短編小説

「君はまやかしについて考えたことはありますか」
「ありますよ、もう何度もね」
「それで、どうでしたか」
「考えても考えても思考は空を切るばかり。まやかしについて考えるなんてナンセンスですよ。誰も幸せにならない」
「幸せ、ですか。幸せはまやかしと近いようで遠い概念ですね」
「先生は俺をからかっているのですか」
「いいえ、事実を述べているまでです。まやかしを探究する者が、事実だなんておかしいですけれどね」
「幸せ、俺は幸せになりたいのです」
「幸せに?」
「そうです。ずっと苦しんできたんだ。褒美ぐらいもらってもいいと思ってる」
「……」
「先生は俺を憐れんでいらっしゃる」
「憐れんでなんかいませんよ」
「嘘だ」
「どうでしょう? そもそも憐れみという感情だってまやかしでしょうに。あるのかないのかわからないものについて考えて心をささくれ立たせるのなら、まやかしという概念そのものについて考えるべきです」
「煙に巻くのはやめてください」
「ふふふ。ほら、蝶が飛んでいますよ」
「どこに」
「あなたの手に止まっています」
「手に……」
「見えるでしょう?」
「蝶が……」
「蝶がどういった者に見えるのかについてはまだよくわかっていません。ただ、きっとまやかしと何か関係があるはずです。ただのカン、ですけどね」
「見える……」
「まだ幸せになりたいですか?」
「なりたいです」
「君は全く考えを変える気がないようですね。構いがいがある。私の弟子にぴったりです」
 先生はにっこりと笑った。
 俺は蝶をじっと見ていた。
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