短編小説

 こつ、こつ、と音がする。
 どこからするのかはわからない。突き止めようとする気も起こらない。
 疲れ切っているのだ。なぜかはわからないが、動く気にも身体を起こす気にもならない。
 身体を起こす。
 そう、俺はテーブルにうつ伏せになってぐったりとしていた。
 特に何かあったわけではない。
 何かあったわけではないのだが、なぜか、身体がだるくてたまらない。
 そういうときがたまにある。
 たまにあるのかどうかはわからない。
 自分の身体の調子など気にしても仕方がないし、だるくてもつらくても極力気にしないようにして生きてきた。
 身体の調子を気にすると怒鳴られる、そういう環境で育ってきたからかれない。
 わからない。
 こつ、こつ、という音は止まない。
 家が軋んでいるのかもしれない。古い家だから。
 家が軋むのはいいことなのよ、と■■は言う。
 俺にはわからない。でも、■■が言うならばそうなのだろう。
 ずっと、■■が言うことは神の言葉だった。
 これからもそうなのだろうか。
 身体がだるくてたまらない。
 しかしそろそろ動かなければ、■■に怒鳴られてしまうだろう。
『■■■■■、■■■■■、■■■!』
 何も頭に入らない。それは昔から。何かを覚えることが苦手だった。
 1秒前に会った人間の顔も忘れてしまう。
 人間の顔は複雑だ。複雑すぎて、美しくない。
 シンプルなものこそ美しい。大人になったらシンプルなものだけ揃えた家で生活するのだと思っていたあの頃が懐かしい。結局俺は子供の頃から住んできたこの家で、ぐったりと動かなくなって死ぬのだろう。
 思考がおかしい。普通の人間はこのように死を身近に考えたりはしない。それは俺の精神がおかしいからだと■■は言う。
 ■■が言うなら正しいのだろう。俺は精神がおかしいのだ。
 では、このこつこつという音も、俺の精神がおかしいから聞こえているのだろうか。
 家族はそれぞれの部屋に散り散りになっており、音を気にして出てきたりだとか怒鳴りだしたりだとか、そんな様子はない。
 ではこの音を聞いているのはこの家で俺一人きりなのだろうか。
 音は速くなることも遅くなることもなく、一定のリズムを保って鳴り続けている。
 大きくなることも小さくなることもなく、鳴り続けている。
 心臓の音は不快だが、この音はどこか硬質で、石板を叩いているようなそんな音。
 こつこつ。
 こつこつ。
 本当は、今がどんな状況なのかさえよくわからない。
 この音が何かよからぬ音だったとして、それを皆に告げる気も起こらない。
 この世の全てのことが平等に億劫である。だからこうして思考をだらだらと回している。無駄な思考を回している間だけは動かずにすむから。動くことに気を回さずにすむから。
 こういうとき、一つのことしかできないのは長所かつ利点だ。
 いや待てよ、そのせいで俺はこういうことになったのではなかったっけ。
 わからない。全ては靄に包まれている。
 記憶も。感情も。
 世界が無になるとき、そこは靄に包まれるという。
 俺の頭もそうなのだろうか。
 回り続ける無駄な思考だけが明るくて、くるくるくるくる、こつこつこつこつ。
 そうしているうちにだんだん眠くなってきた。
 こんなところで寝たら■■に怒鳴られる。
 でもいいか、少しくらいなら。
 10分経ったら起きよう。
 そう思って何時間も経ったことがしばしば。
 それでも意識は落ちてゆく。こつこつという音が遠くなる。
 次はきっと怒鳴り声で起きるのだろう。
 不安は遠く、先走った後悔も遠く。どうせそうなってしまったときには何もかもが遅いのだ。
 思考のスピードが次第に落ちてゆく。
 そうして俺は意識を手放した。
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