買ったけど」
「どうして水筒を持っていかなかったんだ」
 君が追い出したからじゃないか。そう思ったが、面倒くさくて言うのをやめる。
「誰もいなかったよ」
「どこに」
「外。店員さんしかいなかった」
「店員さんも大変だね。昔からあるものはあまり侵食されないから大丈夫だとは思うけど、それでも嫌だよね」
「……」
 他人に同情したって心が疲れるだけだ。わかっているのにしているこの人はマゾなのか、それともただのポーズなのか。
 こんな状況になってさえもポーズを続けるなんて奇特な相手だと思う。しかし同意の一つでもしておかないと後が厄介だから、そうだね、とだけ返す。
 相手もそこまで話題を引きずる気はなかったのか、なんとなく手をうろうろとさせて、タブレットに目を落とした。
 僕は自室に戻る。
 青い軌跡。
 じわりじわりと歪んでいた空間。
 自分もあんな風に歪んで、消えてしまうのだろうか。
 蝶はいない、今はまだ。
 でもきっと、明日も「どこにも行ける気がしない」のだと思う。
 少しだけ遠くなったセミの声を一瞬だけ聞いて、僕は布団を被った。
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