短編小説

 長い長い坂を歩いている。
 長い長い坂は長くて、ずっと上りになっていて、坂の上には信号。
 よくある。非常によくあるロケーション。
 坂の上に信号があるものという法則をいつ見つけたのかはわからない。幼少期かもしれないし、学生になってからかもしれない。そんなことはどうでもいいのだが。
 今日は■■に行こうと思ってこのクソ長い坂をずっと上っている。
 日頃部屋に籠もってばかりで運動をしないから俺の息は切れ、汗は出て、真冬だというのに暑い。違う。汗をかく側からそれを鋭い冷気が冷やしていくのでじめじめと冷たい。暑いのに冷たい。奇妙な心持ちだ。
 この坂を上りきっても■■には着かない。■■に着くためにはずっとずっと上ってまた下って、駅の方から回って裏路地まで行かねばならない。
 遠いのだ。わかっている。まあ■■が大学の側にあっても困るし。
 あまり現実感がなくて、俺が■■を目指していることを歩きながら忘れそうになる。俺は本当に今日そこに行くのだろうか。
 全く縁がないと思っていた場所なので、場違いにならないか、浮きやしないか心配だ。そんな心配をしている場合ではないのかもしれないが、何かが一つずれたような今日の俺はいつものようにぐるぐると、役にも立たない思考を回していた。
 この坂を上ったら。この坂を上ったら、俺の心配事なんて全て消え去ってしまえばいいのに。
 ■■なんか行かなくてもよくなって、全てのことから解放されて、南の島にでもワープしていればいいのに。
 身体が重い。
 汗を吸った冬服は重たくて、南の島など幻であること、ここが夢でもなんでもないただの現実だということを思い知らせてくる。
 何にせよ身体は億劫だ。重くて、役に立たなくて、金がかかる。
 身体などなければいいと思うのはネット世代の若者の歪みか何かなのかもしれないが、夢の世界で生きたいと思った人はきっと先人にもいるはずで、それだからああいう文学も流行ったわけで。
 現世。
 現世は重い。ただただ重い。俺に逃避を許さない。現世を認識していると何もかもが重くなって生活に支障を来すので、俺は日夜、意識的に夢を見ている。
 常に現世を「見て」生きている人とはいったいどんな心持ちなのだろう。
 そんな人、本当にいるのだろうか。
 本当にそんな人がいるなら、俺には絶対耐えられないので、尊敬する。
 だが尊敬するのとなろうとするのは違う。
 なろうとして、空回って、無駄な道を歩んで、それで俺はこんな坂なんか上っているわけだし。
 諦めて生きていけばいいとも思うがそんなふわふわの幻想を見たままで厳しい現世を生きていけるのかというと、大半の人がノーと言うだろう。
 だから俺は本当は、現世を「見られる」人間に「ならなければいけない」のだが、なかなかそうもいかない。
 ■■に行くことでそうなれたら良いのだが、人間そう簡単には変われないのは俺の短い20年の人生でこの憂鬱が一切変わらなかったことからわかっている。
 とにかく現世は重いのだ。
 こんな重さに耐えられないから人間は色々なことをして和らげようとするのかもしれない。
 それなら人とは逃避することで生きているのだろうか。
 わからない。
 現世と真正面から向かい合うことは俺にはできない。できなければいけないのに、できない。
 葛藤だ。
 ざぎざぎした、鋭い、飲み込みきれない葛藤だ。
 坂を上る。下ばかり見ていたから、信号が迫ってきていることに気付かなかった。もうすぐてっぺんに着く。
 信号はちかちかと光っていた。
 深夜。
 こんな時間にどうして俺は外なんか歩いているのだろう。
 そうだ、■■に行くんだった。
 上を見て、また下を見て、俺は歩みを進める。
 冬服はなお重く、アスファルトを赤が鈍く照らしていた。


(おわり)
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